現代語訳 樋口一葉日記 27(M26.3.1~M26.3.16)◎福島少佐(中佐)のシベリヤ横断、『胡砂吹く風』感想、向かいの商人の話と桃水への消えがたい想い、邦子の失恋、よは夢ぞかしよは夢ぞかし。
(明治26年)3月1日 晴れ。頭痛がまだ治らないので、日が高く上るまで朝寝をした。起き出してのち、『胡砂(こさ)吹く風 後編』を少し読んだ。
「福島少佐遠征のあと判然せず」という変報(※変事の知らせ)があった。(※ドイツ公使館付武官福島安正(ふくしまやすまさ)中佐が、明治25年の帰国の際、冒険旅行と称してベルリンからシベリヤ横断の単独騎馬旅行を敢行した。総距離1万8千Km、期間は1年4か月の壮大なものであった。ちょうどこの頃一部の新聞に中佐がウラジオストックで消息を絶ったと報道されていた。)本当かどうか、大変心配だ。昨夜、渋谷さん(※渋谷三郎。一葉の元許嫁。直近では明治25年9月1日、9月8日に出ている。)の夢を見た。京都の山崎さん(※山崎正助(やまざきまさすけ)一葉の父則義の東京府庁時代の同僚。直近では明治25年9月9日に出ている。当時は京都に滞在していた。)から手紙が来た。
(明治26年)3月2日 図書館に書物を見に行った。産婆生(※東京産婆学校の生徒)で稲垣しげという婦人に会った。私の(家の)隣の加藤なみ子の友人であるということであった。(その人とのお話しで)面白い話があった。『御伽婢子(おとぎぼうこ)』(※江戸時代の怪談集。浅井了意(あさいりょうい)作。)を十冊ばかり読んで帰った。この夜、久保木の姉上(※ふじ)が来た。ひし餅をいただき(※翌3月3日は、桃の節句。)、(また)北海道の関場悦子さんから手紙があった。(※関場悦子は邦子の友達。夫は医師でその頃は夫の任地の札幌にいた。明治24年10月26日に邦子が半井桃水のよくない噂をこの人から聞いたくだりや、明治25年3月7日から19日にかけて腹違いの妹関藤子の萩の舎入門などに関して出ている。)
(明治26年)3月3日 晴れ。久保木の姉上(※ふじ)がお金を借りに来た。山田武甫さん(※やまだぶほ/衆議院議員)の葬儀は一昨日であった。この夜邦子とともに十軒店(※じっけんだな/中央区日本橋にあった地名。人形店が多く、3,5月の節句には市がたち賑わった。)に雛人形の市を見に行った。
(明治26年)3月4日 小石川(※萩の舎)の稽古を休んだ。午後から雨が降った。大工の長(ちょう)(※稲垣長太郎。明治26年2月23日にこの名が出ている。)が来た。
(明治26年)3月5日 晴れ。暖かい。鶯の初音が聞こえ始めたのも(春の)趣がある。ところどころ梅も咲いただろうなあ。「うもれ木の身にも流石に春のたよりはにくからぬかな」などと呟かれた。(※うもれ木の身である私にも流石に春の便りはいやなものではないなあ、ほどの意。うもれ木とは、樹木が地中に長く埋まって化石化したもの。世間に見捨てられ長い間顧みられない人のたとえ。「はるや来る花やさくともしらざりき谷の底なる埋木の身は」(和泉式部)を踏まえたもの。)小説「ひとつ松」、今日から筆を執り始めることにした。(※結局この作品は成らなかった。)大工の息子が頼み事があって来た。野々宮さん(※野々宮きく子)に手紙の返事を書いた。(※1週間前の2月28日に手紙をもらっている。)芦沢芳太郎(※一葉の母たきの弟、芦沢卯助の次男。芳太郎は上京して陸軍に入り近衛第一連隊に配属されていた。直近では明治26年2月20日に出ている。日曜日によく来訪している。)が来た。
(明治26年)3月6日 早朝、地震があった。風が吹き出した。とても寒い。奥田の老人(※奥田栄。樋口家はこの老女へ父の借金の返済を続けていた。直近では明治25年12月27日に出ている。)が来た。この人を送りがてら本郷通りを少し散歩して、原稿用紙を買ってきた。(※丸二堂という紙屋があった。)野々宮菊子さんからまた葉書が来た。(昨日出した)私の返事と行き違いになったのだろう。久保木(※久保木長十郎か、ふじか。)が遊びに来た。小説の著作に夜更けまで起きていて、二時過ぎ頃床に入った。
