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現代語訳:幸徳秋水の『基督抹殺論』(2012/12/14)/佐藤雅彦【読書ノート】2024年02月06日(火)
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概要と背景
幸徳秋水のキリスト抹殺論は大逆事件で投獄された時に形成された思想の一つだ。この論はキリスト教と君主制、特に天皇制を結びつけることへの強い批判を含んでいる。幸徳はキリスト教の教えが権力者によって操作され、社会の支配構造を正当化するために使われていると考えた。
キリスト教と君主制の批判
幸徳はキリスト教が平等や愛の教えを持っているが、実際には君主制や帝国主義を支持し、それらを通じて民衆を抑圧する道具として利用されていると指摘した。彼はキリスト教の神学が権力者によって解釈され、その権威を強化するために用いられていることに強く反対した。
キリスト抹殺論の内容
幸徳のキリスト抹殺論はキリスト教の教義を根本から否定するものではなく、キリスト教が本来持つべき価値や教えが政治的な目的で曲解されていることに対する批判だった。彼はキリスト教がもたらすべき解放と平等のメッセージが日本で天皇制の神聖化や民衆の統制に利用されていると主張した。
影響と受容
幸徳のキリスト抹殺論は当時の日本社会における宗教と政治の関係に新たな視点を提供した。しかし、この思想は当時の政府や保守派から強く反発され、彼の批判的な立場は大逆事件における彼の処刑の一因ともなった。後年、この論は右翼や軍国主義者によってキリスト教への攻撃の根拠として用いられることもあったが、その本質的な批判精神は権力に対する抵抗の象徴として多くの思想家や活動家に影響を与え続けている。
現代における再評価
幸徳秋水のキリスト抹殺論は現代でも宗教と政治の関係を考える上で重要な参考点となっている。彼の思想は宗教の本来の価値を政治的な目的から解放し、真の平等と自由を追求するための基盤として再評価されている。
序文は、「私は今、拘束されて東京監獄の一室にいる」という文章で始まる。その後、神奈川県湯河原で療養を兼ねて本書の執筆を進めていたが、突然逮捕され東京に送られ、五ヶ月の空しい時を過ごした。予審も終わり、自由な時間ができたので執筆を再開したと経緯を述べている。獄中という最悪の環境で病身を押して本作を完成させたが、完全に満足できる出来ではない。しかし、これがおそらく最後の著作になると考え、誰も明確に述べていない「史的人物としてのキリストの存在を否定し、十字架は生殖器の象徴を変形させたものに過ぎない」と結論付けて世に問うために本書を完成させた。
キリスト教の否定だけでなく、イエスが歴史上実在した人物でないことを証明するために本書を執筆した。これはキリスト教批判を超えたイエス抹殺論である。
イエスの言行を記録した『新約聖書』の四福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)に、重要な点での相違や矛盾を指摘する。これらの矛盾を指摘することで、イエスが実在の人物であったという通説を疑問視する。
彼の主張によると、イエスの言行が異なる福音書で一致しないのは、イエスが実際には歴史上の人物ではなく、後世の人々によって創造された架空の人物である可能性が高いからだ。さらに、キリスト教の教義や象徴、特に十字架の象徴性についても深く掘り下げ、それらが古代の宗教や信仰から借用されたものであり、キリスト教独自のものではないと主張する。これにより、キリスト教が一神教としての独自性を持つという考え方に挑戦し、キリスト教の信憑性を根本から問い直すことを試みた。
このような批判は、単にキリスト教の教えやイエスの存在を否定することにとどまらず、より広い意味で、宗教や信仰がどのように人々によって作り上げられ、利用されるかについての議論を促す。彼は宗教的な物語や象徴が社会や文化の中でどのような役割を果たしてきたか、そしてそれが個人や集団に与える影響について深く考察する。幸徳の分析は、キリスト教に限らず、すべての宗教や信仰体系に対する一般的な批判として解釈することができる。このような視点は、宗教的信念や教義を超えて、人間の信仰や思想がどのように形成され、社会的・文化的な文脈の中で機能するかについての理解を深める。幸徳の著作は、読者に対して、受け入れられている信念や価値観を再考し、より広い視野で世界を見るように促すものである。