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現代語訳 樋口一葉日記 28(M26.3.17~M26.3.28)◎郡司成忠の北航端艇、『文学界』同人平田禿木初来訪。

よもぎふ日記(明治26年(1893))3月

(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意一葉はこれに限らず同じ題を何度も使っている。)

(明治26年)3月17日 田中さん(※田中みの子)のもとに手紙を出した。十九日の発会(※その年最初の歌会。田中みの子主催の梅の舎の発会であった。)に不参加の断りである。すぐに返事が来た。今月の七日より三田さん(※三田葆光/さんだかねみつ/茶人。歌人。明治25年2月21日にも出ている。)のところに講義を聞きに行ってらしたとのことである。「いろいろと話すことがたくさんあります。」というのは、師の君(※中島歌子)のことについてだろう。ああ、わずらわしい世の中だなあ。
(明治26年)3月18日より机を北窓のもとに移した。(※おそらく冬は凍り付く寒さだった故、そこを避けていたのだろう。)風がとてもはなはだしかった。
(明治26年)3月19日 晴れ。いつもの如し。
(明治26年)3月20日 北航端艇(※ほっこうボート/海軍大尉、郡司成忠(ぐんじしげただ。作家幸田露伴の兄で探検家としても著名。)が千島列島への拓殖(※たくしょく/未開の地を切り開いて移住すること)を目的に、報効義会(ほうこうぎかい)と名付けられたグループを結成し、約90名、5隻のボートでこの日墨田川吾妻橋下(※下流)から出発した。世間は福島安正(ふくしまやすまさ)中佐のシベリヤ横断単独騎馬旅行と同様に注目し、人気を博した。結果的には遭難で19名が死亡するなど、ボートでの探検はやはり無謀であっただろう。)が、墨田川を出発した。帝国大学、高等中学、高等商業、商船学校、三菱社、郵船会社、学習院、そのほかの諸学校数十校(の人々)が残らず見送った。下谷広徳寺近辺、浅草並木通りあたりから人の行き来が絶えず、吾妻橋上(※上流)などは往来が全くなくなったとのことだ。いろいろと聞いたことは多いけれど、そうむやみには、と思って書かないことにする。
(明治26年)3月21日 午後、『文学界』同人の平田という人(※平田禿木(ひらたとくぼく)。本名は平田喜一。明治6年生まれの当時20歳。『文学界』創刊号に「吉田兼好」を掲載し、星野天知のもとで同誌の編集、印刷も手伝っていた。のちにオックスフォード大学に留学、英文学者として大成した。)が訪ねて来た。国子(※邦子)が取り次ぎに出たのを呼んで、「お年寄りですか。」と聞くと、「いいえ、まだ年若い人です。」と言う。気が重かったけれど会った。高等中学の生徒(※当時禿木は第一高等中学2年生。第一高等中学は翌年第一高等学校と改称された。旧制一高である。)だということである。平田喜一といって日本橋伊勢町の絵の具商(※伊勢屋といって、絵の具、染料、荒物などを販売していた。父の死後母が店を経営していた。喜一(禿木)は長男であった。)の息子だとか。年は二十一(※数え年)だという。(一体)何の御用で来られたのか、ともさすがに言いかねたので、お話を少しすると、言葉数は多くもなく、物静かで思慮深い感じだけれど、それでも人柄には愛嬌があり、親しみやすい様子がした。私の小説「雪の日」(について)、「『文学界』の二号に載せる予定でしたが、寄稿が大変多かったので、三号の方に回しました。その心積もりでいらしてください。」などと言うのは、彼が(『文学界』の)編集などを受け持つ人なのだろうと思った。「花の頃(※桜時分)までに何か新しい著作がほしいものです。」と求めるので、(私は)「もし書くことが出来たなら。」