死とはなにかーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」①
翔太:ぼくも、いつかは死んじゃうのかな?
インサイト:そりゃあ、生きている限りはそうだろうね。
翔:死って結局何なんだろう? 死んだあとの人ってどうなっちゃうのかな?
イ:それは、死んだことのある人に聞いて見なきゃ分からないんじゃないか?
翔:まじめに答えてよ!
イ:「死」という言葉は、体の機能が停止した時に使われるよね。
翔:確かに体が死んだらその人は死んだことになるだろうけど、僕らはその人のことを瞬時に忘れるわけでもないし、その人の自我意識もぷっつりと停止してしまうのかどうか分からないよね。
イ:つまり、人というものは身体・心・社会的存在、の三つによって成り立っているという考えなわけだね。
翔:そうだよ、それが普通じゃないの?
イ:じゃあ、こう考えてみよう。身体は色々な細胞やら生体分子やらで出来ていて、それらの化学的な性質に従って機能しているだけだ。長年生きていくと、酸化やら何やら、化学反応によって色々な機能は衰えて行って、やがて動きを止める。これが身体の死だ。
翔:そうだね。
イ:ところが、人の心も人に内在するものだから、きっと身体と同様に物質とその相互作用に還元できるはずだ。ひいては、その人とかかわりを持つ他者も同じ作りだから、やっぱりすべては物質に還元できる。人の心はその身体の死と同時に死ぬし、社会的存在はそのかかわりを持った人たちが全員死んだら死ぬ。
翔:科学者だったら確かにそう考えそうだけど、それは人間味の無い乱暴な考え方だと思うな。やっぱり死んだ人の魂は生き残るし、その人にまつわる記憶は色々な人の中で生き残ると思いたいけど……どうなんだろう。
イ:その気持ちも分かるよ。そうなると学問ではなく宗教になるけどね。色々な思想や芸術は、人間が死から逃れられないというジレンマから生み出されてきたわけだし、むしろ人間の本能に近い考え方だろうね。
翔:そもそも、なんで死をみんな忌み嫌うんだろう。
イ:人それぞれだろうけど、死そのものというよりも、その直前の苦痛とか、いつ訪れるか分からないというのが怖いんじゃないかな。音楽家が「舞台上で死ねたら本望」とか言うけど、自分の死のタイミングや条件を選べたら価値観は違っていたかもしれないよね。
翔:自分の寿命ってやっぱり事前には分からないのかな。
イ:そういう研究もあるかもしれないけど、身体は複雑だから、なかなか難しいだろうね。放射性崩壊とかだったらシンプルだけど。
翔:放射性崩壊? 放射線?
イ:原子核は生き物と違って、個性も持たないし記憶も持たない。ただ一瞬一瞬、ある一定の「崩壊する確率」を持っているだけだ。そうすると、同じ種類の原子核をたくさん集めておくと、崩壊が起こる頻度は原子核の個数に比例する。
イ:人間の場合は、生まれつきの体の強さ弱さ、けがや病気、さらには老化による身体機能低下といったプロセスがあるから、統計的な振る舞いが全然違うんだ。
翔:人の死には、その個性や歴史が刻まれているということかな。ぼくも恥ずかしくない死を迎えたいな。
イ:そう? ぼくは別に、今この瞬間が楽しければ、あとはどうでもいいと思ってるけどね。
翔:原子核と一緒じゃん!
※人間の生存率は厚生労働省が公表している平成22年のデータを用い、「100歳以上」は100歳から104歳までと見なした。また、「平均寿命」は単純のためもっとも死者数が多い年齢(80歳程度)で定義した。
プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)
1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。
7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。