いぬじにはゆるさない 第5話「イイジマ(3)」
「俺もトイレ行ってくるね。」
イイジマのその一言で、離れた手の気まずさは一瞬で空中分解した。
改めて周囲に目をやり、私達が立っていたのは確かにトイレのすぐ近くだったと理解する。2匹のペンギンをかたどった可愛い案内板が、クチバシでトイレの方向を指していた。
青い雄ペンギンの示す方向へと消えるイイジマ。仕方が無いので、私も赤い雌ペンギンが示す方向へ足を進めた。
しまった、出鼻をくじかれた。
手を離したのは半分無意識にではあったけれど、あのままの流れでいれば何らかの言葉が私の口を突いて出たハズだ。なのに、トイレに行くために手を離したのだと勘違いされ、空気は一掃された。
「この後さぁ、どうしようか?食事するには少し早いし、ドライブでもする~?」
トイレを済ませて合流すると、イイジマはなぜかやたらとテンション高めにそう言った。
・・・・・
ハンドルを握りながら嬉々として話す横顔はずっと笑顔で、ハイテンションなお喋りは途切れない。
今日の水族館の感想、前に私が薦めた小説の話、それから、共通の友人の過去の笑い話まで。イイジマが楽しそうであればあるほど、私の胸はズキリと痛んだ。
「あのさ。」
私が切り出すと、一瞬で車内に緊張が走ったのが分かった。
「今日は、ありがとう。楽しかった。」
その『楽しい時間』が終わるのだ。私の方まで、脳がヒリヒリしてきた。
でも。
そう。“でも”と、言わなければ。
「ストぉーーーーップ!!ストップ!ストップぅ!!!」
私の言葉を遮ったのは、長い付き合いの友人らしいおどけた口調の、しかし怒声にも似た声だった。
「その先は聞かん!絶対に聞かん!!」
想定外の言葉を投げつけられ、イイジマの顔を見上げる。真っ直ぐに前方を向いたままの横顔は、更に想定外な事に笑顔のままだった。
突如、車が少々無理なカーブを描き、道沿いにあった自販機付きの休憩スペースに突入した。サイドブレーキが引かれる。
「最初に言ったろ?他に好きな男がいようと関係無い!ハイそうですかで引き下がれるくらいなら、ハナっから黙ったままやり過ごしてるって!!」
視線をコチラに向けないまま、まくし立てるように言われた。
ぐにゃり、と、笑顔がゆがんだ。
ああ、そうか。
イイジマがずっと浮かべていたこれは、笑顔じゃない。悲哀を押し隠すためのバリケードだ。
「…ごめん。」
「何に対してのゴメン?そんなにあの人がいいワケ?よく知らないけどさ、めちゃくちゃいい加減なヤツじゃん。俺の方が絶対的に好きな自信があるね!!」
そこまで言うと、横顔はゆっくりとこちらを向いた。目が赤い。
目の前のイイジマが、“長い付き合いの友人”ではなく、“やたらと背の高い男の人”に見えた。
かけられたままのエンジンが、低く重く車内に響く。
「好きだ。」
まるでエンジン音にあおられるように、心音がどんどん早くなる。決して、ときめいているせいでは無かった。
イイジマは、良いヤツだ。
けれど、うっかり忘れていた。恋愛感情というのは、人を簡単に狂わせる恐ろしいものなのだ。元恋人の浮気相手のあの子が、私に執拗な嫌がらせをしてきたように。
車のシートに押しつけられるように両肩を掴まれた。それは、痛いくらいに強い力だった。
このごに及んで私の頭に浮かんでいたのは、
『私がこんな状況に陥っている事を知ったとしても、あの男は助けになんか来ないんだろうなぁ』
という、冷めた思いだった。
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