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思考は<あなた>ではない。肉体も<あなた>ではない|アガシャンティの「あなたの世界の終わり」を読んで③

上記本を読んでの気づき、ちょっと続けてみます。

ポイントは、以下3つ。

人生は偉大な教師
思考は偉大な道具
肉体は偉大な計量器

前回は「人生は偉大な教師」について考えてみたので、今日は残り2つを考えてみようと思う。

思考も「私」も、<わたし>ではない

「私」やら「あなた」といった個人主義という考え方、いつから始まったんでしょうかね。

例えば日本語は、主語がなくても会話が成立します。

「私はお腹空いた」と言わなくても、「お腹空いた」と言えば通じます。

例えば、江戸時代とか、もっと昔、複数人の日本人が居間で休んでいる時、誰かが「お腹空いた」と言ったら、自然と食事の時間が始まったのかも知れない(妄想)

そうした時、「誰が」お腹空いたのか、という議論はほとんどなされていなかったのではないかと思うのです(妄想)

それは「私」かもしれないし「あなた」かもしれないし「あいつ」かもしれないし「みんな」かもしれない。

そんなこと、考えもせずに、ただ淡々と食事をとっていたのかもしれない。

この時、当時の日本人にとって、「私」という個人の感覚は非常に曖昧だったのかもしれない。むしろ主語は常に「みんな」であり、むしろもっと大きな「自然」だったのかもしれない。

今は当たり前となった、「私」や「あなた」といった個人の誕生は、割と新しいようです。

明治時代に西欧の文化を吸収する際に、個人主義の概念が流入した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9

西欧でも割と新しいうえに、日本ではさらに新しい。

つまり「私」も「あなた」も、輸入品なわけです。

もちろん個人主義は、偉大な功績を世界に残したとは思います。だからこそ、家柄で自分の人生が決まらない個人の権利や自由が与えられたのだから(その他、色んな恩恵がありますよね)

一方で、私たちは個人の「責任」を負わされることにもなりましたし、そして私たちは「私」という個人、その幻想を一生探し求めるような状況も生み出したわけですね(「私の生きる意味」とか、「私の生きがい」とか、「『私』とは何か?」とか)

こうした「私」や「あなた」という考え、解釈はどこから生まれてくるのか。

それは思考です。

思考が止まっている時、例えば夢すら見ない熟睡時、個人という感覚はありません。

私が魂の帰郷体験をした時も、個人の感覚はありませんでした。

(ただここ数日思っているのは、一旦、私の中でこの体験は綺麗さっぱり忘れようかなと思っています。過去の強い神秘体験は強烈な執着を生みやすく、私にとっては罠ですね、やっぱり。こうした体験ももはや記憶という思考でしかないのだし)

つまり、ぜーんぶ、思考の産物なんですね。

ここで、あの言葉です。

思考は偉大な道具

決して、「思考は偉大な『私』」でも、「思考は偉大な『あなた』」でも、ないのです。

ただ私たちは、生まれてから「私」という存在があたかも存在し私であるということを植え付けられて生きてきています。

そりゃそうです。親だって「私」という個人を信仰して生きてますし、学校の先生もそうですし、社会全体がそうなのですから(そうこれは、信仰です、本当に)

でも、こうした「私」は結局思考の産物でしかない。植え付けられただけなんですね。

そして記憶というこれまた思考の産物によって「私」は継続される。そしてこれまた「死」という思考の産物によって「私」が消失されると思考する。そして「私」はそれを死ぬほど怖がるというわけですね。

こうした思考、そしてその産物である「私」も、決して<わたし>ではないわけです。

こうした思考は、あくまで<わたし>の道具でしかない。

(ここで言う<わたし>とは、二元論にならざる得ない言葉では描写不可能な、対象にもなり得ない本質です。いや「本質」という言葉すら嘘)

けど私たちは、こうした「私」や思考と、深く深く同一化してます。それを疑えなくなっているわけですね。

魚のようなものですよね。水槽の中で生まれ、一度も水の外を知らずに育ってきた魚は、自分が水槽の中にいることに気づかないはずです。

思考や「私」と同一化が自然状態となってしまっていて(それは「自然」なことではないのだけど)、そのことに無自覚なのは、こうした水槽の中の魚と同じです。

ただ、思考は、悪ではありません。思考はとても有効な道具なのです。

思考がないと、私たちはそれこそ思考を持たない動物と同じですよね。思考があるからこそ、人間は人間としての営みが行える。最初の述べた通り、「私」といった個人感覚によるたくさんの恩恵があるのも、思考のおかげです。

しかし、それが道具であることを忘れ、「私」であるという同一化が起こる時、色んな問題が生じるわけです。

思考をコントロールしようとしたり、ある思考を追い求めたり(「理想の私」とか「幸せ」とか)、手段が目的化してしまうわけです。

もちろん、「思考は偉大な道具だ」と頭でわかったところで何も解決はしません。結局それをわかったと思い込んでいるのもまた思考であり、「私」だから。

「思考は偉大な道具だ」と血肉を通して直感的に理解するためには、日々の探究が欠かせないわけですね。それは思考レベルだけではなく、肉体レベル、感情レベル、そして魂レベルの探究が必要になっていくはずです。

そうすることで、自分と同一化している思考の正体を暴き、全身でそのことを体感しきらないと、「思考は偉大な道具である」という状態には辿り着けないのだと思います(ちなみにまるで悟っている雰囲気醸し出してこの文章を書いている私もしょっちゅう思考に巻き込まれます。昨日も巻き込まれて大変でした)

