『みなに幸あれ』ネタバレ感想 ~世界がもし100人の因習村だったら~

日本ホラー映画大賞受賞作ってなんぞや?

などと思いながらも新時代のホラーという触れ込みに魅かれて朝っぱらから予約。寝坊しないように2時間は早く起き、万全の準備で劇場へ向かいました。コンパクトな映画館、集まる人々もホラー映画好きが多そうで、否応なくテンションが上がります。「こりゃー、最近のアイドルの映画実績のためにあるようなゆるゆる恐怖の謎映画とは違うぞ……」とドキドキしながら少し前のめりに鑑賞スタート。その一時間後には、両腕をガッチリと組んだ僕は、小さなスクリーンを前にして、深く深くシートにもたれこんでいた。傍らには僕と同じく首を傾げるオッサンたち。終幕後、物言いたげな瞳に見送られながらエスカレーターを降りる。頭の中を古川琴音の叫びが満たす。「うん、分かるよ、マジでウルセェよな」と僕は頷いたのだった……。

僕の感想より

さて、突然ですが!

皆さんは『世界がもし100人の村だったら』というベストセラーをご存知でしょうか。ひとつの思考実験として、当該書籍をホラーテイストに膨らませればどういうものが出来上がると思いますか。え、「言ってる意味がわからない?」そうですよね。なかなか想像が難しいという方は、本作をご覧ください。一つの答えがここにあると思います。あえてタイトルをつけるなら『世界がもし100人の因習村だったら』というところでしょうか。

◇どういう話?

本作、「みなに幸あれ」は、一部界隈に鳴物入りで登場した新進気鋭のホラージャンルムービーです。詳細な感想を書く前にまずはザックリと作品のテーマから。直接ネタバレは避けて、ふわっとした内容を置いておきます。

大体 ↓ みたいな感じの内容に落ち着きます。

幸せになれないことが決まっているのであれば、何も見えず、何も言えず、ただ生かされるだけの状況がむしろ幸福なのかもしれない。誰かの幸福のために、その『糧』と成れるのであれば、苦しんで生きていくよりもどれほど楽だろう。だが、幸せになろうとすればなれる私にとってはそうではない。幸せを享受してきた私にとっては、『幸福』のために他者を犠牲にしたという事実が重要だ。誰かの不幸せの上に成り立っている幸せを直視してしまったら、もはやそれを肯定するしかない。己が幸福であり続けるためには、もはや他者の犠牲を拒んではならないのだ。今の私は、信号を渡れない年寄りがいても助けることはない。人助けのために自分のものが汚れることなど、決して快くは思わない。しかし、それがなんだと言うのだろう。私は「幸せ」な人間だ。尊い犠牲を背負った大事な人間だ。他の幸せな人間と同じように、愛する人との結婚を控えていて、これから実家に挨拶もする。一滴の後悔もないし、そんなものあるはずがない。辺りの立派な家々のカーテンだってみんな閉じられている。みんな同じように自分の幸せのために生きている。果たしてあの家は「ナニ」を犠牲にしているのだろうか、なんて問いかけは、もはや義憤にも苦痛にもならない。誰もが何かを犠牲にしているなら、その犠牲の上で甘受する幸せの正当性をどうして疑うことができるだろう。何かが犠牲になっているなど当たり前のことで、わざわざ語るほどのことでもない。「自分自身の幸せ」は、皆にとってかけがえのないものだ。荷物の多い老人を二人の若者が支える、そんな愚かな自己犠牲には与しない。それが間違いだと言うなら、あなたはどんな解決策を提示してくれるのだ?世界はずっと前から正常で、これからも正常であり続ける。ここが現実で、現実以外では生きていけないのだから。私のために犠牲になってくれて有難う、本当に有難う。それじゃ、私は幸せに生きますので、頑張って贄になってね。「ねぇ、どうして笑っているの」と、そう訊かれて気付いた。私は笑っていた。ほんの少しだけ考えてから答える。私はとても幸せだと知っている。それが理由で、そんなこと、本当は、考えるまでもないことだった。

こんな感じだったよね?

