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現代語訳 樋口一葉日記 33 (M26.5.22~M26.6.10)◎北航端艇遭難、西村釧之助が邦子を所望するも断る、故郷は忘れがたし、桃水からの手紙を待つ一葉。

(明治26年)5月22日 曇り。九時頃まで寝床に居た。母上も(私と)同じく血の道(※月経時などに女性の心身に起こる異常。頭痛、のぼせ、発汗、悪寒など。)で、気分が悪かった。今日一日は何もすることなく過ごした。夕方から雨になった。
(明治26年)5月23日も雨であった。母上の血の道は依然としてよくなかった。今日から日課を定めた。(※一葉の雑記(※書付け)の一つである「やたらづけ」にその日課が記してある。本来は歌のように記してあるが、かいつまんで言うと次の通りである。針仕事、洗い物がある時はやむを得ないが夕方までは著作をする。夕方は遊び、夜は思慮、思案、就寝。朝6時から7時までは書道、それから10時までは読書。11時、12時にかけて著作。昼過ぎからしばし昼食休憩。)この夜、小宮山(※小宮山庄司。内縁の妻広瀬ぶんが失踪し、山梨のおぶんの実家にいるものと想像していた。)から郵便が来た。いよいよ甲府(※山梨の広瀬ぶんの実家)に出立するつもりである由。もはやあきれてものも言えない。十一時過ぎ頃に新聞の号外が来た。「郡司大尉の一行が暴風雨(あらし)に遭い、行方不明」とあった。(※明治26年3月20日の日記に記したが、海軍大尉、郡司成忠(ぐんじしげただ。作家幸田露伴の兄で探検家としても著名。)が千島列島への拓殖(※たくしょく/未開の地を切り開いて移住すること)を目的に、報効義会(ほうこうぎかい)と名付けられたグループを結成し、約90名、5隻のボートで墨田川吾妻橋下流から出発。世間は福島安正(ふくしまやすまさ)中佐のシベリヤ横断単独騎馬旅行と同様に注目し、人気を博した。北航端艇(ほっこうボート)と名付けられたこの探検は、結果的には遭難事故で19名が死亡。)また一報に、「(郡司)大尉の行方は判明。委細はあとから」とあった。
(明治26年)5月24日 雨。母上はまだ具合がよくなかった。山梨県の広瀬(※広瀬七重郎。広瀬ぶんの叔父。)からもろこし(唐黍)の粉が郵送されてきた。これを餅にして一同食べ(てみ)た。あちらでは日々の食糧(※主食)として食すというが、私たち(に)はどうしても食べられなかった。この日の夕べ(新聞の)号外が来た。「北航端艇(ほっこうボート)のうち、行方が分からなかった三番艇が、青森県上北郡字砂ケ森(あおもりけんかみきたごおりあざすながもり)に漂着していたが、その乗組員は一人も見つかっていない」由。(※ちなみに、北航端艇のボートというのは大きめの手漕ぎのボートであった。無謀な探検であったことは否めない。)
(明治26年)5月25日 晴れ。早朝、西村さん(※西村釧之助)が来られた。一同で茶を飲みなどした。雑談さまざま。(西村家は)早くからわが(樋口)家と縁を結ぶ(※縁戚関係を結ぶ)ことを願っていて、いろいろと(それに)かこつけることもあって(か)、わが邦子を(嫁に)欲しいということは(その)母親(※西村釧之助の母。西村きく。)も言っていて、この二月ほど前には(西村さん)自らもだしぬけに(それを)言い出していたのだが、(こちらが)思う事と相違していて、(縁組を)断ってしまったその時から、(西村さんはそれを)どう解されたのか、全くいっこうに音沙汰がなくなってしまった。(※筑摩書房版一葉全集では、この<思ふ事>を未詳とし、西村が邦子の替わりに姉一葉の方を望もうとしたのを一葉側が辞退したのであろう、としている。ただ一葉は樋口家の戸主であるからその場合は西村釧之助が入り婿とならなければならない。しかし、釧之助は西村家の長男である。それを当の西村家が了承していたかは疑問である。明確な記述がないのでその真偽は分からないが、ともかく樋口家と西村家との縁組は樋口家の方から断ったことは確かである。)