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現代語訳 樋口一葉日記 2       (M24.4.22~M24.6.10)◎桃水の提案、鶴のご馳走、萩の舎年齢比べ

(明治24年)4月22日 前回のように、昼過ぎから半井先生を訪問(した)。さまざまなお話を(私に)お聞かせなさって、「先日の(あなたが預けた)小説の第一回は、新聞に載せるには少し文が長過ぎるし、その上、あまりに和文(※平安時代のかな書きの文章の意。源氏物語、伊勢物語などの王朝文学のこと。)めかしている箇所が多い(よう)です。もう少し俗世間の調子で。」とお教え下さった。「さらにさまざまな学者たちをご紹介さしあげようと思いましたが、いささか差し支えることがないわけでもないので止めにしました。ですが、わが友小宮山即真居士(※こみやまそくしんこじ/東京朝日新聞の主筆。即真居士は筆名。本名小宮山桂介)は良き師と言ってもいい人ですから、この人だけにはお引き合わせしましょう。」などとおっしゃて下さった。「昨夜書いただけの(分の)小説の添削をお願いします。」と言って、(それを)置いたまま、この日は早く帰宅した。人(というものは)、一度会って良い(印象を持った)人(で)も二度目にはそうで(も)ないことがある。先生は先日お目にかかった時より、今日はさらに親しさがましてきて、「まことにありがたい人であることだ。」と心惹かれ(る思いがし)た。
(明治24年)4月24日までに(小説の)草稿は余すところなく(すべて)したためた。明日は小石川の稽古日だ。(※中島歌子の歌塾、萩の舎のこと。けいこ日は毎週土曜日。場所が小石川区にあった。)その夜はなかなか慌ただしかった。草稿は、その夜、郵便で半井先生までお送りした。
(明治24年)4月25日 雨降る。早朝、小石川に行く。昼頃より空は名残なく晴れて日の光がはなやかに(※明るく美しいこと)差しこんできた。今日は何となく物が手につかないように感じるのは、何故なのだろうか。自分にも分からない。夕暮れに帰宅する。その夜桃水先生より便りがあった。「小説の事でも話があります(が)、かつまた(もう一つ)先日約束しました即真居士への紹介をするつもりですから、差しさわりがないようでしたら、明日午前中に神田の表神保町俵(おもてじんぼうちょうたわら)とかいう(※この辺りが日記である所以で、桃水の手紙をそのまま書き写しているわけではない。一葉自身の言葉である。)下宿まで参上ください。」ということだ。母上にも(行っていいかどうか)ご相談申しあげたところ、「行きなさい」とおっしゃった。今宵は、何となく胸がふさがって、眠れる心地もしなかった。
 明くる朝(※以降4月26日の話)早く起き出してみると、空はいつの間にか一面黒い雲で覆われていた。「今日は雨だ」と気落ちしていると、母上が、「もし降ってきたなら行かなくてもいいでしょう。」とおっしゃったけれど、「私の用なのに、空しくお待たせできましょうか。(雨が)激しく降るのならそれも止むを得ない(ことですが)、普通の雨ならば必ず参ります。」と言って支度するうちに、「雲の切れ間が見えはじめました」という(ことだ)。(※一葉の家は、一葉と母たきと妹邦子との3人暮らし。原文が<の給ふ>ではなく<いふ>なので、その意味が文字通り「言う」であればこの言葉は妹の言葉だと推測される。だが、妹はここでは登場していないし、<いふ>が単に形式的な意味であればむしろそのまま母親の可能性が高い。判然としないが、ここでは形式的な<いふ>として訳すことにした。なお、当時住んでいた場所は東京都の本郷菊坂町。)嬉しくて家を出た。田町(※地名)という辺りから、また黒い雲がおびただしく出て来て、急に雨が盆を覆すように降り始めた。「今更帰られようか、(どうせ)同じように濡れてしまう(の)なら目指す方へ」とこの辺りから車(※人力車)を雇って行く。小川町(※地名)の洽集館(こうしゅうかん)(※当時そこにあった勧工場(かんこうば)の名称。勧工場とはいわゆるデパートの前身。)の南の方へ新しく開かれた土地の下宿屋であった。自分はこの年まで、まだ下宿に人を訪問したことがないので、何となく気おくれして、入りかねたけれども、(ここで)終わりにすることはできないので、念ずるように、「半井先生はいらっしゃいますか」と外から内に向かって言った。