現代語訳 樋口一葉日記 32(M26.5.1~M26.5.21)◎邦子の針穴、筆跡あれこれ、広瀬ぶん失踪、恋は尊く浅ましく無残なもの、半狂乱の小宮山庄司
蓬生日記(明治26年(1893))5月3日より
(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意。一葉はこれに限らず同じ題を何度も使っている。)
一束(※いっそく。新聞用語で、訴訟一束、火事一束といったように、いくつかの同類の記事をまとめて掲載する際に用いられた言葉。一葉がそれをまねたもの。もともと「ひとまとめ」の意味がある。)
母上が浅草(※浅草観音)の開帳に行かれたのは、一日(※5月1日)であった。中廻向(なかえこう)で、天童供養(※浅草寺ではお彼岸とお盆の供養の中に当たるという意味で中廻向(※廻向とは先祖の仏事供養のこと)が行われていた。観音像を参詣者に開帳し、法会(ほうえ/経典を読誦(どくじゅ)し、講説(こうせつ/仏典を講義し説明する意)すること)が行われた。また、天童供養は天童(稚児)を参加させる供養のこと。)などが(あって)、大変にぎやかな日であったからだろうか、あれほどの広場に立錐(りっすい)の余地もないまでに(※原文は<きりをたつべきひまもなきまで>で、まさに「立錐の余地もない」のことで、人や物が密集していることのたとえである。)人々が混み入っていて、本堂近くは年寄りなどが近づくことも出来なかった。(母上が)無理に(本堂に)お参りしようとすると、厳重に警護している警官などが、「危ない、怪我するぞ。」などと制止した。せっかく参詣したのであるが、鰐口(※わにぐち/お堂の前にぶらさげられた銅製円形の仏具。大きく平たい鈴の形で、参詣人がその横につるされた太い綱を振りこれを打ち鳴らす。)(の綱)を取ったのに鳴らさないでお帰りになられたとのことだ。(母上は)「奥山(※浅草寺本堂の西に当たる地域を古く奥山と呼んだ。江戸時代から大道芸人や見世物小屋などが軒を連ねて賑わっていた。)の興行物(こうぎょうもの)など、大変面白そうなのが多かったけれど、その中に(あった)、鹿児島戦争(※明治10年の西南戦争)の生人形(※いきにんぎょう/等身大の人形)を見て帰りました。(※明治23年開業の日本パノラマ館であろう。パノラマとは人形、模型、絵画を組み合わせて光線を利用して実景のように見せる仕掛けのこと。)」とおっしゃられたのがおかしかった。(母上は)「すべて、いまだ見たこともない賑やかさでした。」とお話しになられた。
小林好愛さん(※こばやしよしなる/一葉の父則義の元上司。直近では明治26年2月14日に出ている。)が、本郷区の区会議員になられたとのこと。
ある夜、邦子が話したことには、「日々考えることが同じではなくて(※変わっていって)、一日の内でも、一時(※いっとき/1時間、あるいは一刻、すなわち2時間。また、ちょっとの間の意)の間でもいろいろな思いが湧き出てくることがとても苦しいので、『どうにかしてこの心を正しく整えたい。』と思って、いつも坐っている窓(際)の障子に、(そう思った)その時その時に針を刺して(自身を正すべきだという)印としていましたが、一間(※いっけん/約182cm)ばかりの長さは少しの間に穴ばかりになってしまいました。さらに(針を)刺し始めたところも、もはや残り少なくなりました。分かっていながら正そうとするのでさえもこの通りです。何事につけてもあれこれと考えず、意志を持たずにその日を送っていたら、どんなに過ちも多いことでありましょうか。とても危なっかしいことです。」と言った。(※この妹の言葉を一葉はどう聞いただろうか。前回の日記「しのぶぐさ」で岩手の野々宮きく子から便りがないことをひがんで恨みごとを日記に書いてしまった一葉である。樋口家の迫る窮乏に精神状態がよくなかったのは、戸主である一葉ばかりではないのだ。妹がどのように精神の安定を自ら図っていたかを知り、一葉にも思うところがあったに違いない。だからこそここに書き留めたのだろう。)
