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現代語訳 樋口一葉日記 9 (M24.11.22~M25.1.7)◎桃水と二人きり、日記散佚、正月の出入り、父則義についての詳説
よもぎふ日記 二 明治24年霜月(11月)
(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意。また、前回の日記(蓬生日記一)は明治24年11月10日までだったが、それから11月21日まで日記は書かれていない。)
(明治24年)11月22日 手紙を半井さん(※半井桃水)に寄せた。明日の在宅の有無を問い合わせたのである。この夜は書き記すものが大変多くて、三時過ぎる頃まで執筆した。
(明治24年)11月23日 半井さんより書状が来た。「幸い閑(ひま)につきご来訪ください」ということだ。「昼過ぎから行ったらよいだろう」という気持ちでその準備をしていたのだが、昼から空が急に暗くなって、大雨がまるで盆を覆すように降ってきた。母上も、「気分が悪い」と言って横になっておられる上に、「道も大変難儀であるようだ。あちらでもこのような時に人が来訪するのはとても迷惑なことであるので、今日は(行くのを)やめにしたら。」などとおっしゃる。(それで、)いつものような怠け心にとどめられて、(結局)行かなかった。雨は、日が暮れてからも降りに降った。今宵も三時に床へ入った。
(明治24年)11月24日 起き出てみると空は高く(高く)住み渡って、朝日の光が華やかに差し昇って(きて)、濡れた梢や軒端などに一面に照り映える光景は、たいそう心が弾む。昨日約束をたがえてしまったので、せめて今日は時間に遅れさせまいというので、母上がしきりに、「朝餉が終わったら(すぐに)訪問するとよい」とおっしゃる。九時三十分に家を出た。あちらへ行ったのは十一時であっただろう。本宅の方へ訪問したが、(出て来た下女が)「いつもの隠れ家に(おられます)」と言う。(続けて)「まだお目覚めではないでしょう。起こして参りましょう。」と言うので、「いや、さては少し早すぎたのですね。今しばらくここに居させてください。いつもお目覚めになる頃で(結構です)。」と言ったけれど、「いいえいいえ」と言って下女は(起こしに)出て行ってしまった。しばらくして戻ってきて、「早く、もうお寝覚めでした。あちら(の家)へ(どうぞ)」と言う。(自分は)「なるべくならばこちら(の本宅)にて」と言いたかったけれど、(それも)言いかねて(下女の言葉に)従った。半井さんは古びた木綿の綿入れの上にどてらと言うものを羽織って、白か鼠色かのしごき帯(※ひと幅の布を適当な長さに切り、折らずにそのまましごいて用いる帯。女性の腰帯。)をしていらっしゃる、(その至って)打ち解けた姿に差し向かうのは、自然と汗がしたたり落ちる心地がした。下女も帰っていった。いつものように(他に)人のいない小部屋の中で、長火桶(※長い木製の火鉢)一つを間に置いてお話しすることといったら(、もう)。私の学友、あるいは親戚の人々などにお聞かせしたら、どのように非難されるだろうか。(誰もいない部屋で男女二人きりなんて)けしからぬ我が身であることだ。まして、互いに語り合うなんてとても恥ずかしい。(でもこれは)新作にしようと思う小説の趣向、筋立てなどを話して、教えを乞おうと思っての(ことの)なりゆきなのだ。半井さんがまずおっしゃった。「どんな趣向に決められましたか。承りたいですね。」と言う。心に決めて来てはいたのだけれども、何となく気おくれがして、恥ずかしくてもじもじする心地がしてきたのは(どうも)みっともなかった。(それでも私は)「(ここにこうやって参るのは)大変無作法なことですから、『軽率には(参上できない)』とも一度は思いましたが、手紙では言葉にその意を尽くしかねて、(結局)自ら参りました。」と語り始めた。「(小説の)骨子は片恋ということでございます。」と、その筋立てなどを語った。(それを聞いて半井さんは)「それは、大変よいでしょうね。そのくだりはこのようにすればよいでしょう。ここはこのようにすれば」などとおっしゃった。