(邦子が)この人(※西村釧之助)一人を嫌がっているのならばともかく、(この)天地の間、乾坤(※けんこん/天地のこと)の中では(※大げさな言い回しだが、要は、この世この世界の中においては、ほどの意)、形ばかりの夫を得まいと(邦子は)決めているのに、どうして(西村さんは)恨みに思うのだろうか。ああ短気なことだ。相知り始めてから今年で十三年、腹蔵なくお付き合いをしている仲なのだが、その中にあやしい(※不穏な)波風を立たせてしまう(かもしれない)こと(が気にかかり)、一つにはあの人自らの性格もあるのだが、(それで)大変気が重く、(それでも)こちらからは以前と変わらず行き来していたのだが、(そうしているうちに相手の)気持ちもだんだん収まり、気分もあらたまったのだろう、ここ最近は一、二度続けてちょくちょく通ってくるようになった。浮き世に敵を持つようなことは苦しいので、このようなささいなことであっても大変嬉しいことなのだ。西村さんの話の中に、桃水先生(※半井桃水)の小説をお褒めになったことは、「見る目のない人だなあ。」と思ったけれど、(まあ悪い気はせず)好感が持てた。(※気になるのは、ここでの一葉の文章の歯切れの悪さである。本来の一葉なら、もう少し場面場面を明らかにしつつ、それに伴ってすらすらと自分の意見を述べ立てているところであるはずなのに、ここでは言葉をたどたどしく並べて事態の紆余曲折を語るばかりで、全く核心をつかない筆致である。また、出来るだけ一文でこの辺りのいきさつを説明し、急ぎ足で終わらせようとしている感もある。このいつもの一葉らしからぬ、鈍りきった筆遣いに、何かはっきりとは言えない裏の事情があったのではないかと勘繰られてしまうのである。それが何かははっきりとは分からないのだが、想像するに、樋口家と西村家の縁戚を実際に強く結ぶことを目的とした、いわば形式を第一の理由としたこの縁談の裏には、西村釧之助の樋口邦子への強い恋慕が隠れていたのではないだろうか。一葉の筆の乱れは、それを直感した一葉のとまどいであったのではないだろうか。勿論これは余計な推察であるには違いない。ただ一葉の文章の淀みに、何かただごとではないものを感じてしまうのである。ちなみに釧之助は邦子の9歳年上であった。西村釧之助の縁談話はもともと明治25年8月24日に出ている。野々宮きく子の友人俵田初音がその相手であった。俵田初音は同年8月28日に一葉宅を訪れ、一葉と有神論無神論を戦わせたクリスチャンである。この縁談はうまくまとまらなかったようだが、その理由は意外とそんなところにあったのかもしれない。)
 今日の新聞広告に、『同楽叢談(どうらくそうだん)』とかいう小説雑誌発行の広告があった。正直正太夫(※しょうじきしょうだゆう/小説家、評論家の斎藤緑雨(さいとうりょくう)の別号。)、柳塢亭寅彦(※りゅうていとらひこ/本名、右田寅彦(のぶひこ)。明治大正期の劇作家。当時は朝日新聞社東京支局の社会部長だった。明治25年3月7日に『武蔵野』の同人としてその名が出ている。)、果園主人(※小田久太郎。桃水の同郷、新聞社の同僚、弟子にあたり、果園と号した。のちの三越専務。明治25年5月22日に一葉は会っている。直近では明治26年1月8日に前年の思い出としてその名が出ている。)などの顔ぶれであった。以前の『武蔵野』に面影が似ていると思うにつけても、「ああ、紫のひともとはどうされているだろうか」と思いをはせた。(※古今集の「紫の一本(ひともと)ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」にちなんだもの。「紫」は紫という野草のこと。白い小さな花をつけ、古来武蔵野の名草として知られている。「みながら」はみな全て、の意。紫草の一本のために、武蔵野の草はみなすべていとおしく思われるなあ、ほどの歌意で、愛する人を紫草一本にたとえて、それにゆかりのある人々さえもいとしく思われることを詠んだもの。一葉にとって、「紫のひともと」は勿論半井桃水である。)

