現代語訳 樋口一葉日記 10 (M25.1.8~M25.2.3)◎西村きくと面会、桃水の留守宅に入りこむ、桃水からの葉書
(明治25年)1月8日 早起きし、空を仰ぐと、とてもよく晴れて塵ほどの雲もない。うららかに霞んでいるさまが、本当に春とばかりに感じられる。出かける支度をあれこれしている時に、綾部喜亮(※あやべきすけ/正しくは喜助。一葉の姉ふじの夫久保木長十郎の義兄。1月7日に出ている)が、久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。1月7日に出ている。)と一緒に来た。(今から出かけるところだと)詫びて(その場を)済ました。(綾部と久保木の二人が)帰宅して、すぐに国子(※邦子)は神田(※地名)あたりへ、自分は車(※人力車)を雇ってまず西村さん(※西村釧之助(せんのすけ)直近では1月1日に出ている)へと行った。(西村さん宅で)茨城より伯母さん(※釧之助の母。一葉の母たきが稲葉家に乳母奉公していた時の奥女中、太田ふさ。(結婚後西村きく))が来られているとのことで面会した。「明日は国(茨城)に帰ろうと思っていたので、これから菊坂(※本郷菊坂町。一葉の住んでいる家)まで行こうとしていたところです。そなた(※あなた)が(こちらへ)寄ってくださっていなければ会えなかったのに。」などと言って、嬉しそうにお話をした。(※原文も<そなた>で、西村きくは本当に「そなた」と言ったと思われる。まさに江戸時代の言葉であるが、明治25年にはまだ多くの人々が江戸時代生まれであったことを想起させる。)(それから西村家を)出て、師の君(※中島歌子)(のところ)へ向かった。(師の君の宅へ着くと)「病中、かつ来客中ですから(お会い出来ますやら)。」と下女が言うので、「押して(師の君に)お会いするのもいかがなものでしょう、それでは、ご老人(※中島歌子の母、幾子(いくこ))は。」と(私が)言うと、「ただいまお眠りなさったところでございます。」と(下女が)言うのにがっかりして、「それではまた来ます。」と言って帰った。(それから)みの子さん(※田中みの子。萩の舎の先輩門人で一葉、伊東夏子、田中みの子の3人で平民三人組と自称し、仲良しであった。直近では明治24年11月1日、10月9日に出ている)を小川新町(※地名)の家に尋ねた。「おあがりなさいよ」などとおっしゃったが、「先を急ぎますので」と言って暇乞いして(そこを)出た。車(※人力車)を急がせて平河町(※地名)の半井先生(※半井桃水)の本宅に来てみると、門戸を固く閉ざして、「貸家」の張り紙が斜めに貼られていた。まず胸が轟いて(それから)近くに寄ってみると、「半井氏をお尋ねの方は六丁目二十二番地小田某(なにがし)方まで参られたし」(※小田某とは小田久太郎。桃水の同郷、新聞社の同僚、弟子にあたり、果園と号した。のちの三越専務。明治24年12月25日に出ている。)とあった。それならばと、またそちらの家へ行った。「半井さんはどちらですか。」と(その家で)問うと、下女めいた女が笑みを浮かべながら(家の)奥に入った。かわって出てきたのは(その家の)主婦であろうか、三十路ぐらいの人が私の問いに答えて言うには、「先生は先日より旅行して、今は留守です。御用でしたら私に言い置いてくださいませ。」と言う。「ご旅行はどちらへ。」とまた問うと、ただ「地方へ」とばかり言う。今は尋ねても甲斐がないと思ったので、ただ、「自分は樋口という者でございます。特別な用があるわけではありませんが、ご年頭のご挨拶にと参りましたので、ご帰京の折には、その旨お伝えくださいませ。またお手数ではございますが、ご帰京のお知らせもお願い致します。」と言って(そこを)出た。「どんな御旅行というのか。(きっと)隠れ家にいらっしゃるに違いない。ぶしつけは覚悟の上だ、お頼みしたいことはとても多いのに、どうして会わずには(帰られようか)。」と思って、いつもの裏家(※うらや/人家や街並みの裏手にある家)を訪問した。(※桃水は家政改革のため、年末に平河町2丁目2番地の本宅を引き払って、元の隠れ家である平河町2丁目15番地を本宅として一人で住んでいた。