◆感想

これ、まぁ一応は新時代のホラー映画という触れ込みで鑑賞したわけですが、その、これ……ホラー映画と呼ぶのが正しいんでしょうか。開始5分で開陳されてしまうのですが、これはメタファー盛り盛り、問題提起盛り盛りの「現代人への呪詛のような何か」です。したがって、クソッタレ因習村とか邪悪土着怪異とか狂った宗教だのによるダイレクトな怪奇を求めるホラーラバーは回れ右した方が良いと思います。そういう映画ではありません。言うなれば、これは不条理系社会風刺ジャンルのホラーではない変な映画です。誰が観てもそう言うと思います(知らんけど)。

で、そうなると言わないといけないのが、「社会風刺モノ」はマジでクリティカルな説得力がないと陳腐な駄論にしかならず、ブルーバックスや新書の下位互換にもならないということなんですよね……。僕の感想としては、この点に絞って、ちょっと内容を掘ってみたいと思います。

◇犠牲と幸福について

さて皆さんは、シャーリイ・ジャクスンの『くじ』(The Lottery)という作品をご存知でしょうか。この作品は、小さな村で行われる奇妙なくじ引き儀式を描いたもので、物語のラストには、くじ引きに当たった村人が、村人全員から石で打ち殺されます。あるいは、ゲド戦記のアーシュラ・K・ル・グィンによる『The One Who Walk Away from Omelas』こちらでは、ただ一人の虐待される子どもと引き換えに町全体が幸福になり続けるという話です。その価値観を受け入れられない人々はオメラスの街から去ってゆきます。示唆的な短編なので、時間があれば是非読んでみてください。この辺りの話は、かなり本作に近しいテーマを扱っていると思います。ダイレクトに座敷童子であれば、『うしおととら』の「監禁される座敷童子」の話とか?(笑)まぁ、なんにせよ、少数の自由を奪ったり、苦しめることで多数の幸福を維持し続けるというモチーフ(というかシチュエーション)は、功利主義へのカウンターとしても、単なるお話としてもなかなか面白いですよね。私は、かつて功利主義が「最大多数の幸福のために少数を切り捨てるのか」と問われた時に、さまざまな応答が試みられたことを思い出しながら、そして、オメラスのことを思い出しながら、本作を鑑賞していました。はい。

して、まずですね、作中最大のテーマである「犠牲なくして幸福なし」についてですが、これを、作者がどのレベルで信じているのかが非常に気になりました。言うまでもないことですが、「犠牲なくして幸福なし」は極めて短絡的な世界観であり、現実どころか、現実の卑小化なので。使い古されたお話ですが、世界が完全なゼロサムゲームであり、幸福(あるいは富)の総量が変動しないのであれば、人類文明はここまで発展していません。平易な話ですが、他人から奪わなければ食物を獲ることができなかった少数民族の抗争時代はともかく、現代人類は大豆から肉を作るまでに発展しています。科学の進歩とともに、数多くの「人類をより多く生かすための技術」が開発され、足りないなかでも、より多く足りるように試みる工夫がなされ続けています。同じ人類間での悲惨な犠牲というのは、確かに現代社会では避けえないものであるとはいえど、世界の真理として不可避のものではありません。それでも、オーバービューですが、人間という一種族よりも視野を広げてみれば、確かに動物(とりわけ家畜)は人間生活の犠牲になっていると言えるでしょう。しかし、それも将来的には代替食料によって生命の犠牲が最小となるかもしれません。そもそも、「生きることには犠牲が必要」という命題もかなり欺瞞であって、より正確には「生きるにはコストが必要」くらいに留めておくのが賢明です。そのコストを犠牲と表現するかどうかは、語り手の良識次第でしょうが、私個人は良い表現とは思いません。

それでも、「コストがゼロにはならない」とか、あるいは、「大豆が犠牲になっている」とかいう反論はありましょう。なるほど、仰るとおりです。しかしそのような問いに対しては、「生存のために、大豆などの植物や、極めて少ない生命の犠牲が発生することに、なんの問題がありますか?」という返答をするだけです。二酸化炭素排出量が増えすぎてはいけないからメタンガスを吐き出す畜牛を増やしてはいけない、では、その正しさを達成するために、この世から牛をすべて絶滅させる必要がありますか?もちろんそんな必要はありません。同じように、膨大な生命の犠牲はいけないからあらゆる生命の犠牲をゼロにする必要がありますか?もちろんそんな必要はありません。極論は建設的な議論の役には立ちません。現実には無数の「程度問題」があります。害悪、犠牲、労苦、不平等、暴力。あらゆる忌み嫌われる事象は許容できる範囲であれば、特別に排除する必要はありません。

