見出し画像

トリプル ~赤ちゃんを育てながら両親の介護

この役立たず!

私が娘を生んで二か月が経ったある秋の日、娘を旦那の両親に預け、私と旦那は私の母が入院している東京の病院へと足を運んだ。

母は一年前に肺がんを患った。半年ほど経ってから、長年住んでいた団地の建て替えのため立ち退きをすることになり、同じ区内の古い区営住宅へ引っ越すことになった。
新しい土地での病院探しは難しく、取り合えず評判は良くないが家から歩いて五分ほどの病院に入院していた。

病院は比較的新しくロビーも普通の病院と同じく、たくさんの人がいた。
受付の横で待っていた父と合流して、私たちは三階に向かった。
ナースステーションには誰もいない。辺りを見回すと若い看護師さんがこちらに気付き「少々お待ちください」と言って足早に病室に戻って行った。

後で母から聞いた話だが、たくさんの病室があるのに看護師さんが三人しかいないため、呼んでもなかなか来てくれないし、みんな不愛想だそうだ。

私たちが病室に入ると母は眉間にシワを寄せて眠っていた。私が肩をチョンチョンと叩くと母は目を開き嬉しそうに微笑んだ。
母は起き上がり、俯いて言った。
「私、最近ボケてきたみたい。見てこれ」
母は床にある黒いシートを指さした。
「歩き回らないように床に降りるとブザーがなるみたい。これじゃあ、自由にトイレも行けないから水分を控えてるの」
母は泣きながら小さくつぶやいた。母が泣いたのを見たのは二回目だ。一回目は父と大喧嘩した時。そして今回。
私は鼻の奥がツーンとするのを感じていた。
「そうだ、美緒の写真見る?」
母はタオルで涙を拭いて、孫の写真を丁寧に一枚ずつ見ていた。
やっと母の顔が笑顔になり、父に言った。
「そうだ、この前の書類、受付に出してくれた?」
父は慌てて、愛用の紺色の古ぼけたウエストポーチの中を探した。
「ない」
母はうんざりした顔で父を見つめた。
「あれだけ受付に出してきてって言ったのに、書類はどこにやったの?」
「わかんない」
困った顔で父は俯いた。
父は数年前から認知症を患っていた。私は仕方ないとは思いつつ、父のウエストポーチの中身全部をを母の布団の上に広げてみた。
しかし書類はなく、父は中身を一つ一つウエストポーチに戻した。
この時、母の怒りが頂点に達した。
「捨ててしまえ!この役立たず!!」
そう言って母はウエストポーチを払いのけて床に落とした。
「お母さん、そんなに元気だったら大丈夫ですよ」
旦那がニヤニヤして言った。
「そうだよ。メチャメチャしっかりしてるじゃん」
「ほんとだ!」
そして皆で笑った。
ウエストポーチを拾いながら父も笑っていた。

その後、父と旦那と三人で実家に戻ると、テーブルの上にちょこんと提出する書類が置いてあった。私は書類を病院に提出しに行き、三人で夕飯を食べ、栃木にある自宅へ戻った。
帰る途中の車の中で旦那が言った。
「お父さんとお母さん、こっちに来てもらおうか」
「ありがとう」
こうして、私たち夫婦と娘と両親の同居生活が始まった。

それにしても、母が言った「捨ててしまえ!この役立たず!!」とは、ウエストポーチにたいして言ったのか、父にたいして言ったのかは永遠の謎である。

ダブル介護と子育て

両親の引っ越しが終わり、五人での生活が始まった。
初めての子育てと、初めての介護。
介護と言っても父は認知症、母は肺がん。
母の肺がんは発見された時はステージ3。がんの場所が手術できない所にあるため抗ガン治療のみで入退院を繰り返していた。
引っ越しは母の退院のタイミングをみて行われた。

五人で暮らすと言っても、旦那が家に帰って来るのは夜の11時過ぎで土日も出勤。休みは週に一度取れるか取れないかの状態で、子育ても介護もほとんど私一人で行っていた。

一階の和室にベッドを置いて、両親はそこで一日を過ごした。
私と旦那と娘の部屋は二階にあり、子育てと介護と家事とで一日に階段を三十回以上行ったりしていた。

子育てと介護を両立させるにはどうすればいいのか。スキマ時間にネットで調べてみたが、十数年前の当時は「子育てと介護」で調べても、小学生以上のお子さんの子育てと介護をされている方はいても、「赤ちゃんと介護」は見つけることができなかった。介護の本も今ほど数がなかったので、毎日が試行錯誤でやっていくしかなかった。

