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現代語訳 樋口一葉日記 39 (M26.10.9~M26.11.15)◎商売繁盛、平田禿木再来訪、中島歌子との和解、一葉の涙、満足しないほどがよい。

塵中日記 今是集(甲種)                            明治26年(1893)10月

※「塵中日記 今是集(ちりのなかにっき こんぜしゅう)」は、同じ表題のものが2冊存在する。一つは初めに書かれたもので、序文から10月10日までの記録であり、そのあとは「塵中百首」と呼ばれる詠草に使用されている日記である。もう一つは、それを一葉自身が再び序文から書き写し、改訂、削除を施して、和歌は詠まず、そのまま10月14日まで書き綴った日記である。通例、便宜上ではあるが、前者を甲種、後者を乙種としている。ところで、小学館版一葉全集では乙種のみ収録されており、甲種の削除された部分は注釈で補っている。そこでここでは筑摩版一葉全集を底本に甲種の本文のみを現代語訳し、そのあとに再び底本を小学館版一葉全集に戻して、乙種を現代語訳するものである。10月10日までの日記の内容は重複するのだが、甲種には乙種では削除された重要な文章があるからである。また、筑摩版一葉全集には原文通り句読点がないため、適宜判断して施している。)
 
はなはだしく怠けてしまったことだなあ、この日記(を)。今日(で)幾日書かなかったのだろうか。(その間に)家の中のこと、世の中のこと、ひとときも静かであろうはずがない。目に触れ、耳に聞こえるものが、それに応じて(自分の)「思い」となるものはとてもたくさんあったのだけれど、それを今(になって)書き記そうとすると、その耐え難いほどのわずらわしさといったらどうしようもない。よし、それならば、昨日は(それが)「是」(※正しい)と思っていた「非」(※誤り)を捨てて、今日は(これが)「是」(※正しい)と思うところを記そうか。そうはいってもこれもまた明日は何になるというのだろうか(※この判断がまた変わって「是」となるのか「非」となるのか分からない、という意。)。
(※この序文のキーワードである「今是」という言葉を、一葉は明治26年1月8日の日記でも使っている。それは「昨非今是(さくひこんぜ)」という言葉で、その意味は、思想、境遇、性格が変わって、昨日「非」(※誤り、または、悪)と思ったことが今日は「是」(※正しいこと、よいこと)と思えることである。境遇の変化で考え方がすっかり変わることを言う。言葉自体は中国の詩人、陶淵明(とうえんめい)の「帰去来辞(ききょらいのじ)」に由来する。一葉は抜け出せない借金と貧困から一念発起、商売(荒物屋)を始めたのだけれど、それが果たして正しい判断であったかどうかずっと悩んでいるのだろう。だから、「今是」とは一葉にとっては、今はとりあえずこれが正しいと思う、ほどの意であろう。)

明治26年10月9日 晴れ。今月二日より晴れていても雨であっても毎日図書館に通って過ごしていたが、今日は行くことが出来ず、奥の座敷にこもって書物を読んだ。店は昨日、一昨日頃から売り上げ高がとても多くなって、国子(※邦子)の忙しさといったら立ったり座ったりとひっきりなしである。それというのは、近所にもとからあった(同じ商売の)家で、わが家に売り負けて店を閉じたところが二軒あるということを聞いたので、(客が増えたのは)そのためであろうか。さほど競い合う気持ちなどあるわけではないし、自然に任せて商売をしているのであるから、(実際に)店を預かる国子(※邦子)に運というものがあるからであろう。私は(店売のことは)何もかも(邦子に)任せてしまって、然るべき所へ買い出し(※仕入れ)に行くほかは、(お金の)勘定も(商売の)工夫も知らず、わずか二間(ふたま)の家の奥に籠って書を読み作文をするのである。店は二厘、三厘の客(※子供)が群がり寄って、あちらからもこちらからも(こっちへ来てと)大声で叫ぶ声は、蝉がひっきりなしに鳴いているのにも例えられるだろう。(そこから)障子一重のわが部屋は、和漢の聖賢文墨の士(※日本と中国の、知徳のすぐれた、詩文を作り書画を描く人物)が来て集まり、仙境(※俗界を離れた静かで清らかな土地)を形作っている。