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現代語訳 樋口一葉日記 31(M26.4.12~M26.4.29? )◎桃水の病を聞く、見舞いを乞う一葉と許さぬ母上、円満の恋、ろんどんの女すり、ひそかに桃水を見舞う、日記散佚

しのぶぐさ(明治26年(1893))4月

※「しのぶぐさ」は前回の日記「蓬生(よもぎう)日記」と記録が重複している。つまり同じ日付の日記が二つ存在しているのである。具体的には、「蓬生日記」は明治26年4月7日から5月2日までの記録であり、一方「しのぶぐさ」は、明治26年4月12日から4月22日まで(途中散佚、さらに日記の断片があり、これは4月29日頃と推定されている。)の記録である。おそらく、4月7日からつけていた「蓬生日記」が11日頃に一時紛失したか何かで、急遽新しく「しのぶぐさ」を書き始め、その後「蓬生日記」が見つかって、そのまま二重日記として平行に書きだしたのだろうと推測される。また、記録の内容からして、一葉は「しのぶぐさ」の方に精神的な重みを置き、特別な想いを綴っていて、「蓬生日記」にはその摘要を記したのだろうと思われる。特に4月15日の部分がそうである。ここでは一葉の感情が火山の溶岩のように噴出し、彼女の真情が現れる。その言葉は複雑であるが、彼女の真実を述べたものに違いない。その意味で、「しのぶぐさ」は「偲ぶ草」ではなく、おそらく「忍ぶ草」、人目を忍ぶ事、つまり秘密にする文章を意図したものであろう。

