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純喫茶『蛇の巣』【#毎週ショートショートnote】
駅前の路地裏にひっそりと佇む喫茶店「蛇の巣」。昼間でも灯りが必要なほどの薄暗い店内には、古びた木材と湿った空気が入り交じった独特の匂いが漂っています。常連客以外の姿を見ることはほとんどありません。その日も、がらんとした店内に響いているのは、マスターがカウンターを拭く布の音だけ。虚しく立つ日替わりランチの立て札を横目に、一人の常連客の女が静かに座っていました。
黒髪を肩で切りそろえたその女は、どこか不気味な雰囲気を纏い、黒い表紙のノートにペンを走らせています。その仕草は無音のようでありながら、妙に耳に残るリズムを感じさせるものでした。マスターは彼女を横目で見ながら、落ち着かない様子でカウンターを拭き続けます。しかし、やがて耐えきれなくなったのか、低く声をかけました。
「何を書いているんだ?」
ペンを止めた女は、ゆっくりと顔を上げます。その唇に浮かぶ笑みは薄く、まるで目の前の空気を切り裂くような冷たさを感じさせるものでした。
「文字には力があるのよ」
「例えば、この店に『満床』と貼ったら……本当に満ちるかもしれない。蛇でね」
その声は滑らかで、どこか耳に纏わりつき、寒気を覚えるような響きを持っていました。思わず苦笑いを浮かべたマスターは肩をすくめ、返します。
「それは面白いけど、満ちるのが蛇じゃなくて客のほうがいいな」
女は何も答えず、再びノートに目を落とします。ペンが紙を擦る音が店内に響き、その動きに合わせるように、カウンターの下で何かが微かに蠢く音がしました。マスターはそれを聞き流すかのように、手を止めることなく作業を続けます。
数日後、「蛇の巣」に奇妙な変化が訪れました。厨房の隅で、小さな蛇が一匹見つかったのです。マスターは驚きながらもほうきで追い出しました。しかし翌日、蛇は二匹、三匹と増え、やがて店内の至るところでその姿が見られるようになります。天井の梁にぶら下がり、椅子の脚に絡みつき、とうとうカウンターにも現れるようになりました。
蛇の出現に恐れをなした常連客たちは、次々と店から足を遠ざけます。マスターは駆除業者を呼びますが、蛇たちはどこかしらから次々と湧き出てきました。彼は疲労と不安に押し潰されそうになりながらも、どうにか営業を続けようとしていました。そして、ある日、あの女が再び現れたのです。
「蛇が……満ちたようね」
女はカウンターに座ると、静かにノートを置きました。その表紙には、艶やかに「満床」と書かれています。
「……何をしたんだ?」
震える声で尋ねるマスターに、女は冷たい笑みを浮かべて答えました。
「ただ、言葉の力を証明しただけよ。『スネーク満床』――店名にぴったりでしょ?」
そう言い残すと、彼女は静かに店を後にしました。残されたマスターは恐る恐るノートを手に取ります。中を開くと、そこには「スネーク満床」という言葉が何度も何度も繰り返し書かれていました。最後のページには、ただ一言だけ記されています。
「蛇の巣の主を、蛇で満たしただけ」
その瞬間、マスターの体に異変が起こりました。全身が熱を帯び、喉の奥から苦しい音が漏れます。視界が揺れる中、彼は自分の手を見ると、それが鱗に覆われているのに気づきました。瞳孔は縦に裂け、次第に人としての意識が薄れていきます。
そして、気がつけば、マスターの姿は消え、彼がいた場所には一匹の巨大な蛇が鎮座していました。その蛇はまるで王のように店内の他の蛇たちを従え、ゆっくりと動き始めます。こうして「蛇の巣」は完全に蛇の巣窟と化しました。
それ以来、「蛇の巣」を訪れる人は誰もいません。ただ、店の前を通る人々はこう囁きます。
「何かに見られている気がする……まるで蛇の目に……」
そして、店の看板には今でもこう書かれています。
「スネーク満床」
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