劇場と小説、配信と渡り歩いたガンダムSEEDFREEDOMの感想
SEEDシリーズは小説版を抜きにして語ることはできない。
テレビ本編では理解できなかったところもこと細かに描写されていたし、テンポよく話が進んでいくからだ。
キャラクターの心情や背景など、作者である後藤リウ氏の分かりやすく、時に少しの笑いを織り交ぜた表現が好きだし、テレビにはない外伝のキャラクターが絡む小説オリジナルの場面もあった。
基本的にテレビ本編をなぞる形でストーリーが進行しているのだが、総集編が絡んだり、バンクシーンの連続でところどころストーリーが進まずもやもやすることもなく、物語としてしっかりと線で繋がっている。
そういったところが好きで、ブックカバーがすり切れてしまうくらい毎日通勤電車の中で読みふけっていた。
小説が物語として読み応えがある一方で、やはりモビルスーツをかっこ良く描くところは映像に一日の長がある。特に、フリーダムが舞い降りたSEEDの35話とストライクフリーダムが出撃したDESTINY39話は、何百回見たんだろう、と思うくらい繰り返し見ていた。
SEEDFREEDOMでも小説を読んで理解出来た部分が多々あった。特についていくのもやっとな怒濤の展開だった後半部分、多々あった理解しきれない部分も小説版でわかりやすく描かれていた。
3月末に小説の下巻が発売され、およそ2ヶ月後の6月初旬に配信。早くても夏休みあたりかなと思っていた自分にとってサプライズ。小説版を読んだ後、改めて見てみると劇場に観に行ったのとはまた違った味わいがある。
小説を読んで、配信で改めて劇場版を見たガンダムSEEDFREEDOMの「完全版」を観た感想を書く。
アウラの謎
幼女の姿でありながら、アコードの兵士たちに「母上」と呼ばれているアウラ。デュランダルと共にデスティニープランを進めていた研究者でありながら、何故幼女なのか劇場版では語られていないが、小説版ではその謎が語られている。
また、キラを「作った」ユーレン・ヒビキに対して異様なほどの敵愾心を抱いている。これも小説版でしか語られていないことだが、キラのことを「あの出来損ない」と呼んだりしていたのを見ると納得がいく。
突っ込まれるアスラン
中盤までの重苦しい雰囲気を一気にお笑いに変えてしまったのは間違いなくアスランだ。
中盤でズゴックに乗って颯爽と登場。やさぐれたキラに鉄拳制裁をくらわし、終盤では爆散したズゴックの中からインフィニットジャスティスが飛びだし、心を読む敵に対してカガリの裸を妄想して混乱させてやっつける。サブタイトルのFREEDOMって実はアスランがフリーダムだったと錯覚するくらい。
DESTINYまでの常に悩んでいた男が本作では吹っ切れたような活躍をしていたが、小説版では仲間だろ、もっと周りを頼れ、と物理でキラを諭す場面のあとに、メイリンがアスランに対して「あなたがそれ言います?」という突っ込みを入れている。
そういやDESTINYではシンに「もっと頼ってくださいよ」と言われていたシーンがあったような。DESTINYのアスランを見ていた人にとってみんなが感じていたことを、メイリンが代弁してくれた。
いつもどおり怒鳴られるアスラン
アスランに対し噛みつくキャラといえばシンともうひとり、イザーク・ジュールがあげられる。
DESTINYでは会うなり「貴様いったい何をやっている!」と怒鳴りつけるわ、胸ぐらをつかみ上げるわと、たとえアスランが悪くなくても条件反射でキレる場面が面白かった。というかアスランと絡む場面、まず冷静な挨拶をしていた記憶がとんとない。
劇場版ではアスランと絡む場面がなく残念に思っていたところ、小説版ではしっかりと八つ当たりするシーンが差し込まれている。
出撃する際に、あいつは一体なにやってんだ、と罵り、レクイエムへ向かう場面ではアスランと合流した瞬間、ああやっぱりの展開が描かれていてクスリときた。
イザークとディアッカ
イザークとディアッカが戦場に駆けつけて、クーデター派に戦闘停止を呼びかける場面。ミーティアをつけている姿に、SEEDの時キラとアスランを思いだして胸が熱くなった。
死んでいった同胞の恨みを叫ぶクーデター派の将校に、ディアッカの「忘れてねぇよ」、イザークの「だからこそ終わらせなければならんのだ」というセリフも、SEEDシリーズのテーマのひとつでもある「終わらない戦いの連鎖」と今も戦っている感じがして、ずっと見てきた立場からすると心にしみるものがある。
そんな場面の直後に流れたのが、アスランの破廉恥アタック。もしも、イザークがこのことを知っていたら罵声では済まなかったかもしれないと想像してしまった。
万感せまるデスティニー発進
