私は誰か?「全ては空」から見えてくるもの〜遊行まであと285日〜

おはようございます!
10日ぶりのnote。

ふうてんのかよさんです。
しばし、ふうてんしていました。笑。

そして今朝
「空って・・・」「私って?」
と思ったことがあったのですが

すぐに忘れそうなので
ここに書いておこうと思います。


その前に、
8月は何をしていたかというと
安曇野の美術館に父の絵を見に行ったり
八ヶ岳に大好きな作家さんの展示会を見に行ったり
人様のお家で勝手に草刈りをしたり・・・

あとは、東京国立博物館の
神護寺を見に行ったりもしておりました。

それらのことはまた別の記事で書こうと思います。

そんなわけで、充実した夏を過ごしておりました。
あ。まだ夏の真っ只中ですね。


どこかで書いたかもしれないのですが
「仏教」というものには
この半世紀!?
全く興味がなくご縁もなかった私
(と思い込んでいる私)です。

20代はそれこそ、CCガールズの追っかけと
その他、現世のことに忙しくて
目に見えるもの以外の世界があるだなんて
これっぽっちも知りませんでした。

いや、大学がプロテスタント系の学校だったので
目に見えない部分のお話は
あったとは思うのですが。
全く覚えていない・・・。

そういう意味で、人間というものは
環境云々のせいではなく、
聞きたいものしか聞かないし
知りたいものしか知らないという
なんとも自分勝手な生き物です。

別の言い方をすると
全てベストなタイミングで
何を人生に取り入れるかの「選択」をしている
んだなあと
改めて自分の人生を振り返っても
確信をしております。


そして、私の話の続きですが。

30代・・・35才くらいの時に、
多分(もう細かくは覚えていないけど)
何かの出来事があって
カトリックの教会で洗礼を受けました。

1年くらいは教会で
オルガンを弾かせていただいていたと思います。
なのでもちろん聖書も毎週読んでいた・・・はず。

そして40才になる少し前に
今度は古神道と出会いました。
元旦には東伊豆の海で禊行。
春分の日には五十鈴川で禊行。
夏は滝の禊合宿。春と秋には海での禊合宿・・・。

鳥船行事、雄健行事、雄詰行事、気吹行事を経て禊行。
これがまた本当に楽しくて、ですね。
朝から晩まで祝詞を奏上し、合間に滝行をし
という合宿が本当に楽しくて

通常の生活のほうが修行なんだなと
わかってきた頃でした。

そんなわけで
キリスト教、神道に触れていたわけですが
仏教には全然興味がなく。

もちろん、祖母がいつも
般若心経を唱えていましたので

ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージーソワカ

だけは今でも覚えています。

祖母と一緒に暮らしていた時は
般若心経をソラで言えた時期もあったと思います。
なんせ毎朝毎晩聞いていましたから。

もちろん、うちは真言宗だということも
わかってはいましたし
祖母が四国のお遍路さんに行ったことに
なんとなく「私もいつか行きたいな」と思ったものの
その興味の火はあまり燃え上がりませんでした。

空海や役行者にも、とても興味を持ちましたが
(なんなら今も興味津々です)
それと仏教も繋がりませんでした。

ましてや、
ブッダの教えとか
仏教の宗派、教えにも、全然興味がなく
過ごしていた53年。

それがやはり、
出会うべくして出会ったというのでしょうか。

私が出会ったのは
日本の仏教ではなくインドの仏教でした。

昨年、小野龍光さんとお会いする機会があり
今年の4月は、インドに行き
佐々井秀嶺氏とお会いすることができました。

そこで、やっとこさ
ブッダが何を伝えていたのかを
知りたいと思うようになり
本を読んだりするようになりました。


で、これは私の解釈ですが。

よくよく見ていくと・・・
仏教って
宗教みたいにしちゃったから
ややこしいのであって

本当は「仏道=ほとけの道」と
言えるのではないかと思っているところです。

教えではなく「道」
悟りへの「プロセス」

つまり、「哲学」なんじゃないかな?と。

そう思うと
大好きな東洋哲学の「老子」と
同じような感覚で「仏道」も
捉えることができるなあと思う今日この頃です。


そんなわけで「哲学」という観点で
仏道を見ていくと
どんどん面白くなっている最中です。

その一つが「空」という概念でした。

自分には「空」なんて
何もわかっちゃいないんだってことは
わかっているつもりですが。

今朝ふと繋がったので
それをメモして終わります。

空とは
サンスクリット語でシューニヤター
シューニヤターとは「無」という意味だそうです。

つまり、空は無。
まあそうかも。

色即是空

全ては「無」ということは
サルトルの哲学でも
そのような言い回しがあったと思います。

全部「無」なんだ
だから創るしかないんだ、と。
そういう意味では
アイアイ・アカデミーでは「創作」が
とても大事なキーワードです。

もちろんそうやって創ったものも
結局は「無」
なぜなら幻想の世界でしかないから
とも言えます。

私が「そうか」と思ったポイントは。

全部「空=無」だとしたら
執着するのも馬鹿馬鹿しいなと。


よく聞くお話ですが。

私たちの体は生まれてからずっと
この世に存在し続けていると思い込んでいますが

実は、細胞はどんどん死んでは生まれ
死んでは生まれていき
私がオギャーと生まれた時の私の細胞は
おそらく一つも残っていません。

では、私は一体誰なんだろう?

そして、
私は、私以外の存在がなければ
私も存在はしない、とも言われます。

肉体を持って生まれてきた時点で
自分以外のものがなければ存在しない。
ということは
私自身が本当は「無」なのかも。

私が私に執着しているとして
執着しているそのもの自体が
幻想だとしたら。

私たちは何に喜び
何に腹をたて
何に悲しみ
何を手放すまいと頑張っているのでしょうか・・・。


そして、
色即是空の後に来る
空即是色の意味とは・・・・?

そんなことも
「バカボンの人生哲学を生きる」のイベントで
話そうかなとも思いまして。

今、準備中です。

8/24(土)はコミュニティサロンiDOBATA主催で
『バカボンパパの人生哲学を生きる
あなたもあなたでそれでいいのだ』

https://ii-associates.smartcore.jp/M02/event_detail/MzY0NjQ2MTYHAA



何を喋るか今からまとめます。笑。





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