(そこでは)塵の中に清らかな風が生じ、その清らかな風が自然に塵の中を行き渡っていく。わが浮草(うきくさ)の住処(すみか)もまた珍しいものであることだ。(※原文は<浮草之舎>で、「浮草」は水面に浮かぶ草のことで、浮き世に浮かぶ草、つまり一葉自身のことを言っているのであろう。<舎>の読みは「や」か「いえ」、または「やど」であろう。住処(すみか)の意である。また、ここの文章の原文は、<障子一重なる我部屋は和漢の聖賢文墨の士来りあつまつて仙境をなす 塵中に清風を生じ清風おのづから塵中に通ず わが浮草之舎も又一奇ぞかし>で、このように、堅い漢文調で何やら禅語めいた言い回しである。一葉としては、俗世の喧騒の只中にいても、先人の書物をひもとき、また文筆に勤(いそ)しんでいれば、そこだけは清らかな別世界となっているのだ、と言いたいのであろう。一葉はやはり「文墨」(※文人墨客/詩文、書画などに親しむ人)の人である。しかし、後に見る塵中日記の乙種ではこの部分がごっそり省かれている。おそらく、「今是」とするためには、この部分は余計な部分であったに違いない。今は商売に徹しておくべきであるという自制の念が、このはっきりと自身の胸中を明かしたような述懐を忌避させたのだろう。)
明治26年10月10日 晴れ。早朝、神田へ買い出しに行った。一昨日買ってきた(紙)風船半箱が、昨日のうちに売り切れになっていたので、新たに一箱買い求めるためである。

塵中日記 今是集(乙種)            明治26年(1893)10月

はなはだしく怠けてしまったことだなあ、この日記(を)。今日(で)幾日書かなかったのだろうか。(その間に)家の中のこと、世の中のこと、ひとときも静かであろうはずがない。見慣れて、耳に入るものが、それに応じて(自分の)「思い」となるものはとてもたくさんあったのだけれど、それを今(になって)書き記そうとすると、その耐え難いほどのわずらわしさといったらどうしようもない。よし、それならば、昨日の自分に恥ずかしく思う(今日の)自分ではあるが、懲(こ)りもせず今日「是」(※正しい)と思うところを記そうか。
(※甲種の序文との主な相違は、後半の「よし、それならば」以降の部分が随分短くなっているところである。甲種の文章を先に読んでいなければ乙種のこの部分の理解は十分には出来なかっただろう。)

明治26年10月9日 晴れ。今月二日より晴れていても雨であっても毎日図書館に通って過ごしていたが、今日は行くことが出来ず、奥の座敷にこもって書物を読んだ。店は昨日、一昨日頃から売り上げ高がとても多くなって、国子(※邦子)の忙しさといったら立ったり座ったりとひっきりなしである。それというのは、近所にもとからあった(同じ商売の)家で、わが家に売り負けて店を閉じたところが二軒あるということを聞いたので、(客が増えたのは)そのためであろうか。さほど競い合う気持ちなどあるわけではないし、自然に任せて商売をしているのであるから、(実際に)店を預かる国子(※邦子)に運というものがあるからであろう。
明治26年10月10日 晴れ。早朝、神田へ買い出しに行った。一昨日買ってきた(紙)風船半箱が、昨日のうちに売り切れになっていたので、新たに一箱買い求めるためである。
明治26年10月11日 晴れ。今日は一日中机辺にいた。
明治26年10月12日 曇り。今日も多町(※たちょう/神田区の地名。駄菓子や玩具の問屋が多かった。)に(紙)風船の買い出しに行った。昼過ぎから雨が降った。
明治26年10月13日 雨。議会招集令が出た。十一月二十五日(に議会が招集)。(※『東京朝日新聞新聞』の当日の号外で、帝国議会招集の勅令が出た事を報じている。)
明治26年10月14日 同じく(雨)。
明治26年10月15日 風雨が激しい。岡山、徳島の洪水の報道があった。(※暴風雨による水害の報道が新聞に載っていた。)
