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現代語訳 樋口一葉日記 18 (M25.6.15~M25.7.31)◎桃水に紅葉紹介を断り絶交、田辺龍子に接近

(明治25年)6月15日 昼過ぎより半井さんのもとへ行った。梅雨が降り続く頃で、とても心が晴れない。先生の家には、いとこ(の河村千賀)さん、伯母さん(※千賀の夫河村重固の母)のお二方がいらして、先生は次の間の書斎めいたところに寝転んでいらっしゃった。雨が激しく降りこむからであろうか、雨戸を残りなく(すべて)閉めていてとても暗い。(半井さんは)いとこ(の千賀)さん、伯母さんに向かって、「御覧なさい。樋口さんんの御髪(おぐし)のよいこと。島田(※高島田。若い娘の髪型。)は実によくお似合いになりますよ。」と言うと、伯母さんも、「本当にそうだ、そうだ。後ろを向いてお見せなさい。本当に昔の御殿風(※御殿女中の髷形)に思われて、品の良い髷の形です。私は今どきの(髷の)根が下りている(※髷の根元を結んだ位置が後ろに下がっていること)のは嫌いです。」などとおっしゃった。半井さんはさっと立ち上がって、「さあ、美しくおなりになったお姿を見るには、あまりに(雨戸を)閉めこんでしまったことです。」と言って、雨戸を二、三枚引き開けた。「口の悪い男ですねえ。」と人々が笑った。私も微笑んだけれども、あの口から決していわれのないことを言いふらしたのだと思う憎らしさに、われ知らず、睨みつけもしただろう。私は、師の君(※中島歌子)から教えられた通りに、物事をとりつくろってお話をした。「師の君のもとに家の中を取り賄う人がおらず、私が行って(そこに)居ないでは諸事不都合であるということで、大変熱心に依頼されました。それを無下にどうして断ることが出来ましょうか。長年の恩といい、義理は鉄(くろがね)の刃も(歯が)立たないほどです。今しばらくは(師の君のところに)手伝いとして居ようと思います。そういうことですので、いつぞやおっしゃっていただいた(尾崎)紅葉さんのことも、何もかもすべて、先方を訪問することができないのであれば、(また仮に)わざわざお目通りしたところで、執筆の筆をとるのも難しいことではその甲斐がないでしょうし、(いずれとも)あなた様へ(の)不義理にもなることでしょう。(※ここの原文は<紅葉君のことも何も先え寄りの事ならずは折角御目通りしてからが筆も取りがたくは其かひあるまじくお前様へ不義理にも成り申べし>とあり、非常に分かりにくい。中でも、<先え寄りの事ならずは>が難解である。<先>は「まづ」とも読めるが、ここでは「さき」と読み、「先方」を意味するものと判断した。「まづ」でも通じるがその場合にはあとに否定の表現があることから、「どうにもこうにも」あるいは「いっこうに」と訳すことになろう。次に<寄りの事えならずは>がまた悩ましい。<寄りの事>はわざわざ<寄り>をはっきりと名詞化しているものと見て、そこから<ならず>は「成らず」であろうと推察できる。<え>は不可能の意をあらわすので、<え~ならず>は「実現できない」ほどの意であろう。<寄りの事>はもし対面が実現すれば一葉が紅葉を訪問すべき案件であることから、「寄り合う」意ではなく、「訪問する」意と解釈した。最後の係助詞<は>は、直前の打消の助動詞<ず>と合わせて<ずは>で、順接の仮定条件、「ないならば」、「なかったら」ほどの意となる。また、<折角御目通りしてからが>の<てからが>は「~たところで」の意。これらを総合して、上記のように訳したことを明記しておきたい。要は、一葉は師の君の手伝いをすることになったので忙しく、紅葉に会うことは出来なくなったと言っているのである。)このことを申し上げようと、今日は少しばかりの時間をいただいて参りましたのです。」と言った。(すると半井さんは)「それは困ったものです。尾崎(紅葉)の方も話は十分に整って、『いつでもお目にかかりましょう』と言っているとか。