現代語訳 樋口一葉日記 17(M25.6.1~M25.6.14)◎中島幾子の死と桃水との艶聞発覚
日記 しのぶぐさ 明治25年(1892)6月
(明治25年)6月1日(※以降6月18日までは一葉が萩の舎に泊まりながら記録した日記である。) 中島のご老人(※中島(網谷)幾子。中島歌子の母。幾子は夫の死後旧姓の網谷に戻っていた。)の病がいっそう重くなったと言って、私を迎えに呼ぶ手紙が来た。(私が萩の舎に)参った頃には、ご老人は最早ものをおっしゃることが出来なかった。いつもは疎遠な師の兄上(※中島宇一。明治24年6月20日に、一葉はこの人の奥さんに会って、その時「動物詠史」や 結髪(ゆいがみ、けっぱつ)の歴史の話をしている。)、それからその娘たちなどが、その枕元に寄り集まってすすり泣きされていらっしゃったご様子は、とても悲しいものであった。思えば(五月)二十八日の朝のことであった。(ご老人が)咳でとてもお苦しみなさっていたので、私が紙をもんで(※やわらかくして)差し上げたところ、病み疲れた目をかすかに開いて、「誰ですか、夏殿ですか。(※夏子は一葉の本名。)私も今度こそは生きていそうにはないと思いますよ。」と物寂しくおっしゃったので、「どうしてそんなことがありましょうか。御心を強くお思い(※お持ち)になってください。」などとお慰めした折には、まだこんなに急に(悪くなろう)などとは(夢にも)思わなかったのに、と、私もわけもなく涙ぐまれた。みの子さん(※田中みの子)も来られた。「今日一日のうち(に)もどうでしょうか、どうでしょうか。」と不安に思っているうちに、夜になった。医師(主治医)は佐々木東洋さん(※中島歌子の主治医で、佐々木医院を経営。直近では明治25年2月11日に出ている。)だけれど、急なことがあった時のためにと、坂下におられる矢島という医師(※矢島重遠。安藤坂下の小石川区大和町の開業医。)にもあらかじめ(代わりを)頼みおかれていた。(夜)八時という頃から(ご老人は)はっきり苦しいというわけでもなく息が激しくなって、身悶えなさること(といったら)際限がなかった。(医師の)矢島が来て、皮下注射などを二度ばかりしたけれども、少しも効き目がなく、はた目にもとてもやりきれない思いであった。まして師の君(※中島歌子)は、不安で不安でたまらないのだろうか、(ご老人の)枕の後ろに寄り添って、途方に暮れて悲しんでおられるご様子は(なるほど)当然のことであった。(夜)十時という頃(主治医の)佐々木さんも来られた。この頃から少し気が弛み始めて、私も他の人も、夜明け前まで、安らかではないにしても、眠ってしまった。次の日(※6月2日)もさして病状が重くなることもなく、時々身悶えはされるものの、ともかく日暮れまでの時を過ごした。(その)夜になってからは、いよいよ最期と見受けられて、(ご老人は身悶えして)手足の置き所がないように(まで)見えた。矢島に強く求めて、(矢島が)「いや、しません。」というのに、さらに皮下注射をし(てもらっ)た。それよりは(ご老人は)ただ眠りに眠って、三日(※6月3日)の午前十一時という頃に空しくなった(※亡くなられた)。みの子さんは、その日だけ家に帰っていて臨終の時に立ち会えず、(訃報を聞いて)急いでやって来られて大変残念がっていた。房子さん(※坂本房子。萩の舎門人。)も一足遅れであった。この折のことを書こうにもなかなかである。この間の二、三日は、昼と夜となく、入れ替わり立ち替わり(と)する人たち(で)、そんなに狭くもない家なのに、ただもういっぱいになって、少しも日記を書くゆとりがなかった。お通夜など(で)は皆が寄り集まって、いくつも面白い話をして眠気を紛らわせた。このような時にこそ、いろいろな人の心を知るはずであるが、私の(人を)見る目は鮮明ではなく、(人の話を)聞く耳も明敏ではないので、その甲斐がない(※そうしたところで仕方がない、それほどの価値もない、意)。甲斐がないとは分かっているけれど、また、自然に目にとまったり(自然に)耳に入ったりなどすることがいろいろとあるのだけれども、そうむやみには、ということで(ここでは書かないでおこう)。