一葉はまだそれを知らなかった。家政改革の話は明治24年12月20日に、住所の事は同年10月30日の日記に少し詳しく記した。)まず庭口の方から見ると、縁側の障子を新たに張り替えて、何となく(たたずまいが)改まっているようなのは、「ひょっとしたら、他の人の住まいにかわったのだろうか。」などとも疑われた。格子戸のそばに立って何度も案内を乞うてみたが、誰も返事をする者がいない。「さてはお留守かな。」と思ったけれども、火鉢にたぎる湯の音(が聞こえる)など、人がいない折の様子でもない。家の奥の方かと見(ようとす)ると、格子戸の下に栓(※せん/ここではくさびの意)をさして、固く出入りを禁じていた。ここまで来て入ることができないのも何となく物足りない気持ちがするので、どうにかお会いしたいとさまざまに外から中に向かって話しかけたけれども無駄であった。(すると)水口(※みずぐち/勝手口のこと)の戸が開けっ放しであるのにいささか力を得て、そこから中に入った。(家の中を)のぞくと、いろいろな家財道具を積み重ねた納戸(※なんど/屋内の物置部屋)めいたところが見えた。(その)奥の方に先生はいらっしゃるのかと、おそるおそるのぞいてみたが、人がいるようにも見えなかった。(このまま)お留守の所に(勝手に)上がりこんでいるのも、のちのちの人聞きがどうであろうと、急いで引き返そうとした。(その時、)「それにしても、(せっかくここまで)来たその甲斐の為にも、差し上げようと思って持ってきたものだけでも置いていこう。」と思いついて、台所の板の間のところに、お土産の小箱を置いて(外に)出た。車(※人力車)に乗って帰る道すがら(※道をいくあいだ)も、「思えば妙なことをやってしまったものだ。自分は昔はこのようにさしでがましいことをするような心(の人間)ではなかったのに、年がゆくにつれて厚顔になって、(どうにも)はしたなくなってしまったことだ。こんなはしたない事、世間の人に漏れ聞こえたら何と言うだろう。怪しい、いわれのないうわさなどたてられるかもしれない。どうしよう。」などと思い起こすと、心は自身を責めてとても苦しい。家に帰ったのは二時ぐらいの頃であった。宮塚の伯母さん(※宮塚くに。樋口家の親戚(一葉の父則義時代からなので、上野や安達のように血縁のない縁だったと思われる)、宮塚正義の妻。明治24年12月23日に出ている。)が来ておられた。「(あなたが)留守の間に姉上(※ふじ)並びに森照始さん(※もりしょうじ/正しくは森昭治。一葉の父則義の東京府庁時代の上役。)が来られた。」という。宮塚さんとしばらくお話していると、西村の伯母さん(※先述の西村釧之助の母。西村きく)が来られた。伯母さんは自分が早く帰っていたのに驚かれていた。それから日没まで、西村の伯母さんとお話があった。そのうちに国子(※邦子)が帰宅した。母上が伯母さんを送って表町(※おもてちょう/地名 西村釧之助の家があった。)へ行かれた。この夜、日頃の疲れと(今日の)遠路の疲れからだろうか、疲労がとりわけはなはだしかった。さらに何かをしようという心地もなかったが、半井先生には、是非とも何か一筆書かなければすまないだろうと思って、(手紙を)したためた。(※一葉は桃水に生活援助を求めるつもりだったらしい。また、隠れ家にもいなかった桃水に、自分が拒否されているような不安もあったかと思われる。)何度書き直したことだろう、いろいろと気に入らず、かろうじて書き終えたものは、読み返してみると、何となくのちのちに不安の種をまくのではないかと恐ろしくさえなって、状袋(※じょうぶくろ/封筒のこと)に入れたまま郵便にも託さず、別の事に移った。母上は九時頃帰宅された。十二時まで歌を詠んだ。
