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現代語訳 樋口一葉日記 12(M25.2.19~M25.3.11)◎雪かき、図書館で会った女史、母たきの野草採り、『武蔵野』創刊の意気、梅見なんか

(明治25年)2月19日 母上が先に起き出しなさって、雨戸を開けられた。「なんとまあ(よく)積もったことだ。一尺(※一尺は約30センチ)にも余るだろうね。まだどれくらい降るのでしょうねえ。」などとおっしゃるのは、(きっと)雪のことであろうと嬉しくなって、さっと起きた。(※原文は<やをら起ぬ>で、<やをら>は本来、静かに、そっと、などの意味だが、明治時代頃から、さっと、急に、という意味合いでも使われ出した。ここでは後者の方が自然だと判断した。)国子(※邦子)をも起こして一緒に中から外を見ると、空も地面も木立も軒端も、白色でないところはない。(雪が)綿を投げるように降る様子が勇ましく、「これならば隅田川あたりに一艘の小舟を浮かべていたら(趣があるのに)なあ」など風流がって笑われてしまった。(※原文は<角田川あたりに一葉をうかべたらましかば>で、<一葉>の意味は3つある。ひとつは、一枚の木の葉。ひとつは、一枚の紙。ひとつは、一艘の小船。一葉という筆名は、のちの中国禅宗の祖、達磨(だるま)が印度から中国へ渡る時、蘆(あし)の葉の船で海を渡ったという伝説(蘆葉達磨(ろようだるま)という)から採ったと言われている。達磨にはお足がない、おあし、つまり銭、お金がないことをもじったものであると言われるが、一方で、右も左も分からぬ世間の荒波、特に小説の世界という大海に分け入ろうとする彼女の大きな決意が感じられる。)朝ご飯を済ませた後も雪はなかなか止まなかった。来るのを待っている人もいない家ではあるが、せめて入り口だけでも道を開けようということで、国子(※邦子)とともに支度だけは勇ましく、雪かきをした。一尺といっても二、三寸(※一寸は約3センチ)はきっと余るだろう。「(こんなに積もったのは)近頃では覚えがないことだ。」などと語り合った。(雪かきが)終わってから習字をしようと思ってやってみたところ、手が震えて仕方がない。力仕事をする人が、手で何か書くことをおっくうがるのはもっともなことだ(なと思った)。荻野さん(※荻野重省。一葉の父則義の友人。元司法省の官吏。一葉は2日前の2月17日にこの人から書物を借りている。)から借りた雑誌(※『早稲田文学』数冊か)ならびに山東京山(※江戸時代後期の戯作者。有名な山東京伝の弟)編の『くもの糸巻』(『蜘蛛の糸巻』1846年刊)を通読。(それから)『朝日新聞』の記事を少し見て昼食にした。午後から『早稲田文学』の「徳川文学」「しるらる伝」ならびに「まくべす詳訳」「俳諧論」など四、五冊通読。(※「徳川文学」は関根正直(せきねまさなお)の講義録「徳川文学に於ける文学の現象」「しるらる伝」は森鴎外によるドイツの詩人シラー研究「シルレル伝」、「まくべす詳訳」は坪内逍遥によるシェイクスピア「マクベス」原書注解「マクベス評註」、「俳諧論」は饗庭篁村(あえばこうそん)によるもの。それぞれが『早稲田文学』に連載されており、一葉の向学心が見て取れる。)岩佐さん(※蝉表内職の元締めの名。直近では明治25年1月1日に出ている。)が来た。母上が、新平(※不詳。主に邦子が下駄に蝉表(※せみおもて/下駄の表の地で、籐(とう)の皮を細かく編んだもの。)をかける内職をしており、新平はそのもとになる下駄を作っていた人らしい。明治24年10月23日に出ている。)のもとへ行かれた。(母上は)日没後帰宅された。一時に寝床に入った。