明日にでもお手紙で、あなたにそのお知らせをしようと思っていたのに、今になって(紅葉に)断りも言いにくいですよ。どうでしょうか、筆を執ることはともかくとして、一度対面だけしておかれませんか。」と言った。(私は)「そうではありますが、お目通りした上で、『筆をとりがたい』と言ったら、何の甲斐もありません。私もいろいろと心配することがあって話には尽くしがたいのですが、あちらこちらに(義理立てを)、とてもやかましくわが身をせきたて(てく)る頃合いなので。」と言った。(すると半井さんは)「それならまずはとにかく、師の君に(あなたの生活の窮状を)お打ち明けなさい。いつまで隠しなされようとも、隠しおおせられるものでもありません。そのうえでよい考えを思いつかれればよいのです。あちらこちらに義理立てばかりしなさろうとも、家計のことなどもあって、(あなたが)心をわずらわせなさるほどには人は察してはくれませんのに。」などとお話しされた。いつもであったなら、それを聞いてどんなにか嬉しいお言葉であっただろう。(だけど)今日は何となく上の空である。いろいろお話しているうちに、私の心を慰めようとしてだろうか、(半井さんは)高島炭鉱の話(※高島易断、実業家で有名な高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が経営する北海道炭鉱鉄道会社に当時悪い噂が流れていた。)などをして(私を)笑わせようとした。(しかし)どんなことも聞き入ることも出来ず、暇乞いをして、(そこを)立った。家に用事が少しあって菊坂(※本郷区菊坂町。一葉の家。)へ帰り、しばらくして小石川(※萩の舎)へ帰った。(師の君に)今日のあらましをお話しなどして、師の君から指図を受け、半井さんのもとへ手紙を出した。
(明治25年)6月16日 田辺さん(※田辺龍子)が(萩の舎に)来られて、会っていろいろと話した。半井さんのことを言った。こちらの縁を断って改めて『都の花』(※明治21年に創刊。月2回金港堂より発行された当時一流の文芸雑誌。金港堂は田辺龍子(すなわち三宅花圃)が書いた『藪の鶯』を出版するほかに、『都の花』にも龍子の書いたものを載せていた。金港堂の支配人と龍子の父親が幕臣時代以来の友人であった。)などにも筆を執ろうという相談である。(龍子さんは)長い間遊んで帰られた。
(明治25年)6月17日 田中さん(※田中みの子)が(萩の舎に)来られた。彼女にも半井さんの話をした。微笑みながらじっと聞いていて、半信半疑の様子がとてもよくあらわれていた。一日中お話しして帰られた。(私は)手紙をしたためて、伊東さん(※伊東夏子)へ送ってもらいたい由、田中さんにお願いした。(※この時の手紙が残っており、内容は分かっている。桃水と付き合いを断った旨が書かれている。)
(明治25年)6月18日 伊東さんが来られた。百年の友であって何も隠すべきこともなく、思うままに話し、思うままに無実を訴えて、本当にまあ彼女だけは(私を)受け止めてくださると(思うと)嬉しい。
 さらにこの(事の)顛末は大変多いけれど、慌ただしい折で書きとめもしなかった。(※6月1日から6月18日のこの日まで、一葉は泊り続けた萩の舎でこの日記を書いた。その一部は後に自宅で補足した。)

(明治25年)6月22日 家に帰った。ここでもいろいろと相談して、そうして半井先生のもとに返さなければならない書物を持って(半井さんのところへ)行った。ちょうど昼前であったので、先生はまだ蚊帳の中でぐっすり眠っておられた。揺り起こすのもさすがに出来ないで、しばらくためらっているうちに、昼近くになった。(先生は)ふと目を覚まして、「これはなんと夏子殿(※一葉の本名)ですか。見苦しい姿をご覧になったのでしょうか。どうして起こしてくださらなかったのですか。」と言いながら、慌ただしく起き出された。(やがて)火桶(※木製の丸い火鉢)の左右に座を占めながら、しめやかにお話をした。