(明治26年)3月7日 晴れ。七時に起き出た。河野大臣(※文部大臣河野敏鎌(こうのとがま))が辞表を出したとのこと。内閣の大臣がそれぞれ留任を勧めたが、断固とした決心は動かし難かったのだろうか。自ら官邸を引き払って、今川小路(※地名。神田区神田神保町3丁目)の自宅に引っ越しされたとか。伊東書記官(※伊東巳代治(いとうみよじ)。伊藤博文の側近であった。)の権勢、伊藤総理(※伊藤博文)の艶聞(※伊藤博文の女遊びは世間でもかなり有名であった。明治天皇に注意されるほどであったという。)、とても面白い。国会議員狩野揆一郎(※かのうきいちろう)さん病没のお知らせがあった。(※このあたりの政治記事は一葉が「改進新聞」を読んでいて、その中から興味あることを書きだしたものであろう。)久保木の姉上が来た。大工の息子が来た。(大工の息子は)蝉表(せみおもて)のしんを持ってきたのである。(※蝉表(せみおもて)とは、下駄の表の地で、籐(とう)の皮を細かく編んだもの。一葉らは生活のため内職でこれを作っていた。邦子が上手だったという。「しん」はよく分からないが、小学館版一葉全集の補注によると、「蝉表を下駄の表に合せて形づくるしん張りの材料」とある。)昼過ぎ、新聞の号外が来た。河野文部大臣が去り、井上枢密(※井上毅(いのうえこわし)元枢密顧問官。)がこれに替わったのだ。さらに山県司法大臣(※山県有朋)が辞表を出すのではないかとの噂もある。「英公使の河瀬さん(※河瀬真孝/かわせまさたか)が後任だろう。」などとあった。
(※以下に続く文章は半井桃水の『胡砂吹く風』の感想である。主人公の林正元が、朝鮮の霊鷲山(ヨンチュクサン)という山で、青揚(林正元の許嫁香蘭の父の商売仇の娘であったが、没落して悪者に囚われていた。)を救って連れて逃げる場面と、青揚が林正元のかわりに命を落とす場面について述べていると思われる。)
愛する人(林正元)の難を救い、また自分(青揚)の災いから(も)逃れて、霊鷲山の山と月が寄り合う深いところ(において)、踏みしだく草葉の露に影が二つ落ちて(※おそらく二人が逃げた場面だろう。)、(そうして青揚は)手に持った手紙の名残りがどんなに嬉しかっただろう、どんなに悲しかっただろう。(※おそらく青揚が死ぬ場面。原文は<たづさへし文の名残りいか計(ばかり)うれしかりけむいか計(ばかり)かなしかりけん>とあり、<文(ふみ)>は手紙だろうか。「手に持った手紙の名残り」の意味がよく分からないが、あるいは林正元からの心のこもった手紙を青揚が手に持ったままその名残を惜しんで死んでいったのだろうか。詳細は不明だが、一葉の感情が動いた場面であったのだろう。)しかし、この世の最後をその(愛する)人に替わって(の)、潔い(命の)終わり(方)は(青揚にとって)本望で(は)あっただろう。
はかなきにおもひゆるしてしら露の
哀れ玉よと君みましかば
(※今はかなくなる(※死ぬ)この時に、私のことを許し認めて、ああ、美しい女だとあなたが思ってくれたなら、ほどの意)
(次の歌は)『胡砂吹く風』のうち、香蘭を詠んだ歌。
うら山し霜に雪にも色かへで
おのれみどりの庭の姫松
(※うらやましいものだ。霜にも雪にも色を変えないで、自ずと(不変の)緑色の庭の姫松(※姫小松。小さな松のことで、不変、長久を象徴するもの。)よ、ほどの意。)
林正元はわが日本の人と聞いて、(次のように詠った。)
朝日さすわが敷島の山桜
あはれか計(ばかり)咲かせてしがな
(※朝日差すわが日本の山桜よ、ああ、風情があるほどに(その花を)咲かせてもらいたいものだ、ほどの意。)
