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【DAY135】「肥満」の問題は、「差別」の問題でもあるのか?

「肥満」の問題は、個人の「健康問題」ではありますが、その個人の集積による「社会問題」にもなり得ると思っています。

詳しくは、こちらも読んでいただければ幸いです。

今日の記事でとりあげたいと思っているのは、肥満の他方の側面です。

肥満の否定が、あらゆる人々に共通の規範とされていくことの是非。

1969年より、アメリカでは「ファット・アクセプタンス運動」という活動が始まりました。「肥満に対する偏見や差別をなくし、人びとにはさまざまな体型があることを認め、皆が受け入れよう」という市民運動ですね。

この市民運動は、うまく発展はしてきませんでした。ジェンダー問題や人種差別問題などとは異なり、肥満は「社会の問題」ではなく、あくまで「自己管理の問題」「自己責任」であると受け取られることが多かったからですね。

また、肥満、つまりは「太ることは健康リスクを高めること」という情報の発信が増え、社会にこうした認識が広がっていきました。もちろん、そこに一定の「エビデンス」はあります。
しかし、あらゆる人びとにとっての「共通規範」と見なされていくことで、そこから外れてしまった肥満の人びとに対する偏見や差別が助長される側面はあったと言えるかと思います。

「あれ、太ったんじゃない?」と言われて、ナニを思うのか?

上に書いた話はアメリカでのこと、と言えなくもありませんが、では、日本ではどうでしょうか?

たとえば「最近、太った?」とか、「太るからこんなの食べたらダメ!」とか、「健康のためにはもっと痩せたほうがイイ!」と言われたとして、どう思われますか?
もちろん相手との関係性にもよるとは思います。ご自身の性格や資質にもよるとも思います。が、しかし、イヤな気分にさせられたり、傷ついた経験を持つ方も決して少なくはないでしょう。

それがなぜか?  ということです。

こうした〝アドバイス〟をくださる方は、だいたいはその方の健康を考えて、タメを思って言ってくれたのだとは思いますが、言われたほうが不快に思ったり、傷ついたりするのは、自分は「規範から外れた人間」あるいは「規範を守れない、自己管理のできない、自分を律することのできない人間」と見なされ、こうした規範を押しつけられているように、ココロの奥底で感じているからではないでしょうか?

そう言ってくる人は、そもそもその規範が誰にでも当てはまるものなのか、ほかに選択肢がないものなのか、までを、きちんと考えて言ってるわけではないと思いますが…。

肥満問題は、多様性のある社会を考えるキッカケになるのか?

最近では、日本でも多様性を大事にしようという考え方が広まってきています。「多様性」や「ダイバーシティ」という言葉も、だいぶ一般化してきました。

年齢(「老い」を含む)や性別(社会的・文化的につくられる性別としての「ジェンダー」を含む)のこと、性的マイノリティのこと、カラダやココロの病気や障がいのこと、そして太っている(あるいは瘦せている)こと。それらひとつひとつの「違い」は、それぞれが交錯し合いながら、人びとの生き方の多様性を紡ぎ出していると言えます。

このことは、社会全体の豊かさや余裕といったことにもつながっていくと思えます。その社会は、こうでなければ生きていけない、じゃなく、いかなる人でも生きやすい社会と言えるから、でしょうか…。

そこへ「絶対的と言える規範」を持ち込むのは、選別の思想を助長してしまいそうで、なにやらとても怖いことのように思えてきます。

最後に「あたりまえのこと」を付け加えておきます。

人の「健康」を語るうえで、一定のガイドライン、指標、判断基準は存在しますし、また存在すべきだとも思います。
健康を害するレベルの数値がアウトプットされれば、医師や保健師は「太り過ぎ」「瘦せすぎ」を指摘するでしょうし、指導もするでしょう。

それは至極あたりまえ、真っ当なことです。
とは言え、それを受け入れるか受け入れないかは、自分で決めて実行することですね。それもまたあたりまえのことです。
そして、その人(相手側)がどんな判断をしたとしても、それが自身(こちら側)の判断や社会の「多数派」の判断とは違っていたとしても、その違いを理由に偏見を持ったり、差別をすることは、決して「あたりまえのこと」とはなり得ません。

いま本の出版を準備してまして、クラウドファンディングも実施中です。
この本の中では、もっときちんとこういうことも書こうと思っております。
よかったらぜひ、ご支援やご協力を、よろしくお願いいたします。

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