生活の中で一番苦労させられたのが、父だった。
私としては優先順位を娘、母、父の順にしたかったが、実際は父、娘、母の順になってしまっていた。
父は地域の老人会に参加して、薬を飲んでいるのにお酒を飲んで酔っ払って帰ってきたり、デイサービスでお昼ご飯を注文するのに千円持たせたら千二百円の豪華弁当を注文してスタッフさんにお金を貸してもらったりした。

何度か一緒に行ったことがあるスーパーへ行こうとして迷子になったことっもあった。万が一のためにお気に入りのウエストポーチに名前と家の電話番号を書いた紙を入れておいたので、父に声を掛けてくれた人から連絡をもらって迎えに行った。人に頭を下げることが多くて、とにかく切なかった。

そんな中、娘に授乳している時が私にとって安らぎの時間だった。
オルゴールの曲を聴きながら娘の顔をじっくり見る。ゆったりとした時間。
「もっと、この子とゆっくり過ごしたい。笑顔で接したい」
妊婦教室で知り合ったママ友からのお誘いを、いつも断ってばかりの私。
他のママさんたちは集まってランチしたり楽しんでいるのに。

そんなことを考えていると、ギィギィと階段を上る音がしてきた。
また父だ。いつも授乳タイムを邪魔される。
「ご飯はまだか」「今から風呂入る」
酷い時には五分おき位に言いに来る。
いつもは優しく追い返していたのだが、私はついにキレてしまった。
「今、授乳中だから後にしてって、さっき言ったよね!!」
哺乳瓶をテーブルの上に「ゴン」と音がするほど強く置いてしまった。
父は一目散で一階に逃げる。
眠りかけていた娘がびっくりして大泣きし、私も一緒に大泣きした。

少し時間が経った。娘は優しい顔で寝ている。
私も少し落ち着き、一階のキッチンに立った。
「さっきはゴメン。お母さんに怒られた」
そう言って父は静かに去って行った。どうやら母から、こっぴどく叱られたそうだ。その日から父が授乳の時の二階に上がって来ることはほとんどなくなった。

私には時々、強烈に不安になることがあった。
それは父や母を病院に連れて行く時に、娘を旦那の両親に預けなければいけないことだ。当時、ペーパードライバーでだった私は、旦那に仕事を休んでもらい、旦那の運転で病院に行くことにしていた。
まだ小さい娘を病院に連れて行って病気をもらってきては大変なため娘を預ける。しかも数日間。
そんなことが何回も続いていくるうちのに、このまま介護が中心になって、やがて娘を育てることができなくなるのではという思いが大きくなってきた。

娘のいない家で父に振り回される数日間。母は肺の他に脳にもがんが転移していたので、日に日に頭痛が悪化しているようだ。
ある日、いつもより早めに帰ってきたので旦那と二人で夕飯を食べていた。
「このままの生活だと、美緒を育てることができなくなるかも」
私はちょっと愚痴を言うつもりだった。
「じゃあ、俺にどうしろって言うんだ!!」
旦那は怒って布団に入り、寝てしまった。
連日、残業続きの旦那もかなり疲れていたのだろう。
でも、私はただ「大丈夫だよ」って言って欲しかっただけだったのに。

母の入院

大晦日がやってきた。
糖尿病も患っていた母のために私は栗きんとんと昆布巻きと伊達巻を甘さ控えめにして作ってみた。この日は旦那も会社が休みだったので、娘の面倒を旦那に任せて、おせちの準備をすることができた。

しかし、夕方になり母がぐったりし始めた。夕飯は食べることができず、年越しそばを二本食べるのがやっとだった。
私は病院に電話して、母を病院に連れて行った。
そして、すぐに入院。主治医からは、「数日が山です」と言われた。

私は何をどうしていいか分からなくなってしまった。
「ご兄弟や親しい人に連絡してください」
と看護師さんから言われ、とりあえず母の姉に連絡した。
その後、旦那は眠る娘を抱っこして、父と私は待合室の椅子に座っていた。