情にもろいのは私の性格だからだろうか、これを限りに今よりは参りがたいと思うにつけ、何ということもなく悲しくさえなった。伊東夏子さん、そしてわが母上、妹などが言うにも、「(急に)消息が途絶えたようにするのはとても悪いことです。その理由を詳しく語って、得心の上で付き合いをやめるのがいいですよ。」と言っていたし、私も、そうした方がよろしかろうと思ったから、(特に)今日は(他に)人のいる様子がなく、気が引けることを言うにはとても(ちょうど)よい折であった。私はしばらくは言い出せもせず、うつむきがちであったが、それでも言わずに終わってしまってはなるまいと思って、たいそう強いて話し出した。「いつもの(先生のお朝寝)を知らないわけではありませんのに、せっかくのお朝寝の夢を起こし申し上げる罪は深いのですけれども、(どうしても)申さなくてはならないことがあって、このように参って来たのです。」と言った。半井さんは、「どんなことですか、どんなことですか。」とお尋ねになった。(私は)「いやはや私の事だけではなく、あなた様のご名誉にも困ることでございます。実は、私がこのように常に(先生のもとに)頻繁に参上することがどのようにして世間にもれて知れ渡ってしまったのでしょうか。親しい友などは勿論のこと、師(※中島歌子)の耳にもいつしか入って、疑われるどころではなく、『あなた様と私、確かにわけありだ』と誰もかれもが信じているようなのです。弁明しようとすると、はなはだしくからみあって、この無実のうわさを解消し得る時もありません。わが身さえ清くあれば、世間の評判をはばかる必要もないと思っても、誰はさし置いても師の手前、こんなうわさによって疎(うと)まれなどされたら、一生の瑕瑾(※かきん/きずの意)になるでしょう、そんなことは憂うべきことですし、あれこれ思案しましたが、私があなたのもとに頻繁に参上する限りは、人の口をふさぐことは難しいでしょう。よって今しばらくの間はお目にもかかるまい、お声も聞くまいと思うのです。そのことを申そうと(思って来たの)です。そうではありますが、私は愚直な性格、必ず必ずお受けいたしました御恩を忘れるものではありません。このようなことを申し出る心苦しさをお察しください。」と言った。先生も上を向いて、「そうでありましたか、そうでありましたか。私はまた勘違いをしていました。あなた様が、『他の男に会うのは嫌です。』と常々おっしゃられていたから、『紅葉に対面するのは面倒だと思って、それゆえの行き来のお途絶えか、そうでないならここ最近、中島様(※中島歌子)のお仲立ちで、しかるべきご縁(※結婚を指す)が決まったのだろうか。』と河村のご老人(※河村重固の母)とも話していたのです。何はともあれ、それはご迷惑なことが出て来たものですねえ。私は男で何ともないけれど、あなた様はさぞかしお困りでしょう、お察し申し上げます。そうではありますが、私はいまさら驚きはしません、このようなことを言われることは以前から覚悟のことです。ともかく、私を(周りの)人と(みな)して言わせて御覧なさい。『樋口さんはこの頃半井という人のもとへ時々通いなさるということだ。その男もまだ老い果てた人でもないとか、かつまた一人住まいであるそうだとかを聞くと、年若き乙女の(そこへ通う)理由がないわけでもあるまい。』と、この疑いが立つのは無理からぬことで、何事もない私たち二人が(むしろ)無理なのですよ。」と言ってこともなげに笑った。(半井さんは続けて)「それにしてもどちらの口から世間にもれたのでしょう。私の友などにもあなた様のことを話す人もなかったのに、隠すと露見するのが常の事だからでしょうか、人は私が知らないことまで知っているものです。だけど、なおよく考えれば、結局は私の罪かもしれません。先日野々宮さん(※野々宮きく子)にお話しした時、言わねばよかったものを、私は思うことを隠し切れず、あなた様のことをしきりにほめたたえました。『何とまあ、(夏子さんは)お嫁に行かれることが出来ないご身分ですか。