
現代語訳 樋口一葉日記 42(M27.2.23~M27.2.25)◎久佐賀義孝を訪問、一葉の中の「狂」、鳥尾広子も家門を開く。
日記 ちりの中(明治27年(1894)2月)
(明治27年)2月23日(※実際には日付の記載なし。前回同月同日の日記の続きであるが、帳面を替えて書き起こしている。)
(※一葉が今向かっている久佐賀義孝(※くさがよしたか/易学者かつ相場師。)の天啓顕真術会(※てんけいけんしんじゅつかい)本部は本郷区真砂町にあるが、一葉らが龍泉寺町に引っ越す前に住んでいたのは本郷区菊坂町である。町名は相違するが隣接する町で、地図を見ると両者は実に近い。おそらく200メートルも離れてはいなかっただろう。)
お昼は少し過ぎただろう。耳に聞き慣れた豆腐売りの声が聞こえるので(不思議な気がしたが)、考えれば菊坂の家でよく買っていたそれ(の声)であった。「真砂町三十二番地(は)、鐙坂(※あぶみざか。現存する本郷の坂名。)の上の静かなところですよ。」と人が教えるのに従って、とある下宿屋の横を曲がって出ると、すぐに元住んでいた家の上であった。大通りよりは少し引っ込んでいて、黒塗りの塀(へい)に樫(かし)の木の植え込みが立っているところ、(そこから)入る小道に目印の(案内)板が立てられていて、雨露にさらされているので文字は薄いけれど、「天啓顕真術会本部」と読まれるので、「ここだ。」と胸が轟いた。(玄関まで)入って案内を乞うと、「おう。」と荒々しく答えて、書生(※しょせい/学業を修める学生のこと。また、他人の家に寄食して家事などを手伝いながら勉学する学生のこと。)であろう、十七、八歳(ほど)の立ちながらものを言う男が、二間の障子を五寸ほど開けて口をきいた(※2間(けん)は3.6メートルほど。5寸は15センチメートルほど。)。(私が)「下谷辺りから参りました者ですが、(久佐賀)先生にこまごまとしたお話をいたしたく、お人が少ない折に御面会を願いたいのですが、いつ出(て来)たらよろしいでしょうか、お取次ぎくださいませ。」と言うと、(その書生は)「鑑定(※病気や相場の吉凶を占う鑑定。鑑定料10銭であった。)ではないのですか。」と尋ねた。(私は)「いいえ、鑑定ではありません。」と言った。(書生は)「それならば事故(※予言や判別をしてもらう人生相談のこと。)ですね。お名前は。」とまた聞いてきたので、(私は)「初めて(ここに)出て参りましたので、名前をお伝えになられてもその甲斐はございませんが、『秋月』と申し下さいませ。」(※「秋月」は一葉の偽名である。)と答えた。(書生の)男は(一度中に)入って、ほどなくして出てきたが、「何の事故(※人生相談)ですか。先生はただ今、すぐにでもよろしい(そうです)。」ということであった。ほっとして何はともあれ嬉しく思い、「それでは(入ることを)お許しください。」と(先生のいる部屋まで)案内された。ふすま一つ向こうには、その鑑定局(※鑑定する部屋)であろう、敷きつめた織物はさすがに見苦しくなく(※美しく)、(広さ)十畳ばかりのところに、書棚、違い棚、黒棚(※違い棚は2枚の棚を左右食い違いに取り付けた棚。黒棚は本来女性の婚礼道具で、黒漆で塗った三段の棚。)など、どこのお金持ちから贈られたのだろうか、見る目も眩(まばゆ)い。額が二つあったが、一つは、「静心館」とか(書いて)あったけれど、もう一つは何だったか(忘れてしまった)。床の間は二幅対の絹地の絵画である。(その)床の間を背にして大きい感じの机を(横に)控えて、火鉢の灰を掻きならしているのは、その人であろう。歳は四十ぐらいであろうか、小男で、声は落ち着いていて力があった。(※久佐賀は当時30歳頃である。)机の前に大きな火桶(※木製の火鉢)があって、その前に座布団を敷いているところに、「それにお坐りなさい。」と、(私に)しきりに勧めた。私もその人もしばらくは無言であったが、「さあお話を承りましょう。