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子の虐待について想うこと。

私にはどうしても理解できなく、許しがたいことがあります。

それは親による子への虐待です。

教育、指導という範囲を超えた過剰な暴力や食事を与えないなどの虐待のニュースを見るたびに心が抉られ、悲しみと怒りとがこみ上げてきます。

なぜ自分の子にそんなことができるのだろう?

虐待報道を目にするたびに湧き上がる疑問。

たしかに虐待には様々なケースがあり、虐待している親は必ずしも子と血縁があるわけではありませんが、先日ご紹介した本「世界は美しく、不思議で満ちている」の著者、長谷川先生が調べた2007年〜2009年に虐待による子供の死亡例64例(厚生労働省)と2009年から2010年までに起こった虐待による死亡例46例(警察庁)、2011年の間に地方紙に掲載された虐待事件報道82例のデータによれば、死亡と傷害を含んだ2011年のデータで被害児童が6歳以下であった51例では、実の両親によるものが26例、実母のみの片親家庭で実母によるものが8例、実父のみの片親家庭で実父によるものが4例、実母と新しいパートナーによるものが13例であり、大多数は血縁者による虐待であったと報告しています。

なぜ血縁者が育児放棄、子殺しを行うのか、先日ご紹介した「世界は美しく不思議に満ちている」から生物学的に虐待というものがどういったものなのか考え、この問題の本質に迫ってみたいと思います。

行動生態学から考える子の虐待

行動生態学は動物の行動がなぜそのように進化したのかを探る学問です。

動物の採食戦略、配偶戦略、子育て戦略などについて動物の種類にかかわらず当てはまる一般原理をここの動物に固有の状況のもとで、どんな行動があわわれるのかを研究します。

この行動生態学から親の子育てや虐待について見てみると、脊椎動物の多くは雌が卵を、雄が精子を放出して、受精卵を環境中にバラマキ、あとはそれらのいくつかが生き残るのを運にまかせますので子供の世話はしません。

子供の世話をすることが進化するには、親が現在の子のために時間とエネルギーを投資した場合に子の生存率が向上する度合いと、そうすることによって次の繁殖のチャンスが減少する度合いとの兼ね合いできまります。

つまり、現在の子の世話をすることのベネフィットがコストを上回るのが、どちらか一方の性のみである場合、その性のみが子育てに関わることになります。

したがって、親が何らかの子育てをする動物は、

①雌のみが子育てをするもの
②雄のみが子育てをするもの
③両親揃って子育てするもの
④両親以外の個体も子育てに関わるもの

の4つに分類することができます。

ヒトは両親以外にも祖母や祖父が子育てに関わることがあるため、④の共同繁殖をする動物に当たります。

親にとって自分の子供は自分自身の適応成分そのものであり、個体には他の形質に比べて相対的に高い生存率と繁殖率をもたらす形質が進化するのが淘汰のプロセスにあるため、自らの子を殺すような形質は進化しにくいとされています。

しかしながら、一生の間に多数回繁殖する動物で、現時点での子育てがうまくいきそうもなく、次の繁殖のチャンスが確実にある場合は、現在の子を殺したり、遺棄したり、次の繁殖にかけるケースもライオンやその他、多くの動物でみられることがあります。

古今の記録を見る限りでは、残念ながら子殺しはヒトのどの社会にもあり、しかも親による子殺しの頻度がかなり高くなっています。

これは動物の中でも稀なケースでありヒト固有の事情が存在します。

それはつまり子供が一人前に育つまでの期間がながく(脳の完成はおよそ16〜18年とされており、繁殖可能年齢も高い)一人前になるまでには約20年の期間を要します。

ちなみに近縁のゴリラは離乳から捕食行動までは4年、チンパンジーは5年となっています。

その間に下の子が生まれれば世話の内容も異なる複数の子供を育てなければなりません。

子供の脳と身体が成長するまで育てるには多大なエネルギーと栄養が必要なのです。

つまりはヒトの子育てには非常に大きな投資を必要とし、そのためその投資を維持するためにに両親が子育てに関わるものの、両親のみで世話を完結することが難しく、そのため伝統的な狩猟採集民族は共同体全体で協力して子育てをしており、血縁、非血縁の多くの人々が子育てに関わっているのです。