 邦子が今日から手内職をやめることにした。(※蝉表(せみおもて)を作る内職。邦子が上手であったことは明治24年8月3日に出ている。やめた理由は不明だが、割に合わない賃金ではあっただろう。)日が暮れてから道太郎(※塙道忠(はなわみちただ)。一葉の兄虎之助の陶器絵付けの弟子。旧姓能勢。直近では明治26年2月28日に出ている。)が兄上(※虎之助)の使いで来た。この夜は早く寝たけれども、考えることがあって眠り難かった。

   雨ははれたり、軒ばの若葉みどりすゞしく、
   人はまつによしなし、閑窓の中(うち)、
   たゞ苗うりの声ひなびたるを聞ゝて、
   更によみつゞく『唐詩選』。
(※これは一葉が試みた新体詩である。5月23日の新聞『国会』に掲載されていた大和田建樹の「若葉の陰」に感化を受けたものと思われる。詩の意味は次の通り。雨は上がって、軒端の若葉の緑が涼しく、あの人(※桃水)は(その訪れを)待っていてもその甲斐はない、ものしずかな部屋の窓の中で、ただ苗売り(※野菜の種売りの行商人)の声が田舎めいているのを聞いて、さらに「唐詩選」(※16世紀末頃に出版された中国唐代の漢詩選集)を読み続けている。)
(明治26年)5月26日 雨。とても早く起きた。漂流端艇(ボート)の乗組員の行方が分かったとのこと。電文が簡略で事実は知り難い(とのこと)。(※5月23日に記した郡司大尉一行が行方不明となった事件の続報が新聞(『国会』)に載った。行方不明になっていたのは北航端艇(ほっこうボート)の三番艇とその乗組員10名である。新聞には、その乗組員10名が青森県上北郡八ヶ所(※六ヶ所の誤りか)村に着いたが、役場からの電文が簡略で他の詳細は不明とあった。)今日も何事もなく一日を送った。夜は早くに寝た。
(明治26年)5月27日 起き出て見るとまた雨であった。しばらくして晴れたけれども、夕立などのようにしばしば(また)降って来た。雷さえ騒々しく鳴り渡った。昼過ぎ、広瀬七重郎(※広瀬ぶんの叔父)(のことだが)、(おぶんが被告人であった事件の)控訴事件が期日を経過した理由で(控訴)棄却の判決が下った。(※おぶんが失踪したまま裁判所に出頭しなかったためそうなったのだろう。)ただちに(その通告書を広瀬七重郎に)郵送した。
『同楽叢談(どうらくそうだん)』の批評が(新聞に)出た。(その記事によると)二号には、桃水、友彦などの作が出るということである。おしなべて『武蔵野』と変わらない。岡田凌波、三品蘭渓(の名前)もあった。(※当日の『国会』という新聞に掲載された「同楽叢談第一号」の記事によるもので、そこには「又二号よりは柳浪、桃水、紫山人、蘭渓、翠雨、友彦の諸子も筆を執(る)との予告あれば早く次号が見たきものなり」とあった。一葉が取り上げた「友彦」だが、おそらく明治期の戯作者の片山友彦(柳崖亭友彦(りゅうがいていともひこ)とも。)のことだろう。しかしこの作家はこの雑誌には一篇も作品を書いていない。もしかすると、似た名前である柳塢亭寅彦(りゅうていとらひこ)と誤った可能性もある。寅彦なら『同楽叢談』の1号と3号に作品が掲載されている。寅彦は『武蔵野』にも創刊時から執筆している。なお友彦と記してあったのは新聞であって、一葉の書き誤りではないが、一葉もそれを寅彦と勘違いした可能性もないではない。岡田凌波(おかだりょうは)はよく分からないが、『武蔵野』2号に「水調子」という作品を書いているので明治期の作家であろうか。また、三品蘭渓(みしならんけい(一葉の原文には<りん渓>とある。))は明治期の作家のようだが詳しくは分からない。『武蔵野』1号に「ぬれ燕」という作品を書いている。この時期の作家は新聞の記者が別名を使って小説を書いていることもあってか、素性が分からないことが多い。)故郷(ふるさと)の人の会合を遠く離れた場所で聞いているようで、今昔の感に堪えない(※今と昔を比べてその違いに心を打たれる意)。
 今日は甲子(きのえね)である。夕刻より邦子と一緒に小石川大黒天に参詣した。(※小石川の伝通院山内福聚院(でんづういんさんないふくじゅいん)大黒天。甲子(きのえね)の日に参れば金運に恵まれるとされている。甲子は十干と十二支の組み合わせの第一番であり、物事の始まりによいとされている。一葉は3月28日にも参詣している。)