一、(※二はない。)文字こそは人の心を表すものである。同じ師(※師の君、中島歌子)のもとで、同じ手本を習っている中で、それでいてあれとこれと(※あの人この人と)同じ筆跡であることは少ないのである。花圃女史(※三宅花圃)などのように、華やかで美しい愛嬌があって、しかも(その)熟練らしいところが、見る人から「師匠にも勝(まさ)って(いらっしゃる)」などという言葉が出るような(その)筆跡は、「(花圃女史は)自ずから(良い)家柄の血筋を引いているのだから、他人が(それに)及ぼうはずがない。」と(人は)言うけれども、それでもやはりよく見ると、それは(決して)それだけではなく、やはり心を尽くして(書いているから)こそ(美しいの)であると思うのだ。必ずしも奇(※普通と違って珍しいこと)ではなく、洒落(※洗練されていること)でもなく、才能のある手跡に千蔭流(※ちかげりゅう/江戸時代中期の歌人、書家である加藤千蔭の書の流派。中島歌子は国学者で歌人の加藤千浪(かとうちなみ)に入門してこの千蔭流を修め、弟子たちに伝えた。筆勢よりも線の流麗さを強調しているとされる。一葉の書も千蔭流である。)を大変よく習得したものとは誰しにも分かるだろうけれど、その中にひとかどの才気があふれているところにこそ、その人(※三宅花圃)の本性が見えて、愚直で質朴などとはかりそめにも考えるべきではないのだ。伊東夏子女史も、その筆跡は(千蔭流を)とてもよく習得していると見えるけれども、さらに(筆づかいが)柔らかな方に寄っていて、ただ(もう)素直に麗しいのである。鳥尾広子(※萩の舎門人。直近では明治25年11月9日に出ている。)の筆跡は花圃女史のそれに大変よく似ていると見えるけれど、華やかで美しいところは(やはり)彼女(※花圃女史)がまさっている。(※原文は<かれはまさりたる>であり、本来<かれ>が鳥尾広子か三宅花圃か判然としないところだが、筑摩書房版一葉全集の注釈に、この箇所は元々<これはおとりたる>を直したものとあり、<これ>は明らかに鳥尾広子であることから、<かれ>は三宅花圃だと判断した。小学館版一葉全集の注釈も「花圃」とある。)(また、)天野滝子(※萩の舎門人。直近では明治25年8月17、18日に出ている。)の手跡を、人はそれ相応にほめたたえるということだ。江崎まき子(※萩の舎門人。結婚前は乙骨まき子。直近では2月11日に出ている。)などのように大変達者に書いた筆跡は、大方の、(あまり)書き慣れていない麗しい(風の)筆跡よりは、手紙などの表書きに(は)とてもよい(だろう)。香川政子(※島田政子。萩の舎門人。毎日新聞社の主筆、島田三郎夫人であったが、書生との関係が非難されて、離婚。政子は家付きの娘だったが、離婚後家を出て香川氏と同棲していた。直近では明治25年8月17日に出ている。)の筆跡を、以前島田三郎の妻であった頃、ある人が見て、「もの柔らかで美しく、華やかだとは見えるけれど、(どうも)しっかりと定めた節操(※守り通す主義、主張)がないなあ(※ここの原文は<たてたる節なしや>である。<たる>が連用形に接続するので<たつ>は他動詞下二段のいわば「たてる」である。そこで、問題なのは<節>の読み方で、これを「ふし」と読めば、直訳すれば「たてている箇所」となろうが、これだと全く意味が通らない。無理をして「自分で立っているところ」とも訳すことも可能だが、そうすると「立つ」が自動詞になり適合しない。そこで<節>を「せつ」と読めば、<節>は、節操、信念を堅く守ること、といった意味になるので<たてたる節>は「たてている節操」あるいは「たてている信念」と直訳できる。「操(みさお)をたてる」と言えば分かりやすいだろう。この場合の「たてる」は、物事をしっかりと定める意である。こちらの方が後に続く文章にもぴたり符合するので、<節>は「せつ」と判断して、上記のように訳すことにした。要は、字の雰囲気に何だか節操がなく、自らを律する強い意志が全く感じられなかったことを言っているのだろう。どうもしっかりした字ではないということである。ちなみに小学館版一葉全集では「ふし」とルビがあり、筑摩書房版一葉全集ではルビはふっていない。)。」と言ったが、彼女もその通りに節操のない者になって、今はある商家の愛人になってしまったということだ。