(※なお、この林正元の歌は一葉が『胡砂吹く風』のために贈った歌である。即ち、明治26年2月23日の日記にある、口絵の林正元と並んだ歌がこれで、その端書きには<桃水うしがものし給ひしこさ吹く風をミ参らせてかくハ>(※桃水先生がお書きになった胡砂吹く風を拝見してこのような歌を詠いました。)とあり、続けて<朝日さすわが敷島の山ざくらあはれかバかりさかせてしがな 一葉>とある。考えて見れば、恋する桃水の本の冒頭に、自分の歌が1頁まるまる堂々と載せられているのだから、一葉にとってこの本は師弟二人の記念すべき一冊でもあっただろう。その嬉しさがどれほどのものであったかは想像に余りある。それは三首も詠うはずである。)
(明治26年)3月8日 晴れ。寒い。
(明治26年)3月9日 母上が、菊池さん(※菊池家。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉は明治22年に死去。その奥方の菊池政、長男の菊池隆直が本郷元町で「むさしや」という紙類小間物商を営んでいた。)に招かれられた。東園翁(※菊池隆吉)五年祭である。
(明治26年)3月11日の夜、号外が来た。山県司法大臣(※山県有朋)が依願免官、枢密院議長に任ぜられ、農商務次官西村捨三(すてぞう)さんが免官、文部次官久保田譲(ゆずる)さん同じく(免官)、< >(※草稿空白。茨城県)知事牧野伸顕(のぶあき)さんが文部次官に任ぜられた。司法大臣は伊藤(博文)首相がこれを兼任されるということだ。
(明治26年)3月12日 晴れ。「福島少佐が浦塩斯徳(ウラジオストック)から五百里(※約2000Km)離れた地(※ロシア東部のブラゴヴェシチェンスク)に、無事到着されたという電報があった」という。大変めでたいことであるなあ。日曜日なので芦沢芳太郎並びに藤林房蔵(※上野房蔵。上野の伯父さんこと上野兵蔵の妻つるの連れ子が房蔵。直近では明治26年1月2日に出ている。)が来た。昼過ぎまで二人とも遊んでいった。今宵、国子(※邦子)と一緒に薬師の縁日(※本郷4丁目の真光寺の薬師。)を散歩した。夜に入って失火があった。(場所は)どこなのだろう。
わが家は細い道を一つ隔てて、上通り(※かみどおり/中心地に近い街路)の商人たちの(家の)お勝手(※台所)側と向かい合っている。そのため、口の悪い者たちがいつも言いかわすたわいもないことなどがとてもよく聞こえるのだが、今日、あることの折、(向かいの商人たちが)得意先の話をしているようで、(その)言っていることに国子(※邦子)がふと耳をそばだてると、(どうもそれは)あの先生あたりのことに似ていた。(※つまり、あの半井桃水のことらしいのである。)「主人めいた人が二人、三人いたので、どれがそれやら分からない(のだ)けれど、(その中に)色が白く、背丈がいかにも高い人で、もの言いが少し上品なのがいて、大方この方がご主人であろう。(その)奥方か何かは分からないが、顔立ちなどそれほど美しくはない人が、ものを買おうとして、『とても(値段が)高い(じゃない)。』などと小言を言ったところ、(その主人らしき人が)『そんなに憎たらしく商人を𠮟りなさんな。』と言って、そのままの値段で買い取ってくれたのは、(まあ)ものの分かった人であった。(その)家は三崎町のはずれで、店構えが立派な茶葉屋だ、などと言っていたのは、あの先生に違いないでしょう。」と国子(※邦子)が話したので、忘れたものをまた再び思い出してとても(心が)耐え難かった。
くれ竹のよも君しらじふく風の
そよぐにつけてさわぐ心は
(※<くれ竹の>は「世(よ)」にかかる枕詞。あなたはよもや知らないでしょう、吹く風がそよぐにつけて騒ぐ(私の)心のことは、ほどの意。)
とある夕べ、鐘の音を聞いて(次のように詠った。)
まちぬべきものともしらぬ中空(なかぞら)に
など夕ぐれのかねの淋しき