 北航端艇(ほっこうボート)三番艇乗組員は、行方が知れたように聞いていたが、今日の報道によれば、「死体いまだ見つからず」とあった。どちらが正しいのだろうか。
 朝鮮の東学党がますます勢力を増してきたという。そこにロシア人が加わっているのではと噂されるので、朝鮮政府の恐れは少なくないという。(※東学党は1860年に崔済愚(チェ・ジェウ/さいせいぐ))により興された新興宗教集団で、1892年(明治25年)頃から、政府に処刑された教祖の遺志を継ぐ農民が李氏朝鮮の圧政に反乱を起こしはじめた。斥倭洋(※せきわよう/日本と西洋は退け)というスローガンを掲げ、1894年(明治27年)には甲午(こうご)農民戦争、いわゆる東学党の乱に発展した。ロシアと国境の近い地域ではそのゲリラの中に数人のロシア人が入っているという噂があった。)
 わらべ歌というものは、特にこれといったこともないものではあるが、世の中の流れや動きに従って歌い出されるのだろう。いにしえの君主がお忍び姿で市街に出てお遊びになられたのもこれを聞くためである。(※中国古代の伝説の帝王である帝堯(ていぎょう)が、街中の童謡を聞いて国が平和に治まっていることを知ったという故事がある。)(そして)現代のわらべ(※若者)たちよ、(彼らが)聞くに堪えぬ歌などを高らかに歌って、二人三人、四人、五人と大通りを練り歩く様子は、一体全体何の前兆であるのだろうか。もはや世の中は堕落してしまっているのだろうか、今まさにこれから世が乱れようとしているのだろうか。政(まつりごと)に立ち交わっておられる人が、気を付けていただかなければならないことであろう。
 稀有(けう)の日本人稲田真之助が現れた。(※5月26、27日に新聞に載った記事「稀有の日本人」、「稀有の日本人稲田氏の談話」の書き付け。記事によれば、現在46歳の稲田真之助という男は、13歳の時に密航して朝鮮からシンガポールを彷徨、明治10年頃ボルネオ島の開墾に着手、英国政府から土地を払い下げてもらって農場を経営し、今回その農場の雇人を募るために帰国していた。)
 故郷(ふるさと)は忘れがたい、また忘れてはならないものである。だけれども故郷が懐かしいからといって、一途に(それに)心惹かれてばかりいれば、都会に出て志した大事業(※大きな夢、ほどの意)が成就し得るものであろうか。契りを結ぶことなく終わってしまったあの人とのことは、たとえれば恋の故郷(ふるさと)であろう。これ(※恋の故郷)を架け橋(※はしご、と言い換えれば理解しやすいだろう。)にして、月を求め、花を求め、霞に情趣を感じ、霧を嘆き、世間を知り、天地(※世界)を知り、遠い昔から今に至るまで(人は)宇宙の美を求めようとするのだ。(※一葉は文学の創生を想起しているのだろう。端的に言えば和歌、恋歌である。なお、筑摩書房版一葉全集の注釈には「禿木の『吉田兼好』に感化を受けている』とある。失恋を動機に出家遁世し、歌や随筆を書いたという兼好法師をそこに重ねているのだろうか。)一体何ものの妨げであろうか、夢でもうつつ(※現実)でも(故郷から)解き放たれようにもその甲斐がなく、このささやかな世界から見たら、ほとんどこぼれている芥子の実(※芥子粒)と変わらないような(よりささいな)一現象に、心身の限りを尽くして、人知れず泣いたり笑ったりして、心が月(と一つ)になろうとする時、(また、)花(と一つ)になろうとする時、(何故か)再び(故郷に)立ち返っては、名残を惜しんでいる有様なのだ。(※一葉の、半井桃水を慕うこれまでの歌は、「玉水(雨だれ)」「鐘の音」「若草」といったささいなものにかこつけて歌われている。ささやかな日常の中で、そのようなちょっとした現象に心を留めて、そこから桃水との楽しかった思い出に意識が飛び、歌が生まれるのである。つまり「故郷」とはその恋しい「思い出」のことである。)どうしてすっかり忘れられようか。故郷は私自身の故郷である。たとえ軒端が荒れてしまっても(※故郷の家が荒れてしまっても、の意。『武蔵野』が廃刊になったことを指す。)、人の心があらたまったとしても、昔を偲ぶことが出来ないということがあろうか。