ファッションと倫理と表象、そして哲学者

ファッションとは何か。
それは表象のされ方の自己決定権である。
もしくは押し付けられた表象の破壊であり、あるいは完璧な模倣である。

ここで破壊するのは誰だろうか?模倣するのは誰だろうか?
哲学者である。
なぜなら表象を読み取る人は皆、そこで哲学を営んでいると言えるからだ。
倫理の創出をするのが哲学ならば、それを批判し破壊するのもまた哲学者であり、そしてその逆、つまり倫理を無視することも俗な哲学者の食い扶持の一つである。

哲学者はあなたを代理している。
哲学者はあなたのファッションの破壊を代理している。
ファッションとはそもそも誰かしらの代理となることを意味しているからである。

では倫理とは何か。
倫理がファッションであると仮定すると、哲学は裸でなくてはならない。

頭髪もあってはならない。
眼球も耳も、あってはならない。手も足も、あってはならない、もちろん内臓も脳みそもあってはならない。

これは反語だろうか?
反語であろうか?
それとも単なる反復であろうか?

ファッションとは反復である。
同じものを二度と着ないのはファッションモデルだけであり、普段、人は同じ洋服を着回し反復しているのだが、そこに現れる部分的な違いは毎日という時間=ズレを生み出し反復を回避している。
そこでは裸もまた部分として組み込まれ、まるでファッションのように身体性は着替えられる。

なんと便利な身体であろうか。
我々の倫理はファッションだったのである。交換可能な身体だったのである。

哲学者のファッションを見るとよい、そこに纏われているのは全体ではなく、主義でもなく、他でもない裸なのである。
(これは反語であった)


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