どのような事故(※人生相談)でありましょうか。」と彼の方から質問をはじめた。『徒然草』の法師(※兼好法師)の言葉に、「名前を聞くとすぐにその実際の姿が想像されるけれど、会ってみると、しかし、想像していた顔をしている人はいないものだ。」とあったが、本当にその通りだ。(※『徒然草』71段の「名を聞くより、やがて面影は推しはからるゝ心ちするを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。」を踏まえる。『徒然草』の方は、「名前を聞くと、すぐにその人の顔が想像される気がするのだが、会ってみると、しかし、かねて想像していた顔をしている人はいないものだ。」ほどの意。)それで、こう言おう(ああ言おう)、と前もって言おうと思っていたことが、その時に臨んでそうも言えないこともあり、あらためて自分の胸の内を明らかにする(必要がある)こともあるのだなあ。(私が)「まずは、事に先だって(お詫びして)申すべきことは、(このように)押しかけて参りましたことの罪は浅くはない(※深い)ということと、女の身で(ありながら)規則を外れ、守るべき道の外に走り、この後(私の話を)お聞きになったら、『狂気じみている』とお思いになられるか(もしれない)ということです。それには訳があり、原因(となるもの)があるのです。天地(の法則)を修めていらっしゃると思われる(あなたの)その広い胸の中で、(私の)愚かなる愚言(※ぐげん/たわごとの意)、さもしい卑言(※ひげん/田舎の言葉。自分の言葉を謙譲して言う。)も(どうか)聞き捨てにならないで、愛憎好悪といったさまざまな塵芥のような外界に埋(うず)もれながらも一筋消えることのない(私の)誠の心をお聞き入れなさって(※汲んでいただき)、(あなたが)お考えになられるところをおっしゃっていただけたら、(どんなに)嬉しいことでしょう。私は本当に窮鳥(※きゅうちょう/追い詰められ逃げ場のない鳥)のように飛び込むことの出来る懐(とも言える場所)がなくなって、宇宙の間にさまよう身なのです。ああ(あなたの)広い胸は、(私という窮鳥が)その中に住むことの出来る止まり木なのでしょうか。まず私のことを聞いてていただけませんか。」と言うと、(久佐賀は)「よろしい、面白い。是非ともお聞きしましょう。」と身を乗り出した。
(※ここでの一葉の科白は凝りに凝った文章で、現代からするとまわりくどく、やや冗長でもある。そこでもう一度、要点を絞って一葉の言葉を簡潔に記しておきたい。次の通りである。「押しかけで参上したことと、これから話すことが狂気じみていることかもしれないことをまずお詫びします。どうか自分のつまらぬ言葉も聞き捨てにならないで下さい。私は今、愛憎好悪といった塵芥にまみれた外界(俗世間)に埋もれてはいるけれども、その中でも消えずにいる私の誠の心を汲(く)んでいただいて、それに対してお言葉を頂けたら嬉しいことです。私は追い詰められた鳥同様、宇宙にさまよう身でありますが、あなたが止まり木になっていただけますかどうか、まずは私の話を聞いていただきたいのです。」というものである。)
「わが身は、父(※一葉の父則義)を失って今年で六年、浮き世の荒波に漂って、昨日は東、今日は西と、ある時は雲上の月花(※高貴な家柄の方々の意。萩の舎門人を指す。)に交わり、ある時は地下の塵芥(※龍泉寺町周辺の人々、俗世間の意。)に交わり、老いた母、世間知らずの妹を抱えて、何とか去年までは(どうにか)女らしく(※女ばかりの所帯にそぐう生活をして)年月を経て参りました。聞いてください、先生。世間の人には(人の)情けなどないというのに、(私は)私の心から(情け深い世間を)作り出して(※自分勝手に世間は情け深いものと想像して、の意。)、(この人は)頼もしい人だと信頼し、濁っている世間をも清らかなものだと思い込んで、(そんな)自分自身に欺かれて(しまい)、それゆえ(私はこれまで)誠心誠意努力して来たのです。