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現代語訳 樋口一葉日記 30(M26.4.7~M26.5.2)◎香典をどうする、達磨大師の歌、桃水への思慕、雹、雷、頭痛、衣更えの俳句

蓬生日記(明治26年(1893))4月

(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意一葉はこれに限らず同じ題を何度も使っている。)

(明治26年)4月7日 晴天。昼過ぎに嵐が吹き起こり、大雨がしきりに降ってきて大変恐ろしいほどであった。しばらくして止んだ。
(明治26年)4月8日 晴天。山下直一さん(※樋口家の元書生。直近では明治26年3月13日に出ている。)が来た。数時間遊んで帰った。この日、母上が菊池先生(※一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉のこと。明治22年に死去。その奥方の菊池政、長男の菊池隆直が本郷元町で「むさしや」という紙類小間物商を営んでいた。)のお寺参りをされた。
(明治26年)4月9日 日曜なので芦沢(※芦沢芳太郎。一葉の母たきの弟の子。)が来た。三枝さん(※三枝信三郎。一葉の父則義の恩人真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治26年2月17日、27日に出ている。)が来訪された。(樋口家が)借りた金のことについてである。そうではあったが、ものものしい(返済の)催促もなく帰られた。久保木の姉上(※ふじ)が来た。(夫の)長十郎が風邪をわずらっていることを話した。夕方すぐに母上と一緒に湯島(※地名)あたりを散歩した。この夜は一時過ぎまで燈下にあった。(※小説の執筆だろう。)
(明治26年)4月10日 とても朝寝してしまった。起き出て見ると、雨でとても暖かい。午前中に母上は久保木と菊池さん(※菊池政、隆直のいる「むさしや」)のところに風邪のお見舞いをされていた。今日から高等中学の稽古(※授業)が始まったと聞いたので、そのついでに禿木さん(※平田禿木(とくぼく)。『文学界』同人。明治26年3月21日に初来訪している。)が来られるかと心の中で待っていたが、そういうこともなく終わった。今日一日は雨で日を送った。
 庭の山吹を折って花瓶にさし、(次のように詠った。)
   山ぶきのみのなき宿と春雨の
   ふりはえてしも人のとはぬか
(※平安時代後期『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』の兼明親王(かねあきらしんのう)の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」を踏まえたもの。これは、七重八重と見事な山吹の花が咲いてはいるけれど、八重咲きの山吹に実がないのとおなじように、私の家には蓑ひとつありません、という意。これには詞書(ことばがき/歌の前書き)があって、雨の日に蓑を借りたいという人があり、その人に蓑がないことを言わずに山吹の枝を折って渡したところ、不思議に思ったその人が後日その意味がよく分からないと言ってきたのでこの歌を渡した、とある。この歌にはもう一つ伝説がある。室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が、鷹狩の際、急な雨に降られて、ある農家に蓑を所望したところ、出てきた娘がおずおずと山吹の一枝を渡してくるのみであった。道灌は花ではなく蓑だと怒って濡れたまま城に戻るが、そこで家臣から「山吹」の歌のことを教えられ、家が貧しく蓑がないことを娘が詫びていたのだと知り、以後和歌の道に精進したという。一葉の歌は、<ふりはふ>は「わざわざ~する」意。<ふり>は春雨が「降る」に掛けている。山吹の実がないように、蓑のない貧しい家であるからと、こう春雨が降ってはわざわざ(ここに)人は訪れないのだなあ、ほどの意。
