「時間」のはなし
こんにちは。
二日です。
とても久しぶりにnoteを書いてます。例によって変な文章が多々あるかもしれないですが、最後まで読んでいただけると幸いです。
さて、今からもう2年も前の話ですが、私が大学3回生の時に、当時所属していた写真のサークルの春の学祭での展示で、テーマ展をすることになりました。この時のテーマは「時間」と「擬音・形容詞」でした。今まで撮ってきた写真の中からテーマに沿うものを選ぶも良し、テーマに沿ったものを新しく撮影するもの良しという感じです。私はなんとなく前者は嫌だったので、後者の方針で行くことにしました。テーマは、個人的にとっかかりやすい「時間」にしました。
ここからテーマについて深掘りしていって、どういう写真を撮ろうかと考えていきました。
ちなみに、当時の私の状況としては、沈みに沈んだ大学2回生を終え、大学3回生になったものの、まだなんとなく色んなものに対する気力が湧かないような精神状態でした。ただ、進級前の3月にあった学外展で、写真に対してのモチベーションは上がってきていました。加えて「ブルーピリオド」を読んで、自分の考えや思いを、作品としてアウトプットしてみたいという創作への意欲も高まっていました。
話は戻って、まず「時間」というテーマへの深掘りをしていきました。これもちょうど良いタイミングだったのですが、この頃、というか、私は時々頭の中で哲学的なことをあーでもないこーでもないと考えたりして、自分なりの結論を出したり出さなかったりしています。まぁ頭の中で独り言を延々と喋る、あるいは脳内ディベートをしてるような感じです。そしてテーマ展のテーマが決まった頃、ちょうど「『時間』とはなんだろう」ということを考えていました。この時はまだ結論を出していなかったのですが、テーマ展もあるということで、尚更ちゃんと考えてみようと思いました。
皆さんにとって、「時間」はどういうものでしょうか。「時間」は「朝は6時半に起きる」「授業1コマ90分は長すぎ」「時速60km/hで車を運転する」など、暮らしの中に当たり前のように存在しています。それは呼吸と同じで、当たり前すぎて、逆にその存在を認知していないようなものかもしれません。
とりあえず私は、「時間」が人間にとってどのようなものなのかを考えていきました。
初めに「時間」は、物理現象を記述するために必要な「長さ」「質量」と並ぶ3大要素の一つで、「時間」という概念があるから、今の私たちは多くの技術的な恩恵や、それに伴う様々な恩恵を受けていると言えます。そんな「長さ」「質量」「時間」ですが、個人的に「時間」は、少し異質な概念なのではないかと思います。
ここからは、正直なところ論理の飛躍がちょくちょく出てくるのですが、まず初めに、この世の物体、この宇宙のすべての物体・物質が「完全に静止する」とします。その時、3大要素の内「長さ」と「質量」は変わりなく存在しているでしょう。「長さ」は空間が存在すれば必然的に存在する概念であり、「質量」は「重さ」とは違い、重力の影響に関わらず、物体そのものが持っている概念であり、何か物体が存在すれば、その物体は必ず「質量」を持っています。それに対して、「完全に静止した」世界において、「時間」は存在するでしょうか。何も動いていない世界では「時間」は存在しないと思われます。つまり、「時間」は物体が「動く」ことに依存した概念であると言えます。ここが、「長さ」や「質量」とは違う一つのポイントであると考えます。物体が存在さえしていれば「長さ」も「質量」も存在しますが、「時間」はさらに、「動き」や「変化」を必要とした概念ということになり、これは、「『長さ』や『質量』よりも後に発現した概念」とも言い換えることができるのではないでしょうか。
ただ、これよりももっと極端なことを言うなら、「時間」は生物、とりわけ人間が生まれたことで出来上がった概念であると考えます。例えば、宇宙には、大きな惑星から小さな岩のようなものまで、様々な物体が漂い、大きな惑星の周りをぐるぐる回ったりしています。そして現状、地球を除けば、それらの物体全てが非生物、無機物(厳密には違うのかもしれないので違ってたらごめんなさい)です。それらの岩や衛星や惑星は、色んなところを漂っていたり、ぐるぐる回ったりして、「動いてはいる」ものの、そのもの自体が何か「変化」しているかというと、そうでもないように見えます。実際は、岩と岩がぶつかり合って変形したり、変形しなくとも、原子レベルで見たら、中性子の数が増えたり減ったりしているのかもしれませんが、非生物は、その変化を自覚することはありません。それは、非生物にとって「時間」は存在していないようなもの、という風にも言えます。生物のいない世界では、きっと「時間」も存在していないと思います。では生物がいると何故「時間」が存在するのか。それは、生物には寿命があるからだと考えます。我々ヒトを始めとしたすべての生物には、一定の寿命があり、その期間の中で、原子レベルの変化もあれば、細胞、組織、器官と、大小様々な変化が起こります。そして生物はその変化を悲しくも自覚することができ、その変化を以て「時間」を感じます。
我々生物は、寿命という定められた期間内に、生を継続させるために必要な様々な活動をしなければなりません。ご飯を食べる、睡眠を取ることに加え、種の保存のためにはセックスもして、子供が歩けるようになるまで面倒を見たり、誰かに食べられないように身を守ったり。
さらにヒトは、寿命という期限の中で効率良く種を繁栄させるために、複雑な群生社会を形成し、様々なルールを「時間」を用いる事で成立させてきました。「明日は6時に起きないと遅刻してしまう」「今日の17時までにレポートを提出しないといけない」「あと日が5回昇ったら収穫しよう」など。正直なところ、ただ動物的本能に従って生きるだけなら、これほど細かく「時間」を気にして生きることはないと思います。ヒトは、自分たちの体に起きる「変化」に気づき、効率良く生きていくために集団で生活していくことを選んだ結果、いつしか「時間」に縛られていきました。さらに、より仕事や作業を効率化させるために、便利なものを発明し、仕事や作業の時間短縮を成功させ、さらにその短縮できた時間にさらに仕事や作業を詰め込んでいきました。まるで、自らに敢えて縛りを課していくように。自ら不自由になる方へ向かって行っているように。
この辺りで少し話を変えて、こんな事を考えていた大学2回生の終わりから3回生の初めごろ、私はちょうど「呪術廻戦」にハマり出していました。今更「呪術廻戦」のあらすじとか説明しませんが、この作品には、生まれながらに何かしらのハンデ(肉体的にだったり呪いの能力的にだったり)を持っている代わりに、特定の能力が他の人よりも高くなるという「天与呪縛」という概念があります。この言葉の語感がなんとなく好きで、頭の中に残っていました。
そこで、人間が自らに「時間」という縛りを課していることと、「呪縛」という単語が結びつきました。ただの縛りではなく、目に見えない「何か」に縛られていて、その縛りが簡単には解けないような感じ。より良い集団生活を目指して生み出した「時間」が、日が経つにつれ、逆に「時間」によって不自由さを感じるようになっていってしまった。人間にとって「時間」が「呪縛」になっているというのが、私が考える人間と「時間」との関係性です。
この「『時間』は『呪縛』である」という結論を基に、私は当初の目的であるテーマ展に向けた作品の案を考えていきました。その作品については次回にお話しようかなと思います。
長くなりましたが、お付き合い頂きありがとうございます。
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