如何にして『2001年宇宙の旅』を愛するようになったか
「一番好きな映画は何ですか」という質問は映画ファンにとって最も試練的であるが、私はこの答えとして『2001年宇宙の旅』と『ニュー・シネマ・パラダイス』を用意しており、この2本を場合と気分によって使い分ける(注1)。
実際『2001年宇宙の旅』に関しては、15歳で初めてこの映画を観てから現在(26歳)までに20回くらいは観たと思う(注2)。
そのたびにこの映画への愛は深まる一方で、人におすすめしたい映画であるとも思わない。ご存じの通り、何も知らずこの映画をただ観ても面白くないからだ(注3)。
これは大変残念なことで、本当のところつまらない映画などではない。楽しむためにほんの少しコツが必要なだけの"不器用な映画"なのである。
この"不器用な映画"を私がどうやって楽しめるようになったか、この記事で紹介しようと思う。
(注1)なぜか中ボスくらいの映画ファンには『ニュー・シネマ・パラダイス』は評判が悪い気がする。なのでそういう相手には『2001年宇宙の旅』を使う。
(注2)初めから終わりまで起きていられたのはそのうち3回くらいであるが。
(注3)例えば、この映画が始まって最初に人のセリフを聞くまでに25分間待たなくてはいけない。
注意
読み手としていちおう、「有名らしいから観てみたし考察サイトも回ったが、だから何?」くらいの人を思い描いている。私自身そういった記事に助けられたので。
ということでニーチェとのあれこれや、カメラや技術に関する頭でっかちな豆知識を披露することはしない(できない)。
あらすじは最後に一応書いたので、観たことのない人は参考にしてほしい。ネタバレを気にする人は観ないほうがいい。
ハムサンドへのこだわり
映画の前半で月面のモノリス(注4)の探査へ向かったフロイド博士御一行は、①宇宙ステーションから月面ステーションへ、②そしてそこから月面のモノリス発見地点までという二段階の移動を行う。
①の移動は非常にきれいに描かれていると思う。大きなポッド型の宇宙船が宇宙を漂い、月面に建設された巨大な基地のごときステーションに着陸するまでが、美しき青きドナウをバックにこれ見よがしの撮影技術により映像化される。
問題は②である。ここではバスのような形をした宇宙船が月面近くを飛行し、モノリス発見地点までの移動を担当しており、宇宙船の飛行->船内の会話->宇宙船の着陸という5分程度のシークエンスとなっている。
そしてまず私が大好きなのが、この会話なのだ。まず一人が箱を持ってきて、もう二人に宇宙食のサンドイッチを渡す。
「これはチキンか?」
「味はそっくりですよ」
「ハムは?」
「ハム..ハム..ハム..」
「あった、これだ」
これから月面の異常物体の調査に行こうという人類代表の会話だ。天才物理学者がホワイトボードにややこしい数式を書いたり、軍人が涙ながらに家族への愛を語ることはない。一応そのあとにブリーフィングらしき会話が続くが、三人はぜんぜん興味なさげに表向きの対話を二言三言かわしたかと思えばまたしても
「コーヒーはどう?」
これである。これが本当の人間の会話である。
実はこの映画はキューブリックによりたくさんのシーンがカットされたことで有名で、大金をかけて作ったセットで何人もの俳優を演技させたシーンをあっさり全カットしたような話はたくさん伝わっている(追記1)。
それに加えて試写の段階では160分を超えていたが、酷評を受けて約20分もカットをしたのが完成版である。
それだけのカットを受けてこの映画では意図的に、極端に人の会話が減らされているにも関わらず、サンドイッチの会話は残った。
宇宙食を食べるシーンなんてほかにもあるのに、チキンサンドを、ハムサンドを食べ、コーヒーを勧めなければいけなかったのである。
ここに私はこの映画の素晴らしきリアリズムの一つを見出す(追記2)。
(注4)モノリスという名前は映画中に出てこないが、有名だと思うのでここでは使う。