明治26年10月16日 雨。『朝日新聞』社員横川勇次さんが、占守(しゅむしゅ)から帰京。明日十七日から、北海の実況が(新聞)紙上に現れるということだ。(※明治26年3月20日の日記に記したが、海軍大尉、郡司成忠(ぐんじしげただ。作家幸田露伴の兄で探検家としても著名。)が千島列島への拓殖(※たくしょく/未開の地を切り開いて移住すること)を目的に、報効義会(ほうこうぎかい)と名付けられたグループを結成し、約90名、5隻のボートで墨田川吾妻橋下流から出発。世間は福島安正(ふくしまやすまさ)中佐のシベリヤ横断単独騎馬旅行と同様に注目し、人気を博した。北航端艇(ほっこうボート)と名付けられたこの探検は、結果的には遭難事故で19名が死亡。明治26年5月23日から6月24日まで一葉は日記に断続的に郡司大尉の遭難動向を綴っている。郡司大尉らはそのあと7月から硫黄採掘の帆船泰洋丸(たいようまる)に便乗させてもらい、捨子古丹島(しゃすこたんとう)に到着、そのあと測量の為に占守島(しゅむしゅとう)に向かっていた軍艦磐城に(再び)出会い、これに乗り、8月31日に、目的地であった千島列島最北端、占守島に到着した。『朝日新聞』社員横川勇次は、特派員として郡司大尉と同行しており、占守島で越冬する郡司大尉らを残して、その後軍艦磐城とともに帰還した。)
明治26年10月17日 大雨。岐阜、岡山、及び各府県の暴風雨の消息を聞くも恐ろしい。
明治26年10月18日 雨がようやく止んだ。昼過ぎに、西村の母上(※西村釧之助の母。西村きく)が来訪。釧之助に縁談がととのったということだ。(※この2か月前の8月19日にも西村きくは来訪しており、その時の日記で「例の結婚のことについて話があった」としているのは、邦子と釧之助の縁談を樋口家の方から断った話のことであろうと思われた。実際は、そこで邦子を諦めたきくが、他の女性を探す旨を樋口家に伝えに来たのかもしれない。)
明治26年10月19日 (※記載なし)
明治26年10月20日 母上が、小石川(の表町の西村家)にお祝いを持って行った。
明治26年10月21日 今日は西村の婚礼であった。
明治26年10月24日 雨。相馬家事件、局面一変。順胤(ありたね)さんはじめ被告一同が無罪放免。原告錦織夫妻、弁護士岡野寛、及び山口予審判事が拘引された。(※明治26年7月27日にも相馬家の事件についての記述がある。旧中村藩の藩主相馬誠胤(そうまともたね)の死因をめぐって、旧家臣錦織剛清(にしごりたけきよ)が相続人相馬順胤(そうまありたね)及びその家令、縁類を毒殺の容疑で告訴したが、相馬家側が逆に誣告罪(ぶこくざい/偽りの告訴をした罪)で旧家臣の錦織を告訴していた。結局、誣告罪が成立した。この日記はその誣告罪が成立した際の新聞報道に基づいている。明治のお家騒動として有名だが、もともと旧藩主相馬誠胤が精神病で座敷牢に監禁されていたところから始まった事件であり、この事件をきっかけに精神病者の保護監禁についての問題意識も高まったとされている。)
明治26年10月25日 晴れ。昼前に神田で買い出しをした。昼過ぎ、平田禿木さんが来訪。「来月の『文学界』に必ず寄稿しましょう」という約束をした。七月以来初めて文学畑の客に会い、とても心が躍った。(※平田禿木は明治26年3月21日に本郷菊坂町の一葉宅を初訪問。直近では同年6月1日に禿木から手紙が来た旨日記に書かれている。また、一葉が直近で文学者に会ったのは同年7月19日で、『都の花』の編集、執筆者の藤本藤陰である。)(平田さんが)住んでいる場所は、日ぐらしのさと(※地名/日暮里(にっぽり))の、花見寺の隣で、妙隆寺とかいうことだ。(※日暮里の青雲寺、修正院(しゅしょういん)、妙隆寺は並んで建っている寺院で、それぞれ花の名所であり、三寺とも花見寺と呼ばれた。なお妙隆寺は明治期に廃寺。)この夜、田辺査官(※龍泉寺町大音寺前の派出所にいた巡査)が来訪。貧民救助のことについて話があった。(その田辺査官が)縁談の事を言ってきた。(※この辺りのことについてはこれ以上詳細な記述が残されておらず、よく分からないのだが、作家の和田芳恵は、かねて戸別調査などに来ていた田辺巡査が、一葉の父則義が警視庁に配属されていたことを知り、一葉らに好意を持っていたのでは、という。筑摩版一葉全集の補注によると、下谷区には貧民の多い特殊地域があり、その救済のための病院、授産施設、孤児院などを設立する動きがあったものの、その多くは少数の篤志家にゆだねられたものであったという。