(明治25年)1月9日 早起きした。小石川(※萩の舎)の初稽古なので、急いで家を出た。「それにしても西村の伯母さんはどうしていらっしゃるか、ご帰国されただろうか。道筋なのでお訪ねしてみよう。」と思って(西村宅へ)寄った。(伯母さんは)「今日は発とうか、どうしようか」などのように話されていた。しばらくして師の君(※中島歌子)のもとへ行った。(萩の舎に着くと)「『昨日面会を乞わなかった』と師の君が大立腹されている」と下女が(私に)知らせた。(萩の舎では)まず、長さん(※長齢子(ちょうれいこ)萩の舎門人。明治24年11月1日に出ている。)がいらっしゃった。(それから)師の君に昨日のわけを述べてお詫びをした。来会者は十名ほどであった。皆さんのご帰宅は四時少し前であっただろう。それよりしばらく二階で、(師の君と)自分の事についてお話した。半井さんとの一件も話した。(師の君は)それについての心得をあれこれと教えて下さった。(さらに師の君は)「(あなたの)小説が見たい、私にもまた考案があります。」などと親切におっしゃってくださった。日が没し、暇乞いをして(萩の舎を)出た。この夜より自分の普段着の綿衣(わたぎぬ)の仕立てにかかった。一時に床に入った。
(明治25年)1月10日 晴天なので、「今日は安達(※安達盛貞。安達の伯父さん。直近では12月25日に出ている)に年頭の挨拶に行こう」と、国子(※邦子)と共に支度をした。「父上(※則義)のお墓にも年始にお参りしていないのが心苦しいので、今日こそは(お参りしよう)。」と、まず安達(の伯父さん)のところへ先に行き、しばらくして築地(※地名)に行って、墓参した。それからすぐに帰宅した。(途中で)姉上のもとにお年賀を言いに行って、(それから)帰宅した。小宮山(※小宮山庄司。直近では、明治25年1月1日、2日に出ている。おぶんの内縁の夫。)、おぶん(※広瀬ぶん。明治24年9月24日、27日に詳しく述べられている。)の二人が来た。(二人は)日没前までいた。この夜は、することがとても多くて、寝床に入ったのは一時であっただろう。
(明治25年)1月11日 晴れて、寒い。母上は、四谷(※地名)の上野さん(※上野兵蔵。一葉の義理の伯父。直近では明治25年1月3日に出ている。)のところへ行かれた。半井さんより葉書が来た。旅行でも何でもなく、「元の隠れ家にいる」という。「思った通りだ。」と笑った。「それにしても手紙を出さなくてよかった。よくぞ書き損ねたことだなあ。」と、我ながら嬉しい。午後、母上がご帰宅された。その前に久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫)及び田中さん(※田中みの子)の来訪があった。今日も朝から晩まで何事もなく一日を終えた。床に就いたのは十二時であっただろう。
(明治25年)1月12日 早起きした。雪がちらちらと降り出した。みるみるうちに一寸(※一寸はおよそ3センチ)ばかりも積もって、「たいへんな大雪になりそうだ」などと言いあっていると、十時ぐらいの頃には名残なく晴れ渡って、日の光までも漏れ出ていた。昼過ぎからは雪はひたすらどんどん消えて行って、雨だれの音が軒端に絶え間がなかった。日が暮れてからはまた雨になった。この夜よりまた、小説の著作にとりかかった。思いのほか(ずっと)怠けていたことだ。
(明治25年)1月13日 晴れ。図書館へ行った。九時頃より家を出た。『太平記』(※たいへいき/室町時代の軍記物語。全40巻。明治24年11月8日にも出ている)と『大和物語』(※やまとものがたり/平安時代の歌物語)を借りた。ただし『大和物語』は見ずに『太平記』だけを閲覧した。三時頃図書館を出て、家に帰った。母上の為にあんまを雇った。(そのあんまは)元幕臣であったとかで、(自分の身の上の)うらみごとの話があった。(※稲葉鉱のように元旗本などが明治維新後没落したものと想像できる。)日没後、母上依然として(具合が)よろしくないとのことで、自分がまたあんまをした。十二時に床に入った。
(明治25年)1月14日 晴天である。母上は、神田(※地名)あたりへ年始の挨拶に行かれた。午前中に綿入れもの(の裁縫)をした。昼過ぎから作文をした。日没後より、歌を詠んだ。(萩の舎の)宿題五つ、十首詠んだ。十二時に床に入った。この夜、浜田某(なにがし)の夜逃げの奇談があった。(※本郷菊坂町の近隣の家で夫婦関係が破綻し、妻子が夫を捨てて出ていった事件。のちの傑作「にごりえ」に通ずる出来事。)
