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実は世界ってこういうことじゃね?図解してみた

世界の姿は、海に例えるとわかりやすい

次の3つで分けて考えてます。

  1. 海面

世界は海面・波・海の3つから成り立っている

さて、上手からもわかるように、海の底には光源があります。

これは古今東西様々な思想を探究したところ、色々な名前で描写されていることがわかりました。

パウル・ティリッヒは「存在それ自体」と呼び、西田幾多郎は「絶対無」と呼び、ラマナ・マハルシは「真我」と呼び、仏教では「真如」と呼び、ヒンズー教では「ブラフマン」と呼び、キリスト教では「父なる神」と呼ぶ。

こう呼ばれる領域が海にあたります。(今のところパウル・ティリッヒの呼び方が一番しっくりくるので私は「存在それ自体」と呼んでいます。たまに「生命それ自体」と呼ぶこともあります)

さて、私たちは生きていて、ほとんどこの「存在それ自体」に気づくことはありません。カントは、私たちが現象界において認識できないこうした存在を「物自体」と呼びました。

これはどういう状況なのかを、図から考えてみましょう。

波に浮かぶ「からだ自体」に注目してね

私たちはいわば波にあたる部分でプカプカ浮いてるような存在だとします。

そして私たちは、海面を見上げています。波の部分でプカプカ浮いて、海面を見上げているわけです。

もし、海底に光源があり、私たちの背面から光が照らされれば、水中から見たとしても海面には鏡のように自分たちの姿が映ります。(全反射のための角度とか細かい話は一旦無視します)

海中から海面を見上げると、海面には海中の姿が映る

私たちが普段生きている現象界は、上の写真で言うと、海面に写っている魚の姿のようなものです。

あなたが「自分」だと思っている存在も、あなたが「他者」だと思っている存在も、あなたが「世界」だと思っているものも、全てこの海面に映る像のようなものです。

そして私たちは、この海面に映る世界、つまり現象界のみが唯一の世界であると思い込んでこの世界を生きています。

もし隣にだれか(Bさんとします)がいた時も、その姿は海面に映ります。私たちはこの海面に映ったBさんを「他者」として認識するわけです。

こうした現象界を、ヒンズー教は「マーヤ(幻)」と呼んだりします。そして仏教では、こうした現象界しか世界が存在していないと思い込むことを「無明」と呼びます。

さて、下図を見るとわかるように、この図はあくまで「Aさんの現象界」です。

Aさんの現象界

では、Bさんから見たときはどうなるのでしょうか。

Bさんの現象界

上の図が、Bさんの現象界です。

海底にある光源と自分の位置関係によって、海面に映る像は変わりますよね。

ですので、Bさんから見える現状界はAさんとは微妙に異なるわけです。

また、Bさんの海面はAさんの海面より波が荒いとしましょう。(だから図中の海面の色がBさんの方が濃いわけです)

この海面の波の激しさは、Bさんの心の状態を現していると言えます。

誰もが自分の心のフィルターを通して世界を見ています。

そしてもしその心が荒波のように湧き立っている時、見える世界の姿はどんどん歪んでいきます。

私たちは海面に映る像(現象界)を見ているに過ぎないため、自分の心が乱れて海面が乱れると、その姿もどんどん乱れ、歪んでいくわけです。

しかしこうした現象界は、Aさんの現象界とBさんの現象界で全く異なるとは言えません。

例えば、目の前の机があったとして、Aさんがそれは「木」だと言って、Bさんはそれが「ネコ」だとは言わないでしょう。

あくまで海面に映るのは海中にある私たちの存在それ自体が映った姿なので、それなりに共通項を持っています。

ただ、そうは言っても、同じ「机それ自体」が映し出された「机という現象」を見たとしても、Aさんの現象界とBさんの現象界は、微妙に異なるはずです。

Bさんがもし、幼い頃に虐待を受けていて、一度父親から机を投げつけられた経験があったとするならば、Bさんの現象界に映る机はAさんの現象界に映る机よりも非常に恐怖に満ちたものになるでしょう。

Aさんがもし画家であったら、Bさんが見る以上に、「机という現象」の細かい明暗の様子などに着目するかもしれません。Aさんの方がより鮮明に「机という現象」に気づいているわけですね。

このように、AさんとBさんそれぞれが作り出している現象界は微妙に異なるわけであり、こうした現象界は人の数だけ無数にあると言えます。

そうです。だから現象界で人々の意見が一致することはないわけです。私たちたちはこの海面に映る虚像を元に意見を戦わせているわけですから。

では、科学はどう考えればいいのでしょうか?