劇場版が配信されてから最も繰り返し見ているシーンは、デスティニーが発進していくところだ。
同時に流れる劇伴曲「デスティニー発進」は、テレビ版の「インパルス発進」のアレンジ版。コアスプレンダーが発進→インパルスに合体→シルエットを装着する場面でよく流れていた曲。バンクシーンの象徴みたいなところがあって、物語が進むにつれてあまりよくないイメージを抱えていた。
テレビ版で何度も見せられていた場面なのに、劇場版で流れてきてデスティニーとインパルスが発進していく時、なんでか分からない言葉では表現できない感動に襲われた。
その後のシンの大活躍よ。アコードの4機をほぼひとりで対処し翻弄しながら電池が切れたルナマリアのインパルスにデュートリオンビームを照射しながら、バッタバッタとなぎ払っていくところは痛快だった。
月面で愛を確かめるルナマリア
本作のテーマは「愛を確かめる」ことにあったと思っている。キラとラクスはもちろん、マリューとムウ、アスランとカガリら、テレビ版から続いているカップルが改めて互いのつながりを確かめる構成になっていた。
本作では主人公であるキラとラクスに脚光があたっていたが、個人的にはシンとルナマリアのふたりがチャンピオン。
キラはスーパーコーディネイター、ラクスは国家元首の娘、アスランとカガリも父が国家元首で前者はトップエリート、後者は父の跡を継いで国家元首になっている、いわば上級国民。だいぶ遠い存在に感じていた。
翻ってシンとルナマリアにはそういったバックボーンがない。エリートとして描かれていない分このふたりに親しみを感じる。
軍を裏切ったとはいえ妹の乗った機体を撃破し、錯乱していたとはいえ自分を殺そうとしてもなお、シンを許しているルナマリア。劇場版でもシンにハラハラして何度も「バカ」を連呼しながらもずっと好きでいる心の深さよ。
アグネスとの罵り合いでエリートでもなんでもないシンを何で好きなのと問われて「好きだからに決まってんじゃん」と一刀両断。
中の人がリアル夫婦というバイアスなしに、愛を確かめるという意味ではもっとも素敵なカップルに見えた。
ぶつきりになった劇場版のラスト、しっかり終わらせた小説版
劇場版のラストはいささか中途半端な終わり方だった。
ラスボスのオルフェを倒した直後エンディングテーマが流れはじめ、次の瞬間地球の浜辺で裸で手を握り合うキラとラクスの姿が映り、ラクスのひとり語りが流れてエンドロールが流れて終劇。
この流れだとCパートがあるのかなと思っていたがいっさいなく、その後どうなったかの描写がなく、テレビ版DESTINYの最終話を見ている感じがして物足りなかった。
一方小説では、少しではあるがキラとラクスのその後が語られている。若くして世界を背負わされていたふたりにとって、納得のいく終わり方だったと思う。もし、気になった方は小説版を是非読んでいただきたい。
他、配信を見て細々と感じたところ
・アルバートの声、後半は完全にルルーシュに寄せていたように感じた。
しかもラクスの出撃シーン。アングルがまんま紅蓮弐式。
・ヒゲハロが本当に「絶好調」といっていて笑った。
・ミレニアムのオペレーターの子、髪型がプルに似ていた。
最後に
昨夏に特報が流れた時、最初に思ったのは「なんで今さら」だった。
テレビ放送が終了後ほどなくして映画化の発表があった時は楽しみにしていたが、待てど暮らせど公開の話が出てこなくていつの間にか立ち消えになってしまい、関心が少しずつ薄れやがて心の片隅から消えた。その間およそ20年。同じ熱量で映画化を待つにはあまりにも長い時間が過ぎていた。
しかし、今では長い時間が経ってからこそ観てよかった、と感じている。
映像ではモビルスーツがスクリーン狭しと活躍するカッコイイ演出があって、背景やキャラクターの心情といった足りない部分は小説で深掘りする。そのパターンはテレビ版とは殆ど変わっていない。
他作品のオマージュが随所に散りばめられているところもそうだ。まさか、ファイブスター物語まで取り込むとはビックリしたが。
もしもテレビ版から程なくして公開していたら、これほど長きにわたってヒットしていたかというと疑問が残る。「またオマージュか」「またバンクシーンか」と批判の声があがっていたかもしれない。
今回もオマージュがあったりバンクシーンが流れてきて「またか」と感じたのだが、テレビ版の時とは違って懐かしい意味での「またか」だった。20年の時は、人間の心を優しくしてくれるらしい。
DESTINYでシンが主人公を乗っ取られる終わり方にモヤモヤした気持ちも、本作におけるシンの、しかもデスティニーに乗って無双する活躍を見てすっきりできたし、自分の中ではSEEDシリーズにひとつの区切りがついた。