と答えた。「花圃さん(※三宅(龍子)花圃)は(『文学界』)二号に何か(作品を)お出しになられたのですか。」と(私が)尋ねると、「お出しになりました。『筆のすさび』といって和歌のことについて陳述されたものでした。(※歌論であった。)あなたのもとにはまだ(二号を)差し上げてなかったのですか。」と言うので、「そうなんです。一号を拝見しただけなんです。」と言うと、「それならすぐにお送り申し上げましょう。花圃さんは近頃しきりに『女学雑誌』に筆を振るっていらっしゃいますよ。(その)多くは翻訳ものですが、ものを書く筆(※表現)が以前よりは大変御変わりになられたようです。」などと言った。少し口がほどけて来て、当世の文士のこと、文学の状況などを話した。(彼は)幸田露伴をとても敬愛していて、「対(たい)どくろ」(明治23年作「対髑髏」)「風流仏(ふうりゅうぶつ)」(明治22年作)などが心に深く感じる由を語って、ほとんど涙ぐまんばかりであった。幽玄微妙の境地を願う者のようであった。西行(※平安末期から鎌倉初期の歌人。「山家集」が有名。)、兼好(※吉田兼好、鎌倉時代の歌人、随筆家。「徒然草」が有名。)蕉翁(※松尾芭蕉、江戸時代の俳人。「奥の細道」が有名。)などが異人同心(※異体同心(体は別々でも心は同一であること。夫婦仲の良いことに使う。)をもじったものか。人物が違っていても、その精神は同一であることを言っているのだろう。)であることを言い、『徒然草』のそのような箇所、『山家集』のあれやこれやの歌を語り始めるにつれて、私も同感で(つい)言葉数が多くなって、(相手が)初めて会っただろう人とも思えなかった。「あなたも露伴はきっとお好きでいらっしゃるのでしょう。あなたの『うもれ木』(※明治25年11月から『都の花』に3回に渡って掲載された。執筆から脱稿までの経緯は同年8月から9月の日記に詳しい。)を去年拝見してから、大方(そうだろうと)想像していたのです。(※一葉の「うもれ木」には明らかに露伴の影響が見られる。)」と(彼が)言ったので、私も笑って、「(あなたがた)男性の方々が見られると、私のようなもの(※女)が書いたものなど、さだめし見られたものではないとお思いになったことでしょう。まったく(のところ)、露伴さんの本当の(作品の)趣き(※作風)はともかく(も)、(私の小説は)はた目には私の趣向(※作風)なのですから、その一部に目をとめて、ご自分の(露伴びいきの)心に(それを)引き比べて、大騒ぎして褒めるのやら何やら存じません(けれど)。(※原文は<誠に露伴子が本心はしらずみる目は我が心なれば其かたはしを見とめておのが心に引当てつゝめでまどふや何やしらず>とあり、非常に難解である。文章全体の感じから、自分の書いたものに幸田露伴のにおいがするのは、読み手側が自分の作風の一部を露伴のそれにあてはめて解釈するからだ、と一葉は言いたいのだろうと判断して訳出した。最も重要な<本心>と<我が心>は、一葉が萩の舎で学んだ「歌のこころ」の「心」であろうと想像し、「趣き」「趣向」と訳出した。これをさらに「作風」と捉え直すとよく理解できるだろう。語釈については、<子>は敬称、<はしらず>は「~はともかく」、<みる目>は人目、はた目、外見の意、<かたはし>はものの一部、<おのが>は「自分自身の」、<引き当つ>は引き比べる、あてはめるほどの意、<めでまどふ>は大騒ぎして褒める、ほめちぎる、などの意。<や何や>は「~やら何やら」。)(でも)当世の作家の中では、幸田さんこそ大変喜ばしい人です。その人(※幸田露伴)(と)は面識がおありなのですか。」と尋ねると、「いいえ、露伴には会ったことはありません。その弟の成友(しげとも/幸田成友。後の日本の歴史学者。)というのが私の高等中学の生徒で、こちらは知り合いの仲です。」と言った。