(明治25年)2月20日 晴れ。寝過ごして、起きるのが遅かった。朝の間に『蜘蛛の糸巻』を読み終えた。雑誌を少し見た。それから習字をした。姉上(※ふじ)が来た。おしゃべり。午後、髪結いして師の君(※中島歌子)のもとへ行った。(その途中)田町(※地名)にて、田中さん(※田中みの子)が、橘道守さん(※たちばなみちもり/明治時代の歌人。椎本吟社という和歌の出版社を主宰した。)の発会(※ほっかい/その年の初めの歌会のこと)へ赴かれているところに出会った。しばらく立ち話して、「師の君の病気が芳しくない」との由伝え聞き、そうして小石川(※萩の舎)へ行った。師の君は(私が来て)大喜びであった。いろいろと明日の手伝いをして(※翌日に萩の舎で発会があった)、御汁粉のごちそうにあずかって帰った。荻野さん(※荻野重省)が来られていた。晩御飯をご馳走した。自分たち(※一葉と邦子)は仲町(※なかちょう/地名。下谷区池之端仲町。ここに紙屋の中島屋があった。一葉の用いた原稿用紙、半紙、罫紙はここで買われた。明治25年頃から金清堂と称した。明治24年8月3日に出ている。)で買い物をしようと、一足先に家を出た。帰宅したのは日没後であった。この夜は短冊に歌をしたためなどして床に就いた。
(明治25年)2月21日 晴れ。十時に家を出た。小石川(※萩の舎)へ行った。(そこから)師の君と一緒に車(※人力車)を連ねて会席へ赴いた。(※歌会が万源楼で行われた。万源は明治24年5月31日に田中みの子の発会で出ている。)みの子さんは既に来られていた。いろいろとお話した。文雅堂(※筆墨店。ぶんがどう。明治24年6月10日の年齢比べで出ている。)が来た。四人で昼食。そのうち加藤さん(※加藤安彦。同じく年齢比べで出ている。民間の歌人)が来られた。来会者は四十人ばかりの見積もりであったところ、追々に増加して五十人にもなっていた。この日の点取り(※てんとり/和歌の点数を競うもの)題は「雪後春月」。黒川真頼先生(※くろかわまより/国学者、歌人、東京帝国大学教授)、三田葆光さん(※さんだかねみつ/茶人。歌人。黒川真頼に師事していた。)、小出粲(こいでつばら)さん(※萩の舎の客員歌人。直近では明治25年1月23日に出ている。)の採点であった。黒川さんの甲(※最高点)はかとり子さん(※吉田かとり子。直近では明治25年1月23日に、落車したと出ている。)、小出さんの甲は佐藤東さん(※さとうあずま/萩の舎の客員歌人。)、三田さんの甲、黒川さんの乙(※次点、第2位)は自分の歌であった。景品などをいただいた。皆さんが帰宅された後、別に小宴を開いて、佐藤さん(※佐藤東)、井岡さん(※井岡大造。萩の舎の客員歌人。明治24年11月9日に一葉は初めて会っている。)、田中さん(※田中みの子)の三人ならびに師の君、自分で歌の話などがあった。会が終わったのは八時頃であった。車(※人力車)を小石川(※萩の舎)にやって、(師の君と)勘定(※この日の費用などの計算か)の話などをした。また、茶菓(さか)をいただいたりなどして帰宅した。この夜は何事もすることなく床に就いた。深夜に雨が降り出した。
(明治25年)2月22日 雨、寒い。昼前は何もできず、午後から著作にかかった。(※第2作「別れ霜」)だけれども大方は紙と筆に向かったままで、筆をとって書くまでには至らなかった。和歌を五題ばかり詠んだ。風邪で(もひいたので)あろうか、頭痛耐え難く、この夜は早く寝た。
(明治25年)2月23日 曇り。朝のうちに江崎さん(※乙骨まき子。結婚して江崎牧子。岐阜在住。直近では明治25年1月4日に出ている。)ならびに兄上(※一葉の兄、虎之助)へ出す郵便をしたためた。それより小説の原稿にとりかかった。この夜も早く寝床に就いた。この日、あらかじめ小説の趣向などを定めた。
(明治25年)2月24日 曇り。大変暖かい。朝から、昨夜立てた趣向にしたがって、(小説の)筆をとった。田中さん(※田中みの子)より、「明日数詠み(※かずよみ/和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)をしますのでお越しいただきたい」との書状が来た。日没後、小説二、三冊読んで母上にお聞かせした。夜に入って、強風が吹いた。