(※あなたを待っていなければならないものとも分からぬ二人の仲はどっちつかずで、そんなうわの空な私に、どうして空に響く夕暮れの鐘がこうも寂しいのだろう、ほどの意。<中空>には、空中、うわの空、中途半端などの意があり、<中>は「仲」を掛けている。ここではすべてを盛り込んで訳出した。)
(明治26年)3月13日 晴れ。早朝、小石川(※萩の舎)から郵便があった。「小笠原家(※萩の舎門人小笠原艶子の家)で今日数詠み(※和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)の催しをしますので、是非ともお越しいただきたい。」ということである。差し支えることがとても多かったので断りの葉書を出した。(※一葉はここのところ萩の舎から足が遠のいている。人間関係に嫌気がさしていたのだろうか。)昼過ぎ、稲葉の奥方(※稲葉鉱)が来られた。哀れなお話が多かった。日没後、山下直一さん(※樋口家の元書生。直近では明治25年1月1日、2日に出ている。)が来た。(山下さんは)『早稲田文学』を四冊持参した。芦沢(芳太郎)が、為替の事を頼みに来た。(※一葉の母たきの弟芦沢卯助からの送金を樋口家で預かり、芳太郎に渡していた。)久保木(※久保木長十郎)が新物のたくあんを持ってきた。
(明治26年)3月14日 早朝灸治をした。久保木の姉上(※ふじ)が来られた。
(明治26年)3月15日 曇り。灸治をした。昨日から、家の中に金というものが一銭もない。母上がこれを苦しんで、姉上(※ふじ)のところから二十銭借りて来た。
昔の(桃水からの)手紙を繰り返し読んで、(詠った。)
くり返しよんで心はなぐさまで
涙おちそふ水くきのあと
(※<水くきのあと>は筆跡の意。<落ちそふ>は落ちて加わる、意。(あなたからの手紙を)繰り返し読んでも心は晴れずにいて、(むしろ)涙が(手紙に)落ちて添えられることだ、あなたの筆跡の上に、ほどの意。)
むさしあぶみとはぬもうしとなげきても(※武蔵鐙問はぬも憂しと嘆きても)
中々つらき命成けり
(※<むさしあぶみ>は馬具の「武蔵鐙」で、鞍の両端に吊って足を掛けるもの。『伊勢物語』に、次のような話がある。ある男が京都に恋人を残して武蔵野国に移り住み、そこからその女に手紙を送った。そこには、「言うのも恥ずかしいが、言わないのもつらい」とあって、上書きに「むさしあぶみ」とだけ書いてあった。あぶみは両足を掛けるもの、つまり二股、浮気をしたという知らせである。それを読んだ女は、返事に次のような歌を書いて送った。「武蔵鐙さすがにかけて頼むにはと(問)はぬもつらしと(問)ふもうるさし」。<さすが>は「刺鉄」で武蔵鐙に付属する金具のこと。歌意は、「武蔵鐙と浮気のことを書いてありましたが、それに付ける刺鉄(さすが)ではありませんが、さすがにまだあなたを頼みにしている私としては、手紙で安否を尋ねられないのもつらいし、また、尋ねられても煩わしく思います。」ほどになろう。一葉の歌はこれを踏まえたもので、「武蔵鐙問わぬもつらい」という歌ではないが、手紙で安否を尋ねてこないと嘆いても、(それだけ)なかなかつらいわが命であることだなあ、ほどの意。<いのち>には、運命、生涯、人生の意味もある。この「命」を「恋」に置き換えると分かりやすい。)
老いた親のことを思えば、(先立つ)親不孝の罪は免れないけれど、
中々にしなぬいのちのくるしきは
うき人こふる心成けり
(※<うき人>は「憂人」で、こちらの恋慕に対してつれない態度をとる人のこと。なかなか死ねない私の命の苦しさは、つれないあの人を恋する心(から)なのだなあ、ほどの意。一葉は死ぬほど桃水に恋しているのである。)
しかし、その人がつれないのではなく、すべて自分の心からなので、(※三界唯心の観点か。)
つらからぬ人をば置てかたいとの
くるしやこゝろわれとみだるゝ