(ところが)いったん目を覚ますと(※世間に情けなどないことが分かると、の意。)、私が(窮鳥のように)宇宙にさまよっているのをはじめとして、他人には分からない苦しみがこの時から私にまつわりついてきました。(それから私はこの非人情な浮き世を)甲斐のない、空しい、浅ましいものと見捨てて(しまって)、今は下谷の片隅で、商売と呼ぶのも似つかわしくない、こじんまりとした小さな店を出して、ここを己自身の港(※原文は<とまり>で、「宿」の意もある。一葉の、その名の海に漂うイメージから、ここでは「港」とした。)と定めたのですが、どうしてまあ、浮き世の苦しみは、こうしていても逃れることが出来ないのでしょうか、老いた母に朝四暮三の粗末なもの(※食事)さえ差し上げることも出来ず(※朝四暮三(朝三暮四)は、ここでは、三度の御飯もごまかさないといけないほどの貧しい食事、ほどの意で使われている。)、私たち姉妹が嘆き合っているのはこの事ばかりなのです。すでに浮き世に望みは消えてなくなってしまいました。この私が(この世に)あったとて何になりましょう。(そんなわが身を)不憫だと(その命を自ら)惜しく思うのは(ただ)親の為(※親を悲しませたくないから)だけなのです。それならばわが一身をいけにえ(※犠牲)にして、(そのいけにえのはかなく)危うげな束の間の時ではありませんが、その時だけの(※その場限りの)危ういものに(自分の)運をかけて、相場というものをやってみたいのです。
(※この部分の原文は<さらば一身をいけにゑにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為してみばや>である。この<一時>が難しい。<一身>に呼応して<一時>としたのだろう。これがなければ、「運を危ういものに賭けて」だけですむのだが、そうもいかない一葉の文章の技巧である。<一時>は「いっとき」とも「いちじ」とも「ひととき」とも「いちどき」とも読むことが出来る。小学館版一葉全集では「いっとき」とルビがあり、ちくま文庫「樋口一葉日記・書簡集」では「いちじ」と読ませている。単語としては「しばらくの間」「わずかな時間」「同時に」「一回」といった複数の現代語訳が選択肢としてあり、悩ましいのだが、もう一つ、直前の「いけにえ(※犠牲)」という言葉とつなげて考えてみると、そこには「命が短くてはかない」というニュアンスが大きく含まれていることが見えてくる。一葉の文才を考えると、縁語で言葉を連ねる可能性が高く、そうするとこれは、「わずかな時間」に相当する訳が妥当であろう。また、この後に続く「相場をしてみたい」という趣旨から来る、「その時だけの(その場限りの)」危ない勝負事に自分の運をかける、という場当たり的な「一時」、つまり「その時だけの一回」と解することも出来る。おそらくその両者を掛けた「一時」なのであろう。掛詞もまた一葉の得意とするところである。<あやふき>は危うさ、または、不確実さを意味するので、それをもからみあわせた現代語訳が必要となろう。上記のものがそれである。ただし、縁語、掛詞というのは少し考察が過ぎているのかもしれない。その場合は「その時だけの(※その場限りの)危ういものに(自分の)運をかけて、」だけでも十分に通じるだろう。)
しかし、貧者(に)は一銭のゆとりもないので、自分の力で自分のことをすることが出来ず、(そこで)思いついたのが先生のところなのです。窮鳥が(人の)懐に入る時ばかりは人も(その鳥を)捕獲しないとかいうことです。(※「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」ということわざ。追い詰められた鳥が自分の懐に飛び込んでくれば猟師さえもそれを殺せないことから、窮地にある者が救いを求めて来たら、助けてやるのが人情だということのたとえ。)