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天の魚 大阪公演によせて~公演主旨~


 10年ほど前のことだ。私は両親の新保健手帳申請の付き添いで、新大阪の雑居ビルを借りて行われた熊本県の検診に行った。
 原因不明の体調不良が水俣病由来かもしれないとわかり、職を失って経済的に急におぼつかなくなった私は、自分と両親の医療費だけでも何とかならないかと思い、嫌がるふたりを説きふせ半ば無理やりにここへ連れて来てしまったのだ。

 並んで順番を待っている人たちは、となりあう人とふるさとの言葉で話す。
まずはどこの者だという話になる。茂道だ、御所浦だ、鶴木山だ…ふだんは水俣のミの字も口に出したくないし、そもそも出す機会の無い人たちが、やわらかにふるさとの言葉で話す。
 つぎに話すのは、ここに来るのにどれだけの勇気が必要だったかという話だ。
「父さんが『お前だけでも検診に行け』って言うとです。『自分はチッソに世話になっとるけん、そげなもんよう受け取れん、だからお前だけでも』ってね」。
「私はずっと頭のしびれよるです。田舎の妹に一緒に申請しようち話したら、『姉ちゃん、まだ手帳ばもっとらんの?ちゃんと申請せんば(しなければ)』と言うとです。お互いこんなことを改めて話すことなかけん。向こうにはちゃんと情報がいっとっとですねぇ」。
 そこに来ているのは皆けっこうなお年の人たちで、きっと、かつての私の両親と同じように若い頃に働きに出て関西に住み続けている人たちだ。
不知火海周辺出身の人たちが、たくさんここで働き、今も暮らしている。

 幼いころ、両親は私達姉妹を連れて毎年帰省していた。親しくしている大叔母の家に行くと、そこには色が白くてか細いお兄ちゃんがいつもふとんの上にいて私達を迎えてくれた。お兄ちゃんはしゃべらないけどにっこりして、周りの空気はやさしくて、居心地がよかった。
 それは私が2,3歳のころで、ふとんに寝かされていたお兄ちゃんの記憶があるという事自体が不思議なことである。そこには大人にはわからない子ども同士のあたたかいつながりがきっとあったのだろう。
 杢太郎少年の話を聞いて私はお兄ちゃんを思い出す。お兄ちゃんと杢太郎少年、そして私。みんな同じ病気だ。胎児性水俣病。

 あの頃の不知火海周辺には、色んな家にその家の“杢太郎少年”がいて“江津野老”がいたに違いない。しかし実際には、彼らはあんなふうに水俣病事件の周辺で起こったたくさんの苦難について誰かに語る事はない。私の祖父や祖母たちも、大叔母もそうだった。いろいろな理不尽を経験し、たくさん語りたいこともあっただろうに、そういうことをみんな墓場にもっていってしまった。
 お兄ちゃんが話したかったこと、大叔母や大叔父が話したかったことを、『天の魚』という演劇は聞かせてくれるのかもしれない・・・。そう思うととても聞きたいような、聞くのが怖い気がする。しかし私も立派に中年になり、そんなことも言っていられないような気がしてきた。

 この声を埋もれさせてはいけない。
 天の魚は1964年初秋・・・ちょうど、日本が東京オリンピックに浮かれている頃のお話だ。その後には1970年大阪万博。半世紀後にやってきた再びのお祭り騒ぎは、私をじりじりと焦らせる。やれ2020東京オリンピックだ、その後はまたまた大阪で万博だ・・・豊かになるのは誰なのか?私たちは、同じ道をたどり、同じ場所にいきついて、本当に幸せになれるのだろうか??

 あの待合室に並んでいた大勢の人たちは、久々のふるさとの空気を懐かしく思い、同時に複雑な思いを抱えて、新大阪駅からまたそれぞれの今生きる場所に帰っていった。
 水俣から遠く離れたこの関西の地で、皆さんのまわりにも、あの日あの場所に並んでいた人たち、その人たちにつながる人たちが暮らしている。私たちのかわりに今も色褪せず“あのころ”を語りかける江津野老と杢太郎少年の物語を、今この時代のこの場所で、耳を傾けてくれる人たちと、ともに聞き、ともに考えたい。

私達はどこから来たのか、そして、どこに行こうとしているのかを。

2019年10月
『天の魚を大阪で観よう企画』呼びかけ人代表
おした ようこ(水俣病被害者)

(呼びかけ人)
おした ようこ
最首 悟
久保田 好生
白木 喜一郎
竹村 洋介
今関 惇

※写真は相思社のお庭にある「猫の墓」

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