 長らくどこにも訪問していないので、(次のように詠った。)
   くれ竹の友がきいかに荒れぬらん
   ふしの間どほに成れるころかな
(※<くれ竹の>は「節」にかかる枕詞。<友がき>は友達。<荒る>は荒れる、また、興ざめする意。<まどほ(間遠)>は時間的、空間的に離れていること。また、<ふし(節)>は機会の意。<竹><がき(垣)><ふし(節)>は縁語。私の友達は私が行かないのでどんなに興ざめしていることだろう、会う機会が間遠になった頃合いで(は)あるなあ、ほどの意。竹垣が荒れて節と節の間が離れてしまっている様子に重ねている。
 花の盛りももう一日、二日と聞いたので、(次のように詠った。)
   春雨はたもとにばかりかゝる哉(かな)
   いざ花にともいひがたきころ
(※春雨は袂にばかり降りかかることだ、さあ花見に、とも(もう)言えない頃なのだが、ほどの意。この歌は少し真意を読みとりにくいが、語句をそのまま文字通りに受け取ると、本当は花見に行きたかったのだがそれも遅きに失し、その上こう春雨に降られてはさらに行く気も失せてしまった、とも取られかねない歌になってしまう。そうではなく、これは一葉のふさいだ気分を表した歌であろう。袂(たもと)には、「袂の露」という成語があり、袂にかかる涙を意味する。この歌の主旨はそこにあって、つまりここで言う「春雨」は「涙」であろう。寂しさや貧しさに涙する自分の姿を春雨にことよせて、その何となくふさいだ気分を漂わせながら、ああ花見にも行けなかったなあ、とつぶやく自身の姿を浮き彫りにしたものであろう。)
 「なみ六茶屋(※小説家の村上浪六(なみろく)が墨田川沿いの白髭神社のほとりに、茶店を開き、自ら派手な侠客姿で行楽客を接待して楽しませた。4月10日の『読売新聞』に浪六自らが出した広告が載っていた。村上浪六は侠客ものの小説が得意であった。侠客とは、強きをくじき弱きを助けることを建前とする任侠の徒。)が今日から開かれた」と聞いたので、(次のように詠った。)
   澄田川花に計(ばかり)と思ひしを
   ふでに狂へる人もありけり
(※墨田川は桜の花にばかり人は夢中になるものと思っていたが、筆(※書くこと)に狂ってしまった人もいるのだなあ、ほどの意。おそらく一葉は村上浪六の突飛な行動に、おかしな小説家がいるものだと思っただろう。それを<ふでに狂へる>と表現したもの。好きな侠客ものを書きすぎて、それが高じたものと捉えたのである。)
(明治26年)4月12日 小石川(※萩の舎)へ行った。
(明治26年)4月13日 この夜、吉原より失火。揚屋町(※地名。あげやまち)。(※梅万楼から出火し46戸が焼失した。)
(明治26年)4月14日 図書館。この夜稲葉さん(※稲葉寛。稲葉鉱の夫)に吉報があった。(※就職らしい。仕事の内容については不詳だが、短い期間で終わったようだ。)
(明治26年)4月15日 藤本(※藤本藤陰。『都の花』の編集、執筆者。直近では明治26年2月22日に出ている。)のところへ行った。半井さんの消息を聞くことが出来た。この夜、お鉱様が来られた。稲葉さん(※寛)が就職されるにあたって、入用な衣服などが(それに)間に合わないので、西村さん(※西村釧之助)に(服を)借りたい、ということで、(ついては)その取次を母上に頼みたいというわけである。この日、国子(※邦子)と一緒に根津(※地名)から天王寺辺りを歩いた。
(明治26年)4月16日 家の門を直しに大工が来た。(ところが)急に雨になったので、その仕事にかからず帰ってしまった。昼過ぎからは晴れた。
