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エジソンの光がコンピュータとヒトの未来を灯す

 計算機の演算速度と精度の加速に連動して社会構造や道具の複雑度が加速し、相互作用の螺旋にのって近代社会が急激に変化する。

●真空管が電子機械の扉をあける

 エジソンの電球実験(1883年)から生まれたフレミング二極真空管(1904年)、次いで電子スイッチや増幅器(アンプ)のもととなるフォレストの三極真空管(1906年)が電子機械の扉をあけた。

 ・ホレリスのパンチカード式集計装置(1890年)をIBMが受け継ぎ(1911年創業)データ処理入力の標準方式として広め、
 ・ベル研究所のが交換機のスイッチの延長でメモリの基礎となるフリップ・フロップを開発し、スティビッツが2進数をベースとする汎用演算の流れをつくり(1937年)、
 ・シャノンが、ブールが考案したブール代数を論理スイッチ回路で演算できることを示し(1937年)、
 ・アメリカでテレビ放送が開始(1941年)する。

● 黙殺された世界初のコンピュータ

 1942年、高速レーダ、高速兵器、原子から宇宙に向かう物理学など、軍事利用から製造まで高速演算への需要が急激に高まるなか、ハーヴァード大、MIT、ベル研究所といった研究機関は、稼働部品を使ったアナログ計算機を開発していた。一方で、モークリーエッカートの真空管を使った電子式コンピュータの企画書は、ペンシルヴェニア大学で夢物語として理解を得られず黙殺され続ける。

 1943年第二次世界大戦(1939~1945年)においてドイツ軍に苦戦していたアメリカ軍は、量産される大砲用の弾道を計算するための無数の条件を組み込んだ射表づくりが間に合わず、モークリーらの企画を発掘、出資することとなる。基本的な発想は複数の計算機を繋ぎ合わせ、それぞれの出力を別の計算機に入力するというものだったが、すぐに焼き切れてしまう真空管を1万本以上も組み合わせる論理回路は実現不可能と考えられていた(当時のTVに使われていた真空管は30本しかない)。入力装置、出力装置、演算装置、記憶装置を複数のボックスに機能分散し、消化ホースのような太いケーブル束でつなぎ、制御装置からコントロールする。現代のコンピュータの要件を備える画期的なチャレンジが始まる。

 1946年、モークリーとエッカートらのアイデアと、徹底したリスク管理、開発管理により障害を1歩ずつ着実に乗り越え、3年の歳月をかけた終戦の翌年、167平方メートルのスペースに重さ30トン、2.7メートルのキャビネット40個に約1万8千本の真空管という巨大な怪物、電子式コンピュータENIACを完成する。ENIACは、微分解析機で15分かかる弾道計算を30秒で終える画期的な性能を示す。

 これ以降、電子式コンピュータに確信を得た技術者たちは、さらなる高精度、高信頼性、高速な演算に向けて爆走する。やがて、コンピュータを構成するハードウェア、それを動かすオペレーションシステムはアプリケーションを動かすためのプラットフォームとなり、集中分散の波にのり、巨大データベースがマネーや物流、交通、国民を電子化し経済・生活を支える基盤となってゆく

参考書籍:
[1] スコット・マッカートニー(2001), "エニアック :世界最初のコンピュータ開発秘話", 日暮雅通訳, パーソナルメディア
[2] 松岡正剛監修(1996), "増補 情報の歴史 :象形文字から人工知能まで", NTT出版



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