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私がお酒をやめた理由。それは、絶望で乾杯するため。
人はなぜ、お酒を飲むのだろう。
私はなぜ、お酒を飲むのだろう。
私は本当に、お酒が好きだったのだろうか。
お酒を飲むのは好きだった。
飲み会も好きだった。
好きだった、はずだった。
けど、私はお酒をやめた。
きっかけはパニック障害。
その後、再び飲めるようになってから、何度か飲んだ。
「あんなに楽しかったんだから」「あんなに好きだったんだから」
そんな記憶を頼りに、飲んだ。
でも、ぜんぜん嬉しくねぇし、楽しくねぇ。たいして美味くもねぇ。
今振り返ると、自分はお酒が好きだったわけでも、飲み会が好きだったわけでもないと気づいた。
たまに酔いたくなる時がある。だから、飲んでいた。
なんで、酔いたくなるのか。
何かを隠すためだと思う。
何を?
隠れた絶望と、潜在的な罪の意識。
たぶん、そうだ。
自分の絶望と罪に気づかないようにするために、飲んだ。
楽しいから飲んでいたのではなく、楽しいことにしておきたかったから、飲んだ。
自分はどこかで、許されていないことに気づいているから、そのことから目を逸らすために、飲んだ。
これはすごく、潜在的なもの。
潜在的な、絶望と罪。
それを直視すると、辛くてやっていけない潜在的な何か。
それを直視すると、今頑張っている理由、生きている理由、そうしたもの全てがぐらついてしまう潜在的な何か。
それに光が当たってあらわになってしまうことがあまりに恐ろしい、何か。
その何かを忘れるために、お酒を飲み、酔い、おしゃべりをする。
「今日のお酒も楽しかった。おれの人生も、そう悪くない」
そう、思うために。
しかし私は、お酒をやめた。
厳密に言うと、やめさせられた。
やめたのは、自分の意志じゃない。
私の身体と、精神が、お酒を拒む。
何度か飲もうとして、「あんなに楽しかったんだから」「あんなに好きだったんだから」と、過去を思い出して、飲もうとして、飲んでみる。
一口飲んだ瞬間に、「こんなもんか」となる。
さらに飲むと、「ぜんぜん楽しくねぇ」となる。
お酒が好きだった頃の自分。飲み会が楽しくて仕方なかった頃の自分。
そんな自分が懐かしくて、飲もうとしても、ぜんぜん美味しくねえし、楽しくねえ。
私の身体と精神が、酒を拒むようになった。
自分の意志じゃない。
自分の意志は、「また飲みたい」。
けど、私の身体と精神は、「もう飲むな」と言う。
私の思考は、また酒を飲みたいと言う。あの頃の自分をもう一度味わいたいと言う。
私の身体と精神は、もう飲むなと言う。むしろ、絶望と向き合えと言う。罪から逃げるなと言う。
そして今なら、わかる。わかってしまう。
絶望と罪の方が、本気でそれと向き合うなら、酒や飲み会よりも、何倍もの価値がある。
何倍?
いや、もうそれは、比べようもないほど、違う。次元が違う。
だから私は、酒は飲まずに、絶望を飲む。
絶望の方が美味くて、次元が違うほどに、高価だからだ。
絶望から目を逸らすための酒は、本当の自己からも目を逸らす。
酒によって目を逸らしてきた絶望こそが、本当の自己に近づくための扉だ。
それが、今なら、わかる。わかってしまう。
だから私は、酒をやめた。
いや正確には、やめさせられた。何かに。
「絶望と向き合え。それはおまえが思っているほど悪いものでもないし、おまえが酒で得られると思い込んでいる許し、喜び、至福は、むしろ絶望を飲むことでしか得られない。」
私にそう言う何かに、私は酒をやめさせられた。
こうして私は、酒をやめた。酒が好きで、飲み会が好きで、絶望から目を逸らしたかった過去の自分も、一緒に、やめた。
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。
あなたの心の内奥の声は、そのままそっくり、実は神の声でもあるのです。だから人はそれを「精神」つまり「精妙な神」と呼ぶ。
「精神」の原語は風,息吹きを意味し,人間に宿るきわめて軽妙なものと考えられ,生命の原理とされる。ここから神,天使なども精神とされ,特に神から離反する肉に対し神に従う霊と同義に用いられた。
酒ではなく、絶望で乾杯しようではないか。
こんなに(色んな意味で)美味しい酒はないのだから。