(明治26年)4月12日 小石川(※萩の舎)に師の君(※中島歌子)を訪ね、田中さん(※田中みの子)のところへも訪ねた。お話しがさまざまとあった。いずれも頭の痛いことである。(※おそらく師の君と田中みの子のお互いの悪口に一葉は辟易しているのであろう。)三時頃帰宅。雨が降り出した。
(明治26年)4月13日の夜、母上が夜が更けるまで(私を)たいそうお諫めになった。親不孝の子にはなるまいと常々願ってはいるのだが、時々(母上の)御心にかなうことが出来ない点があることは悲しいものだ。
(明治26年)4月14日 小説のことについて藤陰隠士(※藤本藤陰。『都の花』の編集、執筆者。猿楽町に住居があった。また、隠士(いんし)とは隠者で、俗世間から離れて一人で生活する男のこと。)を訪問しようとしたけれども、早朝に大変気にかかることがあって(※何かは不明)、話しているうちに時間がたってしまったので、行けなかった。(それで)図書館に行った。上野は今日は花盛りで、思慮のない人が酔っぱらって正体がなくなっている様子は、とても面白げであった。帰り道に、安達さん(※安達盛貞。安達の伯父さん。)の病気見舞いに行った。ここに母上が(ちょうど)来合わせて、一緒に帰った。
(明治26年)4月15日 早朝、猿楽町に藤陰(さん)を訪ねた。(藤陰さんは)「『都の花』は明日発行日だというのに、いまだ製本が上がってきません。これから築地(※築地にあった築地活版製造所。)に催促に行こうとしているところです。」と言った。(二人で)十分ばかりお話をした。嵯峨の屋(※嵯峨の屋御室(さがのやおむろ)/小説家。坪内逍遥門下。直近では明治25年8月18日にその名が出ている。)が発狂したと世間で言っているのは偽りであること、伊予の花園(かえん)女史(※不詳。伊予の国、愛媛県に由来のある女性か。)のこと、ならびに(その)花園女史から長編の小説の出版を頼まれたけれど、お受けできず断ったことなど、(藤陰さんは)たくさん語った。(そして)「何か歌が入った小説がお出来になられたら(私の方に)お与えください。」などと言った。その帰り道に(※この「帰り道」は、おそらく築地に行こうと急いでいた藤陰と途中まで一葉が一緒に歩いて話をしていた状況を指すのだろう。)、半井さん(※半井桃水)の消息を聞いた。「(半井さんは)ずっと病気が続いて(それが)収まる時期もなく絶えず患い続けていらっしゃったが、近頃突然内ももに出来た腫物が俄かにはなはだしく(悪く)なって、本郷の親類のところ(※西片町の河村家。桃水は明治25年3月から桃水の従妹千賀の嫁ぎ先である河村重固(しげのり)の家に同居していた。同年7月に神田三崎町に引っ越している。)に赴かれたまま、(そこから)戻ることが出来ず、そこで(そのまま)療治中です。」と(藤陰さんは)言った。(それを)聞くやいなや(私は)ぐっと胸が塞がる思いだった。去年の今頃は、(半井さんは)はなはだしくお患いなさって(※桃水は明治25年4月に痔疾の手術を受けた。)、私が毎日(半井さんをお見舞いに)お訪ねした頃だったと思い起こし、その頃に引きかえ、手紙さえも差し上げるのが難しい(立場にいる)今、(私は)どうすれば半井さんのところを訪問することができるのだろうか。知らない(まま)でいるのならいざ知らず、(今)はじめて(病気のことを)聞いてしまったことがかえって悔やまれる気持ちにさえなってしまった。帰宅ののち、このことを母上に話し、「どうか一度だけ(半井さんをお見舞いに)訪ねるのをお許しください。」と願い求めたが、全然お聞き入れになられるはずもなかった。(私は)「それなら仕方ありません、手紙だけでも(お許しください)。」としきりに言ってみたが、(母上は)いずれのどの願いもお聞き入れにはならなかった。これは私のことをお思いになっていらっしゃる故なのだが、わが身に過ちを犯すはずの私でもないのに、(母上は)どうしてこんなに冷たくおっしゃるのだろうか。あの方(※桃水)もどんなに思い悩まれて、世の中が恨めしく、人のことが嫌になり、さまざまと思い乱れることがたくさんおありになられることだろう、などと思いをはせるにつけてとても耐え難くなった。途方に暮れて、このことを邦子に相談すると、思いやりがないわけではない(※思いやりがある意)人(※邦子を指す)は、一緒に涙ぐみさえして、私のためにあれこれと相談に乗ってくれた。私たち姉妹は、この世に不思議に成り立つ宿命において、はかないこと(※恋)に思い悩むのである。人の身の上に(そんなはかない恋を)見たなら、どうして心が痛まないことがあるだろうか。幼い頃から考えていることが人と異なっていて、「いささかも世の中の道というものを踏み誤るまい。たとえ人の目にはどのように見えようとも、私は天空においでになる神にこそご覧になっていただきたいのだ。」と思って、限りなく多い黄金にも、一面に敷き渡した美しい錦(にしき)にも心を掛けないで(心清らかに)暮らしてきたものなのだが、世間にも人にもつまらない者と疎まれて当然の人(※桃水を指す)を、そうとは決して知らないわけではないのに、それでもやはり忘れがたいのだ。邦子も(それと)同じように、あってはならない思いに苦しんでいるのである。(※邦子はひそかに愛していた野尻理作が妻を迎えたことを知り、心を痛め、それでもその野尻理作を忘れがたいのである。明治26年3月16日の日記に詳しい。)そうではあるけれども、お互い(※私も邦子も、の意)、世にありふれた艶っぽい方面は考えてもみないことで、ただ(相手との)隔て無き心が変わらずにいてほしいことを願い、このように(相手が)病気でつらいことがある折節などに、(こちらから)心及ぶ限りの誠(※まこと/誠実でうそいつわりの無い真心)をあらわそうという願いなのである。(あの人と)月や花を愛でる折々に心を通わせ、手紙でも、面と向かっても、面白いことを言いかわした(りした)ことなどは、情愛や思いやりがいかにも深かったというわけではないのだ。同じことならいっそ(邦子と)一緒に涙を流したいのだが、(思う相手が)私と同じ人ではないので、(お互い独りで、)大空のみに(向かって)もの思いをしなければならないだろう。私がこのように思う心を人は知りもせず、ただの普通の恋と考えて、なんとなく馬鹿げた風に恋をもて遊んでいる様子に思うのかも知れない。それはそれでよい、笑われようともよい、非難されようともよい。わが恋の神は、そのような少しばかりの戯言(たわごと)に関わり合って、(そのせいで)円満を欠くことを惜しまれるからである。(※つまり、円満なる恋のためにはそんな戯言には構っていられない、ということである。また、一葉の中で、恋は神であった。人間を超えたものであった。この<我が恋の神>という言葉に、宗教的とも呼べる彼女の一途さ、純真さと、燃え上がるような情熱が窺えよう。その情熱が彼女を動かすことになる。)もとより恋に円満はない。円満がないのではないのだが、人が(男女の)二人に分かれていては円満であるはずの道理もないので、その人という文字(※原文も<文字>であるが、ここでは「観念」というほどの意味であろう。)は(頭から)ただもうひたすら捨てに捨ててしまうのだ。この天地(※世界)に満ちている恋というものがその片鱗を現しはじめたのは(他ならぬ)その人(という男女二人に分かたれた存在から)なのだ、と考えるにつけ、(それは私が)わが恩人(※桃水を指す)を思い慕うのにやはり似ていて、(似ているからこそ)その根本(※人は男女に分かれているのでかえって引きあう、恋をしてしまう存在であるということ。)が忘れがたい(※恋の原理から離れがたい意)ので、こうも思い悩んでいるのだ(ろう)、ということは、その折節に思い定めていたわが哲理であるのだけれども、さしあたっては、やはり世間によくある恋のように、(あの方に)直接お会いしたい気持ちなどが(湧きおこって)、その時その時に(どうにも)こらえがたいのだ。ああ、ああ、(このまま)書き続けても(私が)思うことを十分に言い尽くすことが出来ようか。ただたいそう趣きがあり、神秘的で、穏やかで、柔らかく、悲しく、(また)面白いものが恋と言うのだろう。
 (咲くのを)待っていた花(※桜)も(いつしか)青葉になったと聞いて、(詠った。)
   人の上もかくこそ有けれ大かたの
   まつははかなきものとしらなん
(※他の人の身の上もこうあるのだろう、(そんな人は)待つということはおおよそはかないものであるということを知ってほしい、ほどの意。)
 みちのくにいる友(※岩手にいる野々宮きく子)が、花(※桜)の咲く頃久しく便りをして来なかったので、とりたてて恨みごとを申し上げるのも失礼だけれど、(次のように詠った。)
   春がすみ立(たち)隔てゝもみゆる哉(かな)
   いはての山の花や咲きけん
(※春霞が立って間を隔ててしまっても見えるようですよ、あなたのいる里の岩手の山の桜が咲いたのでしょう、ほどの意。春霞は音信不通の比喩で、岩手の桜に夢中になって、あなたは手紙を寄越さないのでしょう、と不平を言ったもの。)
 舞う蝶をあしらった(振)袖のように浮かれなさるのはもっともなことではあるが、都(※東京)の花のことについても「(そちらは)いかがですか」とさえおっしゃらないのは思いやりのないことだ。(さらには)「都の春はいかがですか」とさえおっしゃらないのも、(まあ)もっともなことだけれど、墨田川、飛鳥山の桜のためには(それを尋ねてくれないのは)大変残念なことである。(※このあたりの一葉の心情はかなり過敏に過ぎるようである。悪く言えば、友が花見に遊ぶ姿を勝手に想像してひがんでいるのである。どうもこの時期の一葉の精神状態はあまりよくなかったように思われる。二重日記を始めたのもその辺りに原因があったのかもしれない。)
 