天地の道理を明らかにして、広く慈善の心で以て多くの人の痛苦を癒しなさっておられるそのご本願に(おかれまして)、(先生の)思い当られることがあればお教えください。どうですか先生、狂気じみた(私の)心の一部始終、胸の内に入りましたでしょうか(※腑に落ちたでしょうか)、いかがですか。」と問うと、久佐賀はたびたび私の顔を見つめて、ため息をつく様子に見えたが、「(あなたは)年はいくつですか、生まれは(何どしですか)。」と(私に)尋ねた。「申年(さるどし)生まれの二十三歳で、三月二十五日出生(です)。(※一葉の誕生日は明治5年(1872)3月25日だが、これは旧暦で、ちょうどこの年の12月に太陰暦から太陽暦に暦が変更され、新暦に換算すると一葉の誕生日は明治5年5月2日である。だから23歳というのは数え年である。実際は一葉はこの時満21歳、当年5月2日で満22歳である。)」と言うと、(久佐賀は)「なんとまあ、上々の(※この上なくよい)生まれですなあ。あなたの優れているところを挙げますと、才能があり、智恵があり、物事(をする)に巧みさがあって、悟道(※ごどう/仏道の真理を悟ること)の方には縁があります。残念なところは、望みが大きすぎて破れる(※だめになる。破綻する。)形が見えます。福禄(※ふくろく/幸せと財産)は十分ですが、金銭の幸せではなく、天稟(※てんぴん/生まれつきの才能。天性。)を受けて得る一種の幸福なので、これ(※天稟)に頼って事を為すべきであるのに、万屋(※よろずや/雑貨屋)の商売と聞いてさえあなたには不用(※無用。役に立たないこと。ここでは不向きということ。)であるところを、ましてや売り買いの相場で、勝ち負けを争うようなことは、さえぎって(でも)お止めしなければなりません。あらゆる望みを胸中から取り去って、一生の願いを安心立命(※あんしんりつめい/すべてを天命に任せ心の平和を乱さないこと。仏教では「あんじんりゅうみょう」と言う。)にかけるのがよろしいでしょう。これは、あなたの、天より授かった天然(※生まれつき)の質(※たち/資質)なのですから。」と言った。
(※この、久佐賀義孝が一葉を占った言葉を読むと、なるほど当たっている。一葉には商売は無理であっただろう。それに「天稟」と「悟道」のキーワードは一葉の特質であることは疑えない。これまでの日記に彼女の天才と、仏教の造詣の深さは示されている。天啓顕真術会が全国に3万人の会員がいるだけのことはあったのだろう。しかし、一葉はそれでは収まらないのである。「望みが大きすぎて破れる」という文句が心に引っかかったのである。)
(私は)「(それは)変ですねえ、安心立命は今もやっていることです。(それに)望みが大きすぎて破れるとは、(一体)何を指していらっしゃるのでしょうか。五蘊(ごうん)が空(くう)に帰する時、四大(しだい)の破れない者が誰かいるでしょうか。(※「五蘊」とは仏教用語で、人間の存在を5つに分類したもの。色(しき/肉体)、受(じゅ/感覚)、想(そう/表象・想像)、行(ぎょう/意志・心の働き)、識(しき/意識・認識)である。「四大」も仏教用語で、万物を構成する4つの元素のこと。地、水、火、風である。この4つが因縁によって仮の姿を作り上げているものとされた。転じて人間の肉体を指す。一葉の言葉は、五蘊という人間の存在を形作るものが消え去った時には、仮の姿としての人間が滅びない者などいない、と言っているのである。つまり、平たく言えば、死ぬときは皆誰だって死ぬではないか、ということであろう。)(死んだら)望みも願いもそれまでですよ。私の一生は破れに破れて(※どんどん破綻して)、(あげくに)道端に伏す乞食やものもらいになるような行く末こそが(私の)終生の願いなのですよ。なるようになるがいいのです。(私は)その乞食になるまでの道中(※道中には、旅、旅の途中、街道の意味があるが、ここでは「大きな道筋」ほどの意であろう。)を作ろうと思って、朝夕思い煩っているのです。最後には(きっと)破れるに違いない一生を、(どうせなら満)月になって欠け、(美しい)花になって散りたいという(そんな)願い(なのです)。破れ(※破綻)を(自ら)願うことは、破れ(※破綻)とは(全然)違うことではないでしょうか。