ただ一歩ずつ志す方向へ進むことはよい(ことな)のであるが、(ある)一歩は前進することを願い、(ある)一歩は(故郷に)帰ることを思う私の心は、一体全体何だというのだろう。悲しみが(押し寄せて)来てはあの人を思い、気力が弱くなってはあの人を思う。(※事実、一葉は生活に行き詰まったり、つらいことがあったりすると桃水を慕う歌を詠っている。)まあよい、今となっては決して(あの)人とも言うまい、清らかな目とも言うまい、艶があって美しい口元とも言うまい。何とも得体の知れぬものが、ただその人の名を告げるものが、ひしひしと身に迫って来るのがせつなく悲しいのだ。故郷が忘れられないものであるということはかえすがえす知りつつも、そうとは分かっていても、その故郷を忘れてしまうことを、寝ても覚めても、鳴く鹿のように(※せつなく、の意)願っているのだ。不思議なことだ、私の心は二つあるのか。一方から見れば、(故郷が忘れられないのは)浅ましく残念なことで、顧みては愚かで(自分が)卑しくさえ思われるのに、もう一方では、「ままよ、この身があるからこそ思い悩んだりするのだ。(いっそこの身を)淵に投げ入れてしまおうか、海に沈めてしまおうか、浮き世の非難も全く厭うまい、親兄妹らの嘆きも思うまい。」などのようにさえ思われるのだ。ああ、(この私の)迷いはいつの日に晴れるのだろうか、本当の美(※理想という意味に近い。明治26年2月6日に、一葉は「完全無瑕(※むか/無傷)の一美人」を創造しようと哲学的思考を記している。そこでも言及したが、それは理想的な人間、というものを目指す思索であった。)というものをいつの日に見られるのだろうか。
(明治26年)5月27日 雨。(※28日の日記を書こうとして誤って27日と記し、ここで止めたもの。だから28日は雨である。)
(明治26年)5月28日 (新聞の)号外で(悪い)知らせを得た。「北航艇隊の鼎浦丸(かなえうらまる)がまた難破。(船体は)八戸鮫浦字大久喜(はちのへさめうらあざおおくき)に漂着した。乗組員は一人も発見されていない由。おそらくは(先日の)三番艇とその最期を同じくしたものであろう。」とあった。悲しむべきことであるなあ。
(明治26年)5月29日 曇り。(貧しさに)窮すること、はなはだしい。お金を借りに伊東夏子さんを訪ねた。こころよく八円を貸された。(※額がかなり大きい。樋口家のおよそ1か月分の生活費であったようだ。)昼過ぎまで話をした。宗教(※キリスト教)のこと、哲理(※哲学上の道理を意味するが、やはりキリスト教がらみではあろう。)のこと、なかなか話が尽きなかった。(二人で)言うことごとに(まるで)反対なのだが、お互いに胸の内を隠すところがないのが楽しかった。邦子が、この日吉田さん(※邦子の友達。直近では明治26年4月2日に出ている。)を訪ねた。野々宮さん(※野々宮きく子)のこと、喜多川さん(※北川秀子。邦子の友人で、雑貨商の娘。直近では明治25年1月1日にその名が出ている。)のこと、奇談が入り乱れ、醜聞もあわせて耳に入った。最近は話が伝わるところ、見るところ、清らかで潔いことなどは少なくて、このように嘆かわしいことが多いのは、世の中がおしなべて濁っていることによるものなのか。だけれども、一方を見れば、伊東夏子さん、平田禿木さん(※ひらたとくぼく/『文学界』同人。明治26年3月21日に一葉宅を訪れている。直近では4月27日にその名が出ている。また、禿木は明治20年に教会で洗礼を受けている。)など(のように)、年がまだ若く世故(※せこ/世間の事情)に慣れていない人の心(の美しさ)よ、(彼らのように)神を慕い、神を敬い、道義(※人として行うべき正しいすじみち)の光を生じさせようとしている人たちも見えるので、必ずしも世の中は濁っているとも決めつけがたい。思うに、(枝に)一葉が生まれて一葉が落ちるのは天地の道理である。今まさに大いに大宗教が興り、大教理が行われようとしている兆しとして、(その)一方(※反面)がここまで乱れてきているのだろうか。十九世紀(※現代)の孔子、及び釈尊(※仏陀)はどこに眠っているのだろうか。天下は、(今から)やって来るものに対して先に待ち受けるものであろう。詩歌文学(の勢い)がだんだん下り坂のように見えるのは、これもまた大詩人、大歌人が眠りを覚ますもの(※前兆)ではないのか。楽しいことだなあ、(大きな)事を成すべき人の舞台は、今目の前に迫ってきている(のかも知れない)。