科学は、海中の存在それ自体がどのように海面に映り出されているか、ということに対する現時点での共通見解であると私は捉えます。

しかし科学もあくまで海面に映る現象界での話です。現象界において、観察者である「私」という自己と、観察対象である現象をある枠組みにおいて設定し、その観察対象の挙動に再現性があると科学的に認められた場合、それが現時点での真とされます。

しかし、これは現時点での真です。カール・ポパーが科学の定義は「反証可能であること」と述べたように、科学は必ず反証可能性があります。

なので、もし観察者である私(科学的見解という「私たち」)が、より正しく海面に映る現象界を説明していると思われる見解が新しく現れたときは、今までの真は偽となり、新たな真が生まれるわけですね。(昔は地球が宇宙の中心であることが真であったのにそれが偽になったように)

あらゆる宗教問題も海面に映る現象界で議論するから起こる

さて、「神さま」はどこにいるのでしょうか。

神さまは現象界にはいません。現象界に映るもの全ては、宗教用語を借りるなら「偶像」です。

しかしこれは、宗教に限りません。

私たちは何かしらを信仰して生きています。人によってはそれが「お金」である場合もあれば、「家族」である場合もあり、「自分らしさ」という現象界に映る自分自身である場合もあります。

こうしたものも含め、現象界、つまり海面に映るものは全て「偶像」です。

そして現象界の何かしらを崇拝することを偶像崇拝と言います。

キリストは偶像崇拝を禁じましたね。

それはキリスト自身を偶像として崇拝することも禁じたわけです。現象界に神はいないことを、知っていたからだと私は思います。

しかし私たち人間は残念ながら、この現象界の中に見える偶像のどれが本当の神さまかを議論し続けます。

それはもちろん、一向に一致を見ません。

なぜなら先ほども言ったように、Aさんに見える現象界も、Bさんに見える現象界も異なるからです。

そしてこれは宗教問題だけではなく、もはや人間が根源的に抱える信仰問題と言えます。

キャリアアップを偶像崇拝している人と、家族との時間を偶像崇拝している人は、どう考えても話が合いません。

見えている現象界がそもそも異なるからです。

これが宗教問題になるととても話がややこしくなります。

宗教信仰はその人の「生きる意味」、実存的な意味合いまで持つことがあります。そうした信仰の対象が現象界の偶像となっていると、もちろん異なる偶像を信仰している人が必ず現れます。

自分と異なる現象界内の偶像を崇拝する人は、もはや自分の存在意義を揺るがす危険な存在となるわけですね。

私は昨今、これが宗教だけでなく、ポリティカルアイデンティティーという形で新しい信仰の様相を持ち始めていると見ています。

また別の記事で解説しますが、現代は「実存的危機の時代」です。こうした実存的危機が救われる道は、ある意味理性では到達不能な存在それ自体への憧憬であり、到達です。

しかしそれが現象界にあると思い込んだとき、そして既存宗教ではそれが満たせないとき、人は自分のアイデンティティの拠り所を政策などに求めるわけです。

こうした人にとっては、もはや政治的信念=自分の実存的価値となっています。

こうなると自分と異なる政治的信念を持っている人の存在が、自分の実存的危機として現れてくる。自分の存在が危ぶまれるわけですね。

だからまるで宗教戦争の様相で叩き合う。

これも一種の現象界に対する偶像崇拝と言えるわけです。

波にあたる部分の「からだ自体」とは何か

私たちは現象界のみが唯一の世界だと思い込み、そして皆が同じ唯一の現象界を見ていると思い込んでいます。

しかし、根源はそこにはありません。海面はどこまで行っても虚像でしかないからです。

海面でいくら真理を探そうとしても見つからない。いくら自己を探そうとしても見つからない。いくら救いを探そうとしても見つからない。

なぜならそれは、どこまで行っても海面に映る虚像であり、真の姿ではないからです。

では、どうすればいいの?

「からだ自体」に意識を180度回転させます。

からだ自体に意識を180度回転させる必要がある

私たちの意識は、常に海面に向かっています。これが通常状態です。

物心ついてからずっとこの状態なので、私たちはこれを疑うことができません。

水槽で生まれた魚は、自分が水槽にいるという事実に気づくことはありません。なぜならその魚にとっては水槽の中が唯一の世界だからです。現象界を生きる私たちたちは、この魚と同じです。

このことに気づくためにどうすればいいのか?

私たちの意識をからだ自体に180度回転させます。

からだ自体とは何か?