(明治25年)2月25日 風がやまず、大変寒い。髪を結いて、そして家を出た。(※田中みの子の家での数詠みに向かった。)戸田さん(※戸田忠ゆき/萩の舎の客員歌人。)がまず来られていた。伊東さん(※伊東夏子)は何かの差し障りがあって来られていなかった。数詠み題は三十。四時頃に終わった。(田中みの子と)小説のお話をして、田中さんが、ご自分で作られた小説を二冊ほどお見せくださった。(※田中みの子が自分で何か書いていたのだろう。どこかの雑誌に出していたのではない。)日没の頃、車(※人力車)を雇っていただいて帰った。十一時頃床に入った。
(明治25年)2月26日 快晴。
(明治25年)2月27日 小石川(※萩の舎)の稽古である。強風、寒気がはなはだしかった。早朝から行った。前田さん(※前田朗子(さえこ)/前田利嗣(としつぐ)の夫人。前田利嗣は加賀前田家15代当主。妹の衍子(さわこ)が近衛文麿を出産後亡くなった記事が明治24年10月24日に出ている。)から来た歌に、返歌をしたためて贈った。三田弥吉さん(※みたやきち/官吏)の夫人が(萩の舎に)入門された。四時頃帰宅した。
(明治25年)2月28日 早朝、図書館へ赴いた。この日も強風で寒い。(途中で)荻野さん(※荻野重省。2月19日に出ている。)の宿屋を訪ねて(借りていた)書物を返しなどしたのだが、竹州さん(※荻野重省の号。正しくは竹洲。)は一昨日から原町田(※はらまちだ/地名。親しくしていた渋谷家があった。)へ行かれたとのこと。細君だけがおられた。しばらくお話した。それから図書館へ行った。図書館館内にて、新潟県人、田中みをの女史にめぐりあい、禅学のことについて話した。彼女は長岡市の戸長(※今で言う村長、町長)の跡取り娘であるという。夫は洋画を仕事としているとか。彼女は、禅学に志が深いが、地方の習慣で女子に就学の機会を与えられず、たまたま近くのお寺などに布教する僧があったとしても、(その教義は)俚耳(りじ)に入りやすい(※俚耳とは俗世間の人の耳。俗耳に入りやすい、つまり、世間一般の人々にわかりやすいこと。)小乗(※しょうじょう/小乗仏教。要は、自己完成を目指す仏教で、大乗仏教からの、自分さえ悟ればよい仏教だという蔑称。)の浅はかな事ばかりで、事は大乗(※だいじょう/大乗仏教。自己だけでなく人間全体の救済と成仏を求める仏教。)の蘊奥(※うんのう/学問、技芸の奥深い所。奥義。)に至らず、望洋(※ぼうよう/広々として目当てのつかない事。ここでは、茫然ほどの意)とした思いだという。「今回の上京の機会にまかせて、原但山さん(※はらたんざん/曹洞宗の禅僧。禅学の権威。東京帝国大学で印度哲学を教えていた。)に教えを乞いたいと思う。」などとも言った。その禅学に関する書物などを取り調べていた。帰り道に同行し、(みをの)女史の池之端(※地名)の仮住まいまで赴いた。(そこで)後日(の再会)を約束して別れた。(※以来、田中みをのの名前は日記に出てこない。)帰宅したのは日没の少し前であった。この日、野々宮さん(※野々宮きく子/東京府高等女学校を卒業後、麹町尋常小学校に勤めた。直近では明治24年10月18日、10月24日、10月30日に半井桃水がらみで登場している。)が来訪されたとのこと。
(明治25年)2月29日 何事もなし。
(明治25年)3月1日 田中さん(※田中みの子)より手紙が来た。先日小説の事について新聞社への周旋(※田中みの子の家の書生に新聞社と知り合いの者がいたらしい)を依頼しておいたところ、私(※一葉)の小説を一、二回分見たい、そのうえで相談しようという人があるとの由。「至急届けてほしい」とのことだ。ただちに「棚なし小舟(たななしおぶね)」(※この作品は結局第二回で中止した。)を書きだした。この夜一回だけ書き終わった。国子(※邦子)などは、「今月はきっとよいなりゆきになりますよ。一日(ついたち)早々うれしい知らせが来たのですから」などと言う。
