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ささやかに見えて、ささやかではない或る劣等感

一見するとささやかに見えるかもしれないが、決してささやかではない劣等感がわたしにはある。

日本語の文字、とくに漢字の書き順がメチャクチャなのである。日常生活でふつうに使う漢字の書き順は、たぶん小学校で習ってきたはずだ。しかしどういうわけなのか、漢字の書き順をほとんど覚えていない。それでも書き順のことなどほとんど気にすることなく、ずっと生きてきた。ある出来事でショックを受けるまでは。

書き順だけでなく、文字を手書きするのも下手である。漢字だけではなく、ひらがなもカタカナも下手なのだ。読めないということはないと思うが、下手であることは自覚している。ごくたまに、お世辞のつもりなのか、きれいに書かれますね、などと言われると、むしろバカにされたような気がしてくる。考えすぎかもしれないが、相手のことを信じられなくなる。父も母も字のうまい人だったが、どうやら字の上手下手は遺伝しないようである。

三十年くらい前だろうか、わが家にワープロ(ワードプロセッサ)がやってきた。事務用品や新しい物が好きだった父が買ってきたのだ。父が使っていないときに使わせてもらったが、こんな便利なものがあるのかと驚いた。父が買ってきたワープロは、いまでいうデスクトップ型のかなり大きなものだったが、やがてノート型のワープロも多く売り出されるようになり、わたしもノート型のものを手に入れた。というより、父にねだって買ってもらったのだ。勉強や仕事などで本当に役に立つと思った物は、かなり高価なものでもカネを出し惜しみしない人だった。

ワープロを買う前、すでに英文タイプライターを持っていた。しかし英文ということもあって、あまり使う機会もなく、ホコリをかぶっていた。ところがワープロにはかなり夢中になった。何といっても自分で下手な文字を手書きしなくても、文章や手紙が書けるのだから、こんな嬉しいことはなかった。しかし、ワープロで文章が書けるようになったことで、いままで以上に書き順を気にしなくなった。

やがて時代は移りワープロはパソコンに取って代わられた。ワープロ機能はワードなどパソコンの一ソフトになった。いまから二十数年前、初めてパソコンにふれた。思うところがあって再び大学に入り、その大学の授業でのことである。同じ年の秋に自分でもパソコンを購入した。富士通のデスクトップ型パソコンだった。OSはWindows95。そして初めてインターネットにも接続した。

パソコンのワープロソフトはワープロとは使い勝手がちがい、最初はかなり戸惑った。そもそもパソコンの使い方がわからなかった。周囲にパソコンについて聞ける人もおらず、マニュアル本を買ったり、大学へ行ったときパソコンに詳しい友だちに聞いてまわったりしていた。卒業する頃にはワードの基本の基本程度は身につけたが、エクセルが使えるようになったのはさらにその数年後ことである。

学部卒業後、いろいろあって大学院へと進んだ。大学院在学中にわけあってというか、運良くというべきか、ある専門学校で一般教養科目の「論理学」を教えるアルバイトがまわってきた。「論理学」を専攻していたわけではないが、学部で物理を、学際系大学院で哲学っぽいこともやっていたので、一般教養程度の「論理学」ならば大丈夫だろうと判断されたようだ。

「論理学」の授業そのものは、コアな「論理学」の話はせずに、論理的に考えるとはどういうことかをメインにして授業を進めた。学習塾以外で教えるのは初めての経験だったが、シラバスを考え、授業用のプリントや資料を作るのはとても楽しかった。学習塾での経験はかなりあったので、授業もかなりスムーズに進められたように思う。

大学の講義でもよくあると思うが、講義(授業)の感想や疑問点などを書くリアクションペーパーをときどき書いてもらっていた。授業の最終回では試験の代わりのレポートと少し長めのリアクションペーパーを提出してもらった。レポートは自宅で添削・採点し、学校へ郵送することになっていた。

わたしにとっての事件は、その最後のリアクションペーパーで起こった!

ある一人の学生が(リアクションペーパーは無記名なので誰かはわからない)「論理学の授業なのに板書の文字の書き順がめちゃくちゃだ」といった意味のことを書いていた。顔から火が出たのか、冷や汗が出たのか、暑いのか寒いのかよくわからない身体的反応とともに、「論理学」というの授業で自分なりに築き上げてきたブロックが音を立てて(自分の中では本当にそんな感じがした)崩れ落ちた瞬間だった。少しばかりの自負もどこかに吹き飛んでしまった。

「論理学」の授業で非論理のお手本を示してしまったわけである。学生たちには本当に申し訳なくて恥じ入るばかりだ。それまでも学習塾で教えていたわけだが、漢字などの書き順のことを指摘されたことはなかった。国語や漢字の授業ではないとはいえ、不幸中の幸いと済ませることはできない。

この出来事に非常にショックを受け、それ以降人前で手書き文字を書くときは、とても緊張するようになった。同時に漢字の書き順も検索してみることが多くなった。そうはいっても、いちいちすべての漢字の書き順をチェックするわけにもいかず困ってしまった。しかし、書き順に一定の規則があることもわかってきた。この出来事がきっかけとなって、書き順にも相当意識が向くようになった。このことこそが不幸中の幸いと言えそうだ。

自分のことを棚に上げて言うのだが、文字を手書きする機会がますます少なくなったとしても、手書きで文字を書くことは(もちろん書き順も含めて)しっかりと学校で教えてほしいと思う。日本語の美しさは、やはり手書きの文字や文章でこそ伝わると思うからだ。年賀状のやり取りもウェブ上で済まし、私的な手紙もメールで送ってしまう昨今だが、日本語や文字の美しさについて、いま一度考えてみてはどうだろうか。

数は多くないが、来年も年賀状は書くつもりだ。写真を入れるので専用ソフトで作っているが、一二行だけは下手な手書きを個々に添えている。この習慣はこれからも続けるつもりだ。

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宙野牛頓
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