純愛考

 本稿の内容は、既に公開済みの詩「傘」で書いた内容と重複してしまうように思われる。形式が散文か詩かで変わっているだけである。けれども、私が「傘」で書き逃している微妙な問題をここに半ばメモとして記録しておきたい。読書諸氏にあっては、本稿読了後に「傘」をお読みになっていただいても構わない(なぜなら「傘」でしか言表し得ない事柄もあるから)し、またその逆も一切可である。

 現代の恋愛は、必要以上に金銭を浪費させる構造となっている。例えば、ごく単純なデートプランとして「映画を視聴した後、レストランで食事をする」という内容の場合、既に映画代と食事代を捻出せねばならぬのは必然である。これに地下鉄やバスなどの交通費、自動車を出す側ならガソリン代の出費が暗々裏に認められる。さらにはこのカップリングが成立する以前に、マッチングアプリに課金していたとすると、また出費である。気合いが入ったデートなら、衣服も新調するかも知れない。再三再四にわたる出費である。

 こうやってお互いに出費し合っても、デートが成功するか否かは全く不透明だと言ってよい。初会で長時間は厳しいというのなら、喫茶店や気軽なランチもあるだろう。しかし、我々が街の或る場所(例えば店内)で席に着く場合、ほとんど金銭を支払っている事実を忘れてはならない。我々は席や飲食物に対価を支払ったという根拠のもとに、店の席に座っている。食べるから座っているのか、座りたいから食べるのか。この順序はさして重要ではない。問題は、金銭を支払いさえすればある程度安心で安全なサービスを享受できる、という点にある。

 都市が洗練される時、人間はできるだけ動物でない状態である事を求められる。日中は決まった時間テキパキと働き、夜には飲食店へ足を運んだり、娯楽施設に金を落とす。つまり、都市の人間に求められる素養は、皆勤賞型の労働者である事と徒な消費者である事である。都市は人間を機械的に管理するシステムがゆき届き過ぎている。デスクワーカー向けに、運動による健康促進の広告があるとする。うっかり運動しようと思ったら、軒を連ねたスポーツジムがこぞって入会料から月謝から相談に乗りますよと手招きをする。検索をかければ食事はアレがいいだのコレがいいだのと紹介され、様々なプロテインがレコメンドされ、スポーツウェアも目白押しという有様である。

 こうした資本主義システムの中で、人間の感情の揺動を主軸とする「恋愛産業」は巨大な市場ではあるまいか。恋愛を一度でも経験した人ならば、あの気分の異常な高揚と反面に押し寄せてくる黒々とした不安の影についてよく御承知かと思う。失敗したくないという恐怖から、つい理想的な恋愛の形状を追い求めてしまうのは、無理のない事である。その不安こそ恋愛産業を駆動させるエネルギー源である。「キラキラした恋愛」を無闇に称揚し、恰もそれが模範的恋愛像であるかの如く消費者に売り込む。身だしなみがどうのこうの、支払いがどうのこうの、オシャレなカフェがどうのこうの……。これらは人を愛する根性を育てるのには全く関係がない。全ては「そういう風体の人やそういう空間を良いと感じる感性」の開拓と入植であり、自我の定まらない人間に対する植民地支配的な商売の一環である。

 実際、デートプランに登場する「当たり障りの無い」施設は殆ど、金銭を支払って受動的に対応すれば済むものである。実際それは、金銭というもっとも安全な縄を使用してお互いの身体に括り、強制的にふたりの時間を生み出す行為である。ゆえに、その関係は相思の間柄ではなく、恋愛産業の中に確立された経済的な友好関係である。この関係を結ぶのは利害関係を抜きにした素朴な友情ではなく、打算的で怜悧な政治的作戦からくるものである。従って、いくら恋愛産業の土壌で互いに穿鑿しようと、相手と自分の相性がよいかどうかを確かめるには至らない。

 では素朴な友情とは何か。友愛は最も恋愛に近く、愛の純度で言えば部分的に恋愛を超越しているように思われる。友情の形成は維持に比して容易い。何となく連れ立って行動する機会が多ければ多いほど、互いに友人であるのを疑わなくなる。問題はその維持である。友情最大の難点は、互いが意識的に関係を維持しようとする不断の努力を怠ると、瞬く間に瓦解してしまうところにある。家族ほど強制的・呪縛的でなく、恋人ほど最優先事項になり得ない。

 学生生活における友情の多くは、強制的な側面から形成され易いため、その維持もまた容易である。また、進学先の都合による別れが生じたとしても、居住場所に変わりがなければただ単に「近くに住んでいる」というだけで、変わらぬ友好関係を保ち続ける事ができる。しかしながら、就職の段になると事情は変わってくる。就労は時間的拘束を承諾せざるを得ない。また、勤務地の采配も全ては会社側の判断によって決定される。敢えて誇張した言い方をすれば、月々の給与と引き換えに、自分の人生の決定権を半分以上譲渡してしまうのが就労なのである。

 けれども、こうした困難にあっても積極的に会おうと思い合える関係こそが畏怖すべき友愛の魅力である。退勤後の僅かな時間や少ない休日に、なぜ友人へ会いに行くのか。そこには何らの金銭的利益は無い。だがまさに逆説的には、この非営利性こそ友情の本質であろう。友情は、ただ単に会い、話し、笑い合ったり、共に考えたりしなければ達成されない。能動的で創造的な無駄の生産(極限まで精錬された無駄は美しく冒し難い。換金不可能である)。私は友達と映画を観に行くより、どんなにつまらないものであろうと一本の映画を撮ってみたいと願う。手練手管の映画人たちと良い作品を撮りたいと思うなら、金銭を支払えばよい。が、友達と映画を撮ろうと思えば、機材よりもまず友人がいなければ話は始まらない。「愛は金で買えない」とはこの事である。

 友愛と恋愛を対比させると、恋愛には達成とも呼ぶべき地点が、全く社会合意的に完成されている。例えば性行為や結婚といった行動及び契約は、恋愛の成就と捉えられている。先に私は、愛の純度において友愛は恋愛を部分的に超越している、と述べたが、それは上記の点と連関する。つまり、友愛には達成が無いがゆえに恋愛よりも純度が高いのである。友愛は無限に性愛と無関係である。「共にいる」という事実だけで以て他人同士である当人たちを充足せしめるのは、友愛のみの美点である。実際、人生において友人など本当は必要ないことなど誰もが知っている。けれども、実際友と呼べる他者に邂逅すると、その知識を前提としていながらも、矢張り深い喜びを感じない訳にはいなくなるものである。

 だから、友愛を譬えるのなら完成図の無い城の建設と言えるだろう。友と一緒に城壁を築き、自分たち特有の城下町を建設する。その繰り返しに無給で取り組み、生涯を終える。その工事の中断は、いつ訪れるか分からない(友情の脆弱性はあらゆる情の中でも随一である)。何より、初めから未完に終わる事など分かりきっている。それでもただ、見えない城の建設を続けること。それは友愛の真価であると同時に、純愛の証明たりうる。

 以上のような恋愛の形状は、資本主義から離脱した、愛そのものを実践する姿である。如何なる金銭的桎梏をも峻拒し、如何なる義理人情的(つまりは惰性に基づく道徳性)にも惑わされぬ、利他精神(自己犠牲?)の持ち主であらねば、この達成は難しい。難しい?否、案外それは簡単な事かも知れない。「子供」の状態で生きればよいのだから。

 


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