そのなかには巡査のように公職に就きながら救済事業に携わる者もいたということである。この巡査の話を聞いて、一葉は社会の底辺に生きる人々の不安や社会そのものの矛盾に目を向け関心を持つようになった、というわけである。そして和田芳恵は、この巡査の話に共鳴してくれた一葉か邦子かに、巡査が求婚したのであろうと想像している。しかし、そんなところから結婚話というのもあまりに突飛ではないだろうか。田辺巡査はこれきり日記に出てこない。一葉か邦子に直接求婚し、すぐその場で断られたとでも言うのであろうか。そんなことであれば一葉が事の顛末を何か書き残しておきそうなものである。それよりも、話の流れで、もしいい人がいればご紹介を、ほどの軽い会話があったのではないだろうか。数日前に西村釧之助の婚礼があり、「縁談」に敏感になっていた一葉が、その言葉をそのまま日記に書き付けた、という方が自然であろう。)
明治26年10月26日 雨。
この間、書くべきことなし。
明治26年10月31日 『文学界』十号、及び五号以下を送られてきた。(※平田禿木からであろう)
明治26年11月1日 晴れ。多町で買い出しをした。
明治26年11月2日 久保木の姉上(※ふじ)が来訪。お金のことを依頼した。(※仕入れの金の調達であろうか。)
明治26年11月3日 晴天。皇運万歳。(※この日は天長節(※てんちょうせつ/天皇誕生日)である。天皇の運が盛んなことを祝う言葉。)
明治26年11月4日 図書館で本を読んだ。本日、平田さんから手紙が来た。久保木から秀太郎がお金を持ってきた。五円の金である。
明治26年11月5日 多町に買い出し。さくらか(※下谷区車坂町にあった小間物店の名前。さくら香。)より小間物を仕入れた。(※小間物とは、雑貨のうち荒物をのぞいた、針や糸などの日用品、化粧品など比較的こまごましたものを指す。また、荒物とはほうきや塵取りなど簡単なつくりの家庭用品。一般に、一葉の開いた店は荒物屋と表記されていることが多いが、実際には小間物、駄菓子、玩具なども販売しているので、雑貨店とした方が正確であろう。)
明治26年11月6日 図書館に行った。本日より十二日まで、虫干しの為閉館ということで、やむを得ず帰った。今日も買い出しが多かった。
明治26年11月7日 晴れ。
明治26年11月8日 薄曇り。今日は初酉(※11月最初の酉の日。江戸時代から浅草をはじめ関東一円で行われる祭りで、11月の十二支の酉の日を祭日として開運招福、商売繁盛を願う。酉の日は12日毎に巡るので祭りが2回の時と3回の時がある。初酉は1回目の酉の日。)であるということで、いつも通りに市が立った。日暮れ前、少し人出が多くなってくる頃より、雨が降り出した。(その時の人々の様子は)周章狼狽という他はなかった。(そこで)思いがけぬもうけ(を得たの)は、馬車、人力(車)、飲食店、傘屋などである。
明治26年11月9日 晴れ。多町に買い出し。
明治26年11月10日 晴れ。
明治26年11月13日 山梨から広瀬(※広瀬七重郎。伊三郎の養父で、広瀬ぶんの叔父。直近では6月5日に出ている。)が来た。いつもの訴訟事件のためである。今宵はわが家に一泊した。(※同年5月27日に再審請求がおぶん不在の為棄却されたので、再度再審請求を行ったもの。)
明治26年11月14日 晴れ。初霜が白かった。

塵中日記(ちりのなかにっき) (明治26年(1893)11月)

   人しらぬ花もこそさけいざゝらば
   なほ分け入らむはるのやま道
(※人知れず咲く花があるかもしれない、それならば、さあ春の山道をなお分け入ることにしよう、ほどの意。)
   わたつみの沖にうかべる大ふねの
   何方(いづこ)までゆくおもひ成(なる)らむ
(※大海原の沖に浮かんでいる大きな船はどこまで行く思いでいるのだろうか、ほどの意。)
   悟れば去此不遠(こしふおん)、迷えば十万億土(じゅうまんおくど)。(※去此不遠とは、極楽浄土は西方(さいほう)十万億土の彼方にあるが、仏法の悟りを開けば遠いところではない(ここを去ること遠からず)、つまり心の中にある、ということ。仏教の思想である。一葉は同じような言葉を明治26年3月21日に平田禿木に投げかけている。「悟れば十万億の(極楽への)道のりも去此不遠(こしふおん)なのですよ。」、と。)