大豆の犠牲を気にする必要はないし、極小の犠牲で最大の幸福が可能になるならば、それは「犠牲なくして幸福なし」とあえて言うほどのことではありません。蟻を踏み潰すことを恐れて一歩も動かずに死んでしまう人を見て、その素晴らしさに感動する人はあまり多くないでしょう。ジャイナ教徒が虫を殺さずに払うように、人間に出来ることは可能な範囲での尽力です。そしてその尽力にだって、非常に大きな価値があります。完璧でないとしても、配慮を尽くす。それが人間の素晴らしいところです。虫を殺さずに払う人と、虫を積極的に殺す人は同じ程度の配慮を尽くしているでしょうか。彼らは犠牲を強いているという点で、同じ穴の狢と言えるでしょうか。私はそうは思いません。この辺りは現代倫理学(特に功利主義領域)において、込み入った論争がなされているものであり、正直、私なら迂闊に突っ込みたくはない問題です。そんなに簡単に風刺できる話ではないとすら思います。

それゆえに、本作における犠牲のメタファーの数々には、極めて大きな違和感がありました。なぜ、程度問題であることが触れられずに、インパクトのある外見を有した「犠牲者」が「必ず必要だ」という話になるのでしょうか?それは現実にある問題を過度に誇張し、視覚や倫理観に働きかけて、情動の拒否反応を引き起こすことで、そのメタファーの妥当性をあやふやにする行為ではないでしょうか。例えばの話をしましょう。例えば、本作における「犠牲」がもっと軽微なものであればどうでしたか。目と口を縫わない単なる軟禁であるとか、労働力の搾取であるとか、幸福に対する他者の対価がその程度のものであれば、本作は「幸福と犠牲」というテーマをここまで強烈な印象でもって描くことができたでしょうか。私はできなかったと思います。そして現実において搾取と呼ばれるものは、それよりも尚、忌避感の軽い程度のものかもしれません(現代日本人というと低賃金アルバイトや返ってこない社会保険料などが頭に浮かびますけれど)。

思うに、この作品が訴えているテーマは、今回のような強烈なビジュアルと、過度に誇張化されたメタファーがないと力を失いかねないものであり、その強度を維持するために、非現実的かつホラーちっくな演出が為されたことについて、ホラー映画としては評価する目もあるでしょうが、社会風刺としては迂闊と捉えざるをえません。いや、もちろん、作者がこのようなテーマを心底から信じているとも思っていませんよ。ただ、表出の仕方にちょっと問題がありそうだ、という話です。そりゃ、目と口と耳を縫われた中年男性は、現代社会において犠牲になっている氷河期世代の男性を表したものである(笑)とか、目と口と耳の縫合は、「何も言わせず」「何も見せず」「何も聞かせず」に生き殺しにしていた政治と、それを許容した国民への風刺である(笑)等と受け取ることは可能です。こじつけることだってできますよ。これらは、過度にグロテスクな誇張なのではなく、適切な要素の抽出なのだという主張は当然あるでしょう。それ自体は問題ないと思います。

しかしながら、「犠牲なくして幸福なし」というテーマを描くために、本作は「そのようなグロテスクな犠牲者が必ず必要であり、そのような人々がいなければ代わりに誰かが死ぬ(それも目から出血して痙攣を起こすという恐ろしい死に方をする)」とまで表現しています。これはよくありません。確かに、資本主義においても社会主義においても、人民の格差は大なり小なり生じてきました。しかし、低層の人々がいなくなったからといって、資本家が目から出血して震えながら死ぬわけではありません。低賃金のアジアの技能実習生が誰もいなくなったからといって、日本人が直ちに死ぬわけではありません。当たり前のことですが、犠牲がないと人がみんな死ぬわけではないのです。では幸福ではなくなるのでしょうか。確かに利便性や快適な生活や、巨万の富は失われるかもしれませんが、それは勿論、死ではありません。犠牲を減らして幸福を減らして、それでも皆が幸せであるという状態は十分に想定できるものではないでしょうか?