他者が自分に入ってくる感覚

本の中で、目覚めはエネルギー的な変容をもたらす、という記述がありました。

そしてまた、「他人の感情が嫌でも分かってしまう」とか、人によっては「存在そのものが他者にとってのヒーリングになる」といった記述もあります。

私は前回、先生にあることを相談しました。

それは「他者が自分の中に入ってくる感覚」についてです。

たとえばぎゅーぎゅーの通勤電車で、遅延でもしていると、周りの人の苛立ちやストレスが嫌でも感じられてしまって、しかもそれが自分に入ってくるんですね。

空気の悪い会社でも同じようなことが起きます(私が3日で会社を辞めた時も、会社全体から抑圧的な異様な何かを直感的に感じ取りました。それは本社だけではなくSlackからすら感じ取りました。そして結局、そうした抑圧は、社員の人と対話を進めたところやっぱり明らかになりました)

そしてこれはLINEなどのやり取りでも起きます。誰かのすがってくる感覚や、コントロールしようとしてくる感覚、本当は悲しいのに、本当は怒っているのにそれを隠そうとしている抑圧といったものが嫌でも感じられて自分の中に入ってくる。

こうしたことが起こると私はしょっちゅう、「やばい!逃げないと!」とパニックを起こしていたわけです(今もたまに起きます)

けど先生は、それは自然なことだと言ってました。皆が麻痺しているだけでそれを感じるのは普通だと。

そして、肉体世界はどれだけ「愛」だの「みんなひとつ」だの言っても、個体がある以上、絶対に一つになることなどあり得ないとも。

だから肉体世界では明確なバウンダリーが必要だと。

バウンダリーの必要性は、この本にも書かれてました。

「他者の感情をあなたも感じないといけないという決まりはない」といったことが書いてありました。そして「感じないといけないと思っているなら、そのあなた自身が持つ課題の正体を暴く必要がある」といったことも。

これは、本当に同感で、結局私が他者に侵入を許していたのは、私自身の弱さや課題、傾向性もあったのだと思います(今もあります)

それは、「相手を不快にするのは申し訳ない」という気持ちだったり、「相手とつながっていたい」というこちらのすがりでもあったり・・・

だいぶそのあたりの正体は暴けたものの、まだまだ結構受け取ります。普通に誰かと話しているだけでグワッ!とこちらに迫ってきて、「うわっ、来たっ」てなります(それをしている本人は恐らく無自覚なのですが、その人が無自覚なほど恐らく抑圧も強いで私が受け取ります・・・)

ただ今は、明確なバウンダリーを意識して、追い返してます。その侵入してくるエネルギーを。

だって究極のところ、その人の感情はその人の問題であるし、結局それを私が肩代わりしたところで何も解決しないからです。

そして私がその侵入を許してまでその人に癒着したいのであれば、私の弱さであり、課題です。だから明確に追い返す。むしろ追い返した後の人生で起きることを、私は誠実に真実で向き合っていくしかないわけです(人生は偉大な教師)

答えは各人の内側にあって、外側にはないのです。どんな偉大な先生でも、マスターでも、学問でも、教えでも、結局外側にあるものは最終的な答えには決してなり得ません。

であるなら、他者の感情の答えは結局はその人の内側にあるのであって、私にはないわけです。私はもう、そうした他者の物語に加担することも、感情に巻き込まれることも、必要ないのであればできたら避けたいなと思っています(ただこれも、不快を避ける「私」のコントロール癖なのかもしれない・・・)

そして同時に、魂の帰郷体験によって私が感じたのは、どれだけバウンダリーをしっかり保っていようが、エネルギーを追い返そうが、究極憎み合って殺し合ってようが、結局は全てひとつであって、溶け合ってつながっているという事実です。

逆にその、安心感があります。今まではその感覚に確信を持ててなかったので、肉体世界で「ひとつだ」とか、「みんなつながっている」とか、やろうとしていたのだと思います。

しかし、肉体世界、そして「私」が舞踏しているこの世界では、明確な分離世界です。

「世界の中にいなくてはならないが、世界に所属してはならない」というキリストの言葉があるそうです。

本当にその通りだな、と。

私はこの肉体世界の中にどうしようもなくいないといけません。それはそれで、そういうことなのです。

ただ、それに所属してはいけないのだと思います。所属してしまうと、もってかれ、巻き込まれ、侵入されてしまうわけです。

ただ、この世界とは、結局のところ本質の部分では溶け合っている(というかその本質しか存在していない)。肉体世界はその顕現なわけです。そういった意味では、いかなるもの、いかなる人の中にも神性が宿っているわけですね。

それが体験できたからこそ、安心して、「肉体世界では明確なバウンダリー!!それ以上は寄ってこないで!!」と段々と、できるようになっている気がします(まだ探り探り、恐る恐るだけど)

そして肉体があるからこそ、こうしたことを知覚できる。

自分の中に見ないといけないテーマがあることを教えてくれるのも、こうした感情や身体感覚なのです。

そういう意味で、全てが恩寵。肉体を持っていることすら恩寵。たとえ他者の何かを受け取ってしまうとしても。

なぜなら「肉体は偉大な計量器」なのだから。

(この本のシリーズは次回で終わるかしら)

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