(追記1)例えばこの映画にはもともと全編にわたってナレーションがあったが、キューブリックの「なんかチープだわw」という感想で全部カットされた。
(追記2)リアリズムというよりも、官僚的態度を暴くことによる皮肉、という理解がより正確だったと反省。
具象と抽象
かのアンドレイ・タルコフスキーはこの映画を酷評したようだ。彼だけではない。この映画が公開されたはじめの評判がひどかったことは有名である。
「こまかい描写にこだわったせいで映画の芸術性が損なわれている」
というのがタルコフスキーの言い分らしい(注5)。のちに彼が『惑星ソラリス』でみせた神秘的な世界観と比べれば確かに宇宙船、宇宙服や星々の描き方はたしかに具体的といえるだろう。
しかし私にはむしろこの映画は、具象と抽象のきわめて難しい境界線を、キューブリックやクラーク(小説版筆者)の天才的なバランス感覚で綱渡りしているように思えるのだ。
『2001年~』が公開された当時(1968)、SFというジャンルは軽く見られがちで、直前に公開された例えば『ミクロの決死圏』などを観れば、その商業性のほうが目立つことは認めざるを得ない。
その特撮技術は当時でこそ観客を沸かせたかもしれないが、2021年に見返せば言うまでもないレベルである(注6)。
しかし『2001年~』は違う。アポロ計画により人間が初めて月面に降り立ち、地球を客観視するより前に描かれた宇宙とはまるで思えない。これは言うまでもなくキューブリックがそろえた科学考証チームや撮影チームの仕事であるし、それらを更に支えた莫大な予算の産物である(注7)。
そう、観ればわかるが、この映画の具体物の描写は、ぜんぜんチープではないのだ。
ところで『2001年~』が参考にしたとされるチェコ映画の『イカリエXB-1』は確かに素晴らしい映像だが、漫画に出てくるようなピコピコ系ロボットの安っぽさがどうしても緊張感を損っている。
しかし『2001年~』の人工知能(HAL 9000)はどうだろうか。船内各所に設置されたカメラと思しき円形の物体に代表され、抽象化されている。HALが停止するときも、ブリキ製の人体型ロボットがボカンと壊れたりはしないのだ。
また木星突入のシーンを平凡なアクションシーンにしたり、人の顔が書かれた木星にロケットが突き刺さるような演出にしていれば、タルコフスキーの批判も真っ当だっただろう。
科学的に予想のできるものは具体化し、予想が簡単でないものは抽象化して隠すことで、永久に古ぼけることのない映像が作られたのだ。
(注6)特撮が時代遅れになったから映画の評価が下がるかどうかは、まだ私の中で決着がついていない部分である。いずれ記事にしたいと思う。
(注7)宇宙飛行士が円形の船内をシャドーボクシングしてまわるシーンは、実際にハムスターの回し車の形をした巨大なセットを数億かけて作ったと、確か注5の本に書いてあった。せいぜい数十秒のシーンである。
ブラウン管への親しみ
とはいえ私がこの映画を観て感じる古さは唯一、といっても何度か登場するが、テレビ画面である。
宇宙船内に取り付けられた画面でテレビ電話をしたりビデオレターを観たりするが、これらの映像は当然アナログで、懐かしきビデオテープを思わせる。
特撮を利用した未来的な他の映像に対して明らかに浮いていて、不自然である。
それに家族との会話なんてこの映画では必要ないはずだ。先に述べたようにこの映画はカットを迫られた事情もあったわけだし、ストーリーにはぜんぜん関係しない。
現にこの映画ではフロイド博士のテレビ電話と宇宙飛行士フランクのビデオレターを観るシーン以外に家族との交流は存在しないのだ(たぶん)。
にもかかわらず私はこの二つのシーンを除いた映画を想像すると、非常に不安な気持ちになる。
最初と最後の30分間には会話が存在せず、それ以外にもあらゆる場面で孤独を感じるこの映画において、
夢かうつつか、本当に人類の話なのかもよくわからないこの映画において、
テレビ画面ごしのアナログ映像の登場人物こそが、(サンドイッチのそれとは別の意味で)人間らしさを見せる数少ないオアシスになっていたことに気付くのだ。