「高等中学といえばどれそれの大学に入ることになる架け橋ですね。立派な方々がさぞ多いことでしょうが、親しくされている(お友達の)中にはどんな方がいらっしゃいますか。(さぞかし)面白いお話があるのはうらやましいことです。」と(私が)微笑んで尋ねると、「いいえ、友達と呼べる者は一人もいません。学業の才などは教えに応じて学び取っていくものなので、つまらなくはないほどの(※立派な、よく出来る、意)人物も多いのです。(けれども)大方は同じ鋳型(いがた)の中に作り出したものの形の如くで、自ずからの気概などは(彼らに)求めても見出すことが出来ません。私は早くに父を失って、憂き世(※つらい世の中)の涙を味わいはじめた身の上、笑ってばかりの心の浅い貴公子輩の友達に(など)なれないのは、それはまたそれでお察しください。」とため息をついたので、「それでは(あなたは)お父上がいらっしゃらない身の上なのですね。私も同じく父に先立たれ、兄に(も)先立たれて浮き世の巷(ちまた)に迷う身の上なのですよ。(あなたは)中学に入って今年で何年なのですか。」と聞くと、「三年です。ですが一年は数学に後れを取ったので、今は二年生といったところです。(※平田禿木は数学がいたって苦手であった。)講師も面白くなく、学友もありがたくはなく、おしなべて憂き世のはかなさが嫌になって、昼夜の友を「徒然草」に求めたので、ますます学校などが厭(いと)わしく、(そうと)分かっていながら人より(学業が)遅れるのです。この頃まではその学校の寄宿舎に寝起きしていましたが、また家の方に呼び返されて、風塵(※ふうじん/わずらわしい俗世間の雑事。ここでは実家の商売の手伝いのこと。)に立ち交わりながらもだえ苦しむことに(もう)耐え難い身の上です。あなたもお父上がいらっしゃらないと聞いていますので、(私と)同じように浮き世にほだされて(※束縛されて)、つながれて(※自由を制限されて)いるところは多いでしょう。」とだんだんその人も私も涙もろくなってしまった。『文学界』一号に、岩本さん(※巌本善治。当時は明治女学校の校長。明治18年に『女学雑誌』を創刊し、そこから今回の『文学界』が生まれた。『文学界』は4号までは女学雑誌社から出ているが5号からは文学界雑誌社から発行された。)であろう、禿木とかいう名前で、「兼好」という文章を書いていて、私も国子(※邦子)もわけもなく胸を打たれて、(※この時点で、一葉は目の前の平田喜一がその「吉田兼好」を書いた禿木であることを知らなかった。)その(論の)筋道にも文章にも、(二人そろって)大変感心し口々に褒め合ったのだが、今またこの人(※平田禿木)がこのように話しに来て、まだうら若い人にも似合わず悲哀の心をよく汲みよく知っているのが(私には)哀れで悲しくなり、「さてまあ、(あなたは)その憂き世を逃れるべきですよ。勿論、(それは)その物事の本来に立ち返るということであって、邪正一如(じゃしょういちにょ)、善悪不二(ぜんあくふに)とかいうことでありましょうか。(※邪正一如は、邪と正は一つの心が邪となったり正となったりするもので、もとは同一だという仏教の思想。善悪不二は、善も悪も二つのものではなく、心ひとつから生まれるものであって、そこに違いはないものだとする仏教の思想。明治26年1月8日に記した三界唯心の思想に通じる。)悟れば十万億の(極楽への)道のりも去此不遠(こしふおん)なのですよ。(※去此不遠とは、極楽浄土は西方(さいほう)十万億土の彼方にあるが、仏法の悟りを開けば遠いところではない(ここを去ること遠からず)、つまり心の中にある、ということ。無論、仏教の思想である。)墨染の衣(※僧衣)を着て、頭を剃って丸めることだけが脱俗(というの)であれば、悶える事もなく苦しむ必要もないでしょう。