(明治25年)1月15日 早起きした。小豆粥(あずきがゆ)の節(※せち/節日(せちにち)とも。季節の変わり目などに祝いを行う日。旧暦1月15日は小正月(こしょうがつ)と呼び、中国の風習にならい、邪気を払うため小豆粥を食す風習があった。小豆の赤色に疫病除けの不思議な力があるとされていた。新暦に変わってからも1月15日に行われた。)を行った。午前、髪あげをした。午後から作文。夕刻、吉田さん(※邦子の友人。直近では明治24年10月10日、12月23日に出ている)が年頭の挨拶に来られた。夜食を出した。八時頃までお話した。国子(※邦子)が附木店(※つけぎだな/地名 本郷4丁目から6丁目にかけての地区の通称。この地区には附木を売る店が多かったのでそう呼ばれていた。ただしマッチが普及した明治時代には既に附木は消滅していて、通称だけが残っていた。附木とは、杉やヒノキの木片に硫黄を塗り付けたもので、種火から火を移す際にこの附木を用いた。束にして売っていた。)まで送って行った。十二時に床に入った。
(明治25年)1月16日 小石川(萩の舎)の稽古である。早起きして行った。みの子さん(※田中みの子)がすでに来ていた。(みの子さんは)「いつものかるた会、あなたが入って下さらないと物寂しいので、是非ともお越しになって。」など何度も何度も言った。師の君も「行くといいでしょう。」とおっしゃるので、「それでは」と言って、自宅へは手紙を出して、ここから(直接)一緒に(みの子さんの家へ)向かった。来会者十七人ばかり、無礼講の一座で、かなりわずらわしかった。終わったのは(朝)三時くらいであった。この夜小さな地震があった。この日、(萩の舎に)堤よし子さん(※不詳)が入門した。
(明治25年)1月17日 (みの子さんの家で)九時頃まで眠る。朝餉を終わるとすぐに、車(※人力車)を雇っていただいて帰宅した。(邦子が)「母上が大立腹だ」という。ひたすら昨日の過ちを後悔した。母上は小林さん(※小林好愛(こばやしよしなる)/一葉の父の元上司。当時は生命保険会社にいた。明治24年11月6日~10日、12月25日に出ている。)から三枝さん(※三枝信三郎。真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治25年1月3日に出ている。)にかけて年頭の挨拶に赴かれて留守であった。山下直一(※やましたなおかず/樋口家の元書生。直近では明治25年1月1日に出ている。)が来た。昼食を出した。(山下は)二時頃帰宅した。広瀬ぶん(※前述。直近では明治25年1月10日に出ている。)へ葉書を出した。三時頃母上が帰宅。山下直一から借りた『早稲田文学』(※明治24年に坪内逍遥が創刊した文芸雑誌。明治26年頃までは講義録に近かった。)を通読。昨晩夜更かしをしたので風邪をひいたのか、咳が出て耐え難かったので、おわびしてとても早くに寝床についた。三時頃大きな地震。(※実際は夜11時35分に地震があった。前日の地震と混同したもの。)
(明治25年)1月18日 天気晴朗。吉田さん(※吉田かとり子。直近では明治24年11月1日に出ている。この日記の最初、明治24年4月11日に詳しく記している。)に葉書を出した。みの子さん(※田中みの子)の親戚の縁談の件についてである。母上は望月(※もちづき/一葉の父則義在世時からの知人。八百屋で屋号は豊屋。生活が貧しく樋口家から時折援助を受けていた。米吉、とく夫妻とその子供がいた。直近では明治24年10月23日、同年9月21日に出ている。)へ赴きなさった。広瀬ぶん(※前日に葉書を出している。)が来た。昼食を出した。いろいろな話をした。(ぶんは)三時頃帰宅した。この夜も早く就寝した。
(明治25年)1月19日 天気快晴。母上が下谷(※したや/地名)辺りを年頭の挨拶にといって午前よりお出かけなさった。(私は)風邪がとりわけひどかったので横になっていた。服薬などをした。この夜、熱がはなはだしかった。