(※この部分の原文は<破れを願ふほかにやぶれはあるまじやは>である。「やは」は反語で、直訳すると、「破綻を願う他に破綻はあるはずがないというのだろうか、いやそうではない」となり、ややこしい言い回しである。つまり「破綻を願う他に破綻はあるはずだ」、であり、言い換えると、「破綻を願うのと破綻するのとは別のものだ」と言いたいのであろう。もう少し敷衍(ふえん/詳しく言うこと)すると、確かに自分は破綻を望んでいるが、それは大きな望みを成し遂げてからのことであって、ただ破綻するのとは全然違うではないか、という抗議である。一葉は、久佐賀に大きな望みが破れる運だと聞いて、強い衝撃を受けたのだろう。必死に商売を始めたのにそれもうまくいかず、借金するところもままならない状況で、望みはかなわないと真っ向から言われたら誰しも抗う気持ちが湧いて来よう。が、一葉がカチンときたのはそういった生活の金のことではあるまい。この3か月前の明治26年12月2日の日記にあるように、一葉は日本に押し寄せる外国の猛威に対して、「いやたとえ、物好き(の変わり者)と評判になって、後世の人の嘲りを受けようとも、このような世の中に生まれ合わせた私という身が、(何も)することなく(生涯を)終えようか。なすべき道(※手段、手だて)を探して、なすべき道を行うのみである。」と強い決意を述べている。これは強烈な愛国心である。つまり一葉はその「大きな望み」が叶わないと言われたことに強い反発を覚えたのである。一葉にとって大きな望みとは「国」である。「国家」である。「国」の安泰と繁栄である。妹の邦子を常に「国子」と表記している謎もそれで分かる。そういう一葉が、「大きな望み」が破綻すると言われては、どうしても納得がいかなかったのである。おそらく腹立ちすら覚えただろう。だからこの時の一葉の科白は久佐賀への強い反駁(はんばく/反論)なのである。もっと分かりやすく言えば、一葉が言う、「破綻を願う」こととは、「大きな望み」を成し遂げればあとはどうなろうと構わない、という意図である。それと「大きな望み」が破綻することとは全く違う、と一葉は訴えているのである。「変ですねえ」(※原文は<をかしやな>)と、いきなり久佐賀の言葉を否定した一葉の不遜な態度に気付かなければならない。また、念のためもう一つ指摘しておこう。<破れを願ふほかにやぶれはあるまじやは>は、「破れを願う以外に破れなどない」、換言すれば「破れを願うことが破れなのだ」という風には取れない。その場合は元の文章が<破れを願うほかに破れはあるまじ>で終わるか、<破れを願うほかに破れあるやは(あるいは、破れやはある)>でなければならない。それに、破綻を願うことが破綻だと言うのなら、目下破綻していることになり、論理的アポリア(※行き詰まり、矛盾)が生じる。)
要するところ(を言えば)、(私は)よい死に場所がほしいのですよ。先生、久佐賀様、世に処する道(※世渡り)のさまざまなこともわずらわしいのです。面白く、華やかで、爽快な事業(※ことわざ/すること。仕事)があればお教えください。」と、やっとのことで微笑んで話し出す(※この「やっとのことで」という言葉に、一葉が「大きな望みが破れる」と聞いて興奮していた状態であったことが見て取れよう。)と、「そこです、そこです。」と久佐賀も何度も手を打った。(※一葉がまくし立てた反駁に、久佐賀は彼女の才能と智恵と巧みさを目の当たりにして、思わず「そこがあなたの才智と天稟なのだ」と唸ったのであろう。或いは、「そこが難しいところです」ほどの意ととることも出来る。)