 この夜凶報がまた届いた。「郡司大尉、鮫浦において自殺をした。」と(のこと)。また一報には、「変死である。現場に判事、検事が出張した。」とあった。(※いずれも『東京朝日新聞』の報道。)しかし、わが『国会新聞』の報道によれば、「大尉は自殺したのではない。過失にて負傷したのである。(その)傷もまた軽いものである。」と報じている。
(明治26年)5月30日 雨。(郡司)大尉のことを思うにつけても早朝から気分が悪い。わが新聞(※『国会』)の報じるところによれば、「破損した船体を焼却する際に右目を火傷をしたのである。」ということだ。
(明治26年)5月31日 珍しく空が晴れた。郡司大尉変死の一件は、本当に針小棒大の偽りで、軽傷を負ったのみであった。「五日たてば完治するだろう。」ということだ。(※『東京朝日新聞』の報道。)
 姉上(※ふじ)より、兄上(※虎之助)が受け取るはずのお金をおつかわしになった。すぐに通運便(※民間の通運会社による送金)で(兄上宛て)差し出した。
 芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。お金を一円預かった。もとからのと合わせて二円九十銭である。(※樋口家は芦沢芳太郎の私生活の監督をつとめていた。繰り返しになるが、芦沢芳太郎は、一葉の母たきの弟の子、つまり甥である。)
 今日も空がぐずついて、一、二度急に雨が降った。夕刻からまた晴れた。山梨県伊庭隆次(※いばりゅうじ/樋口家の友人。郵便局員。直近では明治26年4月24日に出ている。)から葉書が来た。雑誌の購入を依頼してである。
(明治26年)6月1日 晴れ。中島幾子さん一年祭(※明治25年6月1日の日記に詳しいが、中島幾子は中島歌子の母。ちょうど1年前に亡くなり、今年はその一年祭であった。)の蒸し物(※蒸し菓子)をいただいた。明日は祭典(※一年祭)があるからと招かれた。お鉱様(※稲葉鉱)が来られた。古いゆかたを差し上げた。久保木の姉上(※ふじ)が来訪。平田禿木さんから手紙が来た。『文学界』のことについてである。この夜は入浴し、遅くに寝た。
(明治26年)6月2日 曇り。この日土方邸にて行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)(※明治天皇が宮内大臣土方久元(ひじかたひさもと)の私邸にお出ましになられた。)があった。昼過ぎから中島さんのところ(※中島幾子の一年祭である。)に行った。雨になった。集まった人は五人で、本当に内輪の会合となった。夜になって帰宅した。伊東さんから『読売新聞』を借りて来て、そのまま十二時頃までそれを読んだ。
(明治26年)6月3日 珍しく晴れた。この日土方邸に行啓(ぎょうけい/皇后、また皇太子などのお出かけ)があった。「北航遠征記」(※『東京朝日新聞』と『国会』に同時掲載された全33回の横川勇次の北航端艇レポート。それぞれ「短艇遠征記」「端艇遠征記」と題され掲載された。)を読んだ。遭難の顛末の詳細を読むにつけても、「一読三嘆(※いちどくさんたん/素晴らしい詩文などを読んで感銘を受けること)」などとは、このようなことを言うのだろうか。(郡司)大尉の心中(たるや)、思いやるさえ痛ましい。
(明治26年)6月4日 晴れ。小石川(※萩の舎)の稽古に赴いた。昼過ぎから番町に三宅さん(※三宅龍子)を訪ねた。(※三宅雄二郎、龍子夫妻の家は麹町区下二番町37。麹町の一番町から六番町までは江戸時代から番町と呼ばれ、宮家、華族、官僚の家が多かった。)一月以来はじめて訪問したのである。(龍子さんは)「ひたすら家事に身をゆだねて、世間の事、文学の事、何事も耳に入りません。」と言って、極めて冷淡になられていた。しばらくして帰宅。
(明治26年)6月5日 雨である。山梨県の広瀬(※広瀬七重郎。広瀬ぶんの叔父。)がやって来て一泊した。
