罪と問題
【なんていうか、進歩史観?的?な見方なのかもしれないけどどんな問題にしても“古い“問題が未解決なままどんどん新しい様態が現れてそれに人々が引っ張られて(例えばトランスジェンダーとか人類学的な発見?とか?)行くことに自分はものすごく否定的だったし今でもそうなんだけど、】じゃあ新しい問題とはなんなのか、問いを立てるとよく言うけれど、問題自体は古くてもその行為が新しければその問題は新しいことになるのかどうか、という問題(ややこしい)を考えれば、ここで言っている新しい様態もまた問いを立てていることに等しく、形が違うだけでそこに古いも新しいもない、ただ形が新しい、そこに力点があり、問題の形の新しさ、それをみんながこぞって喜び苦しみ議論をし喧嘩をする、つまり全てを問いの形に還元してしまえばどこにも罪はなくなる。
加害者性や被害者性も、搾取も労働も、政治も無関心も、全て常にそこ(問いが立てられた場所)においては新しい様態であり、それは時代レベル、個人レベルで存在し、全てが無意味になりただのダイナミクス、力学に還元される。
【問いに目標はあっても到達点はなく、プロセスではあってもゴールはない。
いな、問いに目標はあっても、というより問いには対象があり、そこにはなんらかの認識の形態がある。その、問いの対象を掘り出す認識の行為がまるで答えを要求しているような見かけを伴うのは、なぜなのか。】
そこに間違えがあるからだろうか?
形態を示唆する形態であるからであろうか?
それは問いにしかできないことなのだろうか?
雨は穿つが何も減らない。
石もすり減らない。
ただ乾いていく、吸い込まれない、止まらない、いつか止む雨はまだ降っている。
いつか明ける空はまだ闇に覆われていて、電気に照らされている。
慌てることはない、ただ日記を見ればいいのだ
【他人の日記には自分は登場しない】
自分が登場するなどとんでもないことである
他人の日記はある日途絶えたが、他人以外誰も気にする人はいなかった(なぜならそれは日記だから)
だろうか?
そうだろうか?
SNSは他人の日記だがみんなが読めるようになっている
そこでは他人の日記について他人が日記を書いている
我々はと日記を書いている
これは芸術だろうか?
それともアジテーションであろうか?
あなたは日記を書かなければならない、私はそう命じた
【あなたは渋々スマホを手に取り適当なことをそこに入力しアップロードした
それを見た誰かがリアリティについて作品を作り私は】
答えを書いた。
全ては終わり、雨は止み、朝が来て、新しい問題が始まり、朝食はいつもと同じで、時間は短く、私は歳を取ったがまだ死んではいなかった。
(完)
恐れることはないので、続くと書けば良いのだが、そこには嘘があるので、私は
(マジ)と書き、です、ます、マジです、マジではあります、マジザマス、マジなわけないだろバーカ、どっちでもいいから早くして、もういいじゃん未来を向いて行こうよ、それ、どっち?こっち?あっち?そっち?どっち?
より具体的には、まだ未定。
(未定)
マルクスの唯物論はWikipediaに進歩史観の一例として挙げられていたが、私の日記には終わりがあった。いや、終わりしかなかった。毎日が終わり。
(未定)
終わり。
(未定)
(終わり)
(未定)
(終わり)
(未完)2024.10.28