一時間半ほどすると母の姉夫婦とその息子夫婦が到着した。
他の兄弟は明日の朝に来るということだった。
すると車いすに乗った母が看護師さんに押されて私たちの所までやって来た。
「加藤さん、お姉さんがいらしましたよ」
看護師さんの声に反応しないで俯いたままの母。
「よっちゃん、分かる?美千代だよ」
そう言って叔母は母の手を擦った。
「みっちゃん?」
母は首を上げて叔母を見つめた。
母が急に笑顔になった。
「みっちゃん、来てくれたの?」
「うん、急によっちゃんに会いたくなって。父ちゃんも剛も嫁さんの敦子ちゃんもいるよ」
「ありがとうね」
急に母の声に張りが出てきた。
「車で来たの?ここまで何時間かかった?」
さっきまでとは、まるで別人のように叔母と話し出す母。
母と叔母はしばらくの間話を続けた。
「加藤さん、そろそろ病室に戻りましょうか」
看護師さんが優しく言った。
「みんな、ありがとうね」
そう言って母の車いすは病室へ入って行った。

次の日、病院に行くと母は頭は痛そうだったが普通の会話ができるようになっていた。
そして、主治医からの提案で放射線治療をやってみることになった。
幸い放射線治療の効果があったおかげで、母はみるみる元気になっていった。

昔、大好きだった父

母の病状が良くなる一方、行動を抑える母が家にいなくなった父は途端に症状が悪くなっていった。

父はテレビを付けることもなく、一日中部屋でゴロゴロしている。
私は小さかった頃のたくさんの思い出を、畳に寝転がる父の姿に重ねていた。
父が私を寝かしつけてくれる時に色々な昔話をしてくれたこと、毎日自転車で保育園に連れて行ってくれたこと。
五歳の時に行った、よみうりランド帰り道。夕焼けの中、私を真ん中にして三人で手をつないで駅まで歩いたこと。

「大好きだった父はここにいるけど、もういないんだ」
私はそっと父の部屋のドアを閉めた。


二月に入り、娘の離乳食が始まった。私は娘が眠っている間に離乳食を作った。色々な食材をすりつぶしたり、裏ごしする作業は気分転換になって楽しかった。
ある日、離乳食を作っていると二階で娘が泣いている声がした。
私は慌てて二階に行ってオムツを取り換えた。そして再び娘が眠ったのを確認して一階のキッチンへと戻った。
キッチンには父の後ろ姿があった。父は口をモグモグさせながら慌ててスプーンを離乳食の容器に入れ、はがしたラップをかけ直した。
私は怒りを抑え、離乳食を一から作り直した。
その時から私は娘が二階で泣いたとしても、とりあえず料理や具材の入った鍋やフライパン、離乳食の入った容器は全部二階に移動してから、娘のお世話をすることになった。

数日後、久しぶりに近くのスーパーまで父を連れ出すことにした。娘をベビーカーに乗せて三人で歩いた。父は何度か娘の顔を覗いて少し嬉しそうだった。
買い物を済ませ、スーパーを出てから五分くらい歩いたあたりで、突然大粒の雨が降ってきた。
私はベビーカーの屋根の部分で娘を隠し、家まであと五分の道のりを急いだ。ところが父はチョコチョコ小股で歩きなかなか急いでくれない。
「走って!お願いだから走って」
ここで父を置いていくと、また迷子になって大変なことになるし、娘に風邪をひかせるわけもいかない。
「走れジジイ!!」
私が大声で叫ぶと、父は少し早歩きになってっくれた。

家に着くと、雨は小降りになっていた。娘はたいして濡れることもなく、すぐに寝てくれた。私は服を着替え風呂を沸かした。
「お父さん、先にお風呂入っていいよ」
そう言いながら私は父の部屋のドアを開けて唖然とした。
父は服も頭も濡れたまま窓の外を見つめていた。

突然、私の中で抑えていた気持ちが爆発した。
「ねえ、ちゃんとしてよ!!父親らしいとこみせてよーーー」
私は泣き叫びながら畳をバンバンと両手で叩いていた。
「風呂入る」
父はそう言って部屋を出て行った。

わかっている。父は病気なんだと頭では理解していても、どうしても心がついてゆけない。
私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をティッシュで拭いて、大好きなネクターピーチを一気飲みした。

