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【短編集】のどに骨、胸にとげ/みっつめのおはなし 「山口店長」 


 結婚二周年もまだ迎えていないのに、引っ越しはもう五回目になる。全国規模のチェーン店の、新店舗立ち上げ責任者という特殊な立場の人と結婚したため、転勤続きになる事は最初から覚悟していた。

 律儀に毎回ついて行く必要も無いのだけれど、子どもが出来たら単身赴任一直線になるのだろうからと、せめて最初のうちは二人で一緒に居られる時間を大事にしようと決めたのだ。

 そうは言っても、半年も待たずに次の土地に移るとなると、知り合いなんて出来る隙も無い。まともに会話をする相手は夫だけで、その夫も毎日帰りが遅く、スマホの向こうに居るSNSの友人達が心の支えだった。

 そんな日々が続いたある日、夫が言った。

「次に行くところは、うちがまだ進出していない地域でさ、数店舗まとめて出店していく予定だから、一年とまではいかないけど、十カ月くらいは居られると思うよ」

 その話を聞いた瞬間、私は強く決意した。新しい土地に行ったら、すぐにアルバイトを始めよう、と。数カ月で居なくなる人間なんて雇ってもらえないだろうと諦めていたが、十カ月となればどこか採用してくれるかもしれない。

 今までのように、ただ生活をして通り過ぎてきただけの場所と違い、今度の土地ではそこに住む人達と繋がりを持てるのだ。そう思うと、塞ぎがちだった気分が一気に晴れ渡った。

 引越しはまだまだ先だったのに、早速コンビニで履歴書を購入し、その気の早さに自分で笑った。


・・・・・


 早番の日は、開店作業がある。こじんまりとしたお店なので、開店時は基本的に一人だ。

 山口店長に二回、大学生アルバイトの七尾さんに一回、計三回教わって、今日は私の開店作業独り立ちの日だ。念のためにと早目に家を出たところ、あまりにも早く着き過ぎてしまった。

 とりあえず中に入ろうと、まずはお店の警備を解除してからバックヤードの扉の鍵を開けた。

 細長い六畳程の空間には、アイスのタブがみっちり詰まった業務用の冷凍庫二台と、コーンにカップに紙袋にスプーンにチラシに消毒液にと、備品のストックが山ほど積まれた棚の群れ。それから、ドライアイスのストッカーや、部屋の奥をカーテンで仕切っただけの簡易的な更衣室。それらの残りのスペースに、店長の事務用机とスタッフたちの休憩用の簡易テーブルが、どうにかこうにか設置されている。

 壁の時計を確認すると、出勤時間よりまだ三十分近く早い。自分の勝手で早く来ただけなのでまだタイムカードは切れないなと諦め、折り畳み椅子を広げて簡易テーブルの前に腰掛けた。

 持参したペットボトルのお茶を飲みながらスマホを手に取り、時間潰しにこの周辺にある評判の良い飲食店を検索する事にした。引っ越し続きの生活で何が楽しみかと言えば、その先々で美味しいものを食べる事くらいだ。

 ああ、このパスタ、おいしそう。こっちのパン屋さんもいいな。そうだ、今度スタッフの皆にもおすすめのお店を聞いてみよう。

 バイト先を、このアイス屋に決めて本当に良かった。知り合いを作る事が一番の目的だったので、高時給よりも人間関係が良いところをと思っていたものの、入ってみない事には分からない部分なのでドキドキだった。

 けれど、いざフタを開けてみると、スタッフは皆親切で優しい人達ばかりだった。最初は、タヌキを巨大化させたような体型と独特の雰囲気を放つ店長に面喰らったが、その山口さんという名前の店長も、個性は強いけれど穏やかなたちの男性のようで、仕事の教え方も丁寧だ。