(※一葉は樋口家の戸主のため婿養子をもらうのが筋であった。)それならよいお婿さんをお世話したいですね。私が何とかして我が家を出ることが出来る身の上なら、(向こうは)お嫌(いや)かもしれませんが、無理にも(私を婿として)もらっていただきたいものですよ。』などと、実は私は言ったのです。それやこれや(の話)を寄せ集めて、(彼女が)世間にいろいろと言いふらしたのでしょう。(でも、)今(あなたが)言われたように、恩の義理のと、まちがってもおっしゃらないでください。私はあなた様がよかれと思ってこそ(この)身を尽くすものなのです。あなたご自身のご都合のよいことが私の本望でもあるのです。今よりはなるべくわが家においでになってはいけません。そうはいってもまるで途絶えてしまいなさるのも少し人目におかしいでしょうから、折々は訪れてください。とにかく(あなたが)お一人でいられるのが悪いのです。私がいつも申すように、身をお固めになられた方がよろしいでしょう。今の浮名(※うきな/恋愛に関するうわさ。艶聞。)はしばらくで消えてしまっても、私もあなたも生涯一人で一生を過ごしてしまったら、『口ではきれいごとを言っても、(本当は)どうだか知れたものではない。』などと、(うわさに)尾ひれを付けて言われるかも知れません。(もし)あなた様が嫁入りしてからのち、私が(結婚せずに)一人であろうとも、『ああ、不憫なことだ。女(の方)は誓いを破ったようなのに、男(の方)は操を守って生涯一人でいることだ。』などとは、決して言う人もいないでしょう。」と言って、「はは。」と笑った。(そうして)さまざまなお話をして、「さあ、帰ります。」と(私が)言うと、「何はともあれ今しばらくはよろしいでしょう。今日はお別れ(の日)ですよ。またいつの日に粗茶をすすり合うことがあるのかないのか期しがたいのですから、今しばらく今しばらく。」と(半井さんは)言われた。この人の(私に好意を抱く)心をかねてより知らぬわけではないのだから、このような事態を引き出してしまった憎らしさはこの上ないのだけれど、また一方で、世間にさまざまに(うわさを)言い広めた友(※野々宮きく子やその他の友人)の心(の方)もどうだろうか。(もともと)信義(※相手との約束を守り相手への務めを果たすこと)のない人達(と分かっていた)とはいえ、(何が)真実か嘘かは推し量りがたいのだから、(それこそ)その友(の方)も信じがたい(ではないか)。あれとこれ(※友が流した噂と桃水の弁明)とを比べてみても、その偽りに差はないのだけれど、それでもやはり目の前(の人)に心は引かれて、この人(※桃水)の言うあれやこれやが哀れで悲しく思われ、涙さえこぼれてしまった。われながら心の弱いことだ。こうしているうちに国子(※邦子。一葉の妹。)が迎えに来た。家(※一葉の家。)でも少しばかりは(私たちのことを)疑いなどするのであろうか。(邦子と)連れ立って帰った。
(※桃水の言うことが真実であれば、野々宮きく子あたりから噂が広まったものと思われる。これは推測だが、おそらく野々宮は当時桃水に好意を持っていたのではないだろうか。それに気付かぬ桃水が野々宮の前で一葉をべた褒めし、婿入りの軽口までたたいたのがいけなかった。野々宮の嫉妬心に火が付いたのかもしれない。先述したが、それまで桃水の味方だったはずの野々宮が、突然5月22日に桃水の悪口を言い、かと思うと7月31日には元のように桃水をかばう、その野々宮の態度、姿勢はまるで一貫していない。そしてその間の6月にこの事件は起こったのである。やはりこの噂の流布に野々宮が一枚噛んでいると考えるのが妥当であろう。おそらく野々宮は桃水の一葉に対する言葉に嫉妬し、何かと噂を広めたのだろう。それがどうしてか萩の舎にまで広まり、その醜聞が二人を引き裂くことになり、一葉の立場をも危うくしてしまった。後で野々宮もさすがに大人げないことをした、思いのほか大ごとになったと後ろめたく思ったのではないか。