(すると)下女が怪しげな面持ちで、「どなたですか」と問うた。自分の名を伝えると、「こちらへ」と連れ添って(中に)入れられた。小さくこぢんまりとした間(※ま/部屋の意)が、幾間か分からないけれど数が多かった。先生がおられたのは二階下の座敷(※半井桃水は初めに一葉と会った家のほかにも部屋を借りていた。ここでは二階と一階の二間を借りていた。)で、二間にお住みになられているかと見えたが、箪笥(たんす)などが並べてあるのは、「用意のいいことよ」と心の中で思い(つつ)、座につくと、先生は手紙をしたためていらっしゃった。(先生は)「しばしお許しください。」とおっしゃて(手紙を)書き終えなさった。今日(先生)は洋装であった。まもなく、いつものように大変穏やかに、「昨日はあまりに良い天気であったものですから、今日雨が降るとは心付かないで手紙を差し上げたのは大変悪いことをしました。実は小宮山君も脳の病(※頭痛のこと)を養生したいと言って、今朝急に鎌倉地方へ赴いてしまったので。」とおっしゃって、非常に気の毒がっておられた。小説の事についても丁寧にご説明くださって、「この次はこういうものを書いてご覧なさい。自分はかねてより書こうという心組みはあるのだけれど、(そういうものを)書く暇がなく何日も(日ばかりが)過ぎていくのです。」とおっしゃって、「こんな風にしてこのようにしたら面白いでしょう」などとお話をされた。(ついで)「それより先に今日はあなたにまずお伝えしておきたいことがあって」とおっしゃる。「それは何でございますか」とお尋ねすると、「いや、他の事でもありません。私は、まだ老い果てた男ではありませんし、あなたはまた妙齢の女性ですから、(あなたとの)交際の具合(というもの)が、はなはだ都合よろしくないのです。」と先生は本当に迷惑そうにおっしゃった。いかにもその通りだろうと前から思っていたので、顔が火のようになって自分の手の置き場もなく、ただもう恥ずかしさで(体中)覆われた(心地だった)。先生はさらに、「そこで私は一つの方法を考え出しました。それは他でもありません。私はあなたを旧来の親友同輩の青年とみなしていろいろな相談をするつもりですから、あなたもまた私を青年の男子と見るのではなくて、同じ女子の友達と(して)見てくださって(何)隔てなく思うことをおっしゃてくださればよいのです。」とおっしゃって微笑まれた。「我が家が貧乏であることはあなたもご存知であるけれども、もし(暮らしに)差し支えることでもあったら何でも(手紙で)言って寄こしてください。私にできる事なら心の限りいたしましょう。」(※底本では鍵括弧が「我が家」から付されていて、そこから桃水の言葉としているのでこのように訳したが、原文には鍵括弧も句読点もないため、桃水の言葉は「もし」から始まる場合も考えられる。その場合は、「我が家(一葉を指す)が貧乏であることも先生(桃水を指す)はご存知でいらっしゃるので、」と訳すことも出来、その後から桃水の言葉となる。使われている接続助詞が順接とも逆接ともどちらとも取れる<ものから>であること、<我>と<君>が一葉、桃水の二者どちらでも意味が通ってしまうこと、内容もどちらも貧しいことを言っているので、はっきりとした判別が出来ず、どちらともとれる。自然なのは後者か。)などとおっしゃって、先生の貧困の来歴(※半井桃水も弟妹を抱え暮らしは楽ではなかった)などを隠すところなくお伝えくださったこと(に)も、いろいろと思うことが多かった。昼食をまた先生のもてなしにあずかって、家に帰った。先生がおっしゃることを聞くと、我が家の貧しさはいまだ貧しいとすべきでもない、先生が経験された貧しさこそ(我が家より)まさっている、と思われた。(※一葉の家は女性だけで、経済的には大変苦しく、貧しかった。当時女性には裁縫か洗い物などの低賃金の内職しか働くすべがなく、一葉が小説を書こうとした動機も、全く金である。萩の舎の先輩田辺龍子が「藪の鶯」で原稿料をもらったのを知り、裁縫が苦手(近眼でよく見えなかった)だった一葉は、小説で生活費を得ようと志したのである。父が亡くなったあと、一葉は若くして樋口家の戸主となり家族を支えなければならない責任ある立場にあった。)