(明治25年)6月4日 小出さん(※小出粲(こいでつばら)/萩の舎の客員歌人。直近では明治25年2月21日に出ている。)の催しで桜雲台(※おううんだい/上野にあった会席料亭)にて何某(なにがし)の追善会(※故人の冥福を祈って供養などの善事を行う会)がある日である。(※小出粲は明治24年11月10日にも同じ場所で追善会をしている。)師の君の代わりとして、自分が行った。田中さん(※田中みの子)と同じ車(※人力車の相乗り。)であった。心ここにあらずで、歌も詠めなかった。すぐに帰った。
(明治25年)6月5日に、(ご老人の)亡骸(なきがら)は、棺に納め(られ)た。
(明治25年)6月6日の午後、野辺(のべ)送り(※墓地まで遺体を送ること、またその行列。葬送。)の儀式をする。祭主は春日(かすが)某(なにがし)であった。伊東夏子さん(※萩の舎門人。一葉の親友。直近では明治25年3月20日、22日に出ている。)と私と(で)、(その)輿脇(※こしわき/棺をのせてかつぐ輿の付添人)の役をした。師の君も徒歩で砲兵工廠(※ほうへいこうしょう/小石川区小石川町にあった東京砲兵工廠。陸軍の弾薬、兵器、器材の製造修理工場。)前までお行きになられた。そこからは車(※人力車)で行かれた。喪服でおやつれになられているご様子は本当に悲しい。今日はあいにく、故松平慶永さん(※まつだいらよしなが/松平春嶽(しゅんがく)。旧福井藩主。徳川慶喜の将軍後見職などを歴任。明治23年6月に病没。)の一年祭が星が岡(※永田町日枝神社の境内にあった星ヶ岡公園にあった茶寮(さりょう、ちゃりょう/茶の湯をする部屋。また、日本料理の店。)にて催される日で、宮内省仕官の人々、さらにまた歌人の中でも有名なあの方この方などは参加されなかった。それでも送る人は二百人を超えていただろう。大方は夫人、令嬢ばかりであった。式場での儀式から始めて、墓所に棺をお納めになられるまで、(悲しみで)最後まで書き続けることが出来ない。まして師の君の心はいかばかりであることか。(葬儀のあと、)人々はおのおの帰って行かれた。師の君、そのご兄妹の宇一さん倉子さん(※中島倉子。師の君中島歌子の妹。直近では明治24年12月23日に出ている。)の二人、伊東さん母子(※伊東夏子とその母延子)、みの子さん(※田中みの子)、私の八人(※書かれているのは7人しかいない。)が、車(※人力車)を連ねて(萩の舎に)帰り着いたのは日没近かった。これらの方々もおのおの家に帰ったので、自分もまた、半井先生(※半井桃水)のもとより「話したいことがあります。」との手紙(があったこと)もあり、「今宵だけは(帰ります)。」と言って帰った。
(明治25年)6月7日 「何はさておき、半井先生を訪ねてみなさい。」と母上がおっしゃるので、昼を少し過ぎた頃から行った。いつものように従妹の方(※河村千賀。桃水の従妹で、河村重固(しげのり)の妻。桃水は同年3月から河村家の離れに住んでいた。)もいらっしゃった。自分は、いつもことさらに仕立てたような髪などを結わなかったのだが、(今日は)島田(※高島田。若い娘の髪型。葬儀のため髪を整えていたのだろう。ちなみに一葉は平常は銀杏返しに結っていた。明治24年6月20日の日記に結髪のことが書かれている。)というもの(※髪形)にしていたので、人々(※桃水と千賀)は珍しがった。「これからはいつも、そのよう(な髪)でいらっしゃいまし。大変よくお似合いですから。」など(先生と千賀さんに)言われて、なかなか恥ずかしかった。さて、半井さんがおっしゃるには、「いろいろと(されなければならない)事が多い中を、さぞおいでになりづらかったことでしょう。(話と言うのは)実はあなたの小説のことなんです。いろいろと考えてもきましたが、(あなたの小説は)到底絵入り新聞(※明治時代にあった、挿絵入りで通俗的な記事をなどを中心にした大衆向けの新聞)には向いていないのではないでしょうか。(※絵入り新聞に載る小説は長編の大衆小説であった。)(そこで、)あるつてをやっと見付けて、尾崎紅葉にあなたをお引き合わせしようと思うのです。彼によって、『読売(新聞)』などにも筆を執られたら、恩恵が多いことでしょう。また、月々に極(き)まっての収入がないと(お家の)経済のことなどにご心配が多いことでしょうから、このことも十分に取り計らっておこうと思います。しかし、それもこれも、私は日陰者の身、(そんな私が表に)出て(うまく計らおうに)も何が出来るというのでしょうか。(そこで)委細を畑島によくよく頼んで、彼の知人から(紅葉に)頼み込ませたのです。