(そうするうちに)不思議にも話の口がほぐれて、「いやはや、この恋ばかり不思議なものはありません。貴(とうと)い人も賤(いや)しい人も、賢い人も愚かな人も、(恋に)その区別はないものです。だけれども、今の世の中にはその恋を手段として人をたぶらかし、世間をごまかしだます者が大変多い。城を傾ける(※傾城(けいせい)ということわざ。絶世の美女のことだが、その意は、君主がその美しさに迷って、城を傾けて(滅ぼして)しまうことにある。)のは女のみではありません。」などとおっしゃった。奸譎(※かんけつ /心がひねくれていて、偽りが多いこと)な美少年が貞淑な良婦をたぶらかす話、利発な紳士が良家の生娘(きむすめ)の操(みさお)をもてあそぶ話などがあった。そうして言うことには、「このような類い(の男)は皆その人(女性)を愛しているのではありません、傷つけるのです。本当の愛というからには、その女性の一生の大計(※大きな計画の意)を考慮して、安全な夫を求め与えることをこそ思うべきでしょう。そうして、その人(男性)を選ぶのなら、『世間の人の愛はやはり私が(その人を)思う気持ち(ほど)には充分なものではなく、世間の人の敬慕はやはり私の(その人への)敬慕には及ばない。世の中広しといえども、人多しといえども、あの女性を敬愛すること(にかけて)は私を超える者はあるまい。それだから、彼女の安全の極み、(即ち、)幸福なる生涯を過ごすことにおいては、私をおいて他に誰がふさわしいというのか』などと思い及ぶことこそが本当の愛でしょう。」などとおっしゃった。こうして十二時にもなった。(下女が)昼ごはんを、本宅より持ってきた。辞退しかねて、ここで食べた。(半井さんは)「あなたは、どうして、そう打ち解けなさらないのですか。自分はこのように粗野な男ですけれども、恐縮されるには及びませんものを。」など言うので、(私は)「どうしてそのようなことがございましょうか。これは自分の性根でございます。年長く相親しくしている友は皆知っていることで、このように偏屈なところが(私の)本来の色なのでございます。」と言うと、半井さんも少し笑って、「そういうことですか。それならばなおのことです。自分も見かけこそこうですが、心はあなたが(自分のことをそう)おっしゃるような(偏屈な)ものでありますのに。ああ、(どうか自分のことを)友としていただいて、隔てなくなさってくださいませんか。」と言う。「それは今に始まることでしょうか。自分は(はじめからあなたのことを)ひたすらに師の君とも兄上とも思っておりますのに。」と言うと、半井さんはまた少しものを言わなくなった。少しして、「ああ、我が身こそ幸薄いものです。」以下散佚(※さんいつ/なくなること)
(※日記はこの部分からおよそ25日分が散佚している)
(明治24年)12月20日(あるいは21日)
(※一葉がこの日半井桃水を訪問し、話をしている場面の後半部分だと推定される)
しようと思って手紙を出したということだ。そのほかには、「大変言いにくい事です」など並々でないほど前置きしなさって、何事であろうか、家政婦になる約束をしていた(ある)細君を断っての(半井家の)家政改革の話などがあった。自分はただちに暇乞いをして帰った。(※妹の幸子を嫁に出した桃水は、弟の浩と鶴田たみ子の醜聞に振り回されたのを契機に、以後は家政を刷新し、一人できりもりすることを一葉に話したらしい。「大変言いにくい事」だとわざわざ前置きしていることからも、ここで一葉にさらに何か言っただろうと推測されるが、それが何かは分からない。桃水は臨時の家政婦を一葉に頼もうとしていたのかもしれないし、または一歩踏み込んで、一葉に求婚をほのめかしたのかもしれない。それを聞いた一葉は「ただちに」帰宅しているのだから、何か通常より踏み込んだものであったとは想像できる。そして、桃水と一葉の関係が、はじめの頃に比して格段に親密さを増していたことは疑えない。その経緯を記していたであろう日記の部分は、残念ながら散佚し存在しない。ただ、日記の散佚とは、日記がそのまままるごと紛失しているのではなく、その部分が破られているのである。