それは宇宙飛行士が地球から遠く離れた宇宙船の中で抱く孤独を、娘が、家族が癒してくれる状況にぴったり重なるかもしれない(注8)。
(注8)深くは触れない(触れられない)が、ここの"孤独"は、ニーチェのいう超人も感じるものに思える。
まとめ
私が今思いつくこの映画の愛しているところを3つ挙げた。どれも私の勝手な感想なのでこれを読んだあなたが共感することを求めない。
しかし「名作だと聞いてたのに!なんだこのつまんない映画は!」と怒るあなたに、この映画にもしっかりと人の手によって生み出された凹凸があることだけは伝えられたらと思う。
さらにはこの映画がどれだけ不器用にして愛すべき作品かを少しでも伝えられたら、私にとってこの上ない喜びである。
あらすじ
どこかの砂漠。類人猿と思しき動物の群れが暮らしている。ここでは水場が生命線で、群れ同士の縄張り争いが常に行われている。
争いに敗れた群れと、夜明け。自然界には似つかわしくない、極端に幾何学的なモニュメント(モノリス)が現れる。猿たちは恐る恐る、しかし吸い込まれるように触れる。
この"選ばれし群れ"は動物の骨を武器として使用することを覚え、水場を奪い返すのだった。
ここで場面は宇宙船と人間のドラマに転換する。
月へ容易に行けるようになった人間は、その地中にまたしてもあのモノリスを発見する。人間に掘り起こされたそれは木星方向へ向け、強力な電波(注9)を放つのだった。(一章完)
木星探査へ向かう宇宙船。搭載された人工知能(HAL 9000)により宇宙船は完全に制御されており、船員は運動したり、チェスをしたり、絵を描いたり、あるいは人工冬眠さえして自由に過ごしている。
あるときHALは宇宙船の部品故障を検出し、船員により部品交換が行われる。しかし持ち帰った部品を検査しても、故障を見つけることができない。
完璧だったはずのHALが誤検知したとすれば、危険な兆候である。HALの"発狂"を疑ったクルーはHALを停止することにする。
ところでHALにとっては、自分が停止することは任務未完了での死を意味するから、何としても防ぐ必要があった。
宇宙船の全制御を担うHALにとって船員を殺すことは容易だったが、ただ一人生き残った船長によりHALの制御は停止されてしまう。
そして船長はこの計画が木星そのものの探査ではなく、モノリスの電波を追うものであったことを知る。(二章完)
船長はただ一人木星に到着すると、その近くを周回する3つ目のモノリスを発見する。近づく船長は光に飲み込まれる(注10)。
船長は目を覚ますと、白く美しい部屋にいた。ここで船長は生活をし、年をとる。
やがて加齢によりベッドから起き上がることもままならなくなると、最後のモノリスが現れ、これにより"選ばれし人"である船長は赤子として生まれ変わり、宇宙を漂うのだった。(終)
(注9)のちのフロイド博士のビデオメッセージにradio emissionという言葉があるので電波で間違いないのだが、それにしてはおかしい。耳をつんざくビープ音のSEが挿入され、映画の中の探検隊も耳をふさぐようなしぐさを見せる。月で音?あらゆる科学考証をした作品のはずなのに、どうしてこのような演出なのかいまだに不思議ではある。
(注10)注9で2つ目のモノリスが可聴域の音も出していた(?)ことは述べたが、それが3つ目のモノリスで可視光に変化したのは興味深い。1つ目のモノリスは武器の使用という我々の知りうるところの内容を持っていたのでそれを映像化するだけだったが、2つ目のモノリスは明らかに現在(1960年代)の科学を超えた内容を持っていたため、音で抽象化して表現したのだろうか。3つ目はさらに進化した内容を持っていたことを表現するため、音->光と表現を変えたというのが私の解釈である。音より光のほうが複雑であるというのは自明ではないが。
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