(明治26年)5月3日 夜明け方より大雨が車軸を流すよう(※車軸のように太い雨脚の形容)であった。起き出た頃にはやや小雨になっていたけれど、今日は晴れそうな様子も見えない。母上はいつもの血の道(※月経時などに女性の心身に起こる異常。頭痛、のぼせ、発汗、悪寒など。)で寝ておられた。今朝、天知さん(※星野天知。『文学界』を創刊。直近では明治26年4月6日に出ている。)から書状が来た。「『文学界』五号に、少し長いものでもよく、二十日前までに(原稿を)下さいませんか。」ということである。「『都の花』の方(の小説)もまだ作り終わらないのに、どうして書けようか。」と思って、「来月ならば(書きましょう)。」と返事を出した。今日母上が、伊勢屋(※本郷区菊坂町にある質店。)のところへまた行かれた。(※質屋通いである。)(また、)芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。
(明治26年)5月4日 晴れ。髪を結った。何事もなし。夕方になって、西村さん(※西村釧之助)のところへ金を返しに行った。帰ってみると、お鉱さん(※稲葉鉱)が来ておられた。「これから西村に金を借りに行こう。」ということであった。
(明治26年)5月5日 晴天で、風が強い。芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。習志野演習の慰労休暇だということだ。(※先月4月19日の日記に、翌20日から10日間千葉県の習志野で陸軍の演習があることが書かれている。)姉上(※ふじ)が来た。稲葉さん(※稲葉寛か、鉱か)が、お礼に来た。(※何のお礼か不明だが、前日の西村への借金に関することか。)姉上、芦沢が二人で柏餅を買ってきた。(※当日は端午の節句である。)みんなで食べた。
(明治26年)5月6日 とても寒い。薄霜がおりたとのこと、人々が言う。この日は来客がとても多かった。久保木夫妻(※姉ふじと夫の長十郎)、菊池の老人(※菊池政。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の妻。)、奥田の老人(※奥田栄。樋口家はこの老女へ父の借金の返済を続けていた。)、及び西村の親子(※西村釧之助とその母きく。きくは一葉の母たきが稲葉家に乳母奉公していた時の奥女中、太田ふさ。(結婚後西村きく)。当時は茨城にいた。)が来た。(そして)小宮山庄司(※広瀬ぶんの内縁の夫。明治24年9月24日の、山梨の広瀬七重郎(※ひろせしちじゅうろう/一葉の父則義のいとこ)が来て姪の広瀬ぶんの裁判沙汰について記したくだりに詳しい。直近では明治25年1月10日に出ている。)が突然来た。おぶん(※広瀬ぶん。直近では明治25年1月18日、20日に出ている。おぶんと小宮山は当時花川戸(※はなかわど/地名)で骨董店を営み、店はおぶんが切り回し、小宮山は人力車の車夫になって共稼ぎをしていた。)が姿を消したということで、もしやわが家にでも(来て)いるのかと、半ば疑い、半ばは(それを)訴えるためである。母上と一間(ひとま)でしばらく話して帰った。哀れにも狂ったとばかりに取り乱した姿が、とても情けない。その昔は八字髭に威厳をそなえて、誰の眼から見てもひとかどの人と見えたのだが、あの姦婦(※おぶん)のためにこそ家をも失い、親をも忘れて、その身は浮き世の日陰者となって、今はなお口を糊するためにとるべき仕事もなく、車(※人力車)を曳いているということだ。「お恥ずかしきことながら」と語るのを聞くと、着ているものとても、その古びた袷(あわせ)の他に一枚も(持た)ないということである。浅ましい肉恋(※にくれん/肉欲の恋)の果てとはいえ、今日この頃の彼の心は、察するに大変哀れである。(小宮山は)話をなおしたげではあったが、(他の)人々が集まっている中なので、長くは聞くことも出来ず、「また来なさい。」と母上がお帰しになった。(他の)人々も日没少し前に帰った。そういえば、今日は前田家の園遊会であった。(※貴族院議員前田利嗣の邸宅で園遊会が催されおよそ900名が来会した。前田利嗣は加賀前田家15代当主。妹の衍子(さわこ)が近衛文麿を出産後亡くなった記事が明治24年10月24日に出ている。その夫人前田朗子(さえこ)は直近では明治25年9月23日に出ている。夫婦とも萩の舎門人である。)皇族、大臣をはじめ、貴族院議員、外国の公使などのような人が、来会者千人と聞いた。
(明治26年)5月7日 晴天。秀太郎(※一葉の姉、ふじの子)が来た。今日もまた、来客が多い。山下直一(※樋口家の元書生。直近では明治26年4月8日に出ている。)及び芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。芦沢は同僚を連れて来た。三人に昼食を出した。みな日没少し前まで遊んでいた。この夜、母上とともに右京山(※一葉の家の西側にある丘陵)にて花火を見た。九段の祭り(※靖国神社の春季大祭)で、ここからよく(花火が)見えるからである。