この二、三日のうちに、あなた、一度紅葉に会ってご覧になりませんか。もしその時になって、『他人に会うのは嫌です。』などと言われるのが気がかりですから、先にこのことを申し上げたのです。」とおっしゃった。(※尾崎紅葉は明治の大ベストセラー作家。文学結社、硯友社(けんゆうしゃ)を率いて当時の文壇に大きな影響を与えた。『金色夜叉』が有名。明治22年に読売新聞社(当時は日就社)に入社していた。また、畑島は、畑島一郎(号は畑島桃蹊(はたじまとうけい))。朝日新聞社の社会部記者で、直近では明治25年4月21日に出ている。つてとなった畑島の知人とは星野麦人(ほしのばくじん)という俳人で、尾崎紅葉の教えを受けていた。)(私は)「どうしていやと言うことがございましょうか。とてもありがたいことです。」と言った。いろいろの話をして帰った。すぐに小石川へ行った。ここ(で)はただ、人々が酔っているだけの様子であった。
(※ここで半井桃水が一葉を尾崎紅葉に託すつもりであったことは、5月に一葉が桃水から離れるべきか思い悩んでいたことと無関係ではないだろう。当時の一葉は何よりも生活のために小説家を志していたのであり、桃水はその思いに応えようと雑誌『武蔵野』まで創刊して文壇デビューの舞台を一葉に与えたのである。しかし、『武蔵野』は売れなかった。しかも5月に入って、桃水は痔疾で倒れ、一葉の生活援助を行おうにも頼みの『回天』の原稿料はなかなか入らず(5月27日の日記を参照されたい)、桃水にしても限界を感じていたはずだ。一方、一葉はおそらく、4月に出た『武蔵野』第二編が売れていないことを、5月9日に必死に「五月雨」を完成させた頃あたりからは分かっていたのだろう。一葉が急に桃水から離れるか否かを迷いだすのは5月21日からである。おそらくその間に一葉はこのまま桃水についていても道が開けないことを厳然たる事実として知ったのであろう。戸主として樋口家を支えなければならない一葉の悩みは当然であろう。桃水にとってもそれは心苦しいことであったはずだ。そしてその打開策が一葉を尾崎紅葉に託すことであった。その提案を聞いた一葉の安堵と感謝の気持ちは想像に難くない。なお、『武蔵野』は、第一編を3月に、第二編を4月に、第三編を7月に出して、いわゆる3号雑誌で廃刊となった。ここまでの一葉の作品をまとめると、『武蔵野』第一編に「闇桜」(第1作)を、『改進新聞』に「別れ霜」(第2作)を、『武蔵野』第二編に「たま襷(だすき)」(第3作)を、『武蔵野』第三編に「五月雨」(第4作)を発表している。すべて半井桃水のはからいであることを思えば、彼の目の確かさもさることながら、彼がいかに温情豊かな人柄であったかが偲ばれよう。彼の小説は今読まれることはないが、作家樋口一葉を生み出した最大の「人物」として、これからもその名前は人々に記憶されよう。)
夢のように十二日(※6月12日)になった。十日祭(※とおかさい/神道の追悼儀式で、亡くなって十日目に行う祭事。)の式を行った。特に親しかった十四、五人を招待して小さな酒宴があった。伊東夏子さんが、すっと、席を立って、私に、「話さなければならないことがあります。こちらへ。」と言う。呼ばれて行ったのは、次の間の四畳ばかりの物陰である。「何事ですか。」と問うと、声を潜めて、「あなたは世間の義理を重んじますか、(それとも)家名が惜しいですか、どちらですか。まずこのことをお聞きしたい。」とおっしゃる。(私は)「いやはや、世間の義理はわがことのように重んじることです。これゆえにこそいくつもの苦難をも耐え忍ぶのです(から)。ですが、家の名誉もまた惜しくないことがありましょうか。(どちらも)甲乙つけがたい中で、(私の)心は(むしろ)家名の方に引かれます。私だけのことではなく、親もあり兄弟もあると思いますから。」と言った。(すると伊東夏子さんは、)「それならば申します。あなたと半井さんとのお付き合いをやめるわけにはいきませんか、どうですか。」と言って、私の顔を、じっと見つめた。「不審なことをおっしゃいますね。いつぞやも私が言ったように、あの人(※半井桃水)は年も若く顔も気品があって美しいなどするものですから、私が(あの人のもとへ)行き来するのに世間へのはばかりがないわけでもありません。百回も千回も(※何度も何度も)お付き合いを断とうと思ったことがないわけではありませんが、受けた恩義の重さに引かれて、潔くは去ってしまうことも出来ず、今もなおこのままでいるのです。