冒頭に挙げた『くじ』や『オメラス』の話を思い出してください。あれらの話の教訓は、「少数の人間の不幸によって多数の幸福が強力に担保される社会の是非」を問うものであり、過激な功利主義的立場へのカウンターとなりえるものでした。ですが、本作ではその問いかけが微妙にすり替わっています。もちろん、ル・グィンのオメラスにおいても「虐待されている子どもがいなければオメラスの幸福がすべて失われる」というルールはあります。しかし、同時に、「そこから歩み去ることができる」ということも示されているのです。楽園のようなオメラスの外は、過酷な荒野です。しかしそれでも必ず死ぬわけではありません。楽園を追放された人間のように、それでも生きていけるのです。幸福が主観的だからこそ、そのような生き方だって否定されないのです。だからこそ風刺の持つ「正の力」が生きているのです。本作にはそのような示唆に乏しく、ただただ誇張された絶望がのしかかるだけです。それはオメラス的な理屈の押し付けであり、ネガティブな欺瞞でしかないでしょう。

また、実際的な話として、格差のありすぎる社会を長期的に維持することは困難であることから、歴史が証明しているように、暴動や治安の悪化を防ぐためには最低限の社会保障が必要なのです。それゆえに富の再分配や社会福祉が万人に与えられることを、現代の先進国の多くが目指しています。すなわち、社会が適切に維持されている状態を多くの人にとっての幸せとするなら、過度な搾取のない、一定の平等が担保されている社会のほうが、搾取の横行する不安定な社会よりも、より幸福度が高いと言えてしまうのではないでしょうか。犠牲の少ない社会のほうが相対的に見て幸福である、あるいは緩やかな幸福を維持しやすい、というのは否定しきれない現実でしょう。

本作においては、総じて、メタファーという言葉ではカバーしきれない過剰な暗喩表現が気に掛かりました。ホラー映画としては悪くない描写ですが、社会風刺としても生かしたいのであれば、実態とかけ離れた主張に見えかねないものを紛れ込ませるのは悪手でしょう。これが通常のホラー映画であれば、そんなことには頓着しなくても良いかもしれない。しかし、主義主張、テーマを全面に出してしまっている本作では、そのテーマがどれほど真摯に熟慮されたものなのかもまた、吟味されてしまうはずです。付け加えて言えば、批評的メッセージをどこまでオブラートに包んで出すかという点にも、更なる工夫が必要だったでしょう。私個人の所感ですが、本作では、比較的ストレートな言葉で語られるものが多く、それが映画への没入感を削いでいました。台詞回しの固さというのか、何かの本から切り取ってきたような文言が、生きている設定の人間から溢れ出す度に、脚本を書いた何者かの声が垂れ流されているようでした。お仕着せの台詞によって風刺性がむしろ薄れるという逆効果。作者の頭のなかの箱庭に、主人公と観客が閉じ込められているようで、あまり心地の良い感覚ではありませんでした。

まったくの想像ですが、当初のアイデアとして、「他者を犠牲に(生贄や監禁→搾取)して幸福を得る老人」=「邪悪な怪異」という図式があり、そのアイデアを拡張した結果、「犠牲による幸福が法則化・可視化されている世界」という世界像設定が為されたりしたのではないでしょうか。しかし、それは現実世界とは似て非なるものであるため、作品が進むにつれてその乖離が埋め難いものとなり、それでも世界像を調整できず、また、社会風刺にホラー映画を被せることに固執した結果、描写とテーマの乖離がさらに大きくなったのだと思います。なお、肝心のホラー描写については想像を大きく超えてくるものはなく、目からの出血や痙攣といった段階を踏んだ呪いについても、あえて言うなら『聖なる鹿殺し』を彷彿とさせるものでしかなく、特段の新規性を感じませんでした。役者は良かったと思います。祖母役の演技がなんとも絶妙で、良くも悪くも独特でした。もちろん、主役の古川琴音は言わずもがな良かったです。

さて、ある程度の評価は固められたと思いますが、本作ではいまいち意味が受け取りづらい描写がありましたので、少し疑問と考察を行います。

◇あの赤子はなに?

よく分かりません……が、老人が赤子を産むというシチュエーションと、母と祖父が祖母の分娩台になっているという点を材料にすると、直接的には介護の暗喩でしょうか。老人が赤子を産む(白痴になる)→それを支える家族。皮肉が効いていて我ながら妥当な解釈だと思います。いや、合っているかは分かりませんよ。

◇あの味噌はなに?

