【あれこれ】言葉が消えていく前に
こんにちは。
いきなりですが親孝行してますか?
あるいは祖父母孝行、してますか?
残念ながら私はあまりしていません。
まだある程度間に合うけれど、ある程度間に合わないところにいます。
少し長くて少し暗くて、少しどうにかしようとしている話です。
1月27日、父方の祖母に会いに行きました。
前回会ったのはコロナを警戒し始めたころだから、4年ぶりのことです。
その4年前も祖母は孫と会ったとは認識できていない気がしますけど。
こんなに久しぶりになったのは単純に会えなかったからです。
2020年2月4日の朝8時30分。出勤してちょこちょこ準備をしてそっとスマホを見ると母からのLINE通知が1件入っていました。母との親子関係はそれなりに良好でメッセージが来ることは珍しくありません。でもいつもは気を遣っているのでしょう。出勤前に来ることは極めて稀でした。この時点でサーっと胸の辺りが冷たくなって、たぶん青白い顔をしながら執務室を出ました。
なるべく隅っこの、人に見られないところで開いたところ、
おはよ
良くないお知らせ。
埼玉のばあちゃん、さっき転倒して救急車で病院へ。頭の中で出血して5日くらい入院するって。
検査の結果によっては手術になるかも。
こんなメッセージでした。
ちなみに家族が住んでいるのは横浜市内、私も家を出たものの市内は変わらず。埼玉には父方の祖父母、それと叔父が住んでいました。
少しやりとりした末、上司に状況を伝えつつひとまず仕事へ戻ることに。
現場に叔父と祖父、休みだった父(とたぶん姉兄も)が実家で受け、それをパートの母に連絡、最後に母から私へ回ってくる連絡網が敷かれました。
よく考えると私だけ外に置かれすぎではないでしょうか。家族LINEで教えてくださいよ。
お昼に少し状況が落ち着き、手術は今のところ無し、翌日の午後に面会できることとなりました。
その翌日のことをよく覚えています。
面会時間は全員で15分程度、一度に病院へ入れるのは2人まで。6人で来ていた私たちの持ち時間は1ペア2分ほど。
祖父と叔父の背中を見送り、入れ替わりで父と母を見送り、最後に姉と私が入りました。
病室で寝ている祖母は思っていたよりずっと元気そう。もう包帯ぐるぐる巻きとか、痩せこけた姿を想像していたから、その点はほっとしました。おかげで病院に入った頃からプルプルしていた私の手足もようやく大人しくなりました。
けれどもそのあとは虚しいばかり。彼女は病室に来た見舞い客に世間話をしていました。ご近所の方に見せていた顔と口調で、目が合わぬまま話していました。横顔しか見たことのないその表情に、初めて正面に近いところから相槌を打ちました。
それも覚悟していたこと。少し前から認知機能が落ちてきているのは感じていました。その上特に高齢者が頭を打った時、一時的にがくっと落ちることも調べてきました。そして一時的では無い場合があることも。だから燻る気持ちはあってもまだ大丈夫でした。
帰り際私が挨拶を済ませて姉を待っていた時、祖母から手を握っていました。
「みんなが元気で来てくれるのが一番元気出るんだからね」と声をかけて。
それは紛れもなく私たちのばあちゃんでした。別れ際のいつもの仕草といつもの言葉、きちんと目が合っているのを横から眺めていました。
嬉しいやら悲しいやら。だっていつもの言葉をかけられたのは姉だけですから。姉だと認識できたのかはわかりませんが、少なくとも孫と会っている感覚にはなったわけで。それがたまたま姉の番だっただけかもしれないけれど、私の時にはなかったわけで。
年末、私だけ多忙を理由に会いに行かなかったからでしょうか。もしこの日体調を崩して実家に残っていた双子の兄なら、兄もこの言葉をかけてもらえたんでしょうか。
そうして、少しでも戻ってくる兆しが見えたことに全力で喜べないのがいけないんでしょうか。これなら姉にもそのままご近所さん対応でいて欲しかったとか、そんなことを思ってしまうのが嫌でしょうがないのです。
その後1ヶ月もしないうちにコロナの影響で面会できなくなりました。病院から介護施設に移っても同様で、それを聞いて少しほっとしてしまう。もし快復して、それなのにまた私だけご近所さんだったらどうしたら良いんでしょう。
面会できるのを望みながら怖がったまま、世間ではコロナが終息していきました。終わったのではなく馴染んだのだと言われるかもしれませんが。ともかくおおよその日常が帰ってきました。
2023年9月、文学フリマへ向けて祖母についての文章を書いていた頃、母からメッセージが来ました。介護施設でも極々僅かな時間だけ面会が可能になったと。
