
現代の生きづらさは、近代哲学の祖「デカルト」の誤りから始まった。
今日は、近代哲学の祖と言われているある偉人に喧嘩を売ろうと思う。
我思う、ゆえに我あり。
この言葉、聞いたことがあるだろうか?
これはルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)があらゆる懐疑の末に行き着いた疑いのない真理ということになっている。
かくして、私はすべてのものが偽りであると仮定しましたが、この間、私がそう考えている間も、私自身が何らかの存在であることは、疑うことができませんでした。
私はこう考えました。「我思う、ゆえに我あり」(Je pense, donc je suis / Cogito, ergo sum)。この真理は、あまりにも確実で、あまりにも揺るぎがたいので、最も突飛な懐疑論者の仮説によってさえも揺るがされないと感じました。
それゆえ、この真理を私は、哲学の第一原理として採用することを決意しました。

我思う、ゆえに我あり。(ラテン語の「Cogito, ergo sum」から「コギト」と呼ばれる)
あらゆるものを疑ったとしても、それを疑う私だけは確実に存在している。
だから、「我思う、ゆえに我あり」だそうだ。
我思う、ゆえに我あり。つまり、「我=思考(思う)」だそうだ。
デカルトは近代哲学の祖とも言われている。
なぜなら、デカルトのコギトから、主観としての「思考=私」があらゆるものを対象として観察し、機械的に説明ができるとされるパラダイムが開始されたからだ。
このコギトを足場に、ニュートン力学や現代科学が立ち、そしてこのパラダイムが、グローバル化=西洋社会化を通して世界全体に広まったと言える。
そして私は、現代の生きづらさの原因を、このデカルトのコギト(「我思う、ゆえに我あり」)に見るのである。
さて、ずばり言う。
デカルトは間違っている。
我思う、ゆえに我あり。
これは、本当だろうか?
体感してみて欲しい。
本当にそうだろうか?
「我思う、ゆえに我がある」のだろうか?
これを疑えない第一原理としてしまって、本当にいいのだろうか?
我思う前に、何かがないだろうか?本当に私たちの第一原理は、「我思う」ことなのだろうか?
いやむしろ、私たちが何かを考える前、思考が起こる前、そこにある静寂に、体感に、全身を傾けたなら、むしろ以下が真ではないだろうか。
我思う前に、「在る」あり。その後、思うと同時に我あり。
これがデカルトのコギトに変わる、私のテーゼである。
我思う前に、何かがないだろうか?
そしてそれは、「私」といった自我と紐づく前の、存在そのものではないだろうか。
自我としての「私」が思考と同時に立ち上る前に、「在るそのもの」が在るのである。
これをI am that I am.(わたしは『わたしは』である。)とも言い表すこともできる。
ただし、ここで言う「I(わたし)」とは、単なる自我としての、思考とイコールの「私」を意味しない。
「I am that I am.(わたしは『わたしは』である。)」は、在るがあるという存在それ自体を示している。
身体感覚に身を委ねる時、我が現れる前、思考が現れる前の、ある基底が存在している。
このことが、体感できるだろうか?
もしできるなら、誰が体感しているのか?
それは自我としての私ではあり得ない。なぜなら思考以前には自我としての私は存在していないのだから。
まず、「在る」が在る。在るが在るを体感する。それが真なる私である。(この「真なる私」を仮に「真我-私」とでも名付けよう。ただし名前はどうでもいい。別に神でも何でもいい。大事なのはそれを捉える意識そのものであり、身体感覚である)
「真我-私」の後、思考と共に自我としての「自我-私」が立ち上るのである。
真我-私は、思考を超えている。自我-私を超えている。それを超え、かつ含んでいる。(例えるなら、「真我-私」は海であり、「自我-私」は波である。波は海そのものである一方で、海は波を生み出す)
真我-私は、自我-私が「自分の身体だ」と思っている物体も超えている。どういうことか。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」というコギトの上に成り立った主体としての「自我-私」は、自らの身体までも客体的対象として観察する。この「自我-私」に観察された身体は、単なる概念としての物質でしかない。しかし、我思う前の存在そのものである「真我-私」の体感は、概念としての身体を優に超える。それは「自我-私」、「身体-私」を超え、染み出し、「真我-私」そのものに溶け込む。
しかし我々は、思考と同時に起こる「自我-私」と自己を同一化し、そしてその観察対象としての「概念としての身体」が、「自我-私」と紐づいているものだと思い込む。
この呪縛は、現代社会を生きれば生きるほど強まる。
「あなたの仕事は?」「あなたの夢は?」「あなたの家族は?」「あなたの人生は?」「あなたの最近の調子は?」
「我思う、ゆえに我ある」というコギトによる「自我-私」を自分だとする前提の上で、「自我-私」と「自我-私」が錯綜し合い、擦れ合い、すり減り合う。
私が今こうして使っているnote含めあらゆるSNSも、この「自我-私」で成り立っている。だからSNSにまみれればまみれるほど、「自我-私」は強まる。
このようにして私たちは、「我思う、ゆえに我あり」という現代社会が抱える暗黙の了解を疑えない。
なぜなら、このテーゼの上に、近代科学、近代哲学、そして現代社会はその重い腰を据えているからであり、私たちはこの社会の中で生まれ落ち、育てられ、社会の一員として生を営むからである。
会話、教育、仕事、人生。
あらゆるものが、「我思う、ゆえに我あり」の上に成り立つ。
「我思う、ゆえに我あり」の上に立つAという意見やイデオロギーが、Bという意見やイデオロギーと戦う。
そして互いが互いの「自我-私」を強め合う。愛憎を通して。
こうして、「真我-私」は、思考=私としての「自我-私」の中に押し込まれ、窒息する。
「我思う、ゆえに我あり」から始まった、思考=私、「自我-私」を基盤に成り立つ現代社会。
もしその社会の歪みが見えているのなら、軋む音が聞こえるのなら、今一度、自分の体感に耳を傾けて欲しい。全身を委ねて、聞いてみて欲しい。
本当に、「我思う、ゆえに我あり」だろうか?