よく分かりません。搾取の象徴でしょうか。「犠牲」から取られる甘露のようなものですね。それほど大した意味は乗っていない気もしますが、折角なので、そもそも、あの『犠牲』が何かというところから追ってみましょう。気になっているのは、枯れた盆栽のシーンです。あの『犠牲』は自らの身代わりに不幸を受けるもの=御守りのようなものとして扱われていましたが、『犠牲』がいなくなると同時に盆栽が枯れ果てたことから、単に不幸を受けていただけではなく、家運や生気を司る役割を持っていたのだとも読めます。いわば「汚い座敷童子(笑)」というわけですね。そういう意味では、搾取された運気や生命力の象徴と取ることもできるかもしれません。もっと卑近な解釈として、社会保険料というのもアリかもしれません(冗談)。いや、真面目な話ですけど、解釈の幅がありすぎる材料とかよく分からない材料は、読解ノイズになるのであんまり快く思いません。ですが、そういうものが多いほうが、説明セリフが多い英語よりは考察の多様性があって面白いとは思います(何から目線のなんの話だよ)。

◇『犠牲』ってなに?

なんでしょうか。汚い座敷童子自体も、観る人によって姿が異なるような表現も為されていました。母親による「あなたにはアレが人に見えるの?」という指摘は、家族には『犠牲』が人間には見えないということを示唆しているように見えますが、私個人としてはあれはやはり「人間を最も強く表象するメタファー」だと思います。母親の言葉は、単に「人を人とも思わない」の表現でしかないのではないでしょうか。もちろん牛や豚や鶏といった生活の犠牲となっている生命全般を含んだ『犠牲』概念自体の表象と見ることも可能ですが、だとすれば「街へ行って引っ掛けてこい」とか「私たちはやめてね」という件が露悪的すぎるので、やっぱり単純に犠牲となっている人間のことだと思います。この辺りの描写を上手いと捉えるか、過度な誇張でテーマ性を破壊していると捉えるかは、観客次第だと思います。

◇祖父母の様子がおかしかったのはなに?

序盤の奇行は特に説明が乏しく、意味を取ることが難しいです。「豚の鳴き真似」「虚空を見つめて止まる」「扉の閉まった部屋へと突進」「目に入れても痛くない孫の指を目に入れる」、このあたりでしょうか。宇宙人に洗脳されたのかと思うくらいの奇行であって、言動の無機質さ、話の通じなさも得体の知れない異文化を見ているような感覚があります。ただ、出産前後のシーンをみるに、祖父母だけでなく、父母も基本的には同一の洗脳に染まっていると思いますので、どちらかと言えば、あの世界の常識としては「奇行」が正常なのですよね。「奇行」をしない主人公が異分子であって、嘲笑される存在なのです。それを材料にするならば、「奇行」とは「犠牲を許容する人々が日常的に行う行為のメタファー」だと考えられます。それが何かと言われるとよく分かりません。「犠牲を許容する社会そのもののシステマチックな狂気」の表現でしょうか…………いや、あのですね、ぶっちゃけ、風刺モノって「あれはこういう概念のメタファーでぇ〜」って言っとけばなんとかなるので、こじつけたもん勝ちですよね(やめろ)。

とはいえ、「食べられるために生まれてきてくれた豚さんありがとね〜」みたいなことを言いながら「死んだ犠牲を供養もせずに足蹴にして焼き捨てる」みたいな二面性は面白いとは思います。表面的には「犠牲さん有難う……涙」みたいなことを言うけれど、本心は大してなんとも思ってねぇじゃねぇかと。そういうネタですね。こうなると「孫のことを目に入れても痛くない」というのも果たしてどこまで本当なのやら。ただ、本音と建前、という面白さを扱うには、本作の台詞回しはどストレートど真ん中すぎると思います。みんなが「犠牲になれ〜」「人間の本性はこれだ〜」「世界はこういうもんだろ〜」を正面からぶつけてくるので、徐々に白けてくるというのは、あるっちゃありますよね。すみません、なんの話だよって感じですが。

◇急に始まったヒューマンビートボックスパートはなに?