(明治25年)3月2日 昼前に髪を結いて、昼過ぎから新小川町(※田中みの子の家。明治24年9月24日の記事にみの子の引っ越しについて触れられている。)に行った。田中さんはちょうど各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。この時、田中みの子は自身主催の各評を準備していた。主催者は、参加者の寄せた歌を無記名で番号を付して配列し、回覧する順番を決めて、発送する。)の(歌の)締め切りをして(発送の準備をして)いたところであった。(田中さんと私二人は)うちとけた話に長い日が暮れるのも気付かず、灯をつけてなお話し続けた。晩ご飯のもてなしを受けて、そうして車(※人力車)で帰った。日没からよほど過ぎていただろう。この夜は目立ったこともなく、ただ、田辺さん(※田辺龍子(たつこ)のちに三宅姓。明治元年生まれで一葉の4つ上。明治21年、花圃(かほ)という筆名で女性では日本初の近代小説「藪の鶯(やぶのうぐいす)」を発表。元老院議員の父を持つ名家の長女であった。一葉の姉弟子にあたる。直近では明治24年10月17日に出ている。)が受け持ちの難陳(※なんちん/難陳歌合のこと。明治24年10月23日に詳しく記した。)二題を詠んで床に入った。
(明治25年)3月3日 雨である。早朝、田辺さんに書状を出した。各評(※前日の田中みの子主催のもの)が廻ってきた。選んでから、長谷川さん(※長谷川直。萩の舎門人。これきり出てこない。)に送った。姉上(※ふじ)が遊びに来られた。今日は上巳の節会(※じょうしのせちえ/ひな祭りのこと)なのでと、白酒、入り豆などを調えて一同祝った。「棚なし小舟」の続きにとりかかった。他に何事もなし。
(明治25年)3月4日 雨、暖かい。和歌七題十五首ばかり詠んだ。小説の下書きが忙しい。
(明治25年)3月5日 雨。早朝、小石川(※萩の舎)の稽古に赴く。来た人は十名ばかりであった。水野さん(※水野忠敬(ただのり)。元沼津藩の殿様。直近では明治24年11月1日の鳥尾家の難陳歌合の会に親子で出ている。長女のせん子は明治25年2月11日に出ている。)が、「鎮地菊間神社(※鎮地は鎮守のことで、その土地を鎮め守る神、神社のこと。菊間神社は千葉県市原郡菊間村の神社。水野忠敬は明治2年沼津藩からこの地に領地を移され(移封(いほう)という)、間もなく廃された経緯がある。)へ奉納する和歌を詠んでほしい」ということだったので、それをそのまま今日の点取りとした。題は「有松喜色(まつにきしょくあり)」である。(点取りが)終わったあと、もう一題詠んだ。(そして萩の舎の皆で)来たる十一日に、梅見に行く約束をした。みの子さん(※田中みの子)が、あるところから、私が作った小説が見たいと言ってきた(※3月1日の話とは別のところ)というので、「今夜中に一回分を届けてほしい」と言う。(私は)「(今何か書く)趣向のあてもないけれど、どうにかなるでしょう。」と言って請け合った。一同が帰路に着いたのは四時頃であった。ぬかるんだ道を歩くのはとても難儀であった。この日、前島さん(※前島菊子。直近では明治25年1月4日に年賀状をもらっている。)から『女学雑誌』を借りた。帰宅早々日没まで通読した。それより小説の著作に従事した。夜を徹して「みなし子」第一回の下書きを書き終えた(※結局この作品も未完成に終わった。)。雨戸の隙間が白むのを見て、しばし眠った。
(明治25年)3月6日 雨。七時に起きた。再び下書きを改めて、郵便で送った。小説著作(※「みなし子」の第二回まで書いた。)、詠歌、習字などの日課を努めて、夜に入ると読書などをした。十二時に床に入った。