破ったのは一葉本人しか考えられないことからも、そこにいろいろな憶測を生むのである。なお、一葉は桃水に何度も借金をしているが、日記にはほとんどそのことが書かれていないことも付け加えておく。)平河町(※地名)より車(※人力車)。一時に帰宅した。それから母上が神田(かんだ)の市(※年の市。今で言う年末の大売り出し)に行かれた。夜食の奇談があった。(※不詳)その夜、西村小三郎(※にしむらこさぶろう/前述の西村釧之助(せんのすけ)の弟。茨城県の穴沢家に養子に行くことになっていた。西村釧之助は直近では一葉の母が一葉を迎えに一人夜道を行くくだり、明治24年11月9日に出ている)が、暇乞いに常子(※つねこ/西村釧之助、小三郎の妹)とともに来た。十二時半に床に入った。
(明治24年)12月22日 曇り。暖かい。昼過ぎから晴れる。何事もなし。
(明治24年)12月23日 晴天。国会議事録をひととおり見る。海軍大臣の演説によって、議会が紛擾(※ふんじょう/もめること)する事件があった。(※前日12月22日の予算審議で、経常費の削減と軍艦製造費の削除を提示した明治25年度予算案に対して、海軍大臣樺山資紀(かばやますけのり)が反対演説を行い、議場が混乱した事件)要するに本年の議会は、政府の決心、民党(※みんとう/明治初期の衆議院で多数を占めた反政府的な党派)の決心、ともに昨年の比ではない。議会を解散するか、内閣総辞職に至るか、という(時勢の)傾きは折々見えるけれども、どうなるのだろうか。昼前に吉田さん(※妹邦子の友達。直近では10月10日に出ている。)の老母と実(みのる)さん(※吉田の家族。女性。邦子の友人の姉妹か。)が来た。「裁縫を依頼したい」と言う。断りかねて、国子(※邦子)が承諾した。その老母とともに母上が元町(※地名 もとは湯島天神町にいて、祭り見物の途中で邦子が立ち寄ったりしていたが、転居していた。)までその(裁縫の)仕事の品を取りに行かれた。国子(※邦子)も私も髪を洗った。昼頃母上が帰宅した。夕暮れ頃に中島おくらさん(※中島倉子。師の君中島歌子の妹)が来られた。しばらくして帰宅された。それから三丁目(※本郷三丁目)へ買い物に行った。(というのも)「三枝(※さえぐさ/直近では9月29日に出ている。三枝信三郎(真下専之丞の孫。銀行家)の家のことであろう)にて女児出産があった」よし、宮塚(※樋口家の親戚)から通知があったので、そのお祝いのものを求めてである。帰宅すると、すぐに岩佐さん(※蝉表内職の元締めの名。明治24年8月3日に出ている)が来た。十時頃まで話して帰った。十二時に床に就いた。
(明治24年)12月24日 暁頃、強い地震があった。家の外に出ようとした。しばらくして止んだ。晴天。午後から母上が、三枝(のところ)へ行かれた。日没前に帰宅された。他に何事もなし。
(明治24年)12月25日 晴天。寒さがとりわけ厳しい。午前に髪あげをして、母上が、安達(※安達盛貞。安達の伯父さん。直近では11月5日に出ている)(のところ)へ歳暮の挨拶へ赴きなさった。佐藤梅吉(※一葉の父則義の恩人真下専之丞の元で書生として働いていた人。則義在世時から親交があった。明治24年9月29日にも出ている)が歳暮の挨拶に来る。鮭の魚一尾をもらった。今日は、半井先生が、約束のお金をご持参になられるはず(※半井桃水から一葉にあてた明治24年12月19日付の手紙が残っており、それによると、この(12月19日の)数日前、一葉は桃水に生活の窮乏を明かし、援助を頼んだ。桃水はその場で承諾し、さらにこの書簡で25日にお金を持参することを知らせた。また、この書簡には一葉と話がしたいので来るように、との桃水の要請も記され、12月20日(あるいは21日か)の一葉の日記は、一葉がその要請を受けて桃水宅を伺ったものと知れる。なお、約束のお金は15円で、桃水は同郷にして当時同じ朝日新聞東京支局にいた小田久太郎(おだきゅうたろう/のちの三越専務)に一葉宅へ届けさせている。ちなみに、樋口家の窮乏はこのお金だけでは間に合わず、翌26日には小林好愛(※こばやしよしなる/一葉の父の元上司。11月6日~10日の日記に出ている)からも借金をしている。)の約束(の日)なので、何事につけてもいろいろと細かく気を配った。庭先の梅一輪 以下散佚