けれども神にかけてわが心に濁りはなく、わが行いにけがれがないことは、(そんなこと)お分かりにならないあなたでもないでしょう。それなのに何故わざわざそんなことをおっしゃるのですか。」と(私が)恨みごとを言うと、「それはもっともです、もっともです。そうではあっても、私がこんなことを言い出したのは理由がないわけでもないのです。ですが、今日は都合が悪い。またの日に、その理由を言いましょう。その上でもなお、(あなたがあの人との)お付き合いは断ちがたいとおっしゃるのなら、私ですら(あなたを)疑うかもしれません。」と言って、ひどく嘆息された。いぶかしい(※不審な)ことこの上ない。そうこうしているうちに、人々が集まってきて、大変騒々しくなって来たので、(そこで)別れ去った。何のことかも分からないが、胸の中にものがたまっているかのようで、気持ちが落ち着かなかった。人々が帰ってからも、このことばかり考えていた。
十三日(※6月13日)は長齢子さん(※ちょうれいこ/萩の舎門人。)の家で順会の数詠み(※萩の舎の門人たちが当番制で自宅、あるいは萩の舎で数詠みの集会を実施していた。数詠みは和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)があった。昼前から行った。来会者は、広子(※鳥尾広子)、つや子(※小笠原艶子)、夏子(※伊東夏子)、みの子(※田中みの子)、自分の五人であった。数詠みの題は三十七、詠み終わってから雑談がいろいろあった。田中さんなどが折に触れて言い出されることが、不思議にも(何か)私にいわくありげな様子だった。夜になって一同帰宅した。
(明治25年)6月14日 一日中倉子さん(※中島倉子)とお話をした。この人もまた、私を心の奥で(何か)疑っているのだろうか、折々に興ざめたような言葉などが耳に入った。とてもいぶかしい(※不審だ)。今日はこの人も(自宅に)帰ってしまった。夜になってからは、ただ、西村の鶴さん(※中島家の縁戚らしい。他の説では隣人とも。)、加藤の後家(※明治25年3月24日の日記のところに記したが、中島歌子の両親は嘉永(かえい)5年(1852)頃、小石川安藤坂にあった水戸藩御用宿の池田屋を買い取って、家族で住むようになった。その際、歌子の両親は形式的に池田屋の当主加藤利右衛門の養子となっている。よって加藤利右衛門が歌子の後見人となっていた。ここでの後家は加藤利右衛門の未亡人。ちなみに萩の舎はこの池田屋の南隣りにあった。)、さらには中島家の下女のほかには、師の君(※中島歌子)と私をおいて(別に)人もいなかった。もの(※火桶などか)に寄り集まって、世間話をした。怪しく濁っている世の常で、うわさに出ることすべてに汚らわしくないものはなかった。どこの誰にはこんな醜態がある、ここの誰にはしかじかの不道徳な行いが評判だとか、いつも見たり聞いたりしている友のことについても、けがれに染まらぬ者は少ない風にうわさをした。(そんな醜いうわさ話を)ずっと聞くにつれて、他人のことのみならず自分の他所のうわさも気がかりになって、席の端で耳を傾けていた私は、すっと師(※中島歌子)の前に膝をついて進み出た。師は話が終わって寝床につこうと体を起こしていた時であった。「師の君、しばしお待ちください。私、少しお聞きしたいこと、お話ししたいことがあります。今宵お聞きになって下さいますか、それとも明日にされますか。」と言うと、師の君は、おもむろに座り直して、「どんな質問ですか。今宵聞きましょう。」とおっしゃった。(私は)「半井先生のことは、かねて師の君(※中島歌子)にもお聞かせ申し上げて、その人となりも、その行いも(師の君は)大変よくご存じのことですし、私の(半井への)行き来もお止めに(は)ならなかったので、私の心に(それを)はばかるところはいささかもありません(でした)。何はともあれ、かくかくしかじかと人が言うのは、何のことか分かりませんが、あるいは半井のこと故なのでありましょうか。ご存知のように、もとより私から願い出てのお付き合いではありません。(※この言葉には表面上は矛盾がある。一葉が半井桃水のもとへ自ら弟子入りしたことは日記にも明らかであるからだ。ここでは、もっと本質的な事由が私(一葉)を半井桃水のもとへ行かしめたのだ、という一葉の自己弁明ととるべきであろう。)