(明治25年)3月7日 連日の雨だが、夜の間に晴れ渡って、うららかに霞む朝の景色は大変のどかであった。蕩蕩(※とうとう/ゆったりしているさま)たる春風に、庭前の梅花(の)花びら(が散り)乱れて、香れる雪(※梅の花の別名は香雪(こうせつ))が降ってくるのを(散り)惜しむ顔をした鶯の声など、(このうららかな)我が家の春を、世の人に見せたいものだ。「今日は半井先生を訪問したい」と、母上に髪結いをわずらわした(※手伝ってもらった)。「晩餐の準備だよ。」と、母上が草原に(※家の近くに右京ヶ原、右京山という台地があった。現文京区清和公園。)籠(かご)を携えて降り立ちなさるのは、若菜(※わかな/春先に生え、葉を食用とする野草の総称)を摘もうというのである。(※樋口家は貧しく、まともに野菜が買えなかった。)世間には金殿(※きんでん/美しい御殿)楼閣(※ろうかく/高い建物)に住む人もいるだろうように、綾羅錦繍(※りょうらきんしゅう/美しい上等な着物)を誇る者もいるだろう。(※原文は<綾羅錦しやうにほこる>とあり、「錦しう」の一葉の書き間違いと思われる。)借問する(※しゃもんする/ためしに問う、また、仮に問う、また、あえて問う、ほどの意。漢詩でよく使われる修辞。)、綿衣(めんい)三年改めず、破窓(はそう)わずかに膝を入るるに過ぎざれど(※<綿衣>は木綿の着物で、下級の着物の意。<破窓>は破れ壊れた窓で、貧しい家屋の意。<膝を入れる>は足を入れる意で、狭い家、場所に身を置くたとえ。つまり、貧しい着物も替えられず、狭い陋屋に身を置く境涯に過ぎないけれども、ほどの意。)、優々(※ゆうゆう/しとやかでやわらいださま)たる春の光、春の匂いが、身にも心にも家の中にも満ち渡っている、(そんな)私たち親子ほど楽しいものがあるのか(それとも)ないのか。(※貧しさ故に母上が野草を摘みに行く姿を見て一葉の戸主としての責任が自身のふがいなさを責めているのだろう。一方で、本当の貧しさとは心の貧しさではないのか、という一葉の清廉な自負も見てとれるだろう。ここに一葉の持つ厳しいジレンマがある。)

 そうして、今日の午前中はすることもせずに終わって、昼食後ただちに麹町(※こうじまち/平河町に接する町で、ここでは単に半井桃水宅を指す。)へと赴いた。「私が半井先生のところへ行くときに、雨か風かがないときはない。今日はいつもとは違っているよ。」などと笑っていたが、家を出る頃から雲が急に騒ぎ始めて、九段坂(※地名)のあたりより、霰(あられ)まじりの雨がすさまじくなった。半井さんのところに着いたのは一時過ぎた頃であったが、門の戸を押すけれども開かない。「いつものように朝寝していらっしゃるのだろう。」と思ったので、(どうにか入ろうと)やっとのことで(門を)開けて入った。見ると火桶(※木で作った火鉢)に火はあかあかとして湯なども(そこで)たぎっているのに、先生はいらっしゃらない。「これは悪いことをしたなあ。お留守の所に(勝手に入ってしまった)。」とも思ったけれど、そのまま帰るのも残り惜しくて、しばらく(そのまま)居ると、(やがて先生は)お帰りになった。(先生は、)「湯あみ(お風呂)に行っていました。」と、大変お詫びなされた。(先生と一緒に)先日の人(※畑島一郎。朝日新聞社の社会部記者。畑島桃蹊(はたじまとうけい)と号した。明治25年2月15日に会っている。その時に桃水は一葉に新しい同人雑誌の誌名が『武蔵野』となったことについて話している。)もいた。(そうして、先生との)話は(先日の)『武蔵野』のことに及んだ。「(同人)仲間にいろいろと差し障りがあって、発行の日にちはこのように延びてしまったけれど、その熱心の度合いは実にはなはだしいもので、柳塢亭寅彦(※りゅうていとらひこ/本名、右田寅彦(のぶひこ)。明治大正期の劇作家。当時は朝日新聞社東京支局の社会部長だった。)のごときは、『原稿に金を添えてまで出したい』との意気込みです。そのほか、右田年方(※正しくは右田年英(としひで)。本名は豊彦。明治大正期の浮世絵師、日本画家。右田寅彦の実兄。)は(描いた)絵を寄付してくれ、(その絵を彫った)板木師(※版木師(はんぎし)/絵師が描いた浮世絵などをもとに、版画の原板となる版木を彫る人)は『彫った木のお代だけでも送りましょう』と(こちらが)言うのを固くご辞退されました。