(明治26年)6月6日 晴れ。稲葉の奥様(※稲葉鉱)が来訪。(また、)菊池の御隠居(※菊池政)が来訪。(そして、)兵隊(※芦沢芳太郎)が来た。一日ごたごたして終わってしまった。
(明治26年)6月7日 晴れ。稲葉さん(※稲葉寛、あるいは鉱。)が来訪。西村さん(※西村釧之助)が来た。藤田東湖(※ふじたとうこ/幕末の儒学者。水戸藩士で徳川斉昭に仕え、その思想は尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。)、亀田鵬斉(※かめだほうさい/幕末の儒学者、書家。その書は独特で人気があった。)の書を、(西村さんは)人から頼まれて売却しようとしているのだが、中島先生(※中島歌子)などの中に然るべき買い手がないかということであった。
   片々(※へんぺん/元来、「断片」という意味だが、『国会』などが雑報(※種々雑多な記事)の見出しに使っていたのを一葉がまねたもの)
 南洋諸島のうち某の王弟サミ氏(※カロリン群島トラック島から王弟サンミ一行が来日、福沢諭吉の招待で時事新報社の印刷技術を見学、東京府知事などの私宅などで歓迎を受け親善の役割を果たした。)が来日。あちらこちらでもてなした。
 騒々しいものは、弁護士会長選挙の騒ぎ(※東京弁護士会会長選挙で、抽選派と選挙派による対立が激化する中で投票が行われた。)角石事件(※京都の油商北村家の遺産をめぐる訴訟事件)、花房さんマーヱット氏家屋事件(※内閣総理大臣秘書官花房直三郎が、私有の家屋をドイツ人マイヱット氏に貸し付け、それが国禁を犯したものとして弾劾された事件。)、市之川鉱山事件(※愛媛県市之川鉱山の株を神戸在住のイギリス人ハンダーが買い占め、それを『国会』が外国人土地所有の問題として扱ったもの。)。
 勇ましいものは、
 福島中佐(※シベリヤ横断単独騎馬旅行を終えた福島安正はまだ中国東部の琿春(フンチュン)に滞在、6月中に帰国と予想された。)が遠征が終わって、近々帰国されるとのことである。
 哀れなるものは、
 郡司大尉の一行である。それも「軍艦磐城(いわき)に曳航されながら、五日には函館に入った」との由。
 隣同士である関係で騒がしいものは、
 朝鮮の東学党。(一度)鎮まっては、また(争乱が)燃え上がっているようだ。
(明治26年)6月8日 晴れ。寺島宮中顧問官薨去(こうきょ)の知らせがあった。(※枢密顧問官寺島宗則が死去した報道。薨去は本来皇族に対して使われる言葉。)
 夕刻より江戸川(※小石川大曲あたりを流れる神田川を通称江戸川と称していた。)辺りを散歩した。田中さん(※田中みの子)に手本(※何の手本か不詳)を持参した。この夜(新聞の)号外が来た。「吾妻山三回目の爆発で、調査技師三浦宗三郎、同じく雇人の西山総吉が死去」とあった。(※6月7日に火口付近で吾妻山噴火の調査にあたっていた地質調査員2名(三浦宗二郎と西山惣吉。漢字が違っている。)が噴石に当たって死亡。6月8日に発見された。)痛ましいことだ。
(明治26年)6月9日 曇り。
(明治26年)6月10日 雨である。
「三浦宗三郎、西山総吉両氏とも、妻女がご懐妊中である」由、重ねて痛ましい。
   最近の大捕り物
 河内の国(※大阪府の東部)の十人斬りの凶行犯は二人で、金剛山に立てこもりながら警察(の出方)を待った。管下の警察官を総動員して捜索すること二十日間、捕らえることができずに遂に(二人は)自殺し(ているのが発見され)た。(※5月25日に大阪の赤坂村で10人を殺害したばくち打ち城戸熊太郎とその舎弟谷弥五郎の事件。河内十人斬りと呼ばれ、女をとられたことと借金を踏み倒されたこと、そして半殺しにされたことへの復讐であった。)
   片々
 郡司大尉の一行、「ボートで行くのを中止して、汽船に乗って行く」とのこと。(※函館に滞在していた郡司大尉一行は、汽船で千島列島に向かうことに決定した。)

