超越と狂気が芸術と結びつけられやすいのはどうしてか - そしてバラの音楽へ
こんにちは。
ご訪問ありがとうございます。
急ですが今日はちょっと気持ち急いでいます。
というか焦っています。
あ、これは毎度のことなんですが、それがどうしてかを少し詳しくご説明させていただくと、今回のテーマが音楽だからです。
どうしてテーマが音楽だと焦ってしまうのか?
その理由は
・早くしないと続きが消えてしまう
・続きが消えてしまったら続きが書けない
・続きが書けないと終われない
・終われないと先に進めない
・終われないと今ここにいることができない
から、です。
…また禅問答みたいな謎かけになりかけました。いやすみません、なりました。なったとさ。なっちまったオラ、またなっちまった。らら、らら、ららら、ららららら、とここで終わってしまったら
(急に黙り込む)_____
あのですね
煽りじゃないんだ音楽は、そういうテーマだったんです、今回は。
それではまずここで、拙作バラシリーズをお聞きください。
バラⅡ/ Rose 2
バラⅢ / Rose 3(転ぶ)
バラⅣ / Rose 4(茂み)
…バラシリーズはわかりやすい超越キリキリでもダウナーでもない感じを目指し…たわけではないですがなんとなくそんな感じになりました
…私が超越を自然に演っちゃうとすぐ頭がどうとかいじられて狂気の芸術素晴らしいそして差別みたいな流れになるのに飽きているのと、煽り煽られ続けるでもなく環境音楽でもなく「凡庸」もしくは「日常」でもない普通の感じ(語彙力)を出してみたかったから?かな…です(多分ですが)
バラシリーズについてはXでこのように述べたのですが、ここに「自然に」という言葉がありますね。
⚫️「自然」とは何か
「自然」というのは実は非常に問題を孕んだ概念です。少なくとも私にはそう思えます。なぜかというと「自然」という概念はタイトルにもある「狂気」の概念とも関わるからです。
いきなり話が大きくなって来たようですが、では更に、もうひとつのキーワード「超越」とはなんでしょうか?
なんでしょうかとそれこそ「自然」にというか簡単に言ってしまうのは私が定義大好きなんちゃって哲学クラスタの端くれでもあるからですが、
ここですかさず前回のブログ『書くということ2(引用あり)』を思い出して下さい。
そう、そこでは、機能を持つのはデータ=オブジェクトであり、そしてオブジェクトの機能によって作られ、つまり創造が進む、と述べました。
これが自然や超越、狂気とどう関わるのかというと、自然と言う概念からは超越も狂気も普通は連想されない、つまり自然には生み出されない。つまりそれぞれ自然から上下にはみ出た部分が超越と狂気と見做される、と考えたのです。
超越、その最もわかりやすい例が死としての生、生としての死、または永遠、であり、そして狂気、これは常軌の逸脱です。
バラシリーズは、そのどちらでもない、そしてそれらの間に挟まる日常や環境音楽でもない、と謳っています。
ではなんなのか?
生(日常)でも死(超越)でも狂気(逸脱)でもないものなんて一体全体あり得るのだろうか?
⚫️バラの有り(あり)、現れと自然
哲学クラスタにはもしかするとお馴染みの概念かもしれませんが、空や無、そういった概念も「有り」ましたね。でも今回は空虚や無は扱いません。
なぜなら音楽は既に作られてしまったからです。
バラは既に咲いてしまったからです。
バラは既にそこにあった。
もちろんそれは苦労して世話をし育てた人たちがいてこそで、苦労した人たちや耕される前の庭園は、バラの開花に先んじてあった。
しかしバラは突如として現れる。現れた。
何もないところにではなく、既に何かあったところに、まるでとってつけたような過剰な装飾であるかのように現れた。
本当は誰のためでもないのに、他でもない(あなた)のために現れた。
そしていつか散ってしまう。
散ってしまったバラは、咲いたバラを見た人には顧みられない。いや、知られることがない。
突如、とか顧みられない、とか、誰かのためとか、なんだかドラマティックで全く自然ではないですね。
前述したように、バラはそもそも自然な自然ではありません。ゴージャスな自然。美しくない何かによって飾り立てられた最も美しいもの。
それが今私がこのテキストによって描こうとしているバラです。
美は美しい自然なんです。
なんだそんなことか、そう思われたでしょうか。
美しい自然、この使い古された表現に、ちょっと異様なまでの不自然さを感じる、そこが始まりです。
何も感じませんでしたか?
ではこう言い換えてみて下さい。
バラは綺麗だ。
月が綺麗ですね。
ここには明らかに飛躍がありますね。
そう、美という概念を自然に付与しているのです。
いやむしろ、自然の中から美という概念を“作り出して“いるのです。拵えているのです。作っているのです。
だからこそバラは超越でもなければ狂気でもない。くどいようですがあくまで自然なんです。
⚫️自然と文化、そして居場所
では自然と文化とは関係があるのでしょうか?
音楽の話に戻りましょう。
私は歌が好きなので、バラをテーマに音楽を作ろうと思った時、シューベルトの「野ばら」のことを考えずにはいられませんでした。
でもそれを考えたのは、これら三曲を作った後だったんです。
唐突ですが最近よく聞く言葉に居場所というのがありますよね。
ところでなんですがオリジナルの居場所なんてどこにもないんです。
ここでも同じ、著名な誰かの何かについて書いた方が容易く注目を得ることが出来る。居場所とはどこからかの借り物でなくては居場所にならないからです。
それならば私が弾き語った三曲はではどこから来たのか、それを話さねばなりません。
⚫️バラシリーズと室内の音楽、文化について
バラシリーズにもロジックはあります、“オリジナル“のロジックがあるのです。
それは音程、音と音の間隔、狭間。それをオリジナルな居場所と仮にしたのです。
よく使われる表現に谷間というのがありますがそれと似ています。
そもそも音楽というのは離れている音と音を繋いで作られるものなので、実は何も新しいことは言ってはいません。
ちょっとこじつけのようですがバラも、一枚一枚の花弁の隙間があるからこそあのように美しいわけですね。
そこで登場するのがドビッシー、ラヴェルなどのいわゆる近代の印象派音楽です。
以前Xにも書いたのですが、それらは異様に閉じられた、室内の音楽のように自分には感じられるのですが、それは日常の、もしくは普通の場所を拒否した密室的な部屋に閉じこもることで、もっと大きな世界の世界観(死生観、宗教観など)をやんわりと拒否している、そのように自分には思われたのです。
そしてそれは近代、現代における「文化」の捉え方、文化の人為的な、反自然的な構築でもある、そのように自分には感じられたのです。
ではその文化を屋外に、野外に持ち込んだらどうなるのか。
閉じられた室内で発生し育まれた言わば趣味的な世界観を、“本物の“自然、ケアされない自然、荒々しい観、そのような場所にそっと置いてみたらどうなるのか。
それがこのバラ三部作の実験であり試みだったのです。
⚫️終わりに
いかがでしたでしょうか。
このテキストが少しでも作品への橋渡し、そして自然や文化について考えるきっかけとなればこんなに嬉しいことはありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。