野々宮からすれば、一時的な妬み、嫉みであって、落ち着いて考えればも桃水は誰にでも親切であり、自分は馬鹿なことを言いふらしたものだと思ったに違いない。それから慌てて野々宮は元のように桃水を擁護する側に回ったと想像は出来る。注意すべきは、野々宮が一葉本人には嫉妬していないという点だ。あくまで桃水の言葉がその時癪に障ったのである。野々宮はむしろ一葉を尊敬しているのであって、彼女にとって一葉には何も問題はないのである。勿論、一葉が内心桃水に惹かれていようとは考えてもいないのだ。その点をふまえて野々宮の態度の変化を見ると、複雑に見えて意外に単純な彼女の心理が推察されよう。とはいえ、真実は藪の中である。野々宮が実際に言いふらしたかどうかまでは分からない。ただ状況から彼女が疑わしいというのみである。一方、一葉は、うわさを広めたのは野々宮だと6月に桃水から聞きながら、7月31日に野々宮が来て桃水をかばう言葉を述べた際にも、彼女に対する何の恨みごとも漏らしていない。それはおそらく、野々宮のそんな行動の裏にある、野々宮の桃水への思いを同じ女性として気付いたからであり、そこに同情もしただろう。一葉は同じ思いを秘めた女性として野々宮をなじるようなことは決してすることはない。また、そんなことをすれば、一葉の桃水への思いをも露呈してしまいかねない。そんな愚挙に出る一葉ではない。さらに、冷静に考えれば、もともとは自分が蒔いた種ではあることをよく知る一葉の「諦観」でもあるのだろう。彼女の文章には仏教の言葉がよく見られる。特に自身のモノローグ(※独白の意)には難解な言葉が散見され、哲学的な彼女の内実がほの見える。それがまたこの一葉日記の醍醐味でもあるのだが、そういった彼女の心の有り様にも注意すべきであろう。)

しのぶぐさ (明治25年(1892))6月

(明治25年)6月24日 半井さんの依頼に応じて、畑島さん(※畑島一郎。号は畑島桃蹊(はたじまとうけい)。桃水は畑島経由で尾崎紅葉に一葉の世話を依頼していた。明治25年6月7日の日記に詳しく記した。)に見せなければならないための、尾崎紅葉紹介断りの手紙を出した。(※一葉は6月23日から25日まで萩の舎に泊まっていたと思われる。それは26日の日記の内容で分かる。だからこの日の記録は萩の舎でつけている。)
(明治25年)6月26日の夕方に帰宅した。国子(※邦子)の話を聞くと、二十三日に半井さんがわが家の前まで来られたとのこと。ちょうど来客があったので、遠慮されたのだろうか、お立ち寄りもせずに行かれてしまったということだ。今宵は家に泊まった。
(明治25年)6月27日 今日は亡き兄の命日である。(※一葉の兄泉太郎は明治20年12月27日に肺結核で亡くなっている。)西村さん(※西村釧之助。直近では明治25年3月25日に出ている。)が来訪されたので、茶菓でもてなしてお話しを数時間。(それから)自分はすぐに小石川(※萩の舎)に行った。
(明治25年)7月1日 師の君(※中島歌子)が急に思い立って、鎌倉に赴かれようとした。同伴は田中さん(※田中みの子)である。小笠原(※小笠原艶子)、伊東(※伊東夏子、あるいはその母の延子)の二人をも誘われたが、どちらも差し障りがあるとのことだった。午前十時に家を出た。(萩の舎の)留守居は西村の鶴さん(※中島家の縁戚らしい。他の説では隣人とも。直近では明治25年6月14日に出ている。)と自分である。下女二人と池田屋の妻君(※中島歌子の後見人、加藤利右衛門の息子の嫁。池田屋については明治25年6月14日の日記に詳しく記した。)が、大方家の中を取り賄っていたので、鶴さんは(縫物を)寄せ集めて針仕事などをしておこうとした。自分は来客の応接のほかにはすることもないので、もっぱら著作に従事しようとした。(※6月16日の日記にあるように、一葉は田辺龍子の力を借りて『都の花』に小説を書こうとするのである。はじめは「経づくえ」(発表順ではこれが第5作)を試作、それから「うもれ木」(発表順ではこれが第6作)を書き始めた。結局「うもれ木」を先に執筆し、次に「経づくえ」を書くことになるのだが、発表した媒体が違うため順番が変わった。)今日は一日中、師の君の旅路の様子を話して過ごし、夜になった。戸締りを早くして、皆が皆一か所に集まって、おしゃべりをした。