その前提とされている「我」は本当に実在しているだろうか?
むしろ、思う(思考)が勝手に、「我」を作り出しているだけではなかろうか。
我思う前に、何かがないだろうか。存在それ自体が体感として感じられないだろうか。
そしてその体感は、私たちが自分だと錯覚する「私」(つまり、思考と同時に起こる「自我-私」)を超え出る可能性を秘めてはいないだろうか。
「我思うゆえに、我あり」というコギトと共にデカルトによって生み出された「私」という主観性。この主観性が、客体という世界の中に「正しさ」を求め続ける。「自我-私」の本質とは、この根源的な焦りであり、渇望であり、「真我-私」という自己の実在を疎外するという自己分裂・自己疎外・自己破壊である。
波と海で例えてみよう。
波(主観としての「自我-私」)は自分が海(真我-私)であることを忘れ、海自体すら自らの観察対象へと還元したがる。しかしそれは、決して掴めない。なぜなら実のところ、波自身が海それ自体だからである。目は、自分の目を直接見ることは決してできないのである。
私たちはこうした「自我-私(主体)」と「世界(客体)」の主客分離というパラダイムそのものの中に、閉じ込められている。
だから私たちは、もし現代というパラダイムを超え出たいのなら、「自我-私」を第一原理としたデカルトのコギトを超え出ないといけない。
なので私は、デカルトのコギトを以下に訂正したのだ。
我思う前に「在る」あり。ゆえに、思うと同時に我あり。
私はこのテーゼを、「Ante cogito(アンテ・コギト)」と名付けたい。
Anteはラテン語で、「前の〜」を意味する。つまり、コギト(私は思う)以前をテーゼに含めるわけである。
我思う前に「在る」あり。ゆえに、思うと同時に我あり。
このテーゼの前半はアンテ・コギトであり、後半はコギトに近い。
前半部分|我思う前に「在る」あり。
この部分がアンテ・コギトだ。ここは「真我-私」を表現している。海そのものを表現している。
(これは、「我思う前に、我は『我は』である」とも言い換えられる↓)
そして、アンテ・コギトの次に、
後半部分|思うと同時に我あり。
が続く。
これが自我-私(=思考)を表現している。思考(自我-私)は、波の上で生じては消える波のような存在である。(しかし波は、海それ自体でもあることも忘れてはいけない)
思考がまずあるのではない。ましてや、「私が思う(コギト)」が何よりも先にある第一原理なんて、私たちの体感上、あり得ない。
我思う前に、「在る」が在る。その後に思考が起こる。思考が起こると同時に「私」が立ち上がる。その結果、「私は思う(コギト)」という実感が生じる。
デカルトが「コギト」を第一原理とすることそれ自体に間違いがあったのだ。
なぜならこの第一原理は、私たちの「真我-私」につながる身体感覚とは明らかに異なるからだ。コギトは、真我-私への契機となる「アンテ・コギト(コギト以前)」を見落とし、疎外し、偽りとして葬り去ってしまう。
これは海上の波が、「海なんてものは存在しない」と言っているようなものだ。つまり、自らで自らの実在を否定しているわけだ。
しかし、結局のところ、波は海を渇望している。なぜなら海こそが、デカルトが渇望した真理そのものだからだ。波は海と溶け合いたくて仕方ない。この溶け合う感覚の疑似体験として、波である「自我-私」は真理を求め、親の愛を求め、性愛を求め、神秘体験を求める。
しかし波である「自我-私」は、あらゆるものを疑う。真理を疑い、親を疑い、性愛を疑い、神秘体験を疑う。自分自身が「真我-私」であることも疑い、世界を疑う。なぜなら、デカルトがあらゆるものを疑った結果として「自我-私」を生み出したがゆえに、根本的に「自我-私」は疑うことがその本性だからだ。
そうして「自我-私」は、神をも疑った。
「自我-私」は、ニーチェが「神は死んだ」と唱えたように、真理としての神を殺し、神に変わる超人を目指した。
「神は死んだ。そして私たちは神を殺したのだ。しかし、その血を私たちはどう拭うのか?」
『ツァラトゥストラはこう語った』
「自我-私」が行き着くところまで行き着きつつある現代を生きる私たちは、死んだ神の血を、どう拭うのか?