 どうして(あの人からの手紙を)待っているのかも分からず、また確かに待っていた方がよい心当たりがあるわけでもない。(その文面の言葉を)聞いて嬉しい便りか、聞かないでいる方がかえって幸せが深くなるのか、どちらにもどちらにも(迷って)思慮をめぐらすことができない。「門の辺りを走る郵便配達人が、ああ、わが家に寄ってくれないか、(それが)あの人の便りであってくれないか、一人の(郵便配達人は)通り過ぎてしまったけれど、今度こそは。」と窓辺に寄ってしきりに待った。(郵便配達人が)あっけなく通り過ぎるのも気に入らないし、隣の家に入っていくのもしゃくにさわる。門札をしばし眺めて、「違う。」と言って通り過ぎてしまうのは、いよいよもって気に入らない。
   わすれぐさなどつまざらんすみよしの
   まつかひあらむものならなくに
(※平安時代の勅撰和歌集、後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)にある平棟仲(たいらのむねなか)の歌「忘れ草つみてかへらむ住よしのきし方の世は思ひでもなし」をふまえたもの。<わすれぐさ>は「忘れ草」で、身に着けると憂いや恋しい人を忘れるとされた草花。<すみよしの>は「住吉の」で「まつ」や「きし」にかかる枕詞。<世>は男女の仲を表す。この歌は、忘れ草を摘んで帰ろう、これまでの二人の間には何の良い思い出もないのだから、ほどの意。一葉の歌は、<ならなくに>は「~ではないのに」の意で、全体の歌意は、忘れ草をどうして摘まずにはおかれようか、(あの人を)待つ甲斐などあるはずはないのに、ほどの意。)
 恋は心にあるものであって、わが身には厭うものである。
   沖津波(おきつなみ)きしのよる辺とねがはねど
   くだくるものはこゝろ成けり
(※<沖津波>は沖に立つ波のこと。<くだく>は波が砕けるのと思いが砕けることを掛けたもの。沖に立つ波が岸辺に寄る波であってほしいとは願ってはいないのだけれど、(それにしてもそうあってほしいと)思い悩むのは(私の)心であることだ、ほどの意。
   もろともにしなばしなんといのるかな
   あらむかぎりは恋しきものを
(※(あの人と)一緒に死ねるのなら死のうと祈ることだ、生きている限りは恋しいのだから、ほどの意。)
   久方のあめにまじりて我おらむ
   みえぬかたちは人もいとはじ
(※<久方の>は雨にかかる枕詞。(この)雨の中に混じって(※隠れて)私はいることにしよう、(雨で)見えない姿はあの人も厭うまい(だろうから)、ほどの意。先の歌と合わせて、自身の存在を消したいとまで思い悩む一葉の姿がある。)
 去る者は日日に疎し(※親しかった友人も遠く離れてしまうと次第に疎遠になること。)と誰も皆言うけれど、
   しげりあふまどのわかたけ日にそへて
   うとしやなにのこと葉なるらむ
(※<わかたけ>は「若竹」で、その年に生えた竹のこと。<日にそへて>は日がたつにつれて、の意。<しげりあふ>は一面に生い茂ること。日がたつにつれて一面に生い茂る窓(外)の若竹を見ていると、日々に疎しなんて一体何の言葉なのだろうか、ほどの意。若竹と同じように、日がたつにつれてあの人への思いが強くなる自身の心を詠ったもの。)
 雨が降る日、その人(※半井桃水)の著書を読む。
   かきくらしふるは涙かさみだれの
   空もはれせずものをこそおもへ
(※<かきくらしふる>は、辺り一面が暗くなるほど雨がひどく降ること。<ものをこそおもへ>は、物思いにふけることだ、の意。辺り一面に降る雨は私の涙であろうか、五月雨の降る空(と同じく私の心)は晴れようもなく、(ひとり)物思いにふけってしまうことだ、ほどの意。)
 (あの人からの手紙を)読むのもつらく、読まないのもつらい。
   くりかへしみるに心はなぐさまで
   かなしきものをみづくきのあと
(※<なぐさまで>は心が晴れないで、の意。<みづくき>は「水茎」で手紙のこと。<あと>は筆跡。あの人からの手紙を繰り返し読んでも、私の心は晴れず、かえって悲しい気持ちになるのになあ、ほどの意。)
   
 

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)

 


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