 私は自分の幸運に感謝しつつ、まだ時間は大分早いけれど、そろそろ制服に着替えようかと席を立った。

 それとほぼ同時、バックヤードの扉が激しくノックされた。ベートーベンの『運命』さながらの力強さに驚き、慌てて扉に駆け寄る。

「は、はい……」

 恐る恐る扉を開けると、いつの間にここに停められていたのか、冷凍用トラックを背景に、青い作業着姿の男の人が立っていた。

「あー、良かった。おはようございます!! いや、一回来たんですけどね、誰も居らっしゃらなかったんで、先に駅前の店舗に行ってからまた戻って来ましたよ」

 私より少し年上、三十代前半だろうか、その作業着の男の人は、まくし立てるように早口でそう言うと、入り口の扉を開け放った状態で固定し、あれよあれよという間に、冷凍車の荷台から次々とアイスのタブを降ろして台車に積み上げていった。

 何も聞かされていなかったが、どうやら商品の搬入らしい。

 あれ? 私がたまたま早く来ていたから良かったものの、本来ならまだ出勤時間より早いはずだ。スタッフが不在でもおかしくない。どういう事だろう。

 不思議に思っていると、その台車はバックヤードの入り口に立っていた私の前で止まり、作業着さんが「じゃあ、いきますよー」と、軽快な掛け声を上げ、まず一つ、私にアイスのタブを手渡して来た。

 とっさに受け取ったが、アイスがみっちり入った新品のタブは、やや大きめのバケツのようなサイズと形をしており、一個五キロはある。

「はい! 上に乗せますよー、気を付けて!」

 両手で抱え込んだタブの上に更にタブを二つ乗せられ、結婚以来の半引きこもり生活で弱りきっていた私の足腰が悲鳴を上げる。

「え? あ、これって、その……あ、そうか、冷凍庫、冷凍庫に入れるんですよね?」

「あはは、当たり前じゃないですか。すみません、ちょっと時間が押しているんで、後は置いておきますね! こういう事されると本当に困るんで、次からは勘弁して下さいよ~」

 もはや私の視界はアイスのタブで埋まっているので、作業着さんの顔すら見えない。なので、どんな表情をしていたのかは分からなかったが、そのハキハキとした声の裏には、隠しきれない苛立いらだちが含まれていた。

 私は何も言えなくなって、十数個ものアイスのタブが、ドン、ドン、ドンとリズミカルに床に積み上げられていく音を、ただただ聞いた。


「いやぁ~、本当にごめんねぇ~、まさか搬入の曜日を知らなかったなんてさぁ。僕もてっきり、教えたつもりになっちゃってたからさぁ~」

 お昼前に出勤してきた山口店長に朝の話をすると、突き出たお腹をゆさぶりながら、何度も頭を下げてきた。この独特の話し方は、決してふざけている訳では無く店長の癖だ。もともとタレ目の糸目が、申し訳なさそうに更に目じりを下げる。

「あ、いえ……まあ、たまたま早く来てたので、大丈夫です」

「うんうん、助かったよぉ~。火曜日と金曜日は搬入があってさ、それに合わせてショーケースと冷凍庫の霜取り作業もするから、始業が一時間早いんだよねぇ。あっ、今回は、霜取りの方はたまたま必要無かったから安心して。その仕事については、また今度教えるからさぁ~」

 店長はそう言うと、「そっか、いつもなら今日のはずの霜取りが無かったから、僕もうっかりしちゃったんだなぁ……」と、独り言のようにぶつぶつと呟きながらバックヤードに消えた。

 なるほど、本当なら一時間早く出勤だったのか。アイスを持ってきた作業着さんは、誰も居なかったからまた戻って来た、というような話をしていた。あちらからすれば、不在だったのは完全なるこちらのミスで、沢山の店舗を回らないといけないだろうに時間をいて引き返してくれて、なのに店員からは謝罪の一言も無し。そりゃあ、苛立ちもするに違いない。

 それは申し訳無かったな。いや、私にとっては完全なとばっちりなのだけれど。まだ仕事に慣れていない状況でのトラブルは、必要以上に焦ってしまう。商品が商品なので溶けてしまわないかと心配で、あの後は大慌てでアイスのタブを冷凍庫に押し込んだ。その際、変なひねり方をしてしまったようだ。少し腰が痛い。