(明治25年)1月20日 快晴。母上は、ぶん(※広瀬ぶん)の一件につき、常総館(※じょうそうかん/不詳。広瀬ぶんの宿泊先だろう。)へ赴きなさった。自分は依然として病床を出ず、今日も一日寝ていた。母上が帰宅した。ぶん(※広瀬ぶん)は既に監視換(※かんしがえ/警察に監視を受ける者が住所を移転する際には監視する警察も移管する、その手続きのこと。広瀬ぶんは裁判で有罪になり執行猶予付きの監視処分におかれていた。)を済ませたこと、常総館の主人が変わることになっている話があった。(※常総館については不詳。)食事がとかく進まない。この夜も服薬して寝た。浜田の妻子(※1月14日にあった浜田夜逃げの奇談。)が来た。(妻子は)九時頃帰宅した。
(明治25年)1月22日 快晴。寒気(かんき)がひどかった。明日は小石川(※萩の舎)の稽古なので、今日横になっていたら、母上がまた(私が稽古に行くのを)お止めなさるかもしれないので、(無理して)早朝から起きた。昼食など味はしなかったが、いつものとおりに食べた。御歌会始(※おうたかいはじめ/歌御会始(うたごかいはじめ)とも。天皇がその年の初めに催す歌会のこと。明治25年は1月18日に宮中で行われた。お題は「日山出(ひやまをいづる)」(1月1日の日記に出ている)であった。)の御製(※ぎょせい/天皇が作られた歌)ならびに予選(※選に預(あず)かった歌の意。一般の詠進歌から選ばれた歌。選歌。)の歌が、今日の新聞上に出ていた。(今日は何も)することなく横になっていた。
(明治25年)1月23日 天気は快晴である。ゆったりと髪など結い変えて、午前十時という頃に家を出た。師(※中島歌子)のもとには来会者が既に十人ばかりあった。伊東夏子さん(※一葉の親友。平民三人組の一人。)も風邪で来られていなかった。小出さん(※小出粲(こいでつばら)。萩の舎の客員歌人。直近では明治24年11月9日、10日に出ている。)及び小笠原政徳さん(※おがさわらまさのり/不詳。歌人か。)が参会し、歌についてのお話があった。吉田かとり子さん(※萩の舎門人。直近では1月18日に葉書を出している。)、落車(※人力車から落ちた)の災難があった(とのことだ)。今日は来会者が大変多い。日没に会が終わった。師の君より鮭(さけ)の甘酒漬(あまざけづけ)を一箱いただいて帰宅した。田中さん(※田中みの子)より新刊小説を借りた。帰るやいなや読書に一夜をふかした。
(明治25年)1月24日 天気は快晴。朝から手紙を二通したため、午前だけ習字をした。午後から小説を読んだ。
(明治25年)1月25日 何事もなし。
(明治25年)1月26日 何事もなし。
(明治25年)1月27日 曇り。午前はいつも通り習字。午前より小説の下書きにとりかかった。この夜は何することもなく寝た。
(明治25年)1月28日 早起き。曇りで、暖かい。一日中、小説執筆に従事した。
(明治25年)1月29日 曇り。
(明治25年)1月30日 晴天。小石川(萩の舎)の稽古。歌合(※うたあわせ/明治24年10月23日の日記に詳しく述べている)があった。帰宅したのは日没の時。上野さん(※上野兵蔵。直近では1月11日に出ている。)の奥さんとお子さん(※兵蔵の妻つると、二人の間に出来た子の清次。つるの連れ子が正月に来た藤林房蔵。)が来たとのこと。
(明治25年)1月31日 記すほどのことなし。
(明治25年)2月1日 何事もなし。
(明治25年)2月2日 何事もなし。
(明治25年)2月3日 半井さん(※半井桃水)へ葉書を出した。「明日参ります。」とである。しばらくすると、(半井)先生からも葉書が来た。「明日拝顔し度(た)し、来駕(らいが)給はるまじきや(※明日お目にかかりたい。お越しくださいませんか、ほどの意)」との文面であった。これは、自分が(先生に葉書を)出したのに先立って、(先生が私に)お出しなさったものであろう。「こんなにまで(二人の)心が(ぴったり)合うことの不思議さよ。」と笑った。
(※この日の日記の記述は、一葉のときめく心が如実に表れているところだと思われる。そのため、おそらく一葉が何度も読み返したであろう桃水の手紙の文面<明日拝顔し度(た)し、来駕(らいが)給はるまじきや>は原文通りとし、括弧内で訳出した。)
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)