※次の文章は、小学館版一葉全集では割愛されているが、筑摩書房版一葉全集には掲載されているものである。明治26年4月18日の『読売新聞』の記事「倫敦(ろんどん)の女掏兒(すり)」を覚書として記録したものらしい。日記そのものにはあまり関係はないが興味深いので特に訳出した。

   ろんどんの女すり
さる老紳士が汽車から降りて停車場(ステーション)を出ようとした時、一人の美少女があわただしく寄ってきて、「わがお父上様、よくぞ来られました。」と言って、その(老紳士の)首に抱きついてキス(※原文は<口すゝり>をした。老紳士は何を思ったか、静かに(女の)背中に手を廻して抱きしめたところ、彼女はしばしば老紳士の顔を見て、「これはどうしましょう、あまりによく似ていらっしゃったものですから、ついわが父上とお間違え申し上げました。お許しくださいませ。」と言って(老紳士を)振り払おうとした。(ところが)紳士はこれ(※彼女を抱きしめていること)を少しも緩めず、「いや、私はお前の父だ。幼い時に迷子になり(行方知れずとなって)今もなお尋ね捜しているわが子はお前だよ。警官が来るまでは離さないぞ。」と言って(さらに強く)抱きしめた。真実は、この女がすりであることを(老紳士が)見抜いていたからであるとか。いつの間にすったのだろうか、(彼女は)かの紳士の襟飾りの宝石を抜き取っていたという。

※続く以下の文は、明治26年4月22日の午後、萩の舎の稽古に出て、その帰りに半井桃水を訪ねた記録である。一葉は母上の許可を得ずして内緒で桃水に会いに行ったのである。15日の日記にあるように、桃水は病気で西片町の河村家に身を寄せていた。