これ以降、年末までの日記がおよそ一週間分散佚している。
にっ記 一 明治25年(1892年)1月1日より
(新しい年を)待つ人、(ゆく年を)惜しむ人、喜ぶ人、憂える人、(など世の人々の思いも)さまざまであろう年が改まった。天岩戸(※あまのいわと/原文は<天のと>で、天岩戸のこと。日本神話の中で天照大神(あまてらすおおみかみ)の岩戸隠れに登場する岩戸。)が開いて差し込む光に、今年明治二十五年の姿がはっきりと見え始めて、気持ちまでもが改まるようなのも面白い。人より早く、と急いで起きて、若水(※わかみず/元日の早朝に汲んで用いる水)を(井戸で)くみあげるのも嬉しい。昨晩は雨がたいそう降って、風さえすさまじかったのだが、(今朝は)名残なく晴れ渡って、緑色(※青色も含めての色を指す)の大空に、いかのぼり(※凧のこと)が揚がる勇ましい唸り声も、(そこに)羽根つきののどかなる声もが入り交じって、辺り一面に聞こえているのは、何となくうれしい。気候は昨日より急に変わって、気味が悪いまでに暖かい。(気味が悪いというのは)地震のことが気にかかっているからではあるのだが、(私の心は)埋火(※うずみび/灰に埋めた炭火。ここでは火鉢のこと。)のそばから遠く離れて、梅花の風(※春を思わせる風、ほどの意)が軒端にゆるく吹いている(のを思ってしまう)。「かような新年はいまだ送ったことがない」と言って人々は喜んでいる。いつも雪のように見える霜が、今朝は霜が降りたという様子さえないので、
いか計(ばかり)のどかに立し年ならむ霜だにみえぬ朝ぼらけかな
(※<朝ぼらけ>は明け方の意。どんなにかのどかな新年であろうか、霜さえ見えない明け方であるなあ、ほどの意)
と思われた。雑煮(の)お祝い、屠蘇を飲むなど(は)例年の通りだ。お化粧などをしてそれから書初めをした。国子(※邦子)は「日山出(ひやまをいづる)」(※明治25年度の詠進歌(えいしんか)の題。詠進とは、詩歌を詠んで宮中や寺社に献上すること。主に新年宮中で行われる歌御会(うたごかい/歌会のこと)始めの時にいう。)をしたためた。自分のは、
くれ竹のおもふふしなく親も子ものびたゝんとしの始(はじめ)とも哉(がな)
(※<くれ竹の>は<ふし>にかかる枕詞。<おもふ>は心配すること。<とも哉>は<ともがな>で、そうあってほしい、という願望をあらわす。)
などのようなことを書いた。山下直一さん(※やましたなおかず/明治24年8月1日には大病をしていた。直近では11月3日に来訪している。)、久保木秀太郎(※くぼきひでたろう/一葉の姉ふじの子。一葉の甥。直近では10月12日に出ている)が年頭のあいさつに来た。母上は近隣に(新年の)祝詞(※しゅうし/祝いを述べる言葉)を述べに行かれた。午後、藤林房蔵(※ふじばやしふさぞう/一葉の義理の伯父上野兵蔵の妻つるの連れ子。明治24年9月29日に出ている)、西村釧之助、志川とく(※不詳。知人か)の三人が来られた。岩佐さんが門礼(※かどれい/門口で年賀を述べるだけで挨拶をすますこと)で帰宅された。それから姉上と田部井(※たべい/一葉の父則義在世時から樋口家に出入りしていた古物仲買商の名)が来た。しばらくして帰った。小宮山(※小宮山庄司。明治24年9月24日に出ている。山梨の広瀬七重郎(※ひろせしちじゅうろう/一葉の父則義のいとこ)が来て姪の広瀬ぶんの裁判沙汰について記したくだりに登場。小宮山庄司はぶんの内縁の夫。)から年始状ではあるが、おぶんの一件についての葉書が来た。喜多川さん(※北川秀子。邦子の友人。雑貨商の娘。明治24年8月9日に出ている)よりも年賀状が来た。日没後、国子(※邦子)は裁縫、自分は書見(※読書)をした。「お宝」と呼ぶ声が、今宵より聞こえるのも面白い。(※正月2日の夜に、宝船の絵にまじないの歌が書かれた紙を枕の下に入れて寝ると吉夢を見るという風習があった。その紙を売り歩く商売があった。)初夢というからには、今宵(一月一日)見るのが本当であろうが、(それでも)古くより明日(一月二日)のこととなっているのを、進みゆく世の中のしるしなのか、夢も(一日)繰り上げて見よ、とでもいうのだろうか、面白いことだ。寝床に入ったのは十二時頃だっただろう。時計を修理に出していて(何時か)分からなかったが寝た。