(※<かたいとの>は「くる」にかかる枕詞。<つらからぬ人>はつれないのではない人、つまり心の暖かい人。<置く>は距離を置くことだろう。心暖かなあの人と距離を隔てて、苦しくて仕方ないが、それも私の心が自ら乱れているからなのだろう、ほどの意。)
夕日の方角を眺めると、あの先生の(住む)あたり(※三崎町。一葉の住む菊坂町からは南西の方角にあたる。)がそこ(日の沈むところ)かと偲ばれて、
うら山し夕ぐれひゞくかねの音の
いたらぬ方もあらじと思へば
(※うらやましく思う、夕暮れに響く鐘の音が届かないところもあるまいと思えば、ほどの意。私の思いは届かないが、鐘の音は桃水の住むところまで届くからうらやましいのである。一葉には片思いだという自覚があったのだろう。)
(明治26年)3月15日(※連続で15日になるが、ここの日付はあとから書き込まれたもの)昼過ぎ、広瀬七重郎(※一葉の父則義のいとこで、恐喝詐欺取財で捕らえられた広瀬ぶんの伯父。山梨在住。明治24年9月24日から30日に出ている。)が上京して来た。訴訟ごとである。この日、小梅村(※地名。墨田川の東岸にあった。)の吉田かとり子さん(※萩の舎門人。当時49歳、実業家の夫がいた。一葉日記の最初、明治24年4月11日の花見の宴に出ている。直近では明治25年3月12日の梅見で出ている。)から手紙が来た。(その手紙の内容は)哀れなことが多い。去年の梅見のこと(※明治25年3月12日)を思い出しての歌が(書いて)あった。
「くるとあくと思ひ出さぬ折ぞなき
共に梅見しこぞの其日(そのひ)を
おもふどち梅見くらして植半(うえはん)の
ゆく水くらきなつかしとぞおもふ
此ごろとおもひしものをいと早(はや)も
はや一(ひと)とせのめぐりきにけり」
(※1首目は、明けても暮れても思い出さない時はない、一緒に梅見をした去年のその日を、ほどの意。2首目は、<おもふどち>は気の合った者同士、<植半>は料亭の名。気の合った者同士で梅見をして過ごして、植半の料亭に流れゆく水が暗かったのも懐かしいと思う、ほどの意。途中で天気が悪くなったことも懐かしんでいる。3首目は、ついこの間だと思っていたのに、大変早くももう(あれから)一年が巡ってきたのですね、ほどの意。)
などとても多かった。「この手紙の返事を必ず出そう。」と思った。この人のことを考えると、女の身のはかないことがいっそう知らしめられて、男(※夫)を持ったあと(で)も(そう)気楽ではないことが分かった。(かとり子さんは)もう五十歳にも近い人で、三人、四人子供などもあるのに、男(※夫。吉田知行という実業家。炭鉱開発に関わっていたらしい。)の心がやはり芸者などの華やかな方に移ってしまったので、自分は巣あとに取り残された雛同様、(夫の帰らぬ家で)泣きに泣いて暮らしているということだ。「三界(さんがい)に家無し(※「女は三界に家無し」ということわざ。三界とは、仏教で欲界、色界、無色界のことで人間にとっての全世界のこと。女は若い時には親に、結婚しては夫に、老いれば子に従うもので、この世界に安住の場所を持たないということ。)」とずっと昔は言っていたが、現代でもこのような人の身の上は時々耳に入るのだなあ。
(明治26年)3月16日 早朝、広瀬七重郎が山梨に帰った。吉田さん(※吉田かとり子)のもとへ返事を出した。「つらい折も悲しい折も(心中を)お漏らしくだされば、それに応じて少しはお心をお慰めするつもりですから、時々は私にお便りをなさってください。」と言って、
いざゝらばとも音(ね)になかん友千鳥(ともちどり)
ふみだにかよへうらの真沙路(まさごじ)