(明治26年)4月17日 晴れたけれど大工は来ない。母上は、昼過ぎから上野東照宮を参詣した。(※4月17日は家康忌にあたり、徳川家康を神として祀る上野東照宮では大祭があった。家康忌の供え物として草餅が作られた。)安達さん(※安達こう。安達盛貞の妻。直近では明治26年1月2日に出ている。)、大工の稲垣長太郎(※直近では明治26年3月4日に出ている。)が草餅を持参して来た。奥田の老人(※奥田栄。樋口家はこの老女へ父の借金の返済を続けていた。)が、伊勢から帰京して来たとのことで来訪した。(その)帰りを送って、国子(※邦子)とともに三丁目まで行った。大学(※帝国大学。現東京大学)の前から安部邸(※旧老中阿部伊予守正勝の邸。)を抜けて帰宅した。この夜、榊原家(※萩の舎門人榊原つねの家。つねは直近では明治26年2月23日、26日に出ている。)から(使いが来て)東照宮祭典のお料理を贈られた。私が一度小石川(※萩の舎)の稽古を欠席したので、「ご病気ではないのか」と常(つね)姫が心配されている由、(そんな)和歌を記した便りがあった。(榊原家からの)使いは帰った。この日、吉原の角海老(※妓楼の名)の主人、宮沢平吉の葬儀が、谷中(※谷中墓地)であった。「岩崎(※三菱財閥を築いた岩崎弥太郎)以来の賑わい」であったと見た人が語った。
 私が(今)住む家は、もとは中島某といって文部省に奉職する人が住んでいた。(※樋口家は、明治25年5月5日に、もと居た家の西隣の家に引っ越している。具体的には本郷区菊坂町七十から六十九へ移転しているが、その六十九番地の家の話である。)(家に)しばしば泥棒が入って(※明治24年10月18日にそのようなことが書かれてある。)、「大変とんでもない家だ」と(よそに)引き移ってしまったのだが、この住家の隣に、堀川と言う測量技師が以前から(住んで)いた。年若い夫婦で、とてもひっそりと世を送っていると見えたのだが、(何と)この人こそが泥棒であった(のだ)。近頃になって捕らえられ牢屋に赴いたとのことだ。(堀川らは)それからすぐにここを移って行ってどうしたのだろうか。垣根一つ隔てた隣に泥棒がいるとは決して知る由もなく、(周りの)多くの人を(むやみに)疑って(しまい)、世を恨んで気も狂わんばかりに見えた、かの中島さんの妻のような人は、浮世には少なくはないのだ(ろう)なあ。
(明治26年)4月18日 快晴。家の(門の)普請にかかった。山下次郎さん(※樋口家の元書生、山下直一の弟。直近では明治24年8月1日に出ている。)が、(埼玉県)熊ケ谷から来られたとのことで来訪された。昼食を出した。わが家の裏手にいる人の子供で、四つぐらいの子が、三人そろって行方知れずになったと言って、人々が探して騒いでいた。「田町(※地名)のはずれで遊んでいた。」と、ややしばらくして見つかった。その時の親たちの(心の)苦しみを思うべきである。この夜、邦子と、互いに揉み療治をしあって、早々に床に伏した。
(明治26年)4月19日 晴天である。関根只誠翁(※せきねしせい/演劇研究家。演劇通で歌舞伎関係の本を多く著した。珍書収集でも著名。関根家は本郷区森川町にあり、本郷の劇神仙と呼ばれた。一葉の父則義とも交際があった。樋口家の長男泉太郎の葬儀の際は香典をもらっている。)が、昨十八日に死去されたことが新聞に見えていた。是非弔問したいのだけれど、その香典(※原文は<香花(こうばな)の料>なので正確には御香華料(ごこうかりょう)であろうが、ここでは一般的な香典と訳した。)をどのように用意できる(というの)だろうか。家はただもう貧乏が迫りに迫って、米代さえ得るのが難しいというのに、邦子は、「私がこのままで(※着の身着のままになって)、(残った)着物さえ(質屋に)持って行けば、それ(※香典)ぐらいの金にはならないことはないでしょう。さあさあ。」と促した。「姉上は物事の決断がなかなかできなくて、ぐずぐずとなさるのが残念です。どちらとでもお決めください。」としきりに(私を)せきたてた。(そのことについて)母上は言うまでもなく、私(とて)もそう思うのだが(※一葉が急場をしのぐ決断が出来ない事を指す。母上は、20日前の3月30日に、生活の苦しさから一葉の執筆の遅さを叱咤している。ここでまず「母上」という言葉が出るほど、一葉は日々母上に小言を言われ続けていたのだろうと推測される。)、着ている着物と言っても大方は売り尽くしてしまった今、この上に(着物を)失うのは大変心が痛むのだ。(すると母上は)「(関根さんの)お弔いをしたいのは言うまでもありませんが、明日の米にも事欠く有様なのに、人様のことに関わることのできる身の上ではありません。つまるところ、夏子(※一葉の本名)が意気地なしでお金を得る道がないからなのです。こんな有様では、(こんな苦しい生活の)終わりも分からないというのに。」など、大変数多い言葉で(私を)大声で非難なさった。邦子は私の優柔(不断)をとがめてしきりにせかした。
