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現代語訳 樋口一葉日記 6 (M24.9.26~M24.10.07)◎真下まき子の墓参り、桃水の不穏な噂、広瀬ぶんの公判、待合について

(明治24年)9月26日 空、少し曇る。早朝、千村礼三さん(※ちむられいぞう/元稲葉家の家来か。明治24年9月24日の日記に出ている)が、正朔さん(※しょうさく/稲葉正朔。稲葉寛、鉱の子)とともに来る。自分は図書館で本を読もうと思ってはやく(家を)出た。道で、今野はる(※もともと中島歌子の下で働いていた小間使い。)が商品陳列館(※上野公園で第3回内国博覧会が開かれたあと、建物が改築され勧工場(かんこうば/デパートの前身)となっていたもの)に出勤するのに会って、(途中まで)連れ立って行く。他にももう一人いた。(※誰だかは不明。今野はるの同僚か。)少し早すぎたのだろう、まだ図書館は開いていなかった。「それなら丁度よい、真下(ましも)の槙子様(※先述の真下まき子。真下専之丞の次女。明治24年7月17日の日記にも出ている。)のお墓参りをしよう。今日はお彼岸の終わりの日であるから。」と思って谷中(※地名)に行った。御寺の僧も今目覚めて起きたばかりであった。閼伽(※あか/仏に供える水)を汲むのも花を提(さ)げるのも(本来なら)悲しいもので(は)あるが、(自分は今)大変晴れ晴れといい気持ちだ。(※ここでの一葉の気持ちは、父母の恩人の次女の御墓参りを、母にかわって自ら行っている、自分はよい事をしている、という満足に近い喜びであったと推察される。)絶えず墓の中で聞いているだろう松風(の哀しさからの涙)に袂(たもと)を濡らして、(※新古今和歌集に、「稀(まれ)に来る夜半(よわ)もかなしき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ」(たまに訪れる寺の夜でさえ私には悲しく感じられる松風の音を、亡き妻は絶えず苔の下(墓の中で)聞いているのであろうか)という藤原俊成(ふじわらのとしなり)の歌があり、一葉の言葉はそれを踏まえたもの。お墓参りの歌を添えて雰囲気を出している。王朝文学の技巧とも言えよう。)(そうして)お供えもしきらないうちにまずため息がつかれた。(墓の中に眠る真下まき子様に)そう(※お墓参りやお墓の掃除、手入れ)するはずの子供などもないわけではない。ありながら一体どういったわけでか、花を供える人もなく、水は枯れ、墓は乾いていた。しばらく拝んでからここを出た。常なき世(※無常の世/この世は全て生滅、変化を続けていて一定の物などない、という仏教の考え。また、世のはかないこと。)とは思いたくもないけれど、やはりこのはかない出来事(※お彼岸中に誰も真下まき子のお墓参りに来ていなかったこと)は、私(の心)から離れなかった。図書館はまだ開いてなかった。しばらく立ち続けて待って、まもなく(開館して)中に入った。『日本書紀』(※にほんしょき/奈良時代に成立した、古事記に並ぶ最古の日本の歴史書)及び『花月草紙』(※かげつそうし/江戸時代の随筆集。松平定信 著)『月次消息』(※つきなみしょうそく/鵜殿余野子(うどのよのこ/歌人)が著し、橘千蔭(たちばなちかげ/書家、歌人。一葉の書の流派、千蔭流の創始者。加藤千蔭とも。)が浄書した江戸時代の書簡の模範文集)を借りて読んだ。(『日本書紀』の)神代(かみよ)の巻の理解しがたいのを無理に解明しようとすると、不思議に眠くすらなってしまった。『花月草紙』に眠りを覚まして、『月次消息』の流暢な(文と書の)調子をうらやましく思うけれども(下手な自分ごときが読んでも何の)甲斐もない。