(さらには)「小説雑誌の発行は、月日とともに増えていって、砂浜の砂のように数え切れないほどで(その多さは)並たいていではないが、これほど熱心なのはまだ見たことも聞いたこともありません』と(この『武蔵野』を出版する)書肆(※しょし/本屋。書店。当時は本の制作、出版、卸、小売り、古書の売買までを一手にしていた。)も言っていました。この上、各新聞社に広告料ぐらいは寄付(ということに)してもらって、印刷職工の手間賃は無料にし、数万の観客(※ここでは読者のこと)が、定価(お支払い)の上に幾分かの義捐金を払ってもらうことにさえなったら、本当に『武蔵野』は万歳(万歳万々歳)ですよ。」と(先生が)大笑いなさったので、自分ももう一人の方(※畑島一郎)も笑いが絶えなかった。先生はまた、「『都の花』(※明治21年に創刊。月2回金港堂より発行された当時一流の文芸雑誌。)も二千五百(部)、『難波(なにわ)がた』(※『なにはがた』/明治24年に大阪で創刊。浪華(なにわ)文学会発行の月刊文芸同人誌。)も二千五百(部)の売れ高なので、我が『武蔵野』は五千(部)ほど世に流布させたい(ものだ)。」とおっしゃった。もう一人の方(※畑島一郎)が、「それならば寅彦(※柳塢亭寅彦(※りゅうていとらひこ/本名、右田寅彦(のぶひこ))に文章を作らせて、声の良い者を選んで、縁日または勧工場(※かんこうば/デパートの前身)の前のような(にぎやかな)ところで、(派手な)目立つ格好をさせて、面白い節をつけて(『武蔵野』の)広告(活動)をさせたらどうだろう。」と言った。自分もまた、「もっとよいことがあります。万世橋(※よろずよばし/橋の名前)などの袂(たもと)に立って、往来の人々に無料配布をしたら、五千はおろか万も五万も世に流布するに違いありません。」と言ったら、一同大笑いした。「あなたの『闇桜』(※2月15日に桃水に手渡している。この作品が一葉の文壇的処女作である。)は小宮山(※小宮山桂介。筆名は小宮山即真居士(こみやまそくしんこじ)/東京朝日新聞の主筆。桃水の友人でもある。明治24年5月8日に一葉は小宮山に会っている。)にも見せました。彼の説では、『武蔵野はあなた(一葉)が所有主(になったも同然)です。(※『武蔵野』の一葉ではなく、一葉の『武蔵野』だ、という意)」ということです。(また)『一、二点言っておきたいところもあるけれど、世間の批評(もあるでしょうから、そ)の為に言わずにおきます。』と彼は言いました。挿絵は寅彦の意匠(※いしょう/デザイン、工夫の意)で、年方(※正しくは年英)に描かせるつもりなので、そう思っておいでなさい。(『闇桜』に)あなたの姓名(※本名)を出さないのを(読者が)知りたがって、『どんな人か、(一目)見たい』などと人々が騒ぐのが(きっと)面白いですよ。」と(先生は)いつものように(軽口を)おっしゃる。(そして、)「ただし『武蔵野』は(毎月)十五日に発行するつもりです。次号の原稿は二十日過ぎまでに送ってください。」とおっしゃった。(そういえば、)昨日のことであった、国子(※邦子)が「『いつわりの無き世なりせばいか計(ばかり)人の言の葉うれしからまし』(※古今集仮名序にある歌。もしこの世に偽りというものがなかったら、どんなにか人の言葉が嬉しかろう、ほどの意。)の歌を反対にして詠んでごらんなさい。」と(私に)言ったので、(私が)「『いつはりのあるよなればぞかく計(ばかり)人のことの葉うれしかりける』(※偽りのあるこの世だからこそこんなにも人の言葉が嬉しいのだ、ほどの意。)と言えば言えるでしょう。」と言って笑った(※このあたりの機転の速さに一葉の天才が現れていよう。)が、(今の)先生の(お世辞の)言葉に、(昨日やりとりした言葉がちょうど)ふさわしいのも面白い。(やがて)三時にもなったので、「また来ます」と言って暇を乞うた。(先生は)「今しばらくはよいでしょう。