   我こそはだるま大師(だいし)に成りにけれ
   とぶらはんにもあしなしにして
(※私は達磨大師になってしまったことだ、(人を)お弔いするにもおあしがないのだから、ほどの意。達磨大師はインドから中国に渡って禅宗を広めた高僧。壁に向かって9年座禅を続けて(※面壁九年/めんぺきくねん、と呼ばれる。)悟りを開いたという伝説があり、その際に足が腐ってなくなったという。だから<あしなし>と来ているのである。これには「おあしがない」の「あし(銭)」を掛けていて、非常に貧乏なこと、さらには一葉の現状、すなわち、日々机に向かい暮らして執筆に努力しながら成果をあげられない有様をも表現している。また、「蘆葉達磨(ろようだるま)」という東洋画の画題があり、これは達磨大師が一枚の葦(蘆葉)に乗って海を渡りインドから中国に来たという伝説に基づくものである。一葉という筆名はこれからとられたようだ。)
 むかしむかし、中国の荘子とかいった人が、ある人の葬儀の席に集まる人が多いのを見て、この亡くなった人(※老子)まで嫌ったとかいうことだ。(また、)一休和尚のしゃれこうべの絵ものがたりを見ても、(まあ)そういうことなのだが、(とはいえそれは、)時代が(時代で)やむを得なかったからであろう。
(※老子、荘子とも中国の諸子百家の一つ、道家(どうか)の思想家で、儒教の人為的道徳を否定し、自然の道理に従う無為自然を説いた人物。葬儀の一節は『荘子(そうじ)』内篇の養生主(ようせいしゅ)篇にある挿話である。秦失(しんいつ)という人物が老子の葬儀に来て三度泣いただけでそのまますぐ退席しようとした。他の老子の門人たちがそれを冷たい態度だとなじると、秦失は次のように言った。「本来人間は自然の法則に従って生まれ、自然に死ぬのであって、そこに余計な喜怒哀楽の感情はいらないはずである。それなのに、今、周囲の者たちが多く集まって号泣しているのは自然の法則にそむく行為であり、それは老子が普段からそう教えていたからだ。」つまり、秦失は老子への失望を露(あらわ)にしたのである。より徹底した無為自然の実践を言ったものであろう。また、一休和尚とは一休宗純(いっきゅうそうじゅん)のこと。室町時代の禅僧で、頓智で有名だが、その自由で破天荒な生き方が当時から人気を博した。一葉が図書館で読んだ本は『絵入ひらがな一休骸骨』である。『一休骸骨』は一休が書いたとされる漫画のような書物で、骸骨の姿をした人間たちの一生を描き、生死一如(しょうじいちにょ/生と死はその本質は同じであるという教え)を説いたものとされている。その中で骸骨人間が死ぬ際、そこに一休の狂歌が記されている。「もとの身はもとの所へかへるべしいらぬ仏にたづねばしすな」。歌意は、(生と死は表裏一体であり、)死んだら元のところ(※土)へ帰るだけのことであって、死んだからといって不要な仏(※仏様、仏教、僧といった幅広い意味での仏だろう。)を求めたりなどするな、というものである。一葉の「そういうことなのだ」は、このあたりが、荘子の逸話と似通っているということであろう。つまり、荘子も一休も死を自然そのものと受け取っていて、そこに人間の余計な感情やしつらえは無意味だとする強い姿勢が見えるということである。平たく言えば、葬儀などあまり大げさにするものではない、ということなのだが、結局それは時代が時代でそれでやむを得なかったのかもしれないのであって、明治という新時代に生きる一葉らにとっては、そういうわけにもいかない、という一葉の心のつぶやきであろう。なお、「そういうことなのだ」の原文は<さる事ぞかし>で、これは「もっともなことだ」とも訳すことが出来る。)