三時ぐらいだっただろうか、雨が少し落ちて来た。ひどく降られたら困るので、図書館を出た。途中で雨が止んだのはくやしかった。不忍池(しのばずのいけ)は蓮が枯れて、浮き草の花が漂っているのも寂しい。「秋は草木の上ばかりではなく、目に見えるすべてのものが湿っぽくもあることだ」と思って、しばし(そこに)立ったままとどまった。後ろから来る書生(※しょせい/学生のこと。ここでは複数人いたと察せられる。)が、私の事であろう、何かをひそひそ話しているのがきまりが悪くて、うつむいたまま急ぎ足になるのも恥ずかしい。(※この日記が始まってから何度か一葉は<ささやき>に過敏に反応する場面を描いている。おそらくこれは14歳で上流階級ばかりの萩の舎に入塾し、その女性だけの世界での妬(ねた)みや嫉(そね)み、蔑(さげす)みやいじめを経験した一葉の負の遺産であろうと推察される。もちろん明治という時代背景もあり、一葉の19歳という年頃の、また元来の性情の一つででもあっただろうか。)家に帰ると、「すごく早く帰って来ましたねえ」と言って皆が皆喜んだ。国子(※邦子。一葉の妹。)は、「今日は関場さん(※関場悦子。邦子の友達。直近では明治24年8月1日にその名が出ている)がいらっしゃいました。」と言って、(関場さんに)いただいた栗などを私にも食べさせた。(邦子は)「半井先生のことなども聞いておきました。いやもう、やっぱり記者は記者です。朱に交われば、どうして赤くおなりにならないことがあるでしょうか。(※当時の新聞記者は社会的な信用が低く評判が悪かった。)品行が不の字であること(※不品行なこと)、信用のおきがたい事、姉上が思っているよう(な人)ではありませんよ。」と言って、まじめな態度で話して教えてくれたことに、(私は)胸がつぶれる思いだった。(※半井桃水について、関場悦子がある噂を邦子に話したものと思われる。この文章がつづられる2か月前の明治24年7月、桃水の妹幸(こう)の同級生で、地方出身で半井家に寄宿していた女学生の鶴田たみ子が女の子を出産した。噂とは、たみ子を妊娠させた相手が桃水である、というものであった。事実は桃水の弟、医学生であった浩がその相手であったのだが、花柳界に出入りしていた兄の桃水の方が疑われていた。ちなみに、一葉が小説指南を受けようとはじめて桃水を訪問した当時(明治24年4月)、桃水の家には桃水、妹の幸子(こうこ)/(幸とも)、弟の浩(ひろし)、その弟の茂太(しげた)、そして幸子の学友で、福井県敦賀(つるが)から寄宿していた鶴田たみ子の5人暮らしであった。ただし、その時たみ子は妊娠7か月あたりであっただろうから、秘密裏に出産させるため、別の家を借り、そこにいた。)私の為には良き師であって、かつ「信頼すべき友」とも半井先生はおっしゃっていた。私の一家の秘密の事情(※貧に窮していたこと)をも打ち明けてご信頼さしあげて、「これからはお助けしましょう」などといった約束もしてあったのに、それも偽りであったのかも知れず、「誰が本当のことを(言っているのだろう)」と思って、長いため息がつかれた。今日は稲葉の細君(※稲葉鉱)も来られていたとかいうことだ。関場さんから『日本外史』(※にほんがいし/江戸時代後期、頼山陽(らいさんよう)が著した国史。外史とは民間による歴史書のこと)及び『吉野拾遺』(※よしのしゅうい/室町時代の説話集)を借りてくる。日没後、母上に『吉野拾遺』を読み聞かせしてさしあげた。(※母たきは、ほとんど字が読めなかったらしい)十一時ぐらいであっただろうか、床に就いた。