(明治26年)5月8日 晴天。小宮山(※小宮山庄司)に手紙を出した。その返事がすぐに来た。いまだにぶんの行方が分からないとのことである。
(明治26年)5月9日 (※無記載)
(明治26年)5月10日 晴れ。夜に入ってから荻野さん(※荻野重省。一葉の父則義の友人。元司法省の官吏。直近では明治26年4月5日に出ている。一葉はよくこの人に本や新聞を借りている。仲御徒町(なかおかちまち)の宿屋に妻といた。)を訪問した。『信濃自由』(※長野県の自由党によって明治24年11月に創刊された『信濃自由新聞』)の怪事があった。(※内容は不明)
(明治26年)5月11日 晴れ。今朝から『国会新聞』(※『東京朝日新聞』の姉妹誌。正しくは『国会』。)をとった。「諸々の県で霜害がおびただしく、桑茶などはもちろんのこと、さまざまな苗が枯れているのが多い。」とのことである。「群馬、埼玉、山梨などは、蚕(かいこ)を飼うことのできる方法がなく(※餌の桑が枯れたため)、山や川などに捨ててしまう者も多い。茶はすべて黒色に変色して、中には幹まで枯れたのもある。」ということである。
につ記 明治26年(1893)5月
(明治26年)5月12日 夜になってから小宮山(※小宮山庄司)が来た。浅ましい話が多い。(※おぶんの店の骨董品に盗品が含まれていたらしい。)夜明け方に帰宅した。
(明治26年)5月13日 山梨に手紙を出した。(※おぶんの叔父である広瀬七重郎宛て。)小宮山のことについてである。
(明治26年)5月14日 何事もなし。
(明治26年)5月15日 母上の誕生日(母たきの誕生日は天保5年5月10日。新暦換算では1834年6月20日になる。)につき、芝の兄上(※虎之助)及び久保木の姉上(※ふじ)を呼んだ。面白くない方々だけれども、同じ兄弟というものを、はっきりと(※原文は<道を道にたてて>で、<道を道に>は正々堂々と、明白に、の意。直訳すれば「正々堂々と表明して」となろう。)疎遠になるのも母上にとってはとても薄情で、残念に違いないことと思って、このように(二人を)呼んだのである。兄上から土産を貰った。姉上及び秀太郎も来た。折よく上野の伯父さん(※上野兵蔵。直近では明治26年4月1日に出ている。)が来られたので、こちらにも酒を出したりした。(伯父さんは)日没少し前まで遊んで帰られた。兄上も同じく(帰られた)。
(明治26年)5月16日 雨。
(明治26年)5月17日 晴れ。西村さん(※西村釧之助)が来訪。
(明治26年)5月18日 雨。
(明治26年)5月19日 晴れ。母上が花川戸の小宮山(※小宮山庄司)のところを訪問した。午前八時から出て、午後四時頃帰宅した。「いろいろとなだめ諭して正しい(行いの)道に戻そうとしたけれど、話に従うような様子も見えない。」と言って、母上は大変ため息をつかれた。人の身の上ながらとても困ったことだ。この夜、新聞の号外が来た。福島県の吾妻山が大爆発(※噴火)したということだ。今日から(私は)四畳半の座敷に移った。
恋は尊く、浅ましく、無残なものである。『徒然草』の兼好法師の発心(※ほっしん/出家すること。)のきっかけも、文覚(もんがく)上人の悟道(※ごどう/仏法の真理を悟ること)の道しるべも、「これ(※恋)に導かれて」と伝承され続けているのは尊いことだ。(※明治26年3月22日の日記にあるが、平田禿木の「吉田兼好」の中で、禿木は兼好法師の出家の動機は悲恋にあったとしている。また、文覚は平安時代後期から鎌倉時代初期の真言宗の僧で、元は遠藤盛遠(もりとお)という武士だったが、同僚の妻に横恋慕し、同僚を殺そうとした。ところが、盛遠は妻の方を誤って斬り殺してしまう。妻が夫を救うために自ら身代わりになったのだ。これを恥じた盛遠はそれを機に出家する。)花の散るところ、月が(雲に)隠れるところ(など)、どこにでも恋がないところはないだろう。(※『源氏物語』の「花散里(はなちるさと)」と「花宴(はなのえん)」の内容にちなんでいる。前者は光源氏が花散里という女性と、後者は朧月夜という女性と恋をする。)(人によっては)浅ましい肉恋(※にくれん/肉欲の恋)をただ一つの命(※よりどころ)として、汚れた体を少しの間も相抱かなかったら、「わが恋は全く終わってしまった。」