 まもなく、国子(※邦子)と話して、西村(※西村釧之助)のところへ金を借りに行った。母上からの言いつけということで話を進めていった。(そうして)一円借りて来たのであった。芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。(陸軍の)演習として明日から十日間、習志野(※千葉県の地名)に赴くということだ。昼過ぎから母上は関根さんのところに赴かれた。今宵はお風呂に入った。
(明治26年)4月20日 晴天。午前中に母上が奥田の老人(※奥田栄)を訪ねた。昼過ぎに広瀬七重郎(※一葉の父則義のいとこ。)が上京して来た。裁判事件(※七重郎の姪広瀬ぶんの再審)についてである。今日(のうちに)すぐ山梨に帰るとのことである。この夜、母上とともに散歩をした。寝たのは十二時であっただろう。大雨になった。
(明治26年)4月21日 雨。
 「自分の心から出た(あの人の)姿なのだから、忘れようとして忘れるのがどうして出来ないことがあろうか。」と、ひたすらに念じて忘れようとするうちに、まるでわが身に迫りくるように(あの人の)面影が近くに見えて(来て)、とても耐えることが出来ない。(※半井桃水の姿が浮かぶのである。)ふと体を動かせば、かの薬の香り(※石炭酸(※消毒殺菌剤)の匂いである。明治25年4月30日に、一葉はその2日前に痔疾の手術をした桃水のところに行って、この香りが強かったことを書いている。)が、さっと香って来る心地がして、遠くから(あの人に)思いをはせる心がいつも(このようにあの人と)行き通うのであろうかと、なんとなく恐ろしいまでに(あの人のことが)深く染み入ってしまった(自分の)心である。かの六条の御息所(※ろくじょうのみやすどころ/『源氏物語』の登場人物。光源氏の年上の愛人であったが、嫉妬心が強く、光源氏の妻で懐妊していた葵の上に生霊となって取りつく。葵の上は苦しんだ末、男の子を出産して死んでしまう。)の浅ましさを思うと、なるほど(それも)偽りとは言われないのだなあ。
   おもひやる心かよはばみてもこん
   さてもやしばしなぐさめぬべく
(※<さてもや>は「そうすれば~となりもしようか」の意。<なぐさむ>は、心が晴れる意。遠くから思いをはせる心が通うのならあの人に会っても来よう、そうすればしばらくは心を晴らすことが出来もしようか、ほどの意。)
(明治26年)4月22日 晴天。小石川(※萩の舎)の稽古に行った。道の途中で半井さん(※半井桃水)を訪ねた。(※ここに桃水訪問の詳細は書かれていないが、その辺りの事情は次の日記「しのぶぐさ」で明らかになろう。)小石川はいつも通りであった。昼過ぎ、(萩の舎に)田辺君子さん(※田辺己巳子(きみこ)。三宅龍子の母。甲州の代官の次女であった。田辺太一の妻。直近では明治25年10月24日に出ている。)が来訪。龍子さん(※三宅龍子)が懐妊されたことを師の君(※中島歌子)に吹聴するためであった。
(明治26年)4月23日 晴天。芦沢(※芦沢芳太郎)から習志野に着いた知らせが来た。この夜龍子さん(※三宅龍子)から『文学界』三号が送られてきた。稲葉のお鉱さんが来られた。
(明治26年)4月24日 晴れてはいるが風が冷ややかで気持ちが悪い。(山梨県)甲府市の伊庭隆次さん(※樋口家の友人。郵便局員。直近では明治25年7月28日に出ている。)から手紙が来た。(また、)岩手から野々宮さん(※野々宮きく子)の手紙が来た(※野々宮きく子は手紙で通信教育のように一葉から和歌を習っていたという。)。この夜、それぞれへ(手紙の)返事をしたためた。十一時過ぎから、天地をひっくり返すほどの雷雨で、その凄まじいことと言ったら(とても)言い表すことが出来ない。まもなく雹(ひょう)が降り出した。雨戸に小石を投げつけるようであった。十五分くらいで雹は降りやんだ。雹の大きさは直径三分(※約9ミリ)ぐらいのものもあった。川のようになった雨水の中を(降った雹が)ざくざくと漂って、掬い取れば一時に一合も手中に収まったに違いない。(こんな雹は)私がまだ経験しないことであった。