(明治24年)9月27日 朝から曇り。昼前、久保木の姉上(※一葉の姉、ふじ)が来られた。昼過ぎから広瀬七重郎(※一葉の父則義のいとこで、恐喝詐欺取財で捕らえられ上告した広瀬ぶんの伯父。山梨在住。明治24年9月24日に出ている。)が来る。「ぶんの公判は、前の裁判通りに執行ということになった。」と言って、大変失望の体(てい)であった。(※結局広瀬ぶんの上告は却下され、有罪。執行猶予があり、監視処分となった。)自分たちも同じように嘆かれた。(ぶんの)監視のことについて、いろいろと相談があった。(※執行猶予なので警察がぶんを監視することになる。それへの対応の相談だろう。)「明日また来よう」と言って(広瀬七重郎は)日没前に(宿に)帰った。今日は(私は)ことに元気がなくなり、何事も出来なかった。今宵もまた早く寝た。とても意気地のないことだ。
(明治24年)9月28日 晴天。午前のうちに、国子(※邦子)が吉田さん(※邦子の友達)に書物を返しに行く。しばらくして帰った。午後、藤田(※時計店の名前。主人が藤田吟三郎)より目覚まし時計を買った。家にある時計がひどく傷(いた)んでいたからである。「値段もとても安いし、品質も良い」などと、私も家族も共に思ったので、ここにある(傷んだ)ものをあちら(※藤田)に売って、わずかな差額で買い入れた。藤田屋(※同じ藤田だが、こちらは一葉の父則義の代から出入りしている植木屋の名。明治24年8月9日に建仁寺垣を頼んだ植木屋と思われる)が来た。稲葉さん(※稲葉寛)から手紙が来た。(その)返事を送った。今日も一日中何かをしたということもなかった。十一時半頃床に就いた。
(明治24年)9月29日 晴天。母上、藤田屋(※前述の植木屋)の頼みで、(藤田屋に)貸すことのできる金のことを言いに行かれた。(※一葉の父則義は裕福になった頃、貸金もしていた。藤田屋の頼みはその名残であろうか。)家の金とてあるわけではないのだが、三枝(さえぐさ)さん(※三枝信三郎/真下専之丞の孫。専之丞の長女とみ子(※先述真下まき子の姉)の長男。とみ子は三枝家に嫁していた。銀行家であった。明治24年7月30日に樋口家を訪れたことが出ている。)から借りた金が少しあるので、それを貸そうというわけである。(その)帰り道に、(母上は)高野(※不詳。お金を貸していた人の名前だろうか。)に立ち寄って、ここからも少しだけ返金を受けられた。吉田さん(※邦子の友達)が三人連れで来られた。『日本外史』(※前述。全22巻。)三冊をお貸しくださった。(※二日まえにも関場悦子からも借りている。違う巻であろう。)物が少し到来する。(※何か不明だが三人のお土産だろう。)昼少し前に(三人は)帰った。母上は正午に帰宅なされた。稲葉さん(※稲葉寛)よりまた手紙が来た。すぐに返事を出し、佐藤梅吉さん(※一葉の父則義の恩人真下専之丞の元で書生として働いていた人。則義在世時から親交があった。)に手紙を出す。午後、上野の伯父さん(※前述の上野兵蔵。明治24年7月23日に出ている。)が来られた。藤林(※ふじばやし/上野兵蔵の妻つるは、以前藤林某と結婚し、房蔵(ふさぞう)という子を設けたが別れ、上野兵蔵と再婚。房蔵は連れ子となったが、籍は藤林のままで藤林房蔵となっていた。)のことについて話があった。夕暮れに帰られた。この夜は、そこまで眠くなかったので、十二時ごろ床に就いた。この時分から大雨が降り、(まさに)盆を返すようであった。