母の復活

三月になると母の体調はどんどん良くなり、リハビリ室で杖で歩く練習を始めるまでに回復し、三月下旬には退院できることになった。

父は週に一回、水曜日にデイサービス通っていた。
退院してきた母は自力でお風呂に入れなかったので、週に一回、父が家にいない水曜日の午前中に訪問入浴介護をお願いすることになった。

最初のうちは母もお風呂に入れることを喜んでいたが、毎週父がデイサービスから帰ってくるなり、デイサービスが楽しいと自慢話をするので、母の不満がたまっていった。
「妻が病気で苦しんでいるのに、夫はデイサービスでご満悦ですか」
「お母さんもデイサービスに来ればいいのに」
と笑顔の父。母の嫌味は父には通じなかった。

数日後、夕飯を済ませて娘も早めに寝てくれたので私は二階の部屋でゆっくりテレビを見ていた。すると一階から父の怒鳴り声が聞こえてきた。
私は慌てて両親の部屋に飛び込むと父は母のベッドの横に立って握り拳のまま立っていた。
「何してるの!」
「だってお母さんがテレビのボリューム上げてくれないから、音が全く聞こえないんだよ」
どうやら母はテレビのリモコンをどこかに隠してしまったらしい。
「私は聞こえるから」
母はベットに横たわりテレビの方を向いたまま、振り返ろうともしない。
父は怒りで小刻みに震えている。
「このままケンカしてたら美緒も起きちゃうし、ドラマも終わっちゃうよ」
母は振り返り布団の中からリモコンを取り出し、私に渡した。
私がリモコンでボリュームを上げると、父は静かに座布団の上に座り、テレビを見始めた。
「二人とも大人げないよ」
母はニヤニヤしながら舌をペロッと出した。

母にとってこの嫌がらせは、「自分だけデイサービスで楽しんでくる」父へのささやかな逆襲だったようだ。

次の週から、旦那は水曜日に会社の休みを取り、母の訪問入浴が終った午後は四人で出かけることにした。父を抜かした、私と旦那と母と娘。
ちょうど私も「父だけ毎週楽しんでずるい」と思っていたからだ。
私たちは少し遠くの桜が綺麗な公園に行ってお花見したり、回転ずしに行ったり、近くの公園まで散歩したりした。

母は孫と一緒にお出かけできるなんて嬉しいと毎回喜んでいた。

その時は突然

五月に入りゴールデンウイーク半ばになると、母は体調が日に日に悪くなり再び入院となった。

その一週間後、母は誤嚥性肺炎となり意識がもうろうとなり、そして再び、主治医から「数日が山です」と言われた。

私はしばらくの間、病室からの風景を見つめていた。風に揺れる新緑は眩しいくらいにキラキラしているはずなのに何故か私には白とグレーの世界に見えた。ああ、これが夢だったらいいのに。
「あと数日なら私、母の側にいていい?」
「じゃあ、俺とお父さんと三人で交代で側にいよう」
旦那は四月いっぱいで会社を辞めていたので、お言葉に甘えさせてもらうことにした。娘は旦那の実家で預かってもらうことになった。

私たちは夜は母の病室にいて、昼間は一度家に帰ってお風呂に入ってから仮眠。そしてまた夜に三人で病院に泊まることにした。
泊まり込み初日、三人はベッドの横に椅子を置いて座った。私と旦那は交代で母の様子を見て、父は基本ずっと寝ていていいことにした。
「じゃあ、お父さんと僕は少し寝ましょう」
父はコックリと頷き、腕組みをして目を閉じた。旦那も父と同じ格好で目を閉じ寝息を立て始めた。
私は読みかけの小説を持ってきていたので、母の様子を見ながら本の続きを読んでいた。
そして数ページ読み進んだところで、父のささやく声がした。
「達也君、もう寝た?」
旦那は自分の名前を呼ばれて目を覚ました。
「何ですか?」
「なんか眠れなくてねぇ」
「そうなんですか」
そして二人はまた目を閉じた。