   雲まよふ夕べの空に月はあれど
   おぼつかなしやみち暗くして
(※雲が入り乱れる夕方の空に月はあるけれども、道が暗くて不安なことだ、ほどの意。これは和泉式部の歌「くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかにてらせ山のはの月」を踏まえたもの。和泉式部の歌は、私は暗い道からさらに暗い道に入ってしまいそうだ、山の端にかかる月よ、どうかはるか遠くまで照らしておくれ、ほどの意。この歌は天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)に詠み送ったもので、性空を月と見なして、煩悩に迷う私を救ってほしいと願っているのである。一葉の歌は、誰も導いてくれず迷うばかりの自身の不安を詠ったもの。)
   有無ふたつなし一切無量。(※仏教の『無量義経』の思想。一切の物は実体がなく、本来は空である、つまり有る、無しの二元論的思考では捉えられない、計り知れないものであるということ。)
   花ちらすかぜのやどりも何かとはむ
   ながれにまかす谷川のみづ
(※『古今和歌集』素性法師(そせいほうし)の「花ちらす風のやどりは誰かしる我にをしへよ行(き)てうらみむ」を踏まえたもの。桜の花を散らしてしまう風の住処を誰か知らないか、私に教えてくれ、そこに行って恨みごとを言ってくるから、ほどの意。一葉の歌は、桜の花を散らしてしまう風の住処をどうして尋ねることがあるだろうか、流れに任せてゆく谷川の水(と同じように、一切は不定で流れゆくものなのであるから、恨みごとなど言っても仕方がない)、ほどの意。)

明治26年11月15日 師の君(※中島歌子)を小石川(※萩の舎)に訪ねた。七月の十九日に別れて以来、今日が初めてである。お互いに言おうとすることが多かった。思いが胸に迫って涙ぐみさえしてきて、すぐには言葉が出なかった。およそ半年の間に、変わってしまった世の中のさまざまを、まさきの葛(かずら)のように長く(※「まさきの葛」は『古今集』仮名序にある修辞で、蔓(つる)性の植物の名。古代、神事に用いられたという。)、ばらばらに書き付けると、
 水野銓子さんが、会津侯にお嫁に行かれたこと。(※萩の舎門人水野銓子(せんこ)は旧沼津藩主水野忠敬の娘。直近では明治26年2月26日に出ている。また、会津侯とは旧会津藩主松平容保(かたもり)の長男容大(かたはる)であるが、正しくは別人で、華族の南部利克(なんぶとしなり)。9月17日の日記に、中島歌子から手紙が来たことが書かれているが、水野銓子の結婚送別の歌会が10月1日に行われることを知らせる手紙であった。)
 龍子さん(※三宅龍子)が子供を産んだこと。女の子で、その上健やかで大きな子であったそうだ。
 中村礼子さん(※萩の舎門人。直近では明治26年2月11日に出ている。)が婿を迎えたがまた(すぐに)離婚したということ。師の君が養子を(家に)呼んだこと。(※明治26年1月28日の日記のところでも記したが、歌子には子がいなかったので養子を探していた。その後、大阪の安場善助の次男廉吉を養子に迎え、翌27年5月に入籍した。)大野さだ子が亡くなったこと。(※大野定子(おおのさだむこ)は当時の女流歌人。教師でもあった。「さだむこ」が正しい。)加藤の妻が足の痛みを患っているということ。(※中島歌子の後見人であった池田屋の加藤利右衛門の妻。未亡人であった。直近では明治25年9月10日に出ている。同年6月14日にも出ている。)
 さらに、社中(※萩の舎)に新しい弟子が増えたことなど、いろいろと(話が)多かった。こういう中で、昔からの決まりで昔と変わらないのは稽古(日)が土曜日であること。(そして)日の短い長いを問わず、二題四首、詠花(※花を見て詩歌を詠うこと)に戯れ、月を以て(※月を愛でて、の意)遊び、たとえ浮き世はどうなろうとも、波立たば立て、風吹かば吹け、(といった調子で、)枕詞に風情を培(つちか)い、野や川の名所に文学の足りないところを補う(※名所と呼ばれる地にたくさんの和歌を添えて愛でる意。)ことといったら、仙人世界ののどかさであること。それから梅の舎(※田中みの子の号)とくちなし園(※小出粲(こいでつばら)の号)のおかしな男女関係などだけが、変わったところもないといったところか。