何かご馳走するつもりですから。」などとお止めなさったけれど、「空もだんだん雲が多くなってきたようですから」と言って、強いて帰った。(ところが)帰り道からだんだんと晴れて来て、家へ着いた頃には一点の雲もなくなったのも不思議なものだ。(家には)奥田の老人(※奥田栄。未亡人。一葉らは、この人に一葉の父則義の借金の返済を続けていた。直近では明治25年2月9日、10日に出ている。)が来ておられた。晩御飯をご馳走した。関場さん(※関場悦子。邦子の友人。直近では明治24年10月26日に出ている。)から葉書が来ていた。国子(※邦子)に「明日お越しください。」とあったので、(私は)「何事か知らないけれど明日行って来なさいよ。」と言った。難陳(※なんちん/難陳歌合の会がある時は、味方の歌は前もって詠っておき、それを回覧して評しておくのだろう。)が廻ってきた。それを書き写して伊東さん(※伊東延子、夏子)に送った。この夜は大変頭が痛くて耐え難かったので早く寝た。森川町(※地名)で失火があった。
(明治25年)3月8日 昼前、邦子が、関場さんのところへ行った。昼ごはんをご馳走になって午後に帰ってきた。悦子さんの実家の妹で、十歳になるとかいう人(※関場悦子の実父は地方官を務めた関新平で、悦子は妾腹の長女。この「妹」は本妻の次女関藤子。だから<実家>と言ったのである。)を、中島(歌子)先生のもとに入門させたく、そのご紹介を依頼したいということである。関場さんの家から『御伽草子』(※おとぎぞうし/鎌倉時代から江戸時代にかけて成立した絵入り短篇物語の総称。空想と教訓に富む童話風の作品が多い。ここでは明治24年に刊行された前後篇の同タイトルの本を指す。)上下巻を貸していただいた。この日の日中は何も目立った仕事もなく、夕暮れになった。風が大変荒々しく吹き出した。
(明治25年)3月9日 晴れ。早朝より支度をして小石川(※萩の舎)に行った。月次会(※つきなみかい/毎月の例会。萩の舎の例会は毎月9日。)である。(着いて)しばらくして田中さん(※田中みの子)が来られた。今日の来会者は三十八、九名であった。島田政(まさ)さん(※毎日新聞社の主筆、島田三郎夫人)も来られた。点取題は「野鶯(ののうぐいす)」で、重嶺(※鈴木重嶺(しげね)/元旗本、明治期では官僚、歌人。明治24年6月10日の年齢比べに出ている。)、恒久(※江刺恒久(えざしつねひさ)/萩の舎の客員歌人。菊の舎と号して歌門を開いていた民間の歌人で、明治24年6月10日の年齢比べに出ている。)、信綱(※佐佐木信綱(ささきのぶつな)/歌人、国文学者で、万葉集や和歌の研究でも業績を残した。一葉と同い年で、一葉が十二歳から十四歳の頃まで裁縫を習いに行っていた松永政愛(※まつながせいあい/一葉の父則義の東京府庁時代の知人。同郷(真下専之丞の庇護を受けていた)であり、信綱の父弘綱(歌人)の歌の門人でもあった。一葉は小学校を退学してから松永政愛の妻に裁縫を習っていた。)の家で会ったことがある。しばしば萩の舎の例会に点者(歌の点をつける人)として迎えられた。のちに文化勲章受章。)、安彦(※加藤安彦。民間の歌人。明治24年6月10日の年齢比べに出ている。直近では明治25年2月21日にも出ている。)の四人の点(者)である。恒久さんの甲(※最高得点)は重嶺さん、安彦さんの甲が恒久さん、重嶺さんの甲が安彦さんになったので、「これじゃ本当にどうしようもない。(※これでは先生同士の褒め合いではないか、という苦笑。)」などと言っていた。信綱さんの甲は私であった。十一日に梅見(の会)と決まった。その相談がいろいろあった。日没の頃、一同解散、お帰りになった。関場さんのご依頼の一件は、異議なくととのった。