 そんな事を思いながら腰をさすっていると、バックヤードの方から店長がひょっこり顔を出し、私の名字を呼んだ。

多々良たたらさ~ん、タイムカード、押してないねぇ~」

「あっ! すみません、後で押そうと思って忘れてました……」

 しまった、朝のゴタゴタですっかり忘れていた。まあ、店長のミスの方がずっと大きいし、私がせっかく早く来たのにタイムカードを押し忘れたのはそのミスのせいでもあるので、このくらいは大目に見てもらえるだろう。

 薄っすらとそう思った次の瞬間、山口店長の口から出てきた言葉は、私の予想に反するものだった。

「あのね~、こういう小さなミスって結構困るの。僕もあんまり厳しく言いたく無いからさぁ、ちゃんと自分で気を付けてねぇ~」

 一瞬面食らったものの、このくらいの理不尽は働いていれば履いて捨てるほどある話だし、私が失敗をしたのも事実なのだから仕方が無いと、私はそのモヤモヤを飲み込んだ。


・・・・・


「店長って、お子さん三人なんですか?」

 その日は朝から小雨がダラダラと降り続け、客足はほとんど無く、店長と二人、もうすぐ始まるキャンペーン用の小箱を大量に組み立てつつ、どちらからともなく雑談が始まった。

「あとお腹の中に一人居るからね、四人だよぉ~」

「わぁいいですね、四人かぁ。私、一人っ子だから、兄弟姉妹が多いのって憧れちゃいます」

 声が少し弾んでいるのが、自分でも分かる。そうか、私はこんなにも他人との会話に飢えていたのか。スーパーの店員さんとのやり取りや、地元の友人達との声だけの通話とも、SNSの文字だけのつながりとも違う、対面の、でも本当に何気ない、当たり障りの無いただのお喋りに。

 私のこの気分が伝染したかのように、店長もご機嫌そうに笑った。

「んっふふ、子どもっていいよぉ、宝物だよぉ~」

 笑い声と共に、エプロンで覆われた店長のお腹が揺れる。このゆるキャラを彷彿ほうふつとさせる見た目と独特な雰囲気は、意外とお客さんから好評だ。

「でも、お金も馬鹿にならないんだよねぇ~。それに奥さんがつわりが酷くてさ、今は僕が家事もほとんどしてるんだよぉ。特に料理は、全部。」

 確かに失礼ながら、フランチャイズ飲食店の雇われ店長なんて、稼ぎが良いとは言えないだろう。子ども手当だの三人目からは保育園が無料だの聞くけれど、四人も育てるのは結構大変なのかもしれない。けれど、店長も忙しい中でそんなに家事をこなすスキルがあるのなら、きっと奥さんは心強いだろう。

「つわりの時って、炊事が特に辛いって言いますもんね。それは奥さんも助かってるんじゃないですか?」

「そう、毎日吐いててねぇ~、凄く辛そうなんだよねぇ。たまに、ナントカなら食べられそうって言うんだよ、その時によって違うんだけど、カレーだったり、素麺だったり。急だから大変なんだけどさぁ、本当に吐いてばっかりだから、やっぱこっちも心配でしょぉ? だから、言われたらなるべく作ってあげるの」

 何て優しい旦那さんなのだろうか。今日は雨で太陽は出ていないが、私の心は明るかった。しんみりとした雨の匂いが、優しく周囲を包む。

「……でも昨日はね、さすがに参っちゃってさぁ」

 店長が、そう切り出した直後。

 霧雨だった空模様が一転し、バケツをひっくり返したような大雨に切り替わった。お店のガラス越しに見える街を行き交う人々も、ついさっきまで傘をさしている人の姿は半々程度だったが、残りの半分も慌てて傘を開いたりコンビニに駆けこんだりと、右往左往している。

 けれど店長はそんな外の様子など全く意に介さず、そのまま話を続けた。窓を打ち付ける大粒の雨音に負けじとするかのように、その声量が上がっていく。

「奥さん、夕食も食べられずに横になってたんだけど、子ども達が寝た後、急に“甘いパンなら食べられそうだから”って言いだして、もう深夜なのに、大きいお腹でコンビニに行こうとしたんだよぉ。だから僕、危ないから自分が行くよって言って、夜中に自転車漕いでさぁ、菓子系のパンを三個くらい買ってきたんだよねぇ」

