富弘美術館/弱さをもって人の慰めとする生き方
富弘美術館を目指して、群馬県の美しい山間のなかを車で進んでいた。道すがらぽつぽつと見える民家の様子にどこか懐かしさを感じつつも、実際にここで暮らすとなればどれほど大変だろう。気を抜けば飲み込まれそうな自然のなかで懸命に暮らす人々のたくましい姿を想像した。
車はいよいよ曲がりくねった険しい山道を進んだ。こんなところに美術館があるのだろうかと心配になってきたところで、不意に視界が開けて真っ白な建物が見えてきた。
富弘美術館。ここには星野富弘さんの作品が展示されている。
星野さんは詩画と呼ばれる作品を多く作成している。葉書サイズからA4サイズほどの作品がほとんどで、画面に描かれた花々には、星野さんが作った詩が添えられている。
星野さんの作品を初めて知ったのはいつだっただろう。いつからか、筆を口でくわえて美しい絵を描く人のことを知り、いつか本物の絵を見たいと思っていた。
星野富弘さんは群馬県勢多郡東村(現 みどり市東町)に生まれた。体を動かすことが好きでスポーツマンだった星野さんは、高校生のときに器械体操の魅力にとりつかれていく。体操がやりたいという一心で、大学でも体育科を専攻。卒業後は中学校で体育を教えていた。
ところが、教諭としての生活が始まって間もないとき、星野さんの人生を大きく変える出来事が起こる。クラブ活動の指導中、頭から落下。頸髄を損傷して、手足の自由を失ってしまう。
山奥の故郷から町に出て、両親の期待を背負いながら人生はまさにこれからというときの事故だった。突然始まった入院生活。手も足もまったく動かず、感覚すらない。ベッドに横たわってただ天井を見つめる日々。治ることがないということが星野さんを大きな絶望に陥れた。
星野さんの自伝的エッセイ『愛、深き淵より』のなかで、星野さんが過去を振り返りながらこのように語っている。
ここで舌を噛み切ったら死ねるだろうかと考えながら、そうすることもできなかったそうだ。
そんな苦しみの淵を歩む星野さんに、転機のひとつとなったのが聖書の言葉だった。友人の繋がりから星野さんの病室にひとりの牧師が訪れた。「ここを読んでみたらどうですか」と言って、牧師は聖書に紙をはさんだ。
牧師が帰ったあと、勇気を出して聖書を書見台に起き、そのページを開くとこのような文字が並んでいた。
『そればかりではなく患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す…』
聖書(ローマの信徒への手紙)
手足も使えない、一生自分の足で歩くこともできず、大好きなスポーツもできない。自分の人生に希望を見出すことができないとき、この苦しみには意味がある、そして希望に繋がっているという言葉が、星野さんに大きな力となった。
ある日星野さんは、口にペンをくわえて文字を書くということを思いつく。転院してしまった仲の良かった入院患者に向けて、同じ病室の仲間たちで寄せ書きを書こうということになったことがきっかけだった。星野さんのお母さんに帽子を押さえてもらい、星野さんが口にペンをくわえて文字を書いた。一文字書くのにも大変な苦労だった。しかし、その帽子を受け取った友人は、ことのほか星野さんの文字を喜んでくれた。
星野さんはその友人の喜びを知りながら、「文字を書きたい!」という思いが強くなっていったという。星野さんと共に寝泊まりしているお母さんに助けてもらい、長い時間をかけながら一文字ずつ文字を書いた。
やがて星野さんは花を描くようになる。気が遠くなるような時間をかけながら、お母さんに混ぜ合わせた絵の具を筆につけてもらい、その筆を口にくわえて色をのせていく。
美術館で星野さんの絵と詩を見たとき、星野さんの心にある赤裸々な想いが綴られた詩に、強く心を惹かれた。
その詩には、自分を飾ろうとしたり、取り繕おうともすることのない真っ直ぐな言葉が並んでいた。そして星野さんの詩には、自らの弱さが基調低音となっているように思った。しかしその弱さに顔を背けるのではなく、そのまま受け止めているような強さがあった。
大きな悲しみと苦しみを経験した者だからこそ、星野さんの作る詩と絵は、弱く傷ついた者の心をも優しく包み込む。
星野さんの詩を前にしたとき、自分の弱さは恥ずべきものではないということを知った。誰かのようになりたいと自分を偽るのではなく、そのままの自分でいることが誰かの慰めになり得るのだということを知った。
星野さんは現在も、故郷の群馬県で絵と詩を作り続けている。
大きな苦しみを経験した星野さんの作品が、数えきれないほど多くの人の心を慰め、励ましている。