(※単に僧衣を着て剃髪することだけで脱俗できるのであれば世話はない、という意。)苦悩は悟りへの道の道標(みちしるべ)であって、煩悩即菩提(※煩悩が悟りへの機縁になるということ。)なのですよ。(あなたが)おっしゃった兼好法師だとて、凡夫の時は凡夫(※普通の人。また、無知な人。)でありました。今、(あなたが)高等中学をおやめになっても、それによって悟道(※ごどう/悟りを開いて道理を会得すること。)を了得されるわけではないでしょう。(ですから)なおいっそうよく戦いなさるがよいでしょう。」と少しこざかしく言うと、「そのように星野さん(※星野天知)もおっしゃって、私の退学の希望をお止めになられました。本当に、あの兼好も、四十二歳になる時点までは、潔く俗世間を離れかねたと思います。」と言って安らかになりながらも何となく悲し気な様子に、涙を胸の内にたたえて(の)心の悶えは(はたして)どんなであっただろうか。(そうして)話は当世の女性の学問のことに移って、「そのようにも二、三人、女文学者と呼ばれる人はいますが、大方は西洋の口真似であるのが残念です。我が『文学界』は女流文学者を日本の思想で以て成長させたいとするところなのですが、(実際は)雨夜の星(※あまよのほし/めったにないこと)と(きて)、とても稀なのですよ。はじめから文学(の道)にと名乗りを上げて志す人が、本当に文学に花を咲かせる(※活躍して名をあげる意。)のは少ないのです。(創作の際には)思案に余り、辛抱も絶えることなく(続き)、(やがてその苦しみの中から)文になり章になり、そうしてこそ(その文章が)世をも人をも動かすのです。明治女学校などでは文学思想を養い始めた(※星野天知、北村透谷、島崎藤村、戸川秋骨、三宅花圃、津田梅子、若松賤子、馬場孤蝶らが講師を務めた。)と見えますが、筆を執ってものを言う人などが出てくるのは、近いことではないでしょう(※まだまだ先のことになる、意)。」と言って、天知さん(※星野天知)のこと、透谷さん(※北村透谷)のこと、岩本さん(※巌本善治)のことまでもいろいろと語った。宇宙を宿とする(※浪漫派の比喩か。)古藤庵(※ことうあん/島崎藤村の当時の筆名。)のこと、残月(※戸川残花(詩人、評論家)の誤りか。あるいは戸川秋骨(※のちの英文学者、評論家。棲月という筆名も用いていた。)か。どちらも『文学界』に寄稿している。なお、両者に血縁はない。残花は当時38歳頃、秋骨は22歳頃である。)、雲峰(※うんぽう/磯貝雲峰。詩人。明治30年に33歳で病没。)のさまざまのこと、韻文(※詩、短歌、俳句)の成り行き、和歌の姿、当世の歌人たちの人柄についてもお話があった。先年、松の門みさ子(※松の門三艸子(まつのとみさこ)。夫と死別後、江戸後期の国学者、歌人の井上文雄に和歌を学んだが、家が没落し、深川で芸者となった。美貌と才気でならしたという。後年歌塾を開き、人気歌人となっていた。明治25年3月17日に一葉は田中みの子の歌会に出席し、その時の点取りの点者だった三艸子に、甲をもらっている。)の門に学んで、驚いた(※原文は<驚きたる>とあって、その内容は不明。<驚く>には他に、「気付く」「目覚める」の意味もある。)こと(など)、なかなか(話が)尽きなかった。「『都の花』にはその後(何か)御作を載せたのですか。」と尋ねられたので、『都の花』百壱号に面白くもないものを載せたことを話した。(※「暁月夜」。明治26年2月に掲載された。)(すると彼は)「どうにかしてわが家にもご訪問下さいませんか。星野さんのところにも是非お越し下さい。」と言った。男の間には立ち交わるまいとはかねてから決めていたことなのだが、そうはいっても、そうとも言いにくいものなので、「学が浅く、知識も少なくて人にお会いするのは、いたずらに私自身の愚かさを顕(あらわ)すばかりで、何の甲斐もないことでしょう。」