(明治24年)9月30日 朝から空の様子がただごとではない。十時頃より強風と大雨、本当の野分(※のわけ/台風の意)になってしまった。その最中に、広瀬七重郎が来る。ぶん子(※広瀬ぶん)のことについていろいろと(当家に)依頼された。七重郎さんは、午後帰国(※山梨)の途についた。一時頃より風の力は次第に減じて、二時に沈静した。差配人(※借家の管理人)の土田(※土田恒之助といった)が来た。(ついで)久保木の姉上(※一葉の姉、ふじ)が(様子見がてらに)見舞いに来られた。近頃では稀な強風であった。だけれども我が家は山陰(やまかげ)の低い所なので、そこまで(風は)強くはなく、破損した箇所もなかったが、所によっては(風で)屋根をめくられ、塀や垣が倒れるのは言うまでもなく、丸つぶれになった家も少なくなかったらしい。その夜は空がとてもよく晴れて大変おだやかであった。(萩の舎の)稽古題(※歌の宿題のこと)、二週間分を詠んで、寝床に入ったのは十二時であった。
(明治24年)10月1日 早朝、師(※中島歌子)のもとに昨日(の台風)の見舞いに行く。路地の樹木や塀、垣などが倒れているのがはなはだ多い。師の(居所の)そばではそうでもない。ただ、近頃植え替えなさった木々が、二本、三本倒れているのみである、ということだ。(萩の舎で)あちこち出さなければならない葉書をしたため、会計上の計算などをして帰った。(師は私に)大小の筆十本下さった。この日、山梨県の野尻さん(※山梨県玉宮村の野尻家。ここの次男の野尻理作が東京帝国大学に在学中、一葉の父則義は野尻家から理作の学資を預かり、監督を頼まれていた。)から、葡萄(ぶどう)が一かご送られてくる。大変見事な葡萄であったので、母上は、安達(の伯父さん※明治24年8月5日に出ている。一葉に読書や作文をすると脳の病になると諫(いさ)めた人物。)へも少し(葡萄を)お送りなさった。(野尻さんへの)お礼状をしたためて出した。国子(※邦子)は午後より吉田さん(※邦子の友達)へも(葡萄を)持って行った。この夜は早く寝た。
(明治24年)10月2日  曇り。今日の新聞に「津田三蔵(つださんぞう)が肺炎症にて空知(そらち)監獄に死す(※大津事件の犯人津田三蔵が獄死したという報道。実際は北海道釧路の集治監で病死。明治24年5月15日にこの事件のことが出ている。)」という文があった。台風の損害についてを多く載せ、「野菜が非常に高値になった」とも記してあった。「『国会』『朝日』の内幕」(※この頃、改進新聞が国会新聞と朝日新聞は政府と癒着していると批判したことから、国会新聞、朝日新聞二つの新聞と他の新聞とが対立していた。ただし、一葉がこの時どの新聞を読んでいたのかは不詳。)と言って激しく攻撃しているのは、(互いが)商売敵かそうでないか(は知らないが)、(相手を)憎いと思うのも(結局)その人(※ここでは一葉が読んでいる新聞)の(感情的な)心からであろう。(※一葉は、新聞同士の対立に感情的な醜さを感じていたと思われる。)午後より(植木屋の)藤田屋が来る。金を七円だけ来月返金の約束で貸す。(藤田屋は)庭の木石などを修繕してくれた。(藤田屋から)干物のそら豆を一舛(ます)いただいたので、庭先になっていた冬瓜(とうがん)を一つさしあげた。(藤田屋は)黄昏(たそがれ)時になって帰宅した。この夜久保木の姉上(※一葉の姉、ふじ)が来た。栗と柿をすこしいただいた。葡萄を一房さしあげた。国子(※邦子)とともに数詠(※かずよみ/和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)をした。(一題につき)国子(※邦子)が一首、自分が十首(作る)という約束(※ルール)で詠んだのだが、一題は自分が一首勝った。(※制限時間内に一葉が十一首詠んだ。)次の題では自分が三首負けた。(※制限時間内に一葉が七首しか詠めなかった。)勝ち負けなし(の引き分け)として(そこで)やめた。この夜は全然眠くない。十二時に床に就いた。