 次の瞬間、店長の、いつもは優しそうなタレ目の糸目が、見たことが無いくらいに大きく見開かれた。

「なのに、やっぱり急に食べられなくなったなんて言われて、また吐いててさぁ!! お腹の子のために、我慢してでも食べるのが母親じゃ無いのかなぁ!? ねぇ!!!!」

 その声は、ハッキリと怒気をはらんでいた。

 店長の小箱を組み立てる手はとっくに止まっていて、よく見るとその両手はブルブルと小刻みに震えている。尋常では無いその様子に、私は言葉を失った。

 私が固まっていると、十数秒、いや、一分に近かったのだろうか、とにかくしばしの沈黙の後、店長は唐突に我に返ったようにして、「ごめんごめん」と言って、バックヤードへ消えた。


 あの日以降、私は店長と二人きりの時間が怖くなってしまった。

 タイミング良く、大人気アニメとのコラボ商品の販売が開始され、これから冬に近付いていく季節のアイス屋だというのに、お客が途切れる時間がほとんど無くなったのは救いだった。

 たまに手持ち無沙汰になると積極的に外掃除に繰り出す私を見て、店長は「多々良さんは働き者だねぇ」と、あの優しそうなタレ目の糸目で言うのだ。

 月が替わり、コラボ商品の販売も終わったある日の事。また店長と二人きりになり、なるべく話しかけられないように、あれやこれやと作業をこなしていると、痩せ型の男性客が一人で店内に入って来た。

 私が「いらっしゃいませ」と言うのと同時、店長とその男性客がお互い顔を見合わせ、店長の方から「久しぶりだねぇ」と声を掛けた。

「ご無沙汰してます。今日は、病院の帰りで、久しぶりにここのアイスが食べたくなっちゃって」

 男性はそう言った後、私の方に向き直り、「こんにちは」と軽く頭を下げた。店長が、「元スタッフの、香山君」と私に説明をする。私も会釈を返し、「はじめまして、多々良と言います」と名乗った。

 香山さんはしばらくの間店長と雑談をしていたが、他のお客さんが入店してきたタイミングでアイスを片手に去って行った。

 そのお客さんの退店と入れ替わるように、今度は大学生アルバイトの七尾さんが出勤してきた。開店中の時間は、スタッフもお客さん達と同じようにお店のドアから入ってくる。

「お疲れ様です」

「あ、七尾さん。ついさっき、香山君が来たんだよぉ」

 店長の言葉に七尾さんの顔が少し明るくなり、私は、なるほど、先ほどの香山君という人は周囲から好かれるような人物なのだなと感じた。

「香山さんですか? わあ、久しぶりですね。元気してましたか?」

「うーん、そうだねぇ、病院の帰りだって言ってたから相変わらずなんだろうけど、元気そうだったよぉ~」

「私も会いたかったです。今度来たら、私が居る時にも来るように言って下さいね」

 あははと笑いながら冗談を飛ばしつつ、七尾さんは身支度のためにバックヤードに向かった。

 先ほどまでの盛り上がりムードから一転、急に静まり返った店内で、何となく気まずくなった私は、久しぶりに業務内容以外の事で自ら店長に話しかけた。

「さっきの香山さんって、どのくらい前に働いてあった方なんですか?」

 少しだけドキドキしたが、店長はいつもののんびりした口調で「うーんと、多々良さんが入る半年くらい前かなぁ~」と、答えてくれた。

「結構長く働いてくれてたんだけどね、もともと悪かった腎臓が悪化しちゃってねぇ。透析とうせきっていうの? 僕、そういうの良く知らないんだけどさ、それをしなきゃいけないってなって」

「ああ……それは大変ですね。お気の毒に」

「それでもしばらくは働いてくれてたんだけど、うち、夏場なんかは結構体力勝負だからさぁ。掛け持ちしてたコールセンターのバイトの方のシフトを増やしてもらうって事で、うちの方は辞めちゃったんだよぉ~」