(明治25年)1月2日 曇り。早朝より年始に着る三つ揃え(※着物の三枚重ね)の仕立てにかかった。訪問客の少ない家のならいで、「あらたまの年」(※<あらたまの>は年にかかる枕詞。新年の意)であるにもかかわらず、とてもとても物静かな、求めているわけではないが、閑(な朝)であった。昼過ぎから小宮山(※前述の小宮山庄司)が来た。おぶんの話を四時頃までした。今日年頭の挨拶に来た人は、土田恒之助(※つちだこうのすけ/差配人(※借家の管理人)の名。明治24年6月19日、9月30日に出ている)、ならびに以前師の君(※中島歌子)のもとで働いていた玉という女(※今野たまといった。明治24年9月26日に、一葉が図書館に行くときに途中で出会った今野はると姉妹関係らしい。)、ほかに二、三人であった。今宵も裁縫に夜更かしした。
(明治25年)1月3日 曇り。昨晩は少し雨が降ったようだが、今日の空はそれほどでもない。昼前に綾部喜亮(※あやべきすけ/正しくは喜助。一葉の姉ふじの夫久保木長十郎の姉が綾部(旧姓久保木)はま。そのはまの夫。久保木長十郎からは義理の兄にあたる。旅館を経営していた。)午後、上野の伯父さん(※上野兵蔵)、ならびに三枝信三郎さんが来られた。三枝さんが、母上と伯父さん(※上野兵蔵)にお年始として金子(※きんす/お金)を贈った。さまざまな話があった。叔父さんが一足先に帰った。日没少し前に信三郎さんは帰宅された。この夜も昨晩と同じく、更けてから雨になった。
(明治25年)1月4日 曇り。年頭の挨拶に来られたのは、藤田さん(※一葉の父則義の代から出入りしている植木屋の名。藤田屋。明治24年9月28日、29日、10月2日に出ている。)、菊池さん(※一葉の父則義が仕えていた旗本菊池隆吉(きくちたかよし/明治22年に死去/明治24年7月23日、24日に出ている。)の遺族。ここでは長男の隆直と思われる。ここで一葉の父則義について少し詳しく述べておきたい。則義は、1857年、山梨から妻たきと駆け落ち同然で江戸に上り、同郷で祖父の友人であった真下専之丞(ましもせんのじょう)を頼った。はじめは医学書の印刷の手伝いをしていたが、やがて真下の下で蕃所調所(ばんしょしらべしょ/外国の書籍を研究する幕府の機関)で働き、ついで大阪城勤番(※きんばん/勤務の意)与力(※よりき/今で言う裁判官と警察をあわせた職)田辺太郎に仕え大阪に行き、1年後江戸へ帰ると勘定組頭(※かんじょうくみがしら/幕府の財政運営を司る勘定奉行の事務係)菊池隆吉の中小姓(※ちゅうごしょう/小姓は主の身辺に仕え、雑用を請け負う職。)を長く務めた。その後、念願の御家人の株を買ったが、皮肉にもそれから3か月で大政奉還、江戸幕府は瓦解した。続いて王政復古の大号令が出され、戊辰戦争、江戸城無血開城、江戸は東京となり、時代は明治となった。明治2年、則義は東京府の下級官吏として職を与えられたが、旧幕臣に出世の見込みはなく、副業としての金融業と不動産の転売に明け暮れ、財を成していった。一葉が生まれた明治5年には相当の資産があったわけである。しかし、長男泉太郎が肺結核を病み、則義はそのために高額な治療費をつぎ込むことになり、明治20年に泉太郎が23歳で死去したあたりから家運は急速に衰える。則義は明治14年から配属されていた警視庁を明治20年にやめ、翌年新たに荷車請負業組合を立ち上げようと奔走するも、多額の資金を持ち逃げされ、破綻。明治22年には自身が病に倒れ、そのまま58歳で死去した。あとには54歳の未亡人たきと、前年に戸主となっていたわずか17歳の一葉と15歳の妹邦子の女3人、そして多額の負債だけが残っていた。(次男の虎之助は素行が悪く分籍されていた上、陶工としてもまだ一人前とはいいがたく頼りにならなかった。則義の死後、女3人で一度虎之助のところに身を寄せたが、母たきと虎之助の折り合いが悪く、結局出ていくことになる。)なお、死の前に則義は渋谷三郎(※後述)を呼んで一葉と結婚し、樋口家を守ってくれるよう頼み、渋谷三郎はそれを承諾したという。)