 道も狭いほどに咲く花(※桜並木の花びら)が半ばは土一面に敷きつめられて、雪の中を行くなどというのは、こういうのを言うのだろうか。青葉になった梢、若々しく萌え出る小さな草など、景色の趣ある辺りに(は)、牛を飼う家が広々としている様子なども見える。田町(※地名)の坂を上れば、かの馬琴の『八犬伝』に「丸塚山(※正しくは円塚山)」と書いている浜路の最期の場所が、(まるで)目の前に浮かぶ心地がして、遠からぬ伝通院(※でんづういん。小石川にある寺。)の森、小石川の町々がまるですぐそこに見えているのも面白い。(※<馬琴>は曲亭馬琴(ばきん)、本姓は滝沢、江戸時代の読本作者で、<『八犬伝』>は馬琴の大作『南総里見八犬伝』。<浜路(はまじ)>は『八犬伝』の登場人物で、犬塚信乃(しの)の許嫁。浜路は横恋慕する男に円塚山で殺される。今一葉が歩く場所は高台で町並みが見渡せるところであった。)思い悩むことがなかったとしたら、どんなに面白いことだろうと思うのも、私の性格が(どこか)冷ややかなのだなあ。道行く人も私の顔をじっと見ているように思われて、ただもう知り合いに会うまいとばかりに急がれた。かの家(※桃水が身を寄せる河村家)では、「(あなたがいらっしゃるとは)思いがけないことです。」とただもう意外なことにびっくりしていらっしゃたが、人々が嬉しそうに(私を)もてなしてくれることはとても嬉しかった。かの人(※桃水。一葉は桃水のことを<かの人>と記している。河村家も<かの家>である。一葉がいかにこの訪問を秘密にしておきたかったかの表れであろう。)も、「昨日、今日は、少し具合がよい方ですので。」などと、起き上がりながら語った。従妹の方(※河村千賀)が、お薬を差し上げるということで(半井さんの)枕元におられたのだが、「こんなに(※随分)長らくご訪問がありませんでしたねえ。お変わりなどございませんでしたか。いつも(あなた様の事は)お噂申し上げながら過ごしておりまして、一昨日もそうでした、あなた様のことを口に出して申し上げたことでございます。」と言うと、(半井さんは)とても(分量の)多い薬を一口飲んで、「(あなたの)お噂はいつも申していることです。」と言って何となしに微笑まれた。枕辺の机に(は)、とても大きな花瓶に桜、山吹をいろいろと織り交ぜて(いて)、(半井さんは)「(病気で)遠い野山をあちらこちら探し求めることが出来ず、心がひかれて、このように。」と言った。「誰も花の活け方を心得ている者もなく、裏手の花園の花をあるにまかせて折って来て、こんなに乱雑(な活け方)ですが、お笑いになって下さい。」と、従妹の方(※河村千賀)が恥ずかし気に言うのも面白かった。さまざまな人の俳句のようなものなどをとても長い唐紙(※とうし/中国製の書画用の紙。)に書いて、その辺りの壁が見えないほどに下げていた。かの人(※桃水)は微笑みながら、紙を(従妹の千賀に)取り出させた。(そして)硯(すずり)を自ら押し擦って、「大変失礼ですが、ご旧詠(※以前詠った歌)でも何でも(よいので)、一、二首(歌を私に)下さいませんか。(人に)使いをしてもらってお願いしようという心積もりでしたが、(あなたが)素直にお書きになるまいことを知っているので、心の中だけで思いとどめておりました。今日思いもよらず(あなたが)訪問されたのは、わが願いが(天に)届いたのですよ。是非ともお書きになって下さい。」と、毛氈(※もうせん/書道の下敷き)を出させ、さらに紙を切らせたりなどした(※長い唐紙を和歌に合わせて短く切ったのだろう。)。(私は)「照れくさいですので、家に帰ってから書きます。こんな(立派な)紙なんかではなく、いつもの半紙などであれば(いいのですが)。」と困って許してもらおうとしたが、お聞き入れになるはずもなかった。(半井さんは)「(あなたの書いた歌を)拝見するや否や(私の)心が清々しくなるに違いないのです。人助けですよ。」などと、とても言葉多く言い続けなさった。従妹の方(※千賀)も、しきりにお願いして、「病人の願いですから、どうにか一、二首を。」と言う。もうこうなっては仕方がなく、二首ほど書いた。(私は)「とても悪い出来です。これは反故(ほご)になさっていただき、また改めてお持ちいたしましょう。(それでどうぞ)お許しください。」と言うと、(半井さんは)「それなら、こちらから紙を(使いに)持たせてさしあげましょう。(改めた歌と)お引替えの時には必ずご返上いたしますので、それまではもらっておきます。」と笑って(私の書いた歌を)取ってしまわれた。「あとでお笑いになるのでしょう。」と(私が)言うと、「これは(また)あるまじきことを(おっしゃいますね)、誰にも見せることはありません。朝夕に眺めて自分自身の楽しみ」
※以下散佚(※さんいつ/なくなること)
(一葉の日記で散佚している箇所は、半井桃水に関する述懐の部分、特に桃水の言葉が多い。おそらく偶然ではないだろう。明治25年11月の終わりと同年12月の終わりも同様に散佚している。)

