世界の終わりという歌の神聖について考える
ぼくは歌にまるで人格があるように捉えたり考えたりすることは俄然敬遠したいのだが、この歌についてだけはその不遇を思わずにはいられない。何を思うのだろう?と。
それはもちろんTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの世界の終わりと称される歌群のことであり、そんな歌ひとつしかねーじゃんとお思いの方にとってはその通りですとしかいえない。
ステージ上では確かに世界の終わりとしか表現されないのだが、たぶん日本コロムビアのせいでこの歌は生まれついてまず分割されて双子になってしまった。
それがシングル用の短く編集されたスマッシュヒッツバージョンであり、もともと世界の終わりという名前だった歌はプリミティブバージョンという語尾をつけられてしまうことになった。上記ステージで弾かれているのは後者です。
そしてぼくはこの歌について偏愛がすぎるのか、過去この歌について取り上げたことが多かった。
・ステージの最後のecはいつも世界の終わりだった
・幕張バージョンの世界の終わりについて
・世界の終わりはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌の中でもCDとステージでかなり内容が違うものだ
・初めて全パート再現された世界の終わりを聴いた。スマッシュヒッツなので残念だけど
いつかこのそれぞれについてさらに偏執的に書きたいんだけど、なぜならぼくは多分THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌群の中でも一番聴いたのはこの歌だと思っているからでして……
何万回とかは流石に大げさな気がするけど、何千回は余裕で行ってしまっていると思う。確かめようがないですが
同時に、縁の深い(と周りから勝手にそうされている)浅井健一関係で一番聴いたのはSalingerか赤いタンバリンだと思っています。この3つでどれを一番聴いたかは……流石にわからない。どれがそうであってもおかしくない気がする。
そこでまず今日はこの歌の神聖さを感じてしまう部分について書きたい。ぼくはなぜかこの(ステージで聴くと)はちゃめちゃに攻撃的(といいますかTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌に限ってはすべてがそのように聴こえてもおかしくないかもしれない)な歌に対して、その……死ぬほど聴いてしまったせいか攻撃性とかとは別ベクトルで受け止めるしかないと思う傾向があるようだ。
その神聖さを感じるのは最初の間奏、本来であればギターソロというのだろうが、あの「THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌とはイントロから終わりまで俺のギターソロが続いている」と言わしめたあべがいるにもかかわらずギターソロがない歌である。単純にしがけいいちがいた頃の歌であり、既にツインギターの歌であるコンセプトをあべが遵守していたのだろうか。そしてこれも別途偏愛的に書くつもりだが、この歌はシャロンのようにちば自身が構成をすべて造った歌であると想像されるからだろうか。
例外的に(これも別途妄執的に書くつもりなのだが)ギターソロが「発生」したのは後にも先にも(後は永遠に失われてしまったのだが)幕張メッセのLast heaven最終日にあべの3弦か2弦あたりが切れたからほぼ偶発的に弾かれたものであり、その場にボーカリストはいなかった。先にステージから降りたからです。
だから正式にこの歌にギターソロが付随したことはあったといえるのかどうかは個人に任せるとして、このギターソロとされるDを抑えながらEにいったりGにしたりする和音の部分がぼくにはなぜか神聖に聴こえたわけです。
なぜでしょう。どうしてもかなり後から映像で見たFujiRock2000の最後に演奏された世界の終わりの印象が強すぎたのかもしれない。ろくにステージ上の世界の終わりの印象について知らなかった頃に聴いたこのバージョンはぼくの心に色々なものを残したのだろう。
その3年後ぐらいにさらにステージ上のこの歌は変化するのだが、この時点で初めて完成したとすら言えるのではないかと思えてしまうわけです。確かにワールドギアブルーズでちばゆうすけがギターを最後のフレーズだけ弾かなくなり、スタンドを掴みながら歌うのは2000にはなく、しかし2003のLast heavenでは再現された(しかしながら、この時に限ってはもう声が詰まってしまったからであるように思えてしまう……)し、同時にすべて歌い終わった後の後奏(いま話題にしている部分より後の間奏、ギター以外は止まる部分です)に入る瞬間のリードギターだけであのフレーズを弾く部分で自分のアンプの音を(多分)最大まで上げる行為も1999のワールドギアブルーズで初めて見られた(と後から知った)。
他には演奏が終わった後にくはらが同じリズムを叩き始め、もう一度ずっとDで演奏し続けるというジェニーに近い現象が起こるようになり、これはワールド・ロデオ・タンデム・ビート・スペクターのこちらも確か最終日の幕張メッセでちばがずっと座りながらギターを弾くのをやめなかったことに対して、くはらが父性を感じるような瞬発的なアドリブ(くはらとはぼくの中で本当にこのような性格の人だ)で合わせてフレーズを叩き始めたことが発端だとぼくは思っている。
アンプを上げる行為についても思うところがありすぎるので、いつか書きたい。解散のひとつの理由な気がするけどあまり突っつきたくはない部分である。
このFR2000でもよくよく見て初めて謎のハウリングが起きていると思ったらその操作をしているのを見つけ、なるほど……と、あの聴き慣れないけどとても美しいフレーズ(上記、ワールド・ロデオ・タンデム・ビート・スペクターの最終日で座りながらずっと弾くのをやめなかった時とほぼ同じフレーズであり、章節がはっきり半分ずれた状態でラストヘブンズブートレグ内の世界の終わりでも弾かれている)はあべでなくちばが弾いていたのかとその時に理解した。
普段THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのギターアンプは片方しか聴き取れないほど、もう片方の音量は抑えられてしまっている。世界の終わりとジプシー・サンディーあたりぐらいしか例外がない。他にはフリーデビルジャムでちばが自ら自分のホワイトファルコン(映像に残ってるのは浅井と同じモデルの時のステージかもしれない)の音量を上げるとかしかない。
このフレーズがギターソロとして流れるということは、1番と2番を歌い終わってしまい、後は最後のコーラスを2回繰り返して終わるのみになってしまうことを意味する。だから寂しい気持ちになってもおかしくはない。
これも後から知ったが、FR2000は親しかった関係者の死に捧げるような気持ちもあったらしい。全員かどうか知らない、誰がそう思ったかも知らない。この時ちばは座り込みこそしなかったが、1つのフレーズを最大まで音量を上げた自分のギターで弾き続けてい、歌が終わるとそのギターを投げ捨てて客席を一瞥もせずに去っていった。この意味はわからない。
それもあり、ギターソロ(とはいえないギターソロ)で急に落とされる照明、最後のコーラスが終わりギターだけになって落とされた照明の中でただただ鳴り響いているこのフレーズがぼくにそう思わせるのだろうか。でもそれはいま話題にしている部分ではなくもうボーカルは終わった後の部分なので、未だによくわからないのだが。
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