(そして久佐賀は)「しかし、円満を願うのは世間の慣習でありますから、(その)円満を司ることが(また)私の務めなのですよ。(ですから)『破れ(※破綻)』のことはかりそめにお話しすることは出来ません。それにしても、あなたは何を以て唯一の(※一番の)楽しみ(だ)と思っていらっしゃいますか。それを承りましょう。」と言うのであった。(私は)「錦衣九重(※きんいきゅうちょう/美しい着物を幾重にも重ねること。貴婦人の贅沢な生活。)などどうして楽しくありましょう。自然の誠(※嘘偽りのない真実)と向き合って、物言わぬ月や花と語る時にこそ、浮き世の何もかもを忘れ果てて、造化(※造物主)の懐に飛び込んだような気持ちがいたします。この(自然の)景色に向かい合っている時(が一番楽しいの)です。」と答えた。(すると久佐賀は)「ああ、自然の景(※情景、ありさま)を(そのまま)人間に移し(替え)てごらんなさい。(その時)はじめて自分の性(※生まれつきの性情、本質の意)の偶然ではないことがお分かりになるでしょう。菖蒲(あやめ)、撫子(なでしこ)(などの花々)が、さまざまな性(※生まれつきの性情、本質)を授かって、めいめいの匂いを発する、これこそが世界の有り様なのですよ。草木に植える(のにちょうどよい)時期があるのは分かっているのに、人の事業(※ことわざ/すること。仕事)に種まきの季節を図らない(でいる)のは、とても愚かなことではないですか。遠因、近因、(因(よ)って)来たるところは一筋(※一本)ではありません。人々は、目下の苦しみを知って(いても)、(その)根源の病いを知らなければ、(その)煩悶をいたずらに中空に散らすばかりで、結局はその(煩悶の)もとを治す手立てがないのです。人が勢い盛んな時は、天の力も及ぶところではありません。勢い盛んな時は、私のあずかり知るところではありません。私は、(人々の)精神の病院となり、(人々の)苦痛を慰問する者となり、人の世のくず屋になって、ぼろ(※ぼろきれ)、白紙(しらかみ)、手習い草子(※習字の練習に用いる半紙を綴じた帳面。)(などを、)あれもこれもかき集めて、(それらを)選り分けて、そのめいめいの(正しい)働きをさせようとするものです。ぼろ(※ぼろきれ)だとして捨ててしまった小袖の千切れたものも、道(※道理。教え。)に従って漉(す)き返せば(※紙に作り直せば)、今日(にも)役に立つ新しい紙となって(※明治期、木綿のぼろきれは洋紙の原料であった。)、(もしかするとその紙は)おそれおおい方の前に出る折もあるのです。古いものを新た(なもの)に戻し、破れた所を整えて完全なものに仕上げ直すのが、私の務めなのです。(あなたが)おっしゃるところは私も賛成するところであって、あなたの性(※生まれつきの性情、本質)は、私の大切にしたい(私の)本願にぴったりです。(※本願は「本来の願い」の意だが、仏教用語でもある。仏や菩薩が過去において発起した衆生済度の誓願をいう。仏が人々を救いたいという願った、その誓いのことである。つまり久佐賀は一葉を自分が救いたいと思う対象の人だと言っているのだろう。)月や花を愛していらっしゃる心の誠(※嘘偽りのない真実)を根本としたなら、その他の出来事は些事(と言える)のではないでしょうか。小さな心配事が大きくご自分にかかってくるのは、日々の運用(※働かせ用いること。活用。ここでは易学に基づいた日々の心掛けの意。)がよろしくないことによるものです。運用の妙(※深遠な道理)はここにあって、しかも運用はたやすいものです。本源の悟りを開いてしまった後には(※物事の根源は何かを悟ってしまえば、の意)、日々の運用などどうということはありません。そうはいうものの、他人のことを分かる人が自分自身を見て分かるのは少ないように(※人のことは分かっても自分のことは分からないように)、(物事の)本源は分かっていても(その)枝葉(末節)に迷わされるのは、これもまた無理もないことなのですよ。