(明治25年)7月2日 師の君のもとから無事(鎌倉に)着いた手紙が来た。宿は長谷の三橋(※鎌倉の長谷(はせ/地名)にあった旅館三橋本店。)である。
(明治25年)7月3日 田辺さん(※田辺龍子)より私宛に手紙が来た。いろいろ書いてあった。歌もあった。
(明治25年)7月4日 師の君よりまた手紙が来た。宿替えをされたとのこと。八幡前の三橋支店(※前記三橋本店の支店。雪下八幡前(地名)にあった。)である。(師の君は)「中三日ほどで帰るでしょう」とおっしゃっているが、明日であろうか、明後日であろうか、と指を折った。
(明治25年)7月5日 午後二時過ぎという頃(師の君は)帰宅された。(それから)すぐに大雷雨であった。その夕べ、暇を乞い、私は家に帰った。
(明治25年)7月6日 小石川へ帰宅した。(※戻った、ほどの意)その帰り道、河村(※桃水のいる河村重固の家)の女中に会った。半井さんの安否を問うと、河村の主人(※河村重固)が病没したとのことである。(半井)先生お一人ですべてのお世話に奔走し忙しそうだと聞いた。この日、伊東さん(※伊東夏子)に手紙を出した。
(明治25年)7月9日 鍋島邸にて行幸(※みゆき・ぎょうこう/天皇のお出まし)があった。(※この日貴族院議員鍋島直大(なべしまなおひろ)の邸宅で250名を超える来賓、鍋島家一族とともに、明治天皇が夜まで過ごした。鍋島夫人栄子が萩の舎門人であった。)師の君も(鍋島)邸に参られた。(師の君は)午後十時頃帰宅された。この日半井さんのもとに手紙を出した。
(明治25年)7月10日 同じく行啓(※ぎょうけい/皇后、皇太子などのお出かけ)が(鍋島邸で)あった。師の君が(鍋島)邸に参られようとした。自分は明日、自宅に用事があって、それの準備をしたいということで暇乞いをした。西村の礼さん(※未詳。7月1日に出た西村の鶴さんと縁戚関係がありそうか。)が来られた。この方に諸事お譲りして帰宅した。すぐに伊東さん(※伊東夏子)を訪問した。お金を借用したのである。
(明治25年)7月11日 亡き父上の祥月命日(※しょうつきめいにち/故人の亡くなった月日と同じ月日)の逮夜(※たいや/命日の前夜)である。菊池の奥様(菊池隆直の妻。菊池隆直は、一葉の父則義が仕えていた旗本菊池隆吉の長男。明治25年4月19日に出た菊池政が母。)、上野の伯父さん(※上野兵蔵。明治24年7月23日に詳しく記した。直近では明治25年1月3日に出ている。)、久保木の姉上(※一葉の姉、ふじ)を呼んで茶飯を供した。芝の兄上(※虎之助)は来られなかった。日没時、一同帰宅された。
(明治25年)7月12日 早朝、築地(※一葉の父則義が眠る築地本願寺)に赴いた。国子(※邦子)と私とである。(父上の)墓参りが終わって、師の君に頼まれた伊東しき子さん(※不詳)を訪ねた。昼前に帰宅した。(それから)すぐにお中元に半井さんを訪ねた。半井さんは、今日、どちらかへ引っ越しされようとしておられた。(※従妹の千賀の夫、河村重固が亡くなったので、その河村家を助けるために神田三崎町三丁目に移転し、葉茶屋を開いた。)お話しすることもなく帰った。昼過ぎから大雷雨。思い立つことがあって、田辺さん(※田辺龍子)を訪ねることにした。三時より家を出て向かった。途中の往来は全く絶えて、盆を覆(くつがえ)すように降る雨が大変すさまじい。田辺さんの家に着いてから、とりわけ激しくなった。お話を数時間。夕食のご馳走に預った。太一さん(※田辺太一。龍子の父。)にもお会いした。日が暮れてから帰宅した。
(明治25年)7月14日 師の君を訪ねた。すぐに帰宅した。
(明治25年)7月16日 小石川(※萩の舎)に行った。