だけであった。野尻さん(※野尻理作/山梨県玉宮村の野尻家の次男。東京帝国大学に在学中、一葉の父則義は野尻家から理作の学資を預かり、監督を頼まれていた。明治24年10月1日に葡萄を贈られるくだりで出ている。)、渋谷さん(※渋谷三郎/真下千之丞の妾腹の子徳次郎の息子で、真下の孫にあたる。当時は新潟県で裁判所検事をしていた。立身出世を絵にかいたような人で、東京専門学校法学部を卒業後、数々の裁判所検事、判事を歴任し、秋田県知事、山梨県知事にまで登り詰めた。一葉の婚約者であったが明治22年に破談している。それでも樋口家との交流は続いていた。)から年賀状が届いた。野尻さんにはすでに(年賀状を)出しているからよろしい。(だが)渋谷さんは、昨年(新潟に)赴任以来、住所が分からず、そうかといって人に聞くのも少しきまりが悪いので、気に掛けてはいながら無沙汰にしていたのを、わざわざ先方から年賀の挨拶を言われてしまったこと(にあわてて)、「答礼しなくては」とすぐに返事を出した。午後、山梨県後屋敷村(ごやしきむら)から奇異な年賀状が着いた。(※一葉の母たきの弟芦沢卯助から。何が奇異かは不明)今日までにここかしこから来た年賀状は、熊ケ谷(※くまがや/埼玉の地名)より山下さん(※山下信忠。山下直一の父。明治24年8月1日、2日に出ている)、甲府(※山梨の地名)より伊庭さん(※樋口家の友人、伊庭隆次。郵便局員。明治24年8月9日に出ている)、岐阜よりまき子さん(※乙骨まき子。結婚して江崎牧子。直近では明治24年11月5日に出ている。)、音羽(※おとわ。東京の地名。)の前島さん(※前島菊子。直近では明治24年11月1日に出ている)などであった。こちらから差し出したのも十五通ばかりはあるようだ。「今からもなお四、五件はくるでしょう。」などと皆が言った。今日も一日中裁縫。さらに夜が更けるまで(裁縫を)した。
(明治25年)1月5日 曇りであったが、十時頃より晴れになった。佐藤梅吉(※直近では明治24年12月25日に出ている)が来た。一杯の酒で帰宅。午後より田部井(※古物仲買商。明治25年1月1日に出ている)が来た。この夜も同じように裁縫で夜更かしして、一番鶏の声を聞いて寝床に入った。
(明治25年)1月6日 曇り。時々雨さえが降る。風もとても寒い。寒の入り(※毎年1月5日頃。暦で二十四節気(にじゅうしせっき)の一つ、小寒のこと)と聞けば、もっともである。三つ揃え(※着物の三枚重ね)綿入れをした。この夜も同じように三時まで裁縫。
(明治25年)1月7日 曇りで、寒い。「明日は必ず雨降りに違いないでしょう」などと国子(※邦子)などが言うのは、(明日は)自分が年頭の挨拶に廻ろうと決めた日なので、いやがらせをしようと(思って)言うのだ。今日は目立つ来客もなかった。稲葉さん親子(※稲葉鉱。正朔親子)、奥田の老人(※奥田栄。未亡人。一葉らは、この人に一葉の父則義の借金の返済を続けていた。直近では明治24年11月6日に出ている。)の二組であった。日没までに裁縫はし終えた。国子(※邦子)といっしょに入湯した。半井さんにさしあげる新年の贈り物を買いに本郷三丁目(※地名 当時の樋口家は本郷菊坂(きくざか)町の借家にいる)まで行った。空は大変よく晴れて風が少し吹き始めた。山崎さん(※山崎正助。一葉の父則義が東京府丁に勤めていた時の同僚。)横山さん(※不詳)、雨宮さん(※雨宮源吉。一葉の母たきの弟の子。たきの実家は古屋といい、そこから山梨県玉宮村の雨宮家の養子となっていた。)から年賀状が来る。この夜綾部喜亮(※あやべきすけ/正しくは喜助。1月3日に出ている)が、久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。しっかりしない遊び人であった。)についての一件を話に来た。自分たちは、明日の(年始参りの)支度をあれこれして、夜更かしした。
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※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)