(※<いざさらば>は、さあ、それでは、の意。<とも音>は一緒に泣くこと。<音になく>は、声を出して泣くこと。<友千鳥>は数多く群れをなした千鳥だが、ここでは友の千鳥ほどの意。<ふみ>は手紙。<かよふ>は行き来すること。<うら>は浦で、海辺の意。<真沙路>は海岸線、また、砂の道のこと。歌は、さあそれでは一緒に声をあげて泣きましょうね、わが友よ。(これからも)せめて手紙だけでも行き来しましょう、ほどの意。<友千鳥>、<うらの真沙路>は歌の意味そのものには無関係。たくさんの千鳥が砂浜(砂の道)に残す足跡が手紙の文字に見えることをイメージして添えられた縁語。)
手紙を書いているに従ってとても物悲しくなった。
広瀬(※広瀬七重郎)から話を聞いたところによると、「野尻さん(※野尻理作。山梨県玉宮村の野尻家の次男。東京帝国大学に在学中、一葉の父則義は野尻家から理作の学資を預かり、監督を頼まれていた。当時は山梨に戻って甲陽新報社という新聞社を設立していた。明治25年9月に一葉に小説を依頼し、『甲陽新報』には「経づくえ」が載った。直近では明治26年1月1日にその名が出ている。)が妻を迎えた。」ということである。(※野尻理作は当時甲府市の下宿にいたが、その管理人の娘西山かずと同棲した。)(それを聞いて)国子(※邦子)の心を察すると、私も悲しさに耐え難い。(※一葉のこの言葉で、邦子が野尻理作を愛していたことが分かる。)(邦子が)小さな紙に小さく(文字を)書いて(私に)見せるのを見たところ、
いにしへにためしも有(あり)とあきらめて
夢のうきよをうらみしもせじ
(※<夢のうきよ>は夢のようにはかないこの世。遠い昔にもこんな先例があるのだと諦めて、夢のようにはかないこの世を恨んだりはしませんよ、ほどの意。)(とあった。)
とても悲しい気持ちにまかせて、(私は次のように返歌をした。)
身にちかくためしも有(ある)をくれ竹の
うきよとはしもうらむなよ君
(※<くれ竹の>は「世」にかかる枕詞。<と>は格助詞。<は>はとりたてていう強調の係助詞。<しも>は強意の副助詞。また、別の解釈で、<はし>は<ばし>で、上の語を強め「~など」「~でも」の意、<も>が詠嘆の係助詞ととることも可能ではある。いずれにしろ、「憂き世」を強調するものであろう。あなたの身近に私のような先例(※桃水への叶わぬ恋)があるのですから、はかない世の中などとまあこの世を恨んではいけませんよ、ほどの意。)
また国子(※邦子)が書いた。
我が心しるべき君のなかりせば
うきよを捨つるすみ染(ぞめ)の袖
(※<すみ染の袖>は墨染の袖で、僧侶が着る服。私の心をきっと知っているはずのあなた(※一葉)がいなかったら、私ははかないこの世を捨てて出家していたことでしょう、ほどの意。)
私は笑って、(次のように詠った。)
心から衣(ころも)のうらの玉もあるを
すみ染とまで何おもふらん
(※<衣の裏の玉>とは、本来持っている仏性(仏になれる性質)のこと。人には心からの仏性があるというのに、僧衣(※出家の比喩)とまでなんて何を考えているのですか、ほどの意。)
夜が更けるまで国子(※邦子)は眠れずにいたので、(私は次のように詠った。)
いでや君などさは寝(ね)ぬぞぬば玉の
よは夢ぞかしよは夢ぞかし
(※<ぬば玉の>は「夢」にかかる枕詞。<ぞかし>は文末に用いて強調を表す。まあまああなたはどうしてそのように眠らないのですか、この世は夢なのですよ、この世は夢なのですよ、ほどの意。一葉が、失恋に傷つき眠れないでいる妹を思いやる心の何と美しいことか。<よは夢ぞかし>を繰り返し、子守歌のように妹を安心させ眠らせようとする姉の気持ちが胸を打つ。また、このフレーズは以前記した胡蝶の夢(こちょうのゆめ)を想起させるものでもあることも指摘しておこう。(明治25年5月29日のあとの余白に書き込み、の後半部分にある。))
※今回は『胡砂吹く風』初版本の画像をWEBで参照。(西日本新聞meより、県立長崎図書館で開かれた半井桃水展の展示写真)
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)