と嘆き、「浮き世の望みは絶え果ててしまった。」と途方に暮れているとかいうことだ。だけどそれはまだよい。その唯一の命とする恋の本尊(※目的の人)を悪魔と知り、外道(※げどう/人でなし)と知り、夜叉(※やしゃ/恐ろしい顔をした猛悪なインドの鬼神)と知り、(※「外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)ということわざ。外面は優しく美しいが、内心は残忍で恐ろしいこと。本来は、女性が仏道修行の妨げになることを言ったもの。)これの為に自分の命がまさに終わろうとしているのを上の空に知りつつも、それでもやはり(相手から)潔く離れて行くことをしかねて、親をも忘れ、子をも忘れ、空しい思いを胸に抱いたまま、最後には一体どうなろうとしているのだろうか。恋は心にある(※恋する心そのものにある)のであって、人にある(※対象となるその人にある)のではない。(それならば)抱きたいのなら(人ではない)月でも抱けばいいだろうし、花でも抱けばいいだろう。(それを)厭に思うということであればどうしてまたそれを捨てるのに難しいことがあるだろうか。(※対象に執着がなければ簡単にその恋を捨てられるということであろう。)鏡にものが映るのは、ものが来てその後(のち)に(鏡に)映るのか、まず鏡があるからこそ(ものが)映るのか。(※鏡にものが映るのは、ものがあるから鏡に映るのか、鏡があるからものが映るのか、という問い。一葉は実に哲学的である。この場合、鏡が自分の心、ものが人(※恋の対象)ということであろう。つまり、恋をするのは、まず人(※恋の対象)がいてそれが自分の心に映るのか、まず自分の心があってそれに人が映るのか、という問いである。)もとの形を見極めると、答えは自ずから明らかになるだろう。(※原文は<もとのかたちを極めんに末おのづから明らかなるべし>である。ここでは<末>を<もと>、つまり「起源」「原因」に呼応するものとして「結末」「結果」の意と判断して上記のように訳した。要するに、一葉は、恋の始まりをよく見極めれば、その恋がどのような結果をもたらすのかが分かるのではないかと考察するのである。)そうだけれども、果てしない(ほど欲しい)月や花は、かの霊山(りょうぜん)の頂にある。(※原文の<月花>(つきはな)は、月や花に代表される風雅なもの、の意。先の文章にも「月でも抱けばいいだろうし、花でも抱けばいいだろう」と同じ言葉が出ている。欲しいものの代表として月、花を出しているのであって、ここでは「果てしなく欲しいもの」「究極に欲しいもの」ほどの意であろう。次に続く<霊山>から、それが悟りの境地であることを暗示している。<霊山>は霊鷲山(りょうしゅうざん)を指す。霊鷲山はインドの実在の山で、古来、大乗経典に釈迦の説法の場として伝えられている。一葉はここで急に、仏教の悟りに心の眼を向けるのである。それは一葉の内面の変化と無関係ではない。小宮山庄司のおぶんへの執着を目の当たりにして、まさに鏡のように、自身の桃水への執着を深く省みただろうからだ。その執着を乗り越えようともがく一葉は、恋の起源を哲学的に分析し、さらには仏教に視線を向けて、その頂上にある「悟り」を捉えようとしているのである。)分け入って登る道がたとえ(人によって)違っていても、結局は私も人も同じ(※その存在に何の違いもない)なのだろう。(※この考え方は三界唯心の思想であろう。明治26年1月8日の日記に詳しい。)色に迷う人は迷うがいいのだ。情に狂う人は狂うがいいのだ。この現世において一歩天に近づけば、(それだけ)自ずからの天機(※天地の神秘。造化の機密。奥深い秘密。)に誘(いざな)われる(※天が悟りへ導いてくれる意)のだ。是非一道、善悪不二。(※是非一道は邪正一如と同じ。邪(非)と正(是)は一つの心が邪(非)となったり正(是)となったりするもので、もとは同一だという仏教の思想。善悪不二は、善も悪も二つのものではなく、心ひとつから生まれるものであって、そこに違いはないものだとする仏教の思想。この言葉は明治26年3月21日にも出ている。つまり、恋には是も非もない、善も悪もないのだ、ということであろう。一葉は己の恋の迷いを仏教の思想で収めようとしているのである。)