 (ここ萩の舎は)もとより狭くもない家で、また去年今年と建て増した部屋が、数えれば十近くもあるだろう。庭は庭師が手を尽くし、家の中の装飾にお金を惜しまないので、物は揃っていて足りないところもない。(師の君)ご自身は当世の女傑と称えられて、古風な表札にさえ威光があるようで、出入りする黒塗りの車(※門人の華族子女たちを送迎する紋入りの人力車)においては疲れを知らない(ほど盛ん)で、美しい織物は蔵に積まれていっぱいであろう。今日は式部長官(※皇室の祭典、儀式などを司る式部職の長官)鍋島侯(※鍋島直大(なべしまなおひろ)。元佐賀藩主で、婦人栄子が萩の舎門人であり、歌子が出稽古をしていた。この鍋島家は明治26年4月29日、明治25年7月9日、10日にも出ている。)のもとで祝宴があるとかで、冬の月夜の寒々とする前に装いをこらしていたので、腰元(※身分の高い人のそばに仕えて雑用をする侍女。)、女中が左右から(その着付けを)助けて、衣装の着こなしが厳かであった。(内に)入っては敬われ、(外に)出ては尊ばれ、そうして天寿を全うされる時には、すぐ次に続く小枝(※養子のこと)さえ決まっておられる。何の心配事もあるまいと思うのだが、それでもやはり述懐のお言葉に曰く、「ああ、どこの野であれ山であれ(構わない)、直径が一尺(※約30cm)ある金剛石(ダイヤモンド)を一つ掘り出してみたいものです。我が生涯を終えるまで乏しくもない(※多くの)財産を持っていれば、(この)浮き世を毀誉(※きよ/悪口と称賛。世間の評判。毀誉褒貶。)のない場所へ逃れて、心穏やかに過ごすことが出来るのですけれど。世間に交われば、心にもないおべっかも言わなければならず、思ってもいない所業もしなければなりません。今、(あと)二十歳若ければ、あらん限りの力を尽くして、あらん限りの仕事をしたとしても、(ちゃんと)老後の楽しみを心掛けるだろうけれども、今はもう晩年になって、私の力で以てわが生涯を穏やかに(過ごしたい)と願っても、成し遂げられるものではありません。ああ、(決して)欲(から)ではないのですが、一尺の金剛石(ダイヤモンド)を手に入れたいものですね。」とおっしゃった。
 口先だけのうまい言葉には毀誉(※きよ)を出して(おいて)、(※口先では人の悪口を言ったり、またほめたりしておきながら、の意。中島歌子は明治25年8月頃に萩の舎の浮評に神経質になり、一葉を巻き込んで田中みの子ら周囲の門人を疑った経緯がある。)そうでありながら浮き世の毀誉を厭われるのである。(一体)何故なのだろうか、心の中の金剛石(ダイヤモンド)を捨てて、野山(※心の外)にそれ(※金剛石)ばかりを求めていらっしゃるようだ。これ(※心の中の金剛石)を磨けば、貧しい人を富める人にさせ、濁った身を清らか(な身)にもすることが出来よう。例えれば塵の(ように汚れた)世の中は、腐っ(てぼろぼろになっ)た履き物の如しと言えようか、この(ぼろの履き物の)取捨(※そのまま使うか、あるいは捨ててきれいなものに換えるか。)は、総じて自身の心次第ではないだろうか。(※ここでいう「履き物」(原文<くつ>)は、自身の足元、つまり立脚点、自身の心がけを比喩しているのであろう。一葉は汚い履き物は捨てて美しい履き物に取り換えよ、と言っているのである。)財があろうがなかろうが何の関係があるというのか。そうであってもやはり(ぼろの履き物を)捨てがたいというのは、一体全体浮き世の風情(※俗世間の有り様)であって、それだから恋心が出て、迷いが出て、義理と絡んで、欲と称して、五十歳(という齢)を苦楽の巷(ちまた)にさまよわせているのだろう(※中島歌子の年齢は当時満48歳ほど。一葉は師の君の俗世の欲から離れられない精神を批判しているのである。一葉は明治26年6月22日の日記に初めて師の君を批判する文章を書いている。その師の君への不信感から一葉は萩の舎から足を遠ざけていたのであろう。)。思うに、塵の中もまた面白いものではないか。(※原文は<塵中又をかしからずや>であり、きっぱりと雄々しいまでの漢文体である。卑しい俗世の中にあっても清廉な心があれば面白いものになるのだ、という一葉の強い意志が窺えよう。)