と笑っていると、(彼は)「どうしてそんなことがあるでしょうか、是非ご訪問下さい。私はまた、これから時々(こちらに)お寄りしますので、(どうか)お許しください。」と言って、だんだん日が暮れようとしている頃帰った。菊池の奥方(※菊池政。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の妻。直近では明治26年1月23日に出ている。)などがこの間(※平田禿木が来訪している間)に来られて、とても騒々しい中でのお話しだったので、お互いに言い尽くせぬことも多かった。背丈の高い人で、あの中学の制服を身に着けていて、さほど身の回りが整って美しいわけでもないのは、本当に(彼が)言ったように、貴公子の友(という感じ)ではなく、(そんな彼には)浮世がどんなにか物寂しいことだろう。「ではまた。」と言って別れた。
(明治26年)3月22日 早朝に(平田さんから)手紙が来た。帰り道で『都の花』(百壱号)を買い求めて、燈下で(私の「暁月夜」を)読んだとのこと。香山家(かやまけ)の姫の心を哀れと思ったとか。(※「暁月夜」の女主人公で、恋を拒む美女のこと。)結末の文を大変褒めていらっしゃった。(また、文学の)道に志すこと大変深く、風塵(※わずらわしい俗世間の雑事。ここでは実家の商売の手伝いのこと。)に襲われながら苦しみ悶えることの次第を、繰り返し嘆き、「露伴のお妙様(※「対髑髏」の女主人公)ほどの人に会ったなら、なぶり殺されるかもしれないほどの臆病な自分だけれど、すねていて優しい二つ三つ年上の姉にあたる人が恋しく思っていたちょうどその時、去年の秋(『都の花』に載った)『うもれ木』にあなたの存在を知り、今また『文学界』の縁で(あなたに)お会いすることが出来たのは、自ずから(宿命に)導かれるところがあるのかと思いました。(※原文は<おのづから引く方(かた)ありやと覚ゆる>で、<引く方>は縁に引かれる方面、また、心にかけている人の意。ここではさらに、「人の力の及ばぬ宿命にひきずられること」つまり「宿命に導かれるところ」を意味する「宿世(すくせ)の引く方」を意図しているのだろうと判断して訳出した。)」などと親しい感じで書いていた。(また、)「いやはや、お互い親のない身の上です。同じ(境遇の)心を哀れとお思いになって、共にこの(文学の)道に身を尽くすことをお許しください。」などこまごまと(書いて)あった。名前を見ると、「禿木(とくぼく)」としたためてあった。(私は)「さてはあの「吉田兼好」を書いた人であったのだ。ああ、知らなかったことだ。」と言って、国子(※邦子)にも(その手紙を)見せた。年も大変若く幼い感じの人が、どのようにしてこうまでに悲恋の心を探り知ったのだろうか。(※禿木の「吉田兼好」では兼好の出家の動機を悲恋としている。)歌人は居ながらにして名所を知る(※ことわざ。歌人は、古歌や歌枕(和歌によく歌われる名所)の研究によって、実際には行った事がない名所のことについてもよく知っているということ。)というのに等しく、(恋に)踏み入れてみらずして(人の)情愛の奥深くを探し求められたのだろうか。そうは言うもののやはり、こういう人こそ危ういものである。(風流な)月や花にそそがれる涙の残余は、玉のように美しい露となって文章に香気を漂わせ、道しるべとなって悟りの道に導く、そのことはとても良いことだ。(だが)涙に迷って涙の人(※涙に暮れてばかり人、ほどの意)になってしまっては、大変情けないではないか。このことは人の事ばかりではなく、私自身の上にももしかするとやって来そうな(※起こり得る)ことではあろう。目に見えぬ敵は無常(※あらゆるものは生滅変化して常住でないこと。また、人の世のはかないこと。ここでは禿木の嘆きの対象からして、後者の意であろう。)