(明治24年)5月2日 小石川の稽古だ。空が珍しく晴れ渡って、ひとかたまりの雲もなかったので、(歌塾萩の舎に)来られた方々は多かった。師の君(中島歌子)がおっしゃるには、「どうして今日と言う(天気のよい)日をやり過ごせましょう、植物園(※同じ小石川区にあった帝国大学付属植物園)のつつじ、牡丹(ぼたん)の花を見に行くのはいかが。」と促しなさるので、(塾生の)人々は、「(それは)たいそう楽しいことでしょう」と言って、皆が皆「嬉しい」と思った(ことであった)。三時頃より(総勢)十三人で行く。師の君は、いつものまっすぐな道を行かれないで、不思議にも伝通院(※お寺の名前)の裏の藪(やぶ)のような所に(近道だと)お分け入りになられた。行けども行けども正しい道ではないので、行けそうにもない。里の子が草むらで遊んでいるのを呼んで尋ねると、たいそう上手に(道を)教えてくれた。見苦しい子であったが可愛かった。「(植物園は)五時を限りに人は入れないそうだ」というのを、(着いたのがその)十分ほど前だったので、慌ただしく切符を求めて中に入った。(植物園の)中の風景、人々の様子は、(ここで書くには)言葉が足りないだろうから、別の日に記そうと思う。六時ごろ皆帰る。
(明治24年)5月8日 桃水先生を訪問する。教えを乞うためである。この日は風は強かったが天気はよかった。いつもの時間に赴いた。(待っていると)先生はすぐに(うちに)お帰りになられて、小説の事について様々なお話があった。いつものように親切に教えていただいた。「今日こそ、小宮山君に紹介いたしますから、しばしお待ちください。今、社からの帰り道に(小宮山君が)ここにお寄りになるはずですから。」ということであった。少したって、日がやや落ちてきた頃、即真居士(※小宮山)がいらっしゃった。この方は年齢三十四ぐらい、桃水先生より二つ年上であられるとか。背丈は高くなく、太ってもおらず、人柄はたいそう穏やかだとお見受けした。お話をしているうちに、いつものように夕餉(ゆうげ)の座をお開きになられた。私は長くいて(お邪魔するの)も気がとがめたので、たびたび「お暇(いとま)させて頂きます。」と言って(とうとう)家を出た。(先生の)お心添えの車(※人力車)で帰った。夜八時(であった)。
(明治24年)5月12日 先生の元から手紙があった。麹町平河町(こうじまちひらかわちょう)というところに引越しされたことのお知らせである。かつまた、「お話したいことがありますので、お会いできますか」とあった。すぐにお返事をしたためて送った。「十五日に参ります」と申し上げた。
(明治24年)5月15日 昼過ぎから、約束通り半井先生を平河町に訪うた。今度の家は大変立派なところであった。行ってのち、しばらくして(先生が)お帰りになられた。「何の御用でしょうか」とお尋ね申しあげると、「いやあ、私の知り合いの大阪の書肆(※しょし/本を出版、また販売する書店。ここでは出版社のこと。)にて、このたび(ある)雑誌を発行することになったのです。(※実際、この年の4月に発行されていた。)『小説を書く人を世話してくれませんか』と申していたので『(ぜひ)あなたを』とお話ししておいたのです。それなのにあいにく、『露国大使殿下の急変(※いわゆる大津事件。5月11日、日本を訪問中のロシアの皇太子がその警備にあたっていた巡査に襲われて頭部を負傷した事件。滋賀県大津町で発生。)で急に用事が出来た』と言って、今朝汽車で帰阪し(てしまい)ました。(あなたに)前もってお知らせしようと思いましたが、もう間に合うまいと思ってそのままにしておきました。多くの罪お許しください。」とお詫びなさるのも心苦しい。この日は少しだけお話をして帰った。日没前であった。
(明治24年)5月27日 前に約束していた小説の原稿が出来たのを持って、桃水先生のところに赴く。今日は、私(の着いたの)がいつもの時刻より遅かったので、先生は既におられた。私の為によかれという色々なお話を聞かせて下さった。帰宅しようという時に、「今しばしお待ちを。あなたに差し上げようと思って、今料理をさせているものがありますから。」と、まじめにおっしゃるので、いつものように粗野にさからうことはしかねて、そのままとどまった。まもなく料理が出来た。「これは朝鮮の元山(ウォンサン)の鶴です。」ということだ。(※桃水は朝日新聞の通信員として朝鮮に住んでいたことがあり、特に親日派の開化党と親交があった。鶴の肉はそこから送られて来たものか。元山は当時の日本人居住地。)そんな遠方のものと聞くと、ことさらに喜ばしい(気持がした)。食べ終わると、先生は、「さあお帰りなさい。あまりに暗くなってしまいますよ。」などとおっしゃって、今日もお車(※人力車)を(用意して)下さった。帰ったのは七時。