10月〜12月に他の家族が行った時の話を聞いて、もう恐れていたことは起きないとわかってしまいました。「あんまり調子良くなかったみたいで座ったまま寝ちゃってた」、「調子が良ければ頷いてくれる」と。認知機能の低下は緩やかだったようですが、それでも4年というのは長いのでしょう。
1月27日、母と2人で朝7時の電車に乗って会いにきました。職員の方が声をかけても起きなかったようで、面会室ではなく、普段祖母が寝ているベッドに直接向かいました。20分くらいでしょうか、ただ祖母の傍に座っていました。首の下からお腹の方まで、膨らんでは凹んでいく様をただ眺めて大きな窓から入る陽を一緒に浴びていました。母が送った写真が立てかけられてるのを見て「サイズ感これくらいでちょうど良かったね」とか「あれは床ずれの軟膏かな」とか言いながら2人で佇んでいました。
なんとなく気がついたのは、やっぱり祖母と話すのは怖いということです。できるだけ音を立てないように過ごしましたが、それは眠りを妨げないためではないのです。祖母が寝返りを打つような姿勢を取るとドキッとして、もう少し奥の方にある理由に気がつきました。きっと目が覚めて知らない人がいたらびっくりするでしょう。そうして防衛行動を取られたら、私が傷ついてしまうから。祖母がびっくりするとかではなく、私のために静かにしていたんだと。
4年経っても、私は私が傷つくかどうかで動いているようです。
時間いっぱい、じっと座ってぼーっと眺めたあと祖父母の家へ寄りました。今は90歳を越えた祖父と60歳目前の叔父が2人で暮らす家。わずか1時間ほどで逃げ帰ってしまいました。
祖父から繰り返し勧められて繰り返し断るお茶、たぶん開栓から2ヶ月くらい経ってるジュース。前からそうだったけれど、どんどん話が通じなくなってきました。滑舌も怪しくなってきました。そして何より、祖父と叔父の関係が悪化していました。
どちらも切ない。
もちろん90を越えた祖父を邪険に扱いたくないし、扱ってほしくない。叔父がイライラしながら「だから要らないって言ってんだから余計なことすんなよ」と言っていて、それを見ているのは気分の良いものではありません。そこまで言わなくても…と、思わずみかんくらいなら食べてしまいます。だって孫をもてなしたい気持ちが溢れていますから。その気持ちを無碍にするのは気が進みません。
でも叔父も辛い。一時的だからみかんの一つくらい食べるけど、ずっとこれは疲れます。短い時間の中で3回くらい「家から会社まで何分かかるんだ?」と聞かれました。自分で買い物ができてご飯が食べられてお風呂に入れて洗濯ができる。それはすごいことだけれど、でも家に居続けるのが幸せなのかと疑問が湧いてきます。祖父にとっても叔父にとっても。
こんな表現は不適切だと思いますが、祖父や祖母が「祖父や祖母だったもの」に変わっていっています。そして時に私も、「私だったもの」になってしまう時があります。
1/28、冴えない頭で休日出勤をしていました。ちょっと想定と違う結果が出てきて、その原因調査を始めるところです。メモ帳に調査の過程でやることをばーっと書こうとして、手が止まってしまいました。
あのあれ、こう、なんか分けて分割するやつ、なんだっけ。
一向に出てこないしだんだん頭が痛くなってきて他の仕事に切り替えられません。2分くらいうーっと唸って、ようやく「切り分け」が出てきました。
最近ごりごりに疲れていて、ああまずいなと思いながら日々を過ごしています。この言葉が出ない、というのが1番ショックで、もうだめだなと感じたところです。
その人をその人足らしめるのは、文章であれ会話であれ言葉に拠るところが大きいと思います。同じような意味でもどの言葉を使うのか、どんな場面で使うのかで印象は変わります。その人らしさが出てきます。それはきっと、人の中で言葉に意味づけがされていくからです。少なくとも私はそうです。他人の言葉にも自分の言葉にも、無意識にも意識的にも定義を書き加えてエピソードをタグ付けしています。
言葉が消えていったら、私の心と思考が消えていってしまいます。怒るのも哀しむのも喜ぶのもままならなくなってしまいます。積み上げてきた人格が崩れていってしまいます。
私から言葉が消えていく前に、言葉を増やしてたくさんの記憶をぶら下げて。手が届く範囲にいるならば、言葉にあなたとの記憶も紐づけたいのです。
たぶんそれが自分勝手な私なりの孝行なんじゃないかと、今日のところは考えています。
この寄稿者の前回記事↓