エンタメ飽和時代の文芸復興
小説はエンタメか、純文学か。
「エンターテイメント」を冠する小説は、刺激的な娯楽が溢れる現代において、その名に堪えうるだろうか。
「エンタメ」という呼称が、小説が読まれない原因のひとつでもあるだろう。前述のように、娯楽の選択肢が限りなくある中でわざわざ小説をエンタメとして選ばない人、「小説を読む」ことは能動的行為であるのに、それを安易にエンタメと呼ぶことに抵抗がある人。両者から「エンタメ小説」は読まれない。
小説を含め本が売れない状況では、編集者は「売れる本」にとらわれ、自分の軸や信念がわからなくなってしまう。編集者自身が「この本は面白い」と信じて作品をつくるしかないが、それが難しいほど出版業界は逼迫していると言えるだろう。
半端な娯楽には目を向けられず、実用的な効能が求められる現代、「小説は役に立つ」ことを世の中にアピールしていく必要があるのではないか。
つくり手や本好きは「小説が役に立つ」ということは経験的、感覚的に知っている。ここでの「役に立つ」はノウハウ本のような即効的効果があったり、暇つぶしになるという意味ではない。感動を与え、読み終わった後に見慣れた景色が変わるもの、人間は面白いという気持ちにさせてくれる、言わば「胸躍る精神実用」だ。
感動は人間が生きるエネルギーであり、エネルギーをもらえるものに人は価値を見いだす。経験と感動が人間を変えるとするならば、その疑似体験を与えてくれる小説は「役に立つ」のだ。
喜びは努力をしないと得られない。小説の力を信じ、己の信念を持ち続け進んだ先に、文芸復興がある。
出版社を立て上げた、伝説の編集者を招いての未来出版研究会にて。