(明治24年)10月3日 小石川(※萩の舎)の稽古である。空はめったにないほど素晴らしく晴れて、大変良い日であった。師の君(※中島歌子)のもとへ葡萄を少しさしあげた。来会者は十二人ぐらいであった。今日から稽古(を指導する者)が(私)一人になった。(※師の中島歌子の健康がすぐれず、一葉が師に代わって稽古をした。明治24年6月20日にも同様のことが記されているが、その時は田中みの子と二人であった。)九月分の会計の計算をして帰った。四時頃であった。十二時に寝た。
(明治24年)10月4日 晴天。午前中に読書をし、午後作文(※小説の習作)をした。黄昏時(たそがれどき)から国子(※邦子)と共に摩利支天(※まりしてん/下谷(したや)区の徳大寺という寺の中に聖徳太子の作と伝えられる摩利支天像がある。摩利支天は仏教の守護神。)にお参りする。帰り道に、杉山勧工場(※かんこうば/デパートの前身。杉山勧工場は下谷区にあった。)を見物した。各お店に一人の客もなく、寂寞(せきばく)としていたのにも驚いた。以前住んでいた家(※一葉が13歳から17歳までの5年間住んでいた家。正確には下谷区上野西黒門町22)の前を通ってくると、怪しい待合(※まちあい/待合茶屋。男女の密会や芸者と客の遊興に用いられた家)などという家が出来ていた。中坂(※なかざか/地名。坂の名前。)のてっぺんに、先日の台風で崩れたのだろうか、一間(※いっけん/約1.8m)ほど石段が落ち(崩れて)いた。家に帰ったのは八時頃。それから母上の揉み療治(※マッサージ)を少しして、習字にとりかかった。十二時に床に就いた。
 待合というものはどんなところなのだろうか、自分は知らないけれど、ただ(その「待合」という)文字の表(おもて)から(言葉通りに)見れば、間に合わせに人を待ち合わすだけの事であるらしいと思われるのだが、奇妙なことに唄姫(※うたひめ/宴席などで歌などを歌って興を添える芸妓)などを呼んで席にあげ、酒を飲み、灯(ともしび)はあかあかとして声は低く、夜が更けるまで遊び興じているように見える。家の主(あるじ)は大方女で、二、三人の美人の酌女(※しゃくおんな/宴席にはべって酌をする女)も見える。家は華やかすぎる入り口の様子、高く作った建物には伊予簾(※いよすだれ/愛媛県(伊予国)上浮穴(かみうけな)郡露峰(つゆのみね)産の竹で編んだすだれ。上等品。)をかけ渡して、簾(すだれ)越しの声の調子がなんとなく恐ろしい。家の屋号を行燈(あんどん)に書いているものもあり、額を打ち付けているのもある。「ときは」と呼ぶ待合があり、「梅のや」「竹のや」(があり)、(そして)「湖月(こげつ)」は烏森(※からすもり/地名)に名高く、「花月(かげつ)」は新橋(※地名)の裏町にある。あるいは「いが嵐(らし)」の奥座敷に風を避けて、「朧(おぼろ)」の離れ座敷に落花狼藉(※らっかろうぜき/物が散り乱れている様。また、女性に乱暴を働くこと。ここではどんちゃん騒ぎほどの意)をみるなど、大方世間の紳士、紳商(※しんしょう/紳士の品格を備えた商人)などといった人の、隠れ遊びの場所であるようだ。(待合は)少なくとも一つの街に一か所は必ずある。多い所では軒を並べて、仕出し屋の岡持ち(※出前の料理を入れて手に提げて運ぶ浅い桶)が常に行き交っている姿を見る。世にはいかにあり余る小金があって、こんな風に(仕事も)用事もない人が大変安穏(あんのん)な世を過ごしているのだろう。孟宗(もうそう)は竹を得ることが出来ずに雪の中にこごえ、(※孟宗は紀元3世紀の中国の人。雪の寒い日に年老いた母親が食べたいという筍(たけのこ)を掘りに行ったという中国の故事がある。孟宗竹の由来。)孫公(そんこう)は雪が少なくて窓の光が暗いのを嘆く(※孫公は孫康。孫康は紀元3、4世紀頃の中国の人。家が貧しくて灯火の油を買うことが出来ず窓辺に降り積もった雪明りで読書をしたという故事がある。「蛍の光窓の雪」の「窓の雪」の由来。)というのに、地租軽減(※農地の税率を下げて農民の負担を減らす運動が当時の自由党などで起こっていた。)を唱える有志家や、予算の査定に熱中する代議士が、このような遊びに費やす小金が惜しくないというのは、学問がなく知識もない(私のような)者には理解できないことである。