(明治26年)4月25日 早朝は晴れていたようであったが、六時過ぎから空がただもうひたすら暗くなって、雷雨が昨夜にかわらず(激しく)、しばしも(雨)戸を開けることが出来なかった。雹も少し混じっていたが、今日はそこまではなかった。運び去り運ぶ来る雨の音が大変物凄い。雷はまるで頭上に落ちかかって来るかと思うばかりに棟に響いてとても恐ろしい。文机の上に線香を焚いたりなどして、母上は、「桑原、桑原」とおっしゃっているようだ。(※俗信に、線香を立てて、「くわばらくわばら」と唱えると雷除けになるという。)締め切った雨戸を一寸(※約3センチ)ほど開いて、(外から光を採り入れて)邦子は静かに『徒然草』を読んでいるのだろう。(そうして)やや(雷雨が)静まった。私は文机に寄って、あれこれと思い悩んでいるうちに、頭がただもう痛くて痛くて、恐ろしい雷雨も何も耳には入らず、魂がどこぞの里へ誘われて行っていたものか、一時間ばかり夢を見ているようになってしまった。ふと(夢から)覚めた時には、雨戸から漏れる日差しがとても鮮やかになって、それほどに空は名残なく晴れ渡っていた。昼過ぎからまた少し雨が降ったが、まもなく(強い)風になった。頭痛がとても苦しいので、胸さえもただもうひたすらしめつけられて正気を失いそうだったので、掛布団をかぶって伏したまま、日が暮れるのも知らず、八時過ぎまで寝ていた。
(明治26年)4月26日 晴天。後屋敷村(※山梨県)の佐久間(※佐久間岡右衛門。一葉の母たきの親戚。)から手紙が来た。母上は安達(※安達盛貞)にお見舞いに行かれた。姉上(※ふじ)が来訪。夕方から邦(※邦子)と一緒に散歩をした。田町(※地名)より丸山(※菊坂から北に広がる本郷台地の総称。)に上り、阿部邸(※旧老中阿部伊予守正勝の邸。)から本多邸(※旧本多美濃守の邸。)を経て、本郷の通りに勧工場(※かんこうば/デパートの前身)二か所(※1丁目の信富勧工場と、4丁目の本郷勧業場(かんぎょうじょう)。勧業場と勧工場は同じもの。)を見てきた。十一時半に寝た。
(明治26年)4月27日 晴天。手紙を禿木さん(※平田禿木)に寄せた。
(明治26年)4月28日 夜に、母上とともに丸山を運動(※散歩)した。
(明治26年)4月29日 早朝、小石川(※萩の舎)から手紙が来た。「今日の稽古に是非来てください。」ということである。支度して行った。伊東さん(※伊東夏子)も来ていた。来会者は三十余名であった。片山さん(※片山てる子。直近では、明治25年8月20日に出ている。)、山名さん(※不詳)、吉田さん(※吉田かとり子。直近では明治26年3月15日、16日に出ている。)などの珍しい方々が会していた。芹沢(せりざわ)三雪さん(※正しくは増山三雪子)が、白井誰とやら(※白井鳳子)とかいう新しく(萩の舎に)入門する人をお連れだった。太田竹子さん、(この方は)斎藤某の妻になった方だが(※太田竹子は、詩人で医学博士の木下杢太郎(きのしたもくたろう)の姉。明治女学校を出て、司法省官吏の斎藤十一郎に嫁していた。)それも来た。西片町に住んでいるとのこと。「私の家にもお越しください。」などと言っていた。今宵は鍋島家(※旧佐賀藩主鍋島直大(なおひろ)の邸。)で夜会があるとのことで、師の君(※中島歌子)が赴かれようとしていた。私と田中さん(※田中みの子)とは、皆さんに遅れて帰った。この夜、母上は稲葉さん(※稲葉寛、鉱のところ)に訪問した。
(明治26年)4月30日 晴天。芦沢(※芦沢芳太郎)が、習志野より帰営したとのことで(遊びに)来た。久保木(※久保木長十郎)が来訪。『文学界』四号が来た。午後五時より根津神社境内につつじを(※現在もつつじの名所として名高い)尋ね、上野の丘に藤を見物した(※上野公園はかつて藤の名所であったという。)。いずれもまだ十分(※見頃)ではなかった。ただし新緑の木陰はとても美しかった。日没少し過ぎに帰宅。稲垣(※大工の稲垣長太郎。)が来た。お鉱さんも来られた。母上がお鉱さんと一緒に西村(※西村釧之助)のもとへ赴きなさった。(※4月15日にあるように、稲葉寛の就職にあたって入用な衣服を西村に借りに行ったのである。)(母上は)十一時頃帰宅。