なんなんですかね、あれ。よく分かりませんが、一つには生贄を捧げる際の祭祀(幼馴染は気絶状態でそのまま縛られてましたけど)。一つには『犠牲』をおだてて踊らせて思い通りにする社会という風刺。一つには古川琴音も実は『犠牲』の存在を最初から知っていて、それに目を瞑っていただけだという設定開示パート。こんなところでしょうか。でも不条理映画だとよくわからないノリの奇行はよくあると思うので、そんなに気にしなくても楽しめると思います。よく分からない材料はよく分からないままでも良いかもしれませんよ。

◇これは幸福な社会なのか?

では最後に、本作のラストにおいて古川琴音は幸福になったのかということを考えていきたいと思います。いやいや、幸福って言ってたじゃんというご意見は甘んじて受け入れますが、そもそも、幸福(well-being)には「主観的幸福」と「客観的幸福」の二種類が想定できますよね。たとえば、パチンコ競馬でギャンブル三昧の独身中年男性は、脳汁ドバドバで抜群の主観的幸福を有しているかもしれませんが、客観的にみると、預貯金もなく、家族も資産もなく、客観的な幸福指標をなにひとつ満たしていません(暴言)。

これと同様に、幸福には「短期的幸福」と「長期的幸福」の二種類が想定できます。たとえば、実家を売り飛ばして2000万で中古のフェラーリを購入した年収400万の独身中年男性は、短期的には抜群の幸福度を有しているかもしれませんが、長期的には……主観的幸福としても、あまり良い結果にはならないでしょう。フェラーリが分かりにくければソシャゲ課金300万でも良いです。このような長期的な効果の計測は大変難しく、仮にフェラーリが値上がりするとか、車のお陰で恋人ができるなどすると、むしろ抜群のリターンとなる可能性もありますね。国家や政策のレベルでも同じ問題があります。ある施策が長期的に見て、良いのか悪いのかを判定するのは極めて難しいものです。特に政策レベルの話となると、何を指標として幸福を計測するかも問題です。この辺はちゃんと書き出すと終わりがないので割愛します。

さて、本作に戻ってみると、まず主観的幸福アプローチでは、『犠牲』によって幸せを獲得した人々は、概ね幸福だと判定できると思います。個人レベルであれば、客観的なアプローチ(ケイパビリティアプローチなど)によっても、短期スパンでは彼らは幸福と言えるはずです。

しかし、より広い範囲、人民レベルの長期的な客観的幸福というところになると、まず気になるのが幸福の持続可能性(サスティナビリティ)です。個人の幸福においては、幸福を測るために短期スパンを見れば良いでしょうが、社会全体の幸福という点では、超長期スパンで幸福を持続可能な社会であるかどうかが極めて重要です。本作における『人身御供』あるいは『供物』あるいは『人柱』の制度は、社会を長期に渡って安定させうるものでしょうか?そうは思いません。特に問題含みなのは、「私たちはやめてね」という村の老人の台詞でしょうし、「街で捕まえてこい」という友人女性の台詞です。さらにまた、何も知らずに菓子を勧められ、『犠牲役』にされそうになった老人の存在もノイズになります。上記の台詞やシーンは、「この世界においてはある日突然に誰かの『犠牲』となることが一般的であること」と、「それを拒否したり助けを求めたりすることは難しいこと」が読み取れます。つまり、システムとしての『供物制度』を個人的な理由から拒否することはできず、常に「個人的幸福が唐突に終わる可能性があること」を受け入れることが必須なのです。

このあたりは、ロールズによる無知のベールの議論を思い出しますね。自分がどういう存在であるかが事前に分からなければ、奴隷制度などを導入することは躊躇われ、公正な社会を目指すのが比較的合理的な選択になりえます。自分がなりたくない社会的立場を制度設計に盛り込んではいけない、というわけです。無知のベールに対する批判も多々ありますが、本作を読み解くにあたっては有用でしょう。果たして、あなたやその家族や友人が『犠牲』になることも別に珍しくない世界とは、本当に素晴らしいものでしょうか?もしも無知のベールの会議があるならば、マキシミン原理に基づいて、『犠牲』システムはたぶん可決されないと思います。