 縁側に出て見ると、黄色と白の菊の香りが濃く、(菊が)露に濡れた様子も懐かしい。私も昔はここ(萩の舎)に朝夕慣れ親しみ、一度はここの娘と呼ばれるほどで、この庭も、籬(※まがき/竹や柴で粗く編んだ垣)も、ついには私のものになるはずだった(かもしれない)ゆかりもあったのだが(※明治25年3月24日のところでも記したが、一葉は明治23年5月から9月まで中島歌子の内弟子として萩の舎に住み込みをしていたことがある。おそらく歌子も当時は一葉を養子に迎え塾の後継者にと考えていたのだろう。)、今はもう、小さな家が多いむさくるしい町の中で、ものもらい、乞食などのような人を友として、厘(りん)を争い毛(もう)を論争して(※価格を値切る客との駆け引きを表すもの。)、終わりの見えない日々を過ごしているのだからなあ。家にあってはそうとも思わなかった迷いが、ここ(萩の舎)の景色に催されたのであろうか、何故(なにゆえ)とは分からず、涙ぐみさえしてしまうのだ。さて(これは)何故の涙なのであろうか。こんな美しい衣装を着飾るような生涯を過ごそうと思ったならば、むやみに苦しみ悶えることなく過ごすことの出来た一生を、自分から落ちて(ここまで)流れて来た今日、(本来なら)満足の笑み(を浮かべて、そこ)に思い悩むことなどあるはずがないというのに。ああ狂気じみているではないか、私に(は)心が二つあるのか、もしくは心に真(まこと)と偽り(の二つ)があるのか。(そうすると、自分の)心に向かって、心の偽りを言うのか。(いや、)心に偽りはない。はたまた、心は(そんな風に真偽の間を)動くものではない。動くものは情(※じょう/感情、情感)である。この涙も、この微笑みも、心の底から出たものではなく、情に動かされて(の)情の形なのである。(※一葉の哲学的思考は難解だが、<心>を「思慮」と言い直したら少しは通じそうである。「心に向かって、心の偽りを言う」というのは、おそらく、自身の正しい思慮に対して正反対の思慮をささやく、ほどの意であろう。葛藤、という言葉を挙げれば理解しやすいようだ。しかし一葉は心(思慮)の二面性を否定し、それは情感によるもので、涙はその情感の形、現れなのだ、とするのである。自らの心(思慮)によって<塵中又をかしからずや>と正しい在り方を自負し標榜する一葉に、信条に反する論理は受け入れがたいことであろう。一葉にとって心(思慮)は一つである。しかし、萩の舎で中島歌子の養子になっていれば裕福な安定した生活は約束されていたのである。そして師の君はその信条はともかくも一葉を今も信頼し、手紙をくれ、可愛がってくれているのである。なるほど、師の君への批判と情感は別物であろう。故に、一葉の涙は、世間的に落ちぶれたことを嘆き悔やむ涙ではなく、愚かではあるが愛情深い母親に対して子供が感じるあの郷愁に似た感情に伴う温かい涙であろう。一般には、一葉の師の君への批判を取り上げ、一葉の冷ややかな目ばかりを指摘する論評が目につくが、一葉はそういった目を持つ天才であると同時に、いやそれ以上に、熱い心を胸に秘めた一人の女性、人間である。この「涙」があるからこそ一葉は現代まで語り継がれているのである。だからこそこの「日記」は重要な文献であり、読み継がれていくべき文学遺産なのである。この「涙」を忘れてはいけない。)
 師は私が訪れたのを喜んで、行くべきところにもすぐには出かけようともせず、あれやこれやと、話に時が過ぎていくのを惜しんで、私もまた別れ去るべき頃合いを忘れて、「今しばらく今しばらく」と話した。この(時の二人の)心には紙一枚の隔てもなく、師は本当に慈しみ深い師であり、弟子は本当に温良な弟子であった。かつて(私が)「浮薄の徒(※浅はかな者)」とののしり、「偽賢(ぎけん)の人(※にせものの賢者)」と後ろ指を指した師は、どこに去って行ったのだろうか。(師が)「教えに悖(もと)り(※そむくこと、反すること)、自分の才能を断ち切った不良の子」と軽蔑した弟子は、どこに去って行ったのだろうか。例えれば水の中における魚のように、何故だかは分からないが、とても愉快に半日を過ごした。この時間の心持ちは、(不思議に、)往時、半井さんを訪ねた時の気持ちと同じであった。