(明治26年)5月1日 晴天。今日は浅草観音の開帳中廻向(なかえこう)で、天童供養があるということだ。(※浅草寺ではお彼岸とお盆の供養の中に当たるという意味で中廻向(※廻向とは先祖の仏事供養のこと)が行われていた。観音像を参詣者に開帳し、法会(ほうえ/経典を読誦(どくじゅ)し、講説(こうせつ/仏典を講義し説明する意)すること)が行われた。また、天童供養は天童(稚児)を参加させる供養のこと。)母上に、「お行きになられたら」などと勧めた。(母上は)「西村の母(※西村釧之助の母、西村きく。一葉の母たきが稲葉家に乳母奉公していた時の奥女中、太田ふさ。(結婚後西村きく)。当時は茨城にいた。直近では明治25年1月8日に出ている。)が(こちらに)来るつもりだと言っていたので、留守にするのもどうでしょうか。」などとおっしゃていたが、昼過ぎまで来訪する様子も見えないので、(結局)一時頃から(浅草観音に)行かれた。久保木(※久保木長十郎)が来訪。母上は六時頃帰宅された。この夜、お鉱さんが着物を貰いに来た。邦子が(お鉱さんに)浴衣をやった。
(明治26年)5月2日 晴天。望月の妻(※望月とく。望月米吉の妻。望月は一葉の父則義在世時からの知人。八百屋で屋号は豊屋。生活が貧しく樋口家から時折援助を受けていた。直近では明治26年2月20日に出ている。)が、利子を持参した。菊池の奥方(※菊池政。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の妻。直近では明治26年3月21日に出ている。)が来られた。(菊池さんは)母上と一緒に摩利支天(※上野の徳大寺のこと。聖徳太子が彫ったと伝わる摩利支天像があり、武士階級の守護神として士族の間に人気があった。明治26年2月7日にも出ている。)詣でに赴かれた。家主の西本(※樋口家の住む菊坂町六十九番地の家の家主)が来た。垣根を修理することが遅れていることを言いに来たのである。この月も伊勢屋(※本郷区菊坂町にある質店。直近では1か月前の明治26年4月3日に出ている。)のもとに走らねば(生活費が)事足りず、小袖(※和服の普段着)四つ、羽織二つを一つの風呂敷に包んで、母上と私とで持って行こうとする(次第である)。
   「長持(ながもち)に春かくれ行(ゆく)ころもがへ」
(※井原西鶴の句、「長持に春ぞくれ行く更衣(ころもがえ)」。「長持」は長方形をした木製の衣服収納箱。衣更えで春の衣服を長持にしまうと、春まで長持にしまって季節が終わるのを感じるなあ、ほどの意。当日(5月2日)の『読売新聞』に掲載された文「一昨日の墨堤」の冒頭に「長持に春かくれ行く衣更(ころもがえ)花は昨日の夢と散りて初袷(はつあわせ)着る青葉時」とあり、一葉はここからそれをそのまま引用したようだ。誰の俳句かよく思い出せなかったのだろう。)
とかいう、誰やらの句を聞いたことがある。(私たちがやっていることは、まあ衣更えの一つと言えば言えるのだが、)その風流さには(全然)似ていないのも面白い。
   蔵のうちにはるかくれ行(ゆく)ころもがへ
(※質屋の蔵の中に春が隠れて季節が終わっていくのを感じる衣更えであることだ、ほどの意。こんな俳句を作って、自分たちの貧乏な有様を自ら笑う一葉に、たくましさを感じられないこともないだろう。だが、その貧困は母上が言うように、全く終わりが見えないのである。現実は相当に厳しい。この時期の一葉は切羽詰まると桃水を思慕し、多くの歌を詠う。それはある種の現実逃避だと言えなくもないのだ。そして肝心の小説は、この年の1月に「雪の日」を書いて以来、書けないでいる。一葉はもう自らを笑うしかなかったのかもしれない。奇しくも、この日明治26年5月2日は、一葉21歳の誕生日であった。)

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
  




   
   


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