しかし、それがもしも手違いで可決されてしまったら、その時には何が起きるでしょうか。メタファーに対して野暮ではありますが、SF的想像力を最大限に働かせるまでもなく、社会が破綻することが予想されます。なにせ愛する家族がいきなり拉致されて感覚器官を縫われて、監禁されるわけです(もちろん己の家でも同じことをしているわけですが)。法では裁くことができないのでしょうから、私的報復に頼らざるをえず、復讐が繰り返されることになるでしょう。それすらも「仕方ない」として受け入れてしまうのであれば、そんな主観的幸福はどう贔屓目に見ても現実逃避に過ぎず、単純に狂っています。そして、客観的には、家族を拉致されて何も言えない不幸なアホなわけです。幸福などありえず、やはり、そんな社会が成り立つわけがありません。本作では、たまたま天涯孤独の幼馴染を拉致していますが、『犠牲』の作中設定としては別にそういう人間に限らないわけですから。これが、社会のお荷物を生贄にしよう、だとか、ランダムに村の一人の生贄にしよう、とかなら存続の目もあったのですが、各家に一人、それも勝手に見つけてきて拉致するなんて、成立させるのが難しすぎますよね。こんなものは長期的に持続しようのないシステムなので、これで「主人公は素晴らしい幸福を甘受しているでしょう?」などと言われても首を傾げるしかありません。いやいや、主人公じゃなくて社会が破綻するんじゃないの、と……。

しかし、まぁ、そのシステムが破綻したとしても、厄介なことに出血と痙攣の呪いは続きます。これが面白い。したがって、次のフェーズでは、とてつもない日本国民の死と、大規模な内戦を伴う人種差別や迫害、組織的な暴力による搾取が起こるでしょうね。特定の属性を持つ人間(子なし独身のキモい中年男性とか身寄りのない孤児とか同性愛者とか知的・身体的障がい者など)が理由をつけて襲われ、隔離され、大多数の人民のために犠牲になるという。そしてその内、誰かが気付くわけです。

「国民全員が婚姻関係か養子縁組を結んだことにすれば生贄は一人でええやんけ!!」

これは素晴らしい発想でした。この家制度を利用したバグによって、画期的な福祉国家オメラスが誕生するわけです。一人で一億の罪を贖う最強コスパの『犠牲』ですから、流石にみんな心底から感謝するんじゃないでしょうか。『犠牲役』を代々務める一族なんかも出てきそうですね。神格化されて、現人神と呼ばれるようになり、そのうちに技術進歩によって『呪い』が克服される(そもそも出血と痙攣の起きない機械化身体を手にしている)と、もはや『犠牲』すら不要となり、なぜそうであるのかも分からないまま、国の象徴となるかもしれません。そうなりゃ、日本は安泰ですね。

はい。くだらない冗談はさておき、そもそも本作の世界像は、あまり現実的にシミュレート可能なものとして見られるほどの強度はないと思っています。それはもちろん、メタファーだからですし、フィクションだからです。村ホラーに無理やり風刺をぶっ込んだからですし、そのホラーの筋のために風刺の強度を弱めた(見た目と設定のインパクトだけに頼り切ってしまった)からです。だから本作では胸くそが悪くなる必要がありません。安心できることに、徹頭徹尾で「非現実的」だからです。こんな極端な『犠牲』システムを維持できる社会はないし、早晩に崩壊する社会において、「これがお前らの享受している幸せだ」みたいな主張があっても響きません。

というか、現実世界の搾取はもっともっと、遥かに上手く「人間を生き殺し」にしており、だからこそ持続しているのです。この社会の不平等というものは。


◇まとめ

さて、本作が抱える非現実性。それが良いのか悪いのかは、観客が何を求めているのかに依存しますが、少なくとも、本作が試みた社会風刺とホラー映画の融合は、あまり食い合わせが良くなかったと感じる次第でございます。例えば、もう少し灰汁を抜いて、純粋なホラーとして演出強度を高めるか、社会風刺の強度を高めるために外連味を諦めることができたなら、エンターテイメントとして売れるかはともかく、説得力を持った作品には仕上がっていたと思います。もちろんそれが、良いか悪いかは観客が何を求めているかに依存しますし、作者の狙いに依存します(二回目)。

今作がやってしまったように、あんまり社会風刺を狙ってしまうと、観客が思想の強度テストを始めてしまうので、もっと内容を不条理かつ意味不明にして、台詞回しを滑らかにし、ふわふわっと作るほうが多分、勝手にみんな想像してくれて美味しい感じになるんだろうなー、と思いました。アリアスターとかのバランス感覚ってある意味めちゃくちゃ凄いんだよね。まる。

以上、感想終わり。

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