(明治25年)3月10日 曇り。雑誌『武蔵野』の次号に出すつもりの趣向のあらまし(※第3作『たま襷(だすき)』)を、手紙で半井さんへ送った。石井(※石井利兵衛。一葉の父則義の頃からの知人で、樋口家に借金があり、毎月少しずつ返済していた。明治24年9月22日の伊勢利と同一人物か。直近では明治25年2月7日に出ている。)へ葉書を出した。明日の天気はどうだろう。(※翌日に梅見の会がある。)ああ、人は「良い天気であってほしい」と待っているだろうけれど、私の為には雨が降ってほしいものだ。友人といえども心に隔てのある高貴な女性に付き従っていき、おかしくもないことに笑い、面白くもないのに喜ばなければならないのは、私が常に潔しとしないところであるのだが。植半(※うえはん/料亭の名)、八百松(※やおまつ/料亭の名)の(料理の)塩梅(※あんばい/味加減)も、私の為には何だというのか。母と妹を壊れた家に残して、一切れの魚肉も依然として満足して(食べさせられては)いないのに、亀井戸の梅林(※亀戸天神社の隣に亀戸梅屋敷という梅の名所があり、そこに臥龍梅(がりゅうばい)という有名な梅があった。明治43年の水害で全滅。)の梅の香を分け入って、橋本(※料亭の名)にての一杯の鯉こく(※鯉の味噌汁)(など)どうしてうまいはずがあろうか。人の愉快とするところは、私が人知れず涙をのむところである。「天よ、雨を降らせてほしい、心があるならば。」と嘆かれた。(※一葉がこのようなことを吐露するのは初めてである。自身の生活の苦しさと、それに反する萩の舎の上流階級の娘のきらびやかな暮らしぶりに、いやというほど落差を感じていただろうことは、察するに余りある。)今日は終日心が苦しくて、何をしようということもなくて日没になった。国子(※邦子)が、関場さんに(ご依頼の結果の)報告に行った。(邦子が)関場さんから『報知新聞』(※正しくは『郵便報知新聞』)を借りて来た。夜に入ってから、面白い小説を母上に読んでお聞かせした。(※母たきはあまり字が読めない。)そのうち雨が降り出した。(雨が降ってくれて)「万歳」とも唱えたかった(くらいだ)。稲葉の奥さん(※稲葉鉱)、正朔さん(※鉱の息子)が一緒に、相談があるといって来られた。この夜は(当家に)一泊された。十二時に床に入った。
(明治25年)3月11日 起き出てみると雨戸の際が白い。雪であった。「さぞかし梅見と約束していた方々はがっかりされていることだろう。」などと思いやられた。(それなのに)十時という頃から空はただもう晴れに晴れて、雪は煙のように溶け消えて、昼頃には、「すでに道も乾いてしまっただろう」と思われた。前島さん(※前島武都子。前島菊子の妹。郵便の創業者、前島密(ひそか)の娘。直近では明治24年10月24日に出ている。)から手紙が来た。「(梅見の会は)もともと今日ですが、明日ではいかがでしょうか。(今日)道はなくても行くべきでしょうか(※朝のうちは雪で道が消えていたことを指す)。(師の君に直接ではなく)あなたにうかがっておきます。(※一葉の萩の舎での立ち位置が周囲からも中島歌子の側近に見えていたことがわかる。)」などと(書いて)あった。自分はすぐにそれを携えて、師の君(※中島歌子)のもとへ赴いた。ここで返書を出した。「晴天なので明日(梅見に)行きましょう。」という返事である。(萩の舎では、)初心の人の詠草の直しなどをして帰った。(※萩の舎では初心者の稽古日はいつもの土曜日以外の日に設けていた。この日は金曜日。ということは、翌日の梅見の会が萩の舎の稽古日(土曜日)と重なるので、一葉は師の君のところへそのあたりのことも聞きに行ったのだろう。)(帰宅して)ただちに関場さんへ葉書を出した。(※関藤子の萩の舎入門依頼に対して、邦子が前日に承諾の報告に行っているが、萩の舎に所属する一葉本人からがよかろうと気遣って葉書を出したのだろう。)しばらくすると、関場さんから葉書が来た。行き違いになったのだ。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)


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