 本当にまあ、桜の花は満開の時にばかり、月は陰りのない満月の時にばかり見て愛(め)ずるものではないのだ。(※原文は<花はさかりに月はくまなきをのみめづるものにあらず>である。兼好法師の『徒然草』137段からの引用で、正確には、「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」である。)(そしてまた)一途に逢って契りを結ぶことばかりを恋というのだろうか、いやそうではない。(※原文は、<ひとへに相見るをのみ恋といふかは>である。同じく『徒然草』137段からの引用で、正しくは、「男女の情もひとへに逢ひ見るをばいふものかは」である。一葉は完全なものを追い求めていた自分自身を顧みているのである。人生は、『徒然草』に書いているように、完全なものばかりを求めても仕方がないのである。兼好法師は不完全なものこそ美しく面白いのだと訴えている。師の君に対して完璧な師の偶像を勝手に追い求めていたことに気付いた一葉は、『徒然草』のこの一連のフレーズを思い出し、そこから転じて半井桃水に思いをはせているのである。完全なものを求めても仕方がない、師の君に対してもそうであったが、恋もまたそうなのだ、と意識を恋する半井桃水に向けたのである。)谷間の川下に隠れ住んでいて、高い峰の花(※高嶺の花)を折って手に入れることが出来ないからこそ、もがきにもがいて(それへの)思いが増すのだろう。例えば、芝居(見物)に遊ぶ日の、(芝居を)見てしまった後は、見る前(の気持ち)に(その高揚が)勝ることがあるだろうか(、いやないだろう、というように)。昔の人が(言っていた)いわゆる「苦は楽の種(※ことわざ。今の苦労や努力は将来の幸せにつながる意)」(など)ではなくて、苦中の奥が即ち楽(ということ)なのである。(※「今苦しんでいるということ」の奥底に隠れているその「意義」は、実は「今が幸せであるということ」である、と言いたいのであろう。「奥」は深く入ったところの「意味」、つまり「隠れた意義」ととると一葉の言わんとしていることが理解できるだろう。)
 あらゆる浮き世を(気に食わないと言って)つまはじきにした(※忌み嫌い排斥すること)りするのも偽り(※間違い)であり、(反対に)あらゆる浮き世につまはじきさせられたりするのも偽りである。思うに、(私は)この恋の本当の姿(真実)を知らなかったのである。(※一葉は半井桃水との仲を萩の舎で噂され、自ら桃水と別れたが、それは一葉が世間の目に振り回されたからではあるが、それとまた同時に、彼女自身が完璧な恋を求めたためなお一層苦しかったせいだとも言える。そういう自身のことを思い起こしての述懐であろう。)(とはいえ、)この浮き世を行くところ、どこにも善人はいないものだろうか、はたまた悪人はいないものだろうか。万人の万人に対する所為はさておき(※多くの人が多くの人に対してする行いをいちいち分かるわけではないが、ほどの意であろう。この言い回しは少し謎である。図書館で何か読んだのであろうか。)、私一人の見る目によると、いずこ如何なるところにも至美至善(※至善至美。この上なく善く、この上なく美しいこと。)の人はいるだろう。(※完全なものを求めても仕方がないとしても、この世には完全な人がきっとどこかにいるだろう、という思いである。一葉の理想主義が垣間見える言葉である。)自分の満足を得ようと思うなら、常に満足にならないほどに事を為すがよいのだ。満足の上に満足があるだろうか。満月の夜は一夜であって、その月も欠けていくのがこの世のさだめなのである。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
「樋口一葉の世界」(放送大学教材)(島内裕子 NHK出版)
「樋口一葉日記の世界」(白崎昭一郎 鳥影社)








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