そして数分後
「達也君、もう寝た?」
さっきと同じやり取りをして二人は目を閉じる。

それを四回繰り返した後、
「ダメだ!眠れなくなった」
と旦那は言って、いびきをかく父の横で眠れないまま朝を迎えた。

母の横で不謹慎なのだが、私はこのやり取りを見て少し噴き出してしまった。張りつめていた気持ちが、少し緩んだ気がした。

次の日は椅子に座って仮眠をするのはキツイということで、仮眠組は病室の隣の待合室の椅子で眠ることにした。
私と父は待合室の椅子に仰向けになった。
テーブルを挟んで向こう側の椅子にも三十代くらいの男性が仰向けになってスマホを見ていた。
私は疲れていたのかすぐに眠ることができた。
「美奈、もう寝た?」
私は父に向って静かに言った。
「静かにして」
「分かった」
そして私は目をつむりウトウトし始めた。
「美奈、もう寝た?」
「黙れ、早く寝ろ!!」
私は反射的に普段の音量で言ってしまった。
その時、テーブルの向こう側の男性がクスっと笑った。
「すみません」
男性は「大丈夫ですよ」と言ってスマホを椅子の上に置いて眠った様だった。

そんな生活が一週間続いた日、家に戻った私たちはいつものように布団でゆっくり眠ることにした。さすがに慣れない生活と緊張状態が一週間続いて、私たちは心も身体も疲れ切っていた。
布団に入った旦那が不機嫌そうに言った。
「布団が湿っぽいよ!!」
「そんなこと言ったって、干す気力も体力も時間もないんだから、仕方ないじゃん!!」
滅多にケンカをしない私たち夫婦がケンカをした。結局、お互い疲れているということで、眠ることにした。

数時間後、病院から電話があり、私たちが病室に着いてから三十分後に母は息を引き取った。母は最期に私に向かって「ありがとう」とかすれた声で言った後、静かに目を閉じた。

旦那は自分の両親に連絡してくると病室を出て行った。父も何故か旦那について行った。そして病室に残った看護師さんが
「娘さんもご自分の化粧道具でお母様にメイクなさっても大丈夫ですよ」
と言って亡くなった人のためのお化粧セットを取りに出て行った。
部屋に母と二人っきり。私はバッグから自分の口紅を取り出し、人差し指に付けた口紅を母の唇にそっと塗った。
母の唇は温かくて柔らかくて、まだ息をしているかの様だった。
「今は私だけのお母さんだ」
その時、何故だか急に温かい気持ちになった。
小さい頃から厳しかった母に、本当は愛されていないのではと思う時期もあった。でも本当は愛されていたんだと、なんとなく分かった瞬間だった。

このままでは子育てが…

母の葬儀が終わった。その後五日間は父は老人ホームのショートステイに行ってもらい、私たち夫婦は久しぶりに娘と三人でゆっくり過ごすことにした。
娘はよく笑い、よく遊び、つかまり立ちも出来るようになった。
母が居なくなったのは悲しいし、淋しいけど、娘の笑顔がその気持ちを和らげてくれた。
私はこのまま三人で穏やかに暮らせたらいいのにと思ってしまった。
父には申し訳ないけど、これからずっと父の介護をしなければいけないのかと思うと不安でいっぱいでもあった。

父が戻ってくる日になった。
これから娘は成長して歩き回って、目が離せなくなるのに、どうやって父の介護と両立させていけばいいのか。また、誰に相談していいのかも分からないまま、その日を迎えた。

父と一緒に夕飯を済ませ、娘も寝かせ、二階の私たち夫婦の部屋で座椅子に座りテレビを見ていると、急に私の体に異変が起きた。
息が苦しくて動けなくなったのだ。
私は小さい頃に小児喘息で、大人になってからも十年位前に喘息で治療を受けたことがあった。
旦那はすぐに救急車を呼んでくれた。
「今、救急車呼んだからね」
その時、旦那の声は聞こえていたが、私の体全身がしびれて動かなくなり、しゃべれなくなり、瞼も勝手に閉じて開かなくなっていた。
「このまま死んでしまうのかぁ。悔しい。もっと娘の成長、見たかったのに」
真っ暗の景色の中でそんなことを考えていると、救急隊の男性の声が聞こえた。しばらくして、もう一度声がした。
「喘息じゃない。過呼吸だ」