それは身体(しんたい)ではありません。

私たちの目に見える身体は、観察対象としての現象界の身体です。

そうではなく、観察する側の体、主体としての体が、私が言う「からだ自体」です。

からだ自体を説明するにあたって、哲学者のマッハが書いた自画像を参考にしてみましょう。

以下の自画像をよーく見てください。

マッハの書いた自画像

これは、マッハの「自画像」です。

これが自画像です!どういうことかわかりますか?

私たちが鏡を使わずに自画像を描こうとしたら、確かにこのような姿になりませんか?

これは現象界での思い込みをとっぱらった、からだ自体から自己と世界を映し出そうとした一つの試みであると言えます。

この自画像は、現象界からからだ自体へと意識の方向を180度回転させる契機と言えます。

私たちは現象界で映る自分、鏡に映る自分が自分だと思い込み、自画像を書く時は必ずその現象界に映る自分を描こうとします。

目は2つ、口は1つ、耳は2つ、髪型はこんな感じ・・・というように。

そして自分と同じように他者も存在し、他者と同じように自分も存在している。そう考えます。当たり前にそう考えます。

しかし、もし本当に、私たちが見えるままに自分自身を見て、自画像を書いたとしたら、このマッハのような自画像となります。

マッハの自画像をもう一度、見てましょう。

マッハの書いた自画像

この自画像のどこに「マッハ」はいるでしょうか。

これは「自画像」であるなら、この絵に描かれた全ては「マッハ」です。

自らの身体のみならず、横たわっている机、部屋の中、窓、風景、全てが「マッハ」なわけです。(なぜなら自画像ですから!)

つまり今ここで、「マッハ=世界そのもの」となっていることがわかります。

しかし同時に、マッハには決してマッハ自身の顔や目を見ることができません。

マッハがマッハ自身が顔や目を直接見ることができないが故に、この空白が存在するが故に、この無が存在するが故に、世界という有が私たちの現象界として立ち現れてくるわけです。

「からだ自体」とは、このマッハの自画像で言うところの、描かれていない顔自体、目それ自体という空白であり、無のことです。

「マッハ=世界」という構図を作り出した、この自画像に描かれた観察対象(マッハの身体や風景)がそこに描かれるためにそこに在る空白、スペース、無、観察する側の存在。それが「からだ自体」です。

マッハの自画像からもわかるように、私たちは決して自分の顔を直接見ることはできません。写真や鏡を通してしか見ることができません。

これが、非常に大切な点です。

私たちは自分自身の真の顔を、物理的にも直接見ることができないわけです。

そしてこの直接見ることができない顔、目、見る側の主体。これが「からだ自体」の本性です。

私の言っていること、伝わってる?

今こうして頑張って文章を書いてますが、自分の文才がなさすぎてぜんぜん伝わっている気がしません(泣)

つまり上図内の波の部分に該当する「からだ自体」というのは、常に見る側の空白、スペース、存在それ自体であり、私たちが鏡に写った姿を自分だと思い込むのはあくまで海面に映る現象界だということです。

私たちの意識はどうしても、海面に映る現象界に引っ張られてしまいます。(これこそが西洋思想が「原罪」と呼ぶものです。私たちはこの原罪からは決して逃れられません)

そして現象界に向かった意識の中で、私たちは真理を探し、自分自身を探し、幸せを探し、神を探す。

けど、現象界で見つかったものは、どんなものでも偶像です。そして現象界で見つかったいかなるものを信じても、それは偶像崇拝です。

なので私たちは、見られる現象界から、見る存在界(図中の波の部分)へと意識を180度回転させないといけないわけです。

続きはまた今度

無限に語れてしまうので、続きはまた今度とします。

うまく説明できなくてマジで心苦しい(泣)

コメント、質問、スキ、フォロー、なんでもウェルカムです!

参考にした思想家一覧

最後に、このたった一枚の図に辿り着くまでに参考にした人たちの名前を思い出せる限りで羅列してみましょう。

スピノザ
西田幾多郎
デカルト
カント
親鸞
マイスター・エックハルト
井筒俊彦
パウル・ティリッヒ
キェルケゴール
カール・ヒルティ
シュタイナー
神智学界隈
ラマナ・マハルシ
ウィリアム・ジェームズ
ハイデッガー
ニーチェ
ユング
フロイト
マズロー

もっとたくさんいる気がしますが、今思い出せるのはこれぐらいです。

古今東西の思想家の皆さん、素敵な気づきをあざした。

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