私の(ところの)会員は、日本全国に三万人以上います。その方々は、ひとりひとり一様ではありません。ことによっては私より優れている人もいますし、私から師と仰ぐ(ような立派な)人もおられますが、三世(さんぜ)に渡って一世(いっせ)を合(がっ)するのとはまた別物であって(※ことわざの「師弟は三世(さんぜ)の契り」を踏まえる。師弟の縁は前世、現世、来世の三世に渡って深い因縁でつながっていることをいう。ここの文は、「一世(現世)に前世と来世を一緒に合せて考えるというのとはまた別物であって」の意。)」と話し続けて来た久佐賀も、ますます言葉が多くなって、会員の話、鑑定者のさまざま(と)、次々と話し続けて、私たちの会話はとても盛んなものとなった。(※原文は<談じ来(きた)り談じ去り、語々風(ごごふう)を生(しょう)ず>と漢文調である。<風を生ず>は風が巻き起こる、つまり、勢い盛んになることを言っているのだろう。<語々>は「言葉」の複数故、互いの会話であろう。ここでは久佐賀と一葉の二人が話に盛り上がっている様子を言っているのである。)私も彼も「一見旧の如し」(※ことわざ。一度会っただけで古くからの友達のように親しくなること。)であった。話は四時間に渡った。その中で、会員で質問に来た者も一人あった。大阪の米相場の高下を電話で報告が来たりなどして、騒々しくなって来たので、「時間も最早日暮れになりました。私も少し考えなければならない事など伺い知ることが出来ましたので、今日はこれで(失礼します)。」と言ってそこを出た。後藤大臣(※当時の農商務大臣後藤象二郎。)、同じくその夫人の(久佐賀への)尊敬が並々でないということ、及び高島嘉右衛門(※たかしまかえもん/明治期の実業家、易学者。「高島易断書」を著した。)、井上円了(※いのうええんりょう/明治期の哲学者、教育者で、仏教哲理を説いた。)の哲学上の談話など、話したことは多かった。
(※明治27年2月23日は実に長い1日であった。それにしても一葉は一面識もない久佐賀義孝のもとへよく一人で飛び込んだものである。しかも「秋月」という偽名まで使って。半井桃水の時のように、誰かの紹介があったわけでもない。未婚の女性が知らない男性の所へ突然押しかけることは、明治期でなくとも、普通はないだろう。前回の日記(といっても同じ2月23日なのだが)に、一葉は「浮き世に(見)捨てられたこの一身を、どこの川の流れに投げ込むべきだろうか。学があり、力があり、金力(※経済力)がある人に近寄って、愉快に、面白く、爽快に、勇ましく、この世の荒波を漕ぎ渡っていきたいと思って」久佐賀を訪ねるのだ、と言っている。それはそうなのだろう。生活苦に追い詰められた一葉が何らかの人生の助言を久佐賀にもらいたかったのか、或いはあわよくば借金を申し込むつもりだったのか、その目的はどちらでもよいのだが(おそらくどちらともであろう)、注目すべきは、彼女のその行動力である。捨て鉢だったことはよく分かる。それは前回の日記の最後に記したように、一葉が世の中に対して「絶望」と「怒り」を覚えていたからである。その「絶望」と「怒り」を契機に、捨て鉢になって、新聞広告で見た久佐賀義孝の所へ単身飛び込んでいく一葉の姿に、何か常人では考えられない、ある力を見るのである。その力を単に行動力と呼んでいいのか、或いはやぶれかぶれの力とも呼んでいいのか分からないが、この明治を代表する女性文学者には、そんな名状しがたい力が確かにあったのである。それを「狂的」な力と言ったら言い過ぎだろうか。彼女自身、久佐賀との対話の中で、「どうですか先生、狂気じみた(私の)心の一部始終、胸の内に入りましたでしょうか」と言っている。文字通り、本当に狂気じみている。原文では<ものぐるは(ほ)し>である。一葉は自身の中に潜む狂気じみたものをはっきり認識している。だから科白になってこの言葉が二度も登場するのである。一度目は前半の、一葉が久佐賀に話の前置きとして先にお詫びした箇所である。