※次の文章は上記4月22日の出来事の後、一葉が改めて短冊を持参して桃水のところへ赴いた時の記録である。(※日付は不詳だが、おそらく4月29日頃であろう。)

※前文散佚
とりたてて言うべきこともなく、聞こうと思うこともなかった。あの方(※桃水)よりも言葉はなく、こちらよりも言葉は(出)なかった。「何故に長らく待ちわびて(ようやく)逢えた今日の日なのか」と、わけもなく我ながら不思議であった。妻をお持ちになられたとか(という噂を)うすうす聞いていたので(※明治25年8月21日と12月31日にそれに関する記述があるが、その時の一葉の落ち着きから、それをまともには信じていなかっただろうと思われる。ただし、小説家の和田芳恵は、桃水が大阪の富商の娘と結婚したものと一葉が信じていたとしている。)どうにかして聞きたいと思うのだけれども、さてその折もなかった。(すると半井さんが)「小宮山(※小宮山桂介。筆名は小宮山即真居士(こみやまそくしんこじ)/東京朝日新聞の主筆。桃水の友人。直近では明治25年3月7日に出ている。)が妻を迎えたということです。まだ、(相手が)どんな方か会ってみてはいませんが、事は偶然に起こるものですね。」と微笑みになられた時にその折を得て、「あなた様も(妻を)お迎えになられたとのこと、人から聞きましたが。」と言うと、(半井さんは)「いや、それは(私と)小宮山との人違いでしょう。私は、ちっとも(そんなことは)思いもよらず、そういう話さえありませんよ。」とお笑いになられた。(そして)少し声をひそめて、「あなたはどうなさるのですか。」と(急に)尋ねられたので、(私が思わず)顔を赤くして、うつむいたところ、「妹さん(※邦子のこと)はどうなされるのですか。いまだにご良縁もないのですか。」ともう一度尋ねられたので、(私は)「私のような境遇にある身に、そのようなことは思いもよらないことです。妹とて、今、盛り(※適齢期)を過ぎようとしているのを(みすみす)捨て置く(私の)つらさをお察しください。」と言うと、(半井さんは)「どうしてそんなことがありましょうか。」とおっしゃった。(そして)「また、(あなたは)頭痛に悩まされているという由、よくよくご養生くださいね。今、あなたの病が重かったら、家の事をどうしようと思われるのですか。つとめて心を穏やかにして、一日も早く治すことをお考えなさい。そうはいっても、筆をとる者(※小説家)には(頭痛は)よくあることで、この病のない人の方が少ないのですよ。私も昔はとても健康な身体でありましたが、(今は)長らく頭の痛みが強く、近頃は少し軽くなってきたようですが、大変つらいものです。今の病が治ったら、たとえ花がなくてもよし、どこかの野山でもさまよい歩いて、心の限り気分を晴らそうと思うのですよ。あなたにおかれましても(お家に)閉じこもってばかりおられずに、新鮮な風にお当たりになられるのがよいですよ。」と諭された。(私は、新しい和歌を書いた)短冊を持って来ていたので、「この前の反故(ほご)とお引き替えください。」と、お願いして(それを)受け取った。「またしばらくは、お目通りすることは難しいでしょう。どうか御身体を大切に。」とばかり言って、(他に)どんなことも言いかけて途中でやめてしまって(半井さんと)別れた。(お会いしたら)ああ言おう、こう言おうと思っていたさまざまなことは、一体どこにその姿を隠したのだろう、その一部すら(も)言葉に出すことが出来なかったのは、 
   我ながら心よはしや今日を置きて    
   またの逢日もはかられなくに
(※我ながら心の弱いことだ。今日を置いてまた会える日がいつになるかも分からないのに、ほどの意。)
※以下散佚

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)

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