(明治25年)7月21日22日と、図書館に通った。陶器の事を調べようと思ったからである。(※第6作「うもれ木」の執筆のため、陶器のことをよく知る必要があった。)
(明治25年)7月23日 (萩の舎の)稽古日であった。皆が帰宅された後、頭痛が激しく、暇を貰って灸治に行こうとした。その途中、大雷雨。しばらく表町(※小石川区表町)の西村さん(※西村釧之助。明治24年11月9日の日記に文房具店を出した記事がある。)のもとで雨をしのいだ。ここから一度、自宅に戻った方がよいだろうと決めてお灸は止めにした。(そこで)師の君のもとに葉書を出した。(そして)ここから帰宅した。何事もなく日没となった。
(明治25年)7月24日 雨。
(明治25年)7月25日 同じく雨。
(明治25年)7月25日 曇り。図書館に行こうと支度しているうち、吉川さんの奥さん(※不詳。奥さんも不詳。)が来られた。お話しして昼になった。奥さんが帰宅されて、時間も少ないので、図書館に行くのは止めにした。
(明治25年)7月27日 図書館に行った。(帰宅すると)中島師の君のもとより病気見舞いとして女中をおつかわしになられていた。明日は鳥尾さん(※鳥尾広子)のもとで数詠みの順会(※萩の舎の門人たちが当番制で自宅、あるいは萩の舎で数詠みの集会を実施していた。数詠みは和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)があるはずだけれど、頭痛でどうしようもないので、断りの手紙を出した。
(明治25年)7月28日 何事もなし。山梨県に水害(※台風による)があったと聞いて、(先に)甲府の伊庭郎さん(※伊庭隆次。樋口家の友人。郵便局員。直近では明治25年1月4日に出ている。)のもとから手紙も来ていたので、これへの返事、並びに、(山梨の)親戚四、五軒に手紙を出した。
(明治25年)7月29日 晴れ。今日は暑さが激しく、頭痛も耐え難かったので、昼過ぎから少し眠った。久保木の兄上(※一葉の姉ふじの夫。)が、「昨日、網漁に行ってきた。」と川魚を少しくれた。
(明治25年)7月30日 晴れ。早朝、安達(※安達盛貞。一葉の父則義からの知人で元菊池家に仕えていた官吏。安達の伯父さん。明治24年8月5日に、一葉に読書や作文は脳に悪いと述べた人物。直近では明治25年1月10日に出ている。)に書画骨董類を受け取りに行った。(※伯父さんが病気で生活が苦しくなり、これらを売ろうとしたもの。)盛貞さんとお話しを数時間。昼前に帰宅、虫干しをした。日没時より師の君を訪ねた。その帰り道に雨に降られた。西村さん(※西村釧之助)のところに立ち寄って、傘を借りた。常州(※常陸国(ひたちのくに)。茨城県。)北条(※北条町)の穴沢老人(※西村釧之助の弟、小三郎(こさぶろう)が養子に行った先の穴沢家の和助という人物。小三郎は明治24年12月21日に出ている。)が、刺客のために斬られた話、および常さん(※西村常子。西村釧之助、小三郎の妹)の病気がよろしくなく、樫村(かしむら)医院(※病院名)に入院した話などがあった。八時に帰宅。この日の新聞紙上に、「河野、大隈の二人に爆弾を送った者がいる」ことが記されていた。(※7月28日に政治家の河野敏鎌(こうのとがま)と大隈重信(おおくましげのぶ)の邸宅にそれぞれ爆弾を仕掛けた状箱が送られたが、未然に発見された。)
(明治25年)7月31日 雨。午前中から野々宮さん(※野々宮きく子)が来られた。終日歌詠みをした。半井さんのことを、いろいろお話しした。(※野々宮きく子はこの日から毎週日曜日に和歌の稽古に一葉のもとへ通い始める。なお、この時の話の内容は同年5月29日のあとの余白に書き込まれている。)

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)


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