親の檻をぶち壊して出て行ってくれ
俺の教育目的である「幸福、自由、意味を創造できる人間になってもらう」ために考えていることを伝えてきた。
もう伝えることは伝えたつもりだ。
最後に、手短に1つだけ伝えよう。
それは、これまで俺が伝えてきたことは、ほとんど、あるいはすべて、君にとっては正しくないかもしれない、ということだ。
「最後の最後になんだよそれ」という感じかもしれないけど、俺が君に伝えてきたことは別に正解や答えじゃない。1人の人間の考え方でしかない。
だから、君はここで聞いたことを鵜呑みにするんじゃなくて、君なりに君の人生にとってどういう考え方が良さそうかを考えてほしいんだ。
それに実は、今まで伝えてきたことは将来の俺にとってすら正しい考えじゃないかもしれない。というよりむしろ、なにかしら考え方が変わっていたらいいという気持ちがある。俺だってこれからまだまだ色々な本や旅、人に出会うわけだから、考え方が変わっていくと思うし、そうあるべきだと思う。
それから俺は、君に何も期待しないことにしたい。冷たく聞こえるかもしれないけど、この態度は君に自由と責任をもたらすはずだ。
親というのは、どうしても子どもに対しなにかしらの期待を抱いてしまうものらしい。医者か弁護士になってほしいだとか、一流大学や一流企業に入ってほしいとか、プロ野球選手になってほしいとか、ピアニストになってほしいとか。
これは、発展途上国に生まれた、何かをやりたくても何もできない子どもに比べれば相対的に幸福だろうけど、俺の理想にとっては不幸だ。親の期待は子どもにとって檻になるからだ。
俺の周りにも親の期待に応えるために必死になっている友人がいたけれど、正直あまり幸福には見えなかった。子どもが何を好きになるかは予測がつくものではないし、先天的な才能だって親が期待することに相性が良いとは限らない。
けれど、子どもはどうしたって親に好かれようとがんばる性質があるものだ。親の前では好きな振りをしたり、明るい振る舞いをして、1人のときに涙で枕を濡らしたりする。
こんなことを言っている俺も親の性で君になにかを期待してしまうこともあるのかもしれないけど、期待の檻に君を閉じ込めないよう努力するつもりだ。
君を自由にするということは、同時に、君に責任がつきまとうということだ。君は自分で選択して失敗したとき、なにかを諦めたとき、そういうすべての結果が君を原因とする。一部外因的なことのせいにできたとしても、結局は選んだのは君なのだから、君が君の人生に責任をとってどうにかするしかないということになる。
これは苦しいことかもしれない。実際、大きな自由を手にしても、人生の意味にすべき創造活動や愛をつくれなかった人々は服従を選択する。
それでも俺は、責任を込みにしても、自由は素晴らしいと思う。これはつまり、君は生まれた時点で「自由は善」という枠の中に置かれることを意味する。どうもこればかりはどうしようもない。もし、君が大きくなってこの檻に反対するようになったら、どうぞぶち壊して出て行ってくれたらいい。最低限、君が自由は本当に善かどうか考えられる余白は用意したい。
そういうわけで、俺は君になにかを期待しないよう努める。
手紙の終わりというのは、どうもまたほろ苦い寂しさがあるものだ。
とにかく、君が大きくなっていく過程で、ここで伝えたことが助けやヒントになれば嬉しい。
そして、君と素晴らしい人生を一緒につくっていける日を楽しみに、手紙を終えようと思う。