つまり結婚や出産というのは単に個人同士の結びつきではなく、社会的に認められた関係という意味合いが強いのです。

それは共同繁殖の動物であるために社会全体で一人の子を育てていくという責任を負うことになるためです。

このように社会を見ていくと、不倫や近親相姦など「正当ではない」配偶関係がどんな文化においても嫌悪感を抱かれるのは、そのような配偶が問題なのではなく、そのような「正当ではない」子どもに対する共同養育の負担を負いたくないという感情がもとになっているともいえるのはないでしょうか?

これがヒトが「脳」という大切な器官を大きくするために進化させた繁殖方法であり、ヒトは脳が完璧に大きくなる前に産み落として、そこから共同繁殖によって子の脳機能と身体を育てたのです。

こうして脳機能が発達した子が繁殖して世代を繋いでいくことで、ヒト固有の「共感力」や「利他的行動」が進化、遺伝して寿命100年、70億人というとてつもない社会を作り出すことになったのです。

ここで話を親の虐待に戻します。

進化心理学者のマーティン・デーリーとマーゴ・ウィルソンは民族資料をもとに、子殺しが要因されている35の社会で子殺しが起こる112の状況についてまとめたところ、

①母親の現在の夫が赤ん坊の父親ではない
②赤ん坊自体の生存率が低い
③現在の環境が子育てに適切ではない
④その他(赤ん坊が女児など)

を挙げました。

これらを著者が先に述べたヒト固有の事情を含めて再構成したところ、

①物理的環境が現在の子育てに望ましくない場合
②赤ん坊自体の生存率が低い場合
③文化的規範が現在の子育てを共同体として認めない場合

の3つに分けることができます。

先に述べたように、ヒトの子育てには非常に多くの投資が伴うものであり、かつヒトは多数回繁殖の動物であり、繁殖速度は他の類人猿よりも速いため、①〜③のような状況になった場合、その子への時間的エネルギー投資をやめ、次の繁殖のチャンスに賭けるという選択肢は残念ながら進化生物学的にはありえることなのです。

もちろん社会倫理的には虐待は許されるべきものではありませんが、生物としてその選択があるということは、自然の法則として理解しなければいけないものだと著者はいいます。

そして、その背景には核家族化によって祖父母の協力が得られない状況や経済的困窮、個人主義によるプライバシーの尊重により近所付き合いが疎遠、血縁関係がなく男性パートナーの援助が得られないなど、子育てするために必要な投資が共同体から得られない状況があるのです。

まとめ

親による子への虐待について動物の行動生態学的に見てますと、ヒトの子育てにかかるコストは高く、ヒトは共同繁殖によってその投資を担っていましたが、現代の個人主義社会は共同体による協力を得られにくい状況にあり、そのような状況で子育てにかかるエネルギーとコストが利益を上回れば、子殺しがおきてしまうことは生物学的にも十分考えられることであり、実際に多くの虐待や子殺しはそのような状況で起きています。

このように考えると虐待をする両親を非難するだけでは解決になりません。
私個人も本書を読み、以前より幅広い視点で「虐待」について考えることができるようになりました。

しかしながら、ヒトには「考える力」があります。それはヒトが共同繁殖という手段を得て育ててきたものです。

子供に手を挙げる前に一歩引いて現在の状況を見ること、助けを求める勇気、声をあげる勇気、SNSの発展によってその声をあげるハードルも下げっていると思います。

その声がしかるべきところに届けば助かる命があるのです。

日本においては十分なセーフティネットが構築されていると思います。

足りないのはそれを必要としている人達をつなげ、機能させるためのネットワークだったり、情報だったりだと思います。

そして、ヒトは共同繁殖の動物であるという、そもそもの大前提が現代社会において忘れ去られているからなのかもしれません。

「社会全体でこどもを育てる」

この当たり前の感覚を多くのヒトが共有し、少しでも悲しいニュースを目にする日が減ることを祈っています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

参考図書

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