 人工透析は根本的な治療では無いので、腎移植をする以外に透析を止める方法は無いと聞いた事がある。私も詳しくは無いが、確か、透析開始から十年後の生存率は半分以下だったはずだ。

 香山さんは、私より少し年下に見えた。おそらくまだ二十代だろうに、そんな苦労を背負っているなんて。ああ、仕事第一主義の夫が恨めしく感じる事もあるけれど、健康でいてくれる事に感謝しなきゃいけないな。

 私のそんなしんみりした気分は、店長が次に放った言葉によって、見事に吹き飛ばされた。

「香山君から聞いたんだけどさぁ、透析してる人って、税金とか安くなるし、うちの市だとバスなんかも無料で乗れるらしいよ。ズルいよねぇ~」

 そう言った店長の声は、まるで仲良しの友達に突然かっこいい彼氏が出来た時の女の子みたいに、ズルいと言いながらも自分もどこか浮かれているような、楽し気な声色だった。

 恐る恐る店長の顔を見上げると、そこにはただ、いつも通りの優しそうなタレ目の糸目があった。

「店長、休憩どうぞー」

 着替えを済ませた七尾さんのその言葉に、まるで金縛りが解けた時のような、悪夢から目覚めた瞬間のような、必死の安堵感を得て、心の奥でため息をついた。店長が入れ替わりで休憩に入る。

 七尾さんは手の洗浄を終えると、私の顔を見て「あれ。多々良さん、顔色悪いけど大丈夫ですか?」と心配そうに言った。


・・・・・


 もともとお金が必要だったわけでも無いし、夫の転勤が早まったと嘘をついて辞めてしまおうか。そう思い始めた矢先、山口店長とのお別れが意外な形で訪れた。

 冬場で一番の繁忙期にあたるクリスマスが終わり、やっと一息ついた頃、珍しく昼過ぎからのシフトだった私が出勤すると、店内には客の姿は無く、七尾さんと、普段は私とあまりシフトの重ならない、年配の主婦の石井さんが立っていた。

 「お疲れ様です」と挨拶した私に、七尾さんが前のめりに話しかけてきた。

「店長、辞めるって聞きました? あ、いや、辞めるって言うか、辞めたらしいです」

 それは正に寝耳に水で、私が驚きのあまり言葉を失っていると、七尾さんは「あ、知らなかったみたいですね」と、説明をしてくれた。

 私は一度しか会った事は無いが、このお店のオーナーは、おばあちゃんと言って差し支えの無い年齢の、けれど、いかにも気の強そうな商売人といった雰囲気の女性だ。そのオーナーと山口店長は、以前から仲が悪かったらしい。

 今回のクリスマスの売り上げが例年より悪かった事で叱責された店長は、売り言葉に買い言葉で「今日で辞めてやる!」と怒鳴って店を飛び出し、それから連絡がつかなくなったという事だった。

 もうすぐ三十年を迎える私の人生で、血気盛んな学生バイトならともかく、そんな辞め方をした大人は居なかった。いや、でも、あの店長ならあり得るのかもしれない。

 私はあまりの衝撃に頭の整理がつかず、思った事をそのまま口に出した。

「だってそんな、店長、子どもも三人居て、あ。そうだ、奥さん、妊娠中なんでしょう? あれ、もう生まれたのかな? 生活とか……いや、勝手なお世話だろうけど……」

 七尾さんと石井さんは何も言わず、ゆっくりと、そして不思議そうにお互いの視線を合わせた。

 それから私の方に向き直り、不思議そうな表情のままの七尾さんが言った言葉を、きっと私は一生忘れられない。

「山口店長、独身ですよ」

 それから半年ほどして私はまた新しい土地に引っ越したが、こんなにも夫の転勤辞令が待ち遠しかった事は無かった。






「山口店長」 おわり

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【短編集】のどに骨、胸にとげ/よっつめのおはなし 「モンスターハウス」|ふたごやこうめ (note.com)

  


「のどに骨、胸にとげ」まとめ
https://note.com/futagoya/m/m0e3cc7f1d60d

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