ばかりではなく、総じて形のないもの(※心)こそ、事ははなはだしく危ういものだと思う。(※一葉は、世のはかなさを嘆く禿木を見て、その心の深さに逆に危うさを感じ取っている。目に見えぬ敵ははかない世の中だけではないのだ。同じように目に見えず形のない心、世をはかなみ、嘆く自身の心こそが敵ではないかと、一葉は言っているのである。原文は<目に見えぬかたきは無常のみならずすべて形なきこそものはいみじけれとおもふ>である。<かたき>は敵、<すべて>は総じて、の意。<もの>はここでは「事(こと)」と訳した。問題は<いみじ>で、<いみじ>は本来、はなはだしいという意味だが、この言葉は<いみじくうれし>や<いみじく悲し>などの連語を省略して<いみじ>とだけ述べる例が多く、読み手はその意味を文脈から想像しなければならない難物である。ここでは、一葉が話頭を転じた箇所、つまり急に禿木の危なっかしさを言い出したところの<さはいへどかゝる人こそ危ふき物なれ>(「そうは言うもののやはり、こういう人こそ危ういものである。」)の<危ふき>をとり、<いみじく危ふし>であろうと判断して訳出した。)(平田さんは)「『文学界』二号、手元にあったので」と言って(その手紙と)一緒に送られてきた。信義も深い人であることだ。
(明治26年)3月24日 小石川(※萩の舎)の師の君(※中島歌子)に手紙を出した。明日の会(※稽古日)に不参加の断りである。麹町の裁判所より広瀬七重郎の呼び出し状が来た。(※広瀬七重郎(しちじゅうろう)は一葉の父則義のいとこで、恐喝詐欺取財で捕らえられた広瀬ぶんの伯父。山梨在住。裁判所の呼び出し状は広瀬ぶんの事件の再審請求(※七重郎は9日前の3月15日に訴訟ごとのため上京している。)に伴う被告人とその親族の呼び出し。広瀬ぶんの事件については明治25年9月24日から30日までの日記に詳しく記した。)すぐに(呼び出し状を)郵便で山梨に送った。(呼び出しの)期日は四月二十日であった。
(明治26年)3月25日 晴天、(空を)拭ったようであった。私の誕生日(※一葉の生誕は旧暦明治5年3月25日。新暦では同年5月2日になるが、誕生日は旧暦の日付で祝っている。いずれにしろ一葉は今年でまだ21歳である。)だということで、赤飯などを炊いた。姉上(※ふじ)を招いた。芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。(特に)何事もなかった。
(明治26年)3月26日 晴れ。早朝、札幌の関場さん(※関場悦子。医師である夫の赴任先の札幌に在住。明治26年3月2日にも手紙が来ている。)から国子(※邦子)のもとへ手紙が来た。今朝『台門指月鈔(だいもんしげつしょう)』(※天台宗総本山、比叡山延暦寺の住職赤松光映(あかまつこうえい)の著作。明治18年刊。問答形式で経文の教理や語釈を説いたもの。)を読んだ。この夕方、本郷の通りを散歩した。今夜は十二時に寝床に入った。
(明治26年)3月27日 晴天。一日著作に従事した。(※「ひとつ松」かと思われる。)
(明治26年)3月28日 晴れ。西村のおつねさん(※西村釧之助の妹)が来た。こちらを送りがてら、小石川の伝通院大黒天(※伝通院山内福聚院(でんづういんさんないふくじゅいん)大黒天。甲子(きのえね)の日に参れば金運に恵まれるとされている。甲子は十干と十二支の組み合わせの第一番であり、物事の始まりによいとされている。)に参詣した。今日は甲子だからである。この夜、神田佐久間町から失火。風が激しいので、焼けてしまいそうな模様であった。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)


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