家のため、生活の手段のため、取る筆の力にと願ってのこと、他に何があるわけではございません。それなのに、このようにしきりとうわさが立つのは、とてもつらいものです。ああ、師の君のお考えはどうでありましょうか。もし(師の君の)お心にも、『これは付き合いをしない方がよいだろう』などと思われることがあるのなら、はっきり(そう)お言いつけになって下さい。私は自分の心を信じるにまかせて、男女の別をも考えず、世間の評判も知らず、一途に(半井と)親しくしていたものですから、顧みると、とても心穏やかではありません。どのようにしてどのようにすべきか、(師の君の)お教えをお授けしてもらいたいのです。」と言った。(すると)師の君は、いぶかしげに私を見つめて、「それでは、その半井という人とそなたは、まだ将来の約束などを契っているのではないのですか。」とおっしゃった。(私は)「(一体)それはどういうことでしょうか。将来の約束(など)は問題外として、私(に)はいささかもそのような心があるはずがありません。師の君まで思いがけないことをおっしゃるのですね。」とくやしいまでに恨みごとを言うと、(師の君は)「それは本当ですか、本当ですか。本当に、約束も何もないのですか。」と(私を)追及されるのも悲しく、私は七年の年月を(師の君の)おそば近くにあって(※一葉の萩の舎入門は明治19年8月20日、14歳の時であった。この時(明治25年6月14日)は一葉は20歳、実際は6年である。数えで言うと7年ではある。)、(私の)愚直な心と堅苦しい性格はお知りになっていらっしゃるはずなのに、お疑いになられるのが恨めしく、人目がなければ声をあげて泣きたい(ほどであった)。そして師の君がおっしゃるには、「実は、その半井という人が、世間に公然とあなたのことを『妻だ』と言いふらしている由、ある人から私も聞いたのです。たまたま縁があって、そなたにもそのこと(※半井桃水が一葉を妻と呼ぶこと。即ち、結婚の約束をしていること。)を許しているのならば、他人の諫め(※いさめ/忠告の意)を受け入れる必要もないでしょう。もし全くそのようなことがないのなら、お付き合いをしない方がよろしいでしょう。」とおっしゃたのには、私は一度は呆れもし、一度は驚いたりして、ひたすらあの人が憎く恨めしく、ああ、(わが)潔白の身に濡れ衣を負わせて世間にしたり顔(※得意顔)をするとは、憎らしいことこの上ない。できることならば、疑いを受けた大ぜいの人たちの見る目の前で、その肉を裂き胆を(食い)尽くして、そうしてわが心の清らかさを(はっきり)示したい、とまで私は思った。さらによく(は)お聞きしていないのだけれど、(※原文に違いがある箇所。小学館版一葉全集も筑摩書房版一葉全集も<猶よく聞参らせで>だが、ちくま文庫版日記・書簡集では<猶よく聞参らせば>と、最後の接続助詞が異なっている。後者の方が「さらによくお聞きすると」と訳すことが出来、とても自然ではあるが、前者の方も上記のように訳せば決して無理ではない。ここではその時の一葉の興奮状態をあらわしているのだろうと推察して、あえて前者を採ることにした。)田辺さん(※田辺龍子。萩の舎門人。『藪の鶯』の作者。)、田中さん(※田中みの子)などもこのことをその折々に話して、私のために気の毒がられたとか。というのは、(半井は)世間の評判もよろしくなく、才覚のほどなども高いというわけでもない人なので、「夏子さん(※一葉の本名)の行く末は、大変気の毒なものでしょうね。」などと言いあっていたとか(いうことである)。これに口が軽くなって、師のもとで召し使っている下女などの言うことを聞くと、この世間のうわさを知らぬ者はこのあたりにはいない、というほど浮名(※うきな/恋愛に関するうわさ。艶聞。)が立ちに立っているとか(いうことだ)。驚きあきれることといったらない。(私は)「明日は早く行って、半井へ(今後のお付き合いを)お断りする手段(を講じること)に及ぶことにします。」などと師の君にも語った。(それから)寝床に入ったけれど、どうして寝られようか。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
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