(明治24年)10月5日 晴天。一日中机にもたれて、いつものようにとりとめもないことを書き続けた。西村さん(※西村釧之助(せんのすけ)。一葉の母たきが乳母奉公をしていた稲葉家で奥女中をしていた太田ふさ(結婚後西村きく)の息子。たきとふさは仲良しで、親戚同様の付き合いをしていた。明治24年6月23日にも出ている。)が来られた。近日中に出店(しゅってん)の手筈だと言う。(※西村釧之助は小石川区に文房具店を出した。)小田病院(※小田という人が経営していた桜木病院。皮膚科専門。明治24年9月17日に田中みの子の月次会の帰りに月が昇る場面で出ている。)で起こった怪しげな話を語った。(※桜木病院で盗難事件があり新聞沙汰になった。)昼食をすすめて帰宅したのが三時頃であった。滝野さん(※隣家の人)から庭先の栗をいただいた。今日は甲子(※きのえね/十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせで最初の日であることから、物事を始めるに縁起の良い日とされている。七福神の大黒天の縁日にあたり、大黒天を祀る寺社では甲子祭が開かれる。)であるからと言って、母上が少し(お供え)ものを用意して大黒天に奉納した。日没後、母上の揉み療治(※マッサージ)を国子(※邦子)と共に少しして、今宵ははなはだしく怠けてしまった。
(明治24年)10月6日 快晴。母上、朝から張り物(※洗ってのりをつけた布を板張りなどして乾かすこと。)をなさった。姉上(※ふじ)がちょっとだけ来た。昼前から、単衣(※ひとえぎぬ/裏のついていない着物)を三つ四つ洗った。昼過ぎからは、いつものように文机(※ふづくえ/読書や書きものをするための低い机。ふみづくえとも。ちなみに、一葉の愛用した机は現存する。紫檀(したん/インド南部原産の木の名前。暗い赤みを帯び、堅い。)の机で、梅花の透かし彫りが施された立派なもので、父則義が買い与えた。)に向かった。
(明治24年)10月7日 快晴。午前中に、髪を洗い清めた。昼過ぎから文机に向かい、小説をとりとめもなく書き続けたが、満足できないことばかり多くて、(原稿を)引き裂いては捨て引き裂いては捨て、そんなことがはや十回にも及んだ。いまだに一篇の小説をも作り出していないのは、大変不思議だ。早く書き始めたもの(に)は、師の君(※中島歌子)に一回だけ添削をお願いしたものがある。それの続きを書きたいと思うのだが、我ながら(全然)面白くなく、このように引き破ったのだけれど、そのままで終わることは出来ないので、別の趣向を設けなどしてまた書き出したのだが、どれもこれも大変下手くそである。昔と今の有名な物語も小説も、(それを)見るたびに自分の文章が我ながら悲しくなって、挙句の果ては打ち捨てたいけれど、思い始めたことはなかなかやめることが出来ない(私の)ひねくれた心に、おこがましいけれどまた少しずつ書きだした。「明後日までには必ず作り終わろう、これを作り終わらなければ死のう」と(まで)思うのだが、(それを)「心の小さいことよ」と笑う人は笑うがいいのだ。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)


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