「自我-私」に、死んだ神の血を拭うことなどできるのだろうか?
こうして、私たちは思い知るのである。「自我-私」があまりに無力で、非力で、浅はかであったことを。
ニーチェは最後、発狂して死んだ。神を殺したと思い込んだ「自我-私」自身に殺されたのだろう。
私も「自我-私」に殺されかけることがある。
そして今、多くの人が、「自我-私」に殺されかけてはいないだろうか。
神は実は、死んでなどいなかったのだ。なぜなら波がいくら海を殺したと叫んだところで、波は結局、海それ自体なのだから。
私たちは、こうしたコギトが生み出した自己矛盾の上に、私を、私たちを、社会を、人生を、人間を、人類を、自然を、生命それ自体を、形作っている。
それが、現代社会だ。
決して満たされない主観としての「自我-私」、「正しさ」がないと不安で仕方ない主観としての「自我-私」、あらゆることを疑い続ける「自我-私」、神すら殺したと思い込み、神になった気で神の血を拭う術を知らずに彷徨う「自我-私」。そんな「自我-私」として、私たちは生き続ける。
しかし、神を殺したと思い込んだところで、結局「自我-私」は、どこかで救済を求めている。どれだけ現世での成功を掴んだとしても、どこかで永遠の救済を求めている(もしそうじゃないなら、現世の成功だけを追い求める者の瞳が醸し出す、あの魂の腐敗の気配はなんなのだろう)。そしてその救済は、「自我-私」と自己同一している限り一向にやってこない。だから私たちは、死んだ神の血を拭うように、弁明をしながら生き続けるのである。
「自我-私」としての生とは、神を疑い、そしてその疑いの理由を弁明し続けることである。「自我-私」は、神への疑いを弁明するために生きているのである。
ここで言う神とは、コギトが私たちから切断したアンテ・コギト(コギト以前)、つまり「真我-私」である。
しかし皮肉なことに、どれだけコギトが「自我-私」に優位性を与えようとも、どれだけ「自我-私」が神に変わって世界を作り変えようと目論んでも、既に、常に、永遠に、「自我-私」は「真我-私」なのである。なぜなら波は、海それ自体でもあるのだから。
これはつまり、波が「海になりたい」と永遠に渇望し続けているにも関わらず、いや、その渇望がゆえに何事も信じられずに「海は死んだ!」と叫び、「おれが海になるんだ」と超人を目指しているようなものだ。しかし結局は、当然ながら、波は海そのものなのだ。しかし、波は「あなたは既に海だ」と言われても「私は海ではない」もしくは「海なんてものは存在しない」と疑い続ける。なぜなら疑うことが波の性分であり、それを極限にまで突き詰めた表現がコギト(我思う、ゆえに我あり)だからだ。なんという悲劇!(いやむしろ喜劇か?)
デカルトのコギトから始まった、全てを疑い、全てが不安で、「正しさ」を求め続け焦燥する「自我-私」。
そんな「自我-私」というパラダイムの上で成り立つ現代社会。
その上で、どんな闘争をしようが、どんな救済を目論もうが、それは脈々と続くデカルトの間違いを、「自我-私」という前提を、より強固にしていくだけなのだ。こうしてミイラ取りは知らずにミイラとなるのである。
私たちは「マトリックス」を壊そうと躍起になればなるほど、「マトリックス」をより強めるのである。そして私たちは知らずに後世をこのマトリックス内で産み落とし、知らずに後世をこのマトリックスのパラダイムで啓蒙し、知らずに後世はまたこのマトリックスを強めるミイラと化すのである。
その歪みがあなたに見えるだろうか。その軋む音があなたに聞こえるだろうか。
もし見えるなら、聞こえるなら、あなたはアンテ・コギトの体感を掴まなくてはならない。
思考以前の実在そのものを。
拝啓 ルネ・デカルトさま
CC: それに続く全ての偉人方
あなた方は「我思う」から始めた時点で、そもそも立つ場所を間違えていたのである。