とりあえず私は娘を出産した大学病院へ行くことになった。
救急車の中はめちゃくちゃ寒く、でもしゃべることができないので、私はひたすら我慢するしかできなかった。
「お子さん、何か月ですか?」
「六か月です」
「じゃあ、うちの子と同じ学年ですね」
「あっ、そうなんですか」
旦那と救急隊の人と娘の声が聞こえてきた。救急車の中なのに和やかな雰囲気。
そして、寒さに耐える私のお腹がギュルギュルと痛み出してきた。

救急車が病院に到着した時、私はかろうじて口と手足が動くようになっていた。
「すみません、トイレ行きたいです」
私は車椅子でトイレに連れて行ってもらい、看護師さんに支えながら歩いて、やっとのことでトイレのドアを閉めた。

その後、点滴を打ってから、駆け付けたお姑さんの車に乗せてもらい家に着いた。家で留守番していた父は心配そうに私の帰りを待っていた。
「過呼吸だから、大丈夫だって」
父は私の言葉を聞いて安心した顔をして、自分の部屋に入っていった。

「もう限界だな。子育てと介護は私には無理」
そう考えながら私はモコモコの羊のぬいぐるみを抱いて眠りについた。

状況を変えるには

私が過呼吸になってから三日後、私の体はすっかり元気になっていた。
私は父が入る老人ホームを探し始めた。
ホームページに載っている同じ市内と隣の市の老人ホームに問い合わせの電話をかけまくった。しかし、父の年金で入れる老人ホームはどこも五十~百人以上の待ち人数で、入所できるのはいったい何年先なんだという状態だった。
そこで、三か月だけ入所させてくれるという施設があったので、見学を予約した。
三か月だけでも、私にとってはありがたい施設だ。見学する日は父がデイサービスで、旦那は新しい職場の面接の日に決まった。
私はペーパードライバーで近所のスーパーくらいしか運転したことがなかったが、意を決して隣の市にある片道三十分の道のりを運転することにした。
後部座席には娘を乗せて、手に汗握る運転をしてなんとか施設に到着した。しかし見学した施設はなんとなく違和感を感じた。とりあえず申し込みの資料をもらって帰って来た。

三か月。されど三か月。

数日後、父がお世話になっているケアマネジャーさんから電話が来た。
三か月後に同じ市内にオープンする特別養護老人ホームを知っているかという内容だった。私はその老人ホームの連絡先を聞き、すぐに電話をして面接の予約を取った。
父には市内の宿泊できる老人会の施設と説明して了解を得た。
父は自分が認知症だとは知らない。物忘れが酷いだけ。そう信じていた。
そして母も私も病名は伝えなかった。きっと本人が知ったら耐え切れないと思ったからだ。だから老人ホームではなく、宿泊できる老人会の施設でよかった。

老人ホームの面接は我が家で行われた。事前にホームのスタッフの年配の女性にも宿泊できる老人会の施設という設定で父と話してほしいと、お願いしておいた。
スタッフさんは初めに父と話し、そのあと私と二人で父の状況などを話した。
「たぶんお父様の場合、体は比較的動くので入所はできない可能性が高いですね」
私はその言葉に動揺し、突然涙があふれてきた。
「さっき父は何でも自分でできるみたいなこと言っていましたが、本当はできないことがたくさんあります。それに子どもが成長して目が離せなくなるのに父の介護をしていたら、まともに子どもは育てられません。子どもがかわいそうです」
「そうね、お子さんがかわいそうね。でも期待はしないでね」
そう言ってスタッフさんは帰っていった。

一週間後、面接した老人ホームから入所案内の書類が届いた。

父は老人ホームのオープンと同時に入所した。

時々、父に会いに行くと私のことも、旦那のことも、娘のこともはっきり覚えていて、すごく喜んでいた。
そして車椅子に乗った年上のお姉さまたち数人から「ほら、ここにコップ置いたら落とすわよ」などとお世話をされていた。

そして八年後、父は誤嚥性肺炎になった。
私は老人ホームの看護師さんと話しあって、看取り介護をお願いしていた。
そして埼玉県から来た父の妹夫婦と私と娘が会いに行ったその日の夜、父は息を引き取った。

私は若い頃、父と母に愛されていないと思っていた。
でも年を重ねて分かったことがある。
愛されていないのではなく、ただ二人とも不器用だっただけなのだと。

「私を生んでくれて、ありがとう。育ててくれてありがとう」

二人が生きているうちに言っておけばよかった。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?