(明治24年)5月30日 残りの原稿、郵便で送る。この日は小石川の稽古であった。
(明治24年)5月31日 みの子さんの発会(※先述の田中みの子。一葉の仲の良い友達で平民三人組の一人。みの子は未亡人で、萩の舎では一葉の先輩弟子。時折歌会を催した。発会はその年最初の歌会のこと)が、三番町(※地名)の万源(※料亭の名。まんげん)で催されたので、自分は早くより赴いた。会主(※みの子のこと)としばらく話しているうちに、師の君(※中島歌子)もまたいらっしゃった。来会した人は三十人ばかりおられた。五時ごろに人々は帰った。自分は七時頃だったろうか、家に帰った。
 次の日(6月1日)、朝早く、みの子さんに手紙を書いた。(書の)手習いなども少しして、それから小石川の師の君が、昨日大変お疲れであったようなのが気がかりだったので、ご様子を見ようと思って(師の君を)訪問した。さしたることもなかった。昼頃帰った。
(明治24年)6月2日 明日半井先生のところに参ろうと思って、手紙を送る。
(明治24年)6月3日 空は少し曇る。例刻より桃水先生を訪う。先生は、近所の友達のいるところへ行っておられるということで、下女が迎えに行ってお帰りになった。この次(に書くもの)の趣向を話して、先生のお考えをお聞きすると、思うところを余すところなくお話し聞かせていただいた。まもなく雨が少し降り始めた。暇乞いをすると、「今しばし」などと(先生は)おっしゃって、「不思議ですよ、あなたがいらっしゃる折には必ず雨になるのも。しかし、今日はきっと雨が降るはずの出来事がありました。(というのも)(私が)いつになく今朝三時という時間に朝寝の床を離れたのですよ」とおっしゃって、たいそうお笑いになられた。(それを受けて私が)「そうでございましたか。(それなら)今後私が参上するときには、必ず朝寝しておいでくさいませ。(そうしたらきっと晴れるでしょう)」と冗談を言うと、先生が大変真顔になって、「承りました」とおっしゃたのは、とても恥ずかしかった。(※このあたりに一葉の頭の回転の速さがうかがわれるが、一方桃水はまさか一葉から返しが来るとは思っていなかっただろう。明治の女はつつましさが美徳であり、受け身であることが正しかったはずである。桃水が真顔になったのもそれに驚いたからであり、一葉が恥ずかしく思ったのもそこに由来する。)門戸を出てすぐに車(※人力車)を雇って帰った。家に入るやいなや、雨が大変激しく降る。「はやくお暇してよかった」などと(家族と)語り交わした。
(明治24年)6月6日 小石川の稽古であった。人々のあとに残って、みの子さん(※田中みの子)と二人で書の手習いをした。帰り道にくら子さん(※中島倉子。師の君中島歌子の妹)が、私の家へお越しになられるというので、断りかねてお連れした。夜八時頃お帰りになった。(くら子さんに)頼まれていた針仕事を(夜)遅くまでする。
(明治24年)6月7日 昨夜の残りの仕事を早くから始めて、十時頃出来る。それより机に向かう。
(明治24年)6月8日 今日はお灸治療(※一葉は肩こりに悩まされていた)に行きたいとの心組みであったが、空模様が少し怪しかったので、やめにした。昼過ぎから晴れ。夜十二時に床に入る。
(明治24年)6月9日 快晴。今日は小石川の月次会(※毎月9日が萩の舎の例会であった。つきなみかい。)なので、早朝から支度などをしたいと思って、四時頃起きた。十時頃に(小石川に)行った。来会者は二十人ばかり。散会は五時頃であった。自分は少し残って名古屋の礼子さん(※中村礼子。萩の舎の門人。)に送らなければならない各評(※詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。)の名先(※なさき/相手の名前、宛名の意。)などをしたためて、帰宅したのは既に日が暮れたあとになった。今日の(歌会の)床飾りは、水府(すいふ)立原(たちはら)某(それがし)(※立原杏所(たちはらきょうしょ)。文人画を描いた水戸藩の人。)