前半部分に限らず、この日の一葉の筆致はまさに「彫心鏤骨(ちょうしんるこつ/非常に苦心して文章を作り上げること)」で、とても通常の日記とは思えない力の入れぶりである。それほど彼女は自分自身の行動に何か普通でないものを感じていたのであろう。その証拠に、この日の日記は、最後の部分こそ久佐賀の長科白で終わっているが(しかも途中で切れている)、それまでの文章はまるで自分自身の狂気の物語そのものである。私という危機に迫られている女英傑(ヒロイン)が、易学者であり相場師の久佐賀義孝なる大人物に果し合いを申し込み、丁々発止の論戦を繰り広げ、「変ですねえ」(原文<をかしやな>)「望みも願いもそれまでですよ」(原文<望も願も夫(それ)までよ>)「なるようになるがいい」(原文<さもあらばあれ>)「よい死に場所がほしいのですよ」(原文<好死処(よきしにどころ)の得まほしきぞかし>)と啖呵を切る姉御のように狂気じみた言葉を並べ立て、久佐賀と張り合う物語(ストーリー)である。これをどう見るか。人はこの日の日記を「実際よりもはるかに大げさな書き方をしているとしか考えられません」と言い(※澤田章子『一葉伝』)、「一葉がこれ程雄弁に初対面の年上の男と談論するとは考えられない」と言い(※塩田良平『人物叢書 樋口一葉』)、その創作性を指摘しているが、それはその通りで、問題は何故そうなったか、何故そんな物語を作らなければならなかったかにある。思うに、一葉は自分の中の「狂」をここで整えたのである。名状しがたい狂的な力によってあらぬ行動をした一葉は、その行動をヒロインの「物語」とすることによって、その「狂」を肯定させたのである。納得させたのである。狂的な行動を起こした自分自身を。それは翻って自分自身の中に潜む「狂」を露わにすることでもある。露わにしながらそれにストーリーを与え、整え、肯定し、自分自身が納得するのである。それがこの狂的な「物語」の真実であろう。断っておくが、一葉は発狂したのではない。狂人でもない。人間には誰しも「狂」の部分は存在する。狂気じみた感情や言葉、行動が、普段着の恰好をした人間のすぐ裏側に潜んでいることは、これまであらゆる文学が幾度となく我々に伝えて来たことであろう。)
(明治27年)2月25日 西村さん(※西村釧之助)が来訪した。昼過ぎまで話した。(そこに)平田さん(※平田禿木)が来訪されたので、前者(※西村釧之助)は帰った。いつもの狭い部屋の中でお話しすることは多かった。五時まで(お話を)楽しんだ。『女学雑誌』に、「田辺龍子(※三宅龍子)、鳥尾広子(※萩の舎門人。貴族院議員鳥尾小弥太の長女。直近では明治26年6月22日に出ている。一葉の1歳下である。)が、そろって(歌の)家門を開かれる」ことが載っていたとかいうことである。万感胸に迫って、今宵は(とても)眠ることが出来なかった。(※三宅龍子ばかりか1つ年下の鳥尾広子までもが家門を開くと聞いて、一葉は愕然としたのだろう。2月2日の日記のところでも記したが、おそらく自分よりは和歌の腕前は劣るであろう、三宅龍子と鳥尾広子が金の力で悠々と家門を興すのだ。その矛盾に一葉は再び胸をわななかせ、絶望に似た気持ちを味わったに違いない。一葉の心のプライドは一度ならず二度も傷つけられたのである。ことに鳥尾広子はいけなかった。明治26年6月22日の日記の中で、師の君が世に出たいという鳥尾広子の批判をしている。それなのに師の君は広子に家門を許したのである。一葉の怒り、推して知るべしである。)
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※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
「樋口一葉の世界」(放送大学教材)(島内裕子 NHK出版)
「樋口一葉日記の世界」(白崎昭一郎 鳥影社)