(明治26年)5月20日 晴れ。朝鮮防穀事件(※明治22年から23年にかけて大阪の商人が朝鮮の膨大な穀物を買い付けたのに対し、朝鮮側が日本への穀物輸出禁止を施行、日本側がそれに対し賠償金を請求していた紛争。結局11万円の賠償金で解決した。)は無事に解決したとのこと、その筋(※日本政府)に電報が届いたとのことである。またあるいは「十七日の最終談判を十九日まで延期した。」とも(新聞で)言っている。
◯山梨県に十五万円の雨が降る。(※5月11日の日記にあるように、霜害による桑の被害が15万円相当に上ったが、16日の雨により桑の木の枯死がまぬがれ、十五万円雨と称された。)
◯吾妻山破裂(※噴火)調査として技師を派遣。吾妻山は磐梯山(ばんだいさん)の北、五、六里のところにあるという。
◯東京に恐水病(※狂犬病)が発生しようとしている。
(※以上は新聞の抜き書きである。勿論だが当時は新聞以外にメディアは存在しない。)
(明治26年)5月21日 雨が降る。日曜なので芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。姉上(※ふじ)も来訪されたが、しばらくして帰宅した。西村さん(※西村釧之助)が来た。昨日母上が(西村さんのところに)金を借りに行かれたのだが、ちょうどその時(西村さんに)来客中で、(結局)何も言わず帰られたので、(それを)いぶかって来たのである。一円借りた。すぐに菊池さん(※菊池政)のところに(お金を)持参した。返さなければならないはずのものがあったからである。この夜、小宮山庄司が来た。「おぶんの帰京の路用として金一円五十銭を為替で送ったけれども、何の返事もない。(※おぶんが山梨の実家にいるものと想像して、小宮山はそこに為替を送ったのだが、実際はおぶんは依然所在不明であった。小宮山の行動は常軌を逸している。)この上は倅(せがれ)の嘉一郎(かいちろう/小宮山の連れ子か。詳細は不明。)を迎えとして山梨に送ろう。」と言った。嘉一郎はようやく数え年十三歳で、(まだ)満十歳何か月の子供である。よりによってこの子供を手放して、三十里(※約120キロメートル)の道のりを、格別に知っている人もいないところへ行かせようとする小宮山の心は、まったくこれは悪魔の所業である。満身の血も涙もあの毒婦(※おぶん)の上にばかり注いで、(自分の)母も子をも顧みるところがないのである。先日の夜の話の時には、一家三人(※樋口家一同)ともに袂を絞って(※涙を流して)、「ああこの人を救いたいものだ。どうにかして真(まこと)の道(※人として本当の道)に導いて、真の人にしようと思うことだ。」と力を尽くしたのだが、だんだんと(小宮山の)言葉の一部始終を(聞き)取って、今日までの来歴を聞いて確かめるなどするにつれて、浅ましい肉恋(※肉欲の恋)の果てだけではなく、人となりが正しくないこともうすうす知られたので、「もはやこれまでだ。天は罪なき人を罰しなさらない。『毒を以て毒を制す』とかだったか、古来言い伝えられることだ。刃(やいば)に血を塗ることになってもそれまでだ、惜しい命を失っても定業(※じょうごう/前世から定まっている善悪の報い)だ。(それが)どうして私たちの誤りであろう。私たちは私たちの務めを尽くしたのだ。それが成就出来る人であればきっと(真の)道に帰(き)するだろう。(私たちの)言葉が用いられなかったのは、天が(それを)お隠しになられたのだろう。やんぬるかな(※原文は<止(やみ)なんかな>である。文章の流れから、おそらく「やみぬる哉」と同じ意味で記したと推測してそう訳した。「やんぬるかな」は元々漢語の「已矣哉」の訓読みで、「やみぬるかな」が音便変化したもの。「已む」は事に決まりがつく、終わりになる意、「矣」「哉」も詠嘆を表す助詞なので、直訳すれば「ああ、終わったなあ」となるが、用語的には、今となってはどうしようもない、仕方がない、もうおしまいだ、といったニュアンスで使われる。一葉は明治26年2月9日の日記にも<やみぬべき哉>という形で用いている。)。」と思弁して、私は一言も言葉を発しなかった。(小宮山が)帰宅したのは十時過ぎ頃であった。この時から頭痛がはなはだしく、一晩中苦しんで、胸中は燃えるようで、人生の浮沈、人情の悲惨さがかわるがわる深く心にしみいって、(その)狂気じみていたこと(といったら)、言いようもないものであった。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)