の描いた竹に鶴の掛物と、古薩摩(こさつま)の花瓶に夏菊とひめゆりが投げ入れてあるもので、優美で風流であった。小笠原家(※ここの長女艶子が萩の舎門人)より、マキノーリヤ(※マグノリア。モクレン科の花。イギリス原産。)とかいう、名はわずらわしいが麗しい花が送られてきた。元々(原産が)我が国のものではないので、その趣は普通と違っているけれども、なかなか見所が多い。葉はゆずり葉に似て、それよりは裏の色が薄く、花は芙蓉(ふよう)の花に似ているけれども、中の蕊(しべ)が違っている。(花が)名残なく(十分に)開けば、差し渡し六寸(※約18cm)ぐらいにはなるとのこと。名が麗しくないため、歌に詠まれないのは残念なことだ。この花ばかりではなく、このような事例は大変多い。
(明治24年)6月10日 朝より空は曇る。みの子さん(※田中みの子)とともに、今日は図書館(※東京図書館)に書物を見に行こうと約束していたので、ついでにお灸治療にも行きたいと思って、昼から家を出て下谷(※地名。したや)に行く。二時ごろから、みの子さんと共に図書館に行く。六時に帰宅する。

 先日(6月9日)師の君のもとに集まり(例会)があった時、「座中の男女の年齢比べ(としくらべ)をしましょう」と言う人がいた。「それは面白い」と師もおっしゃった。男は六人で女は十四人いる。「負けるはずがない」と思っていたところ、文雅堂(※筆墨店。ぶんがどう)の主(あるじ)伊豆田(いずた※当時商人は呼び捨て。一葉は士族で、萩の舎の大半はその上の華族や名士の娘。)が、一渡り見渡して数をとる。鈴木重嶺(すずきしげね※元旗本、明治期では官僚、歌人。以下ここで登場する人物はほぼ歌人、華族、名士、あるいはその娘。)先生は、「七十八」とおっしゃる。「これだけでも女子の方の四人分はありますよ」と一同笑う。植村のりをさん七十、加藤安彦先生七十二、はやくも二百の数を超えた。江刺恒久(えざしつねひさ)さん七十、木村正養(きむらただかい)さん少し下がって四十九、水野忠敬(みずのただのり※元沼津藩の殿様)様四十、合わせて「三百七十九」とおっしゃる。女の方は師の君四十八(※当時は数え年が通例)、伊東延子(いとうのぶこ※先述の伊東夏子の母。親子で萩の舎の門人だった。伊東夏子は一葉の一番の親友。)さん五十九、みの子(※田中みの子)さん三十五、とよ子(※前述小笠原艶子の侍女。)さんは同年齢、かとり子(※先述の吉田かとり子)さん四十七、小川信子さん四十五、これらは少しは数のうちに入るけれども、残る(人々)はいずれもいずれも残念なまでに若い。高田不二子さん二十三、前島きく子(※郵便の創業者前島密(ひそか)の娘。)さん二十(はたち)、田辺静子さんも「同じく」、伊東の夏子(※伊東夏子)さんも「同じく」と言うと、師の君、「雷同(※らいどう/自分の意見を持たずむやみに人の意見に同意すること)していらっしゃるのではありませんか。」とおっしゃる。小笠原のつや子(※前述の艶子)さん十六、広子(※鳥尾広子)さん十九、中む田恒子(※中牟田常子)さんが十三などというのは(数がかせげなくて)ことさらに残念だ。自分は「二十」と言うと、師の君、「あまりの掛値(※値段を実際より高くつけること。誇張。)です。負けじ魂ですか。」とお笑いなさった。本当の事なのに、いつまでも(私が)若いように思っていらっしゃるのも面白い。(※一葉はこの時満で19歳。数えで20歳。師の中島歌子が勘違いしているのである。)数えると四百十九である。「ああ嬉しい、四十ばかり勝っていますよ」と皆が皆大声で騒いでいると、小出粲(こいでつばら※萩の舎の客員歌人。)さんがお越しになった。「そら、味方の一人が増えたよ」と言って、男の方は又はなやかに見える。「あなた様はいくつ、いくつ」と責めるように問うと、おもむろに、「戸籍改めですか。拙者は当年六十歳です。」とおっしゃった。本当のことではあろうけれども、(その年齢は)偽りではないかと(思う)ばかりに憎らしい。決を採ると、こちら(女子)が二十の負けになってしまって、限りなく悔しく残念だった。

 ※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)



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