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現代語訳 樋口一葉日記 38(M26.8.6~M26.9.24)◎荒物屋(雑貨、駄菓子屋)開店、幼少期より萩の舎入門までの思い出、仕入れ買い出しの多忙の日々、頭痛頻発。

(明治26年)8月6日 晴れ。店を開いた。向かいの家ですぐに買いに来た(人がいる)のもなかなか面白いものである。母上は、「奥田(※奥田栄/樋口家はこの老女へ父の借金の返済を続けていた。直近では明治26年7月6日に出ている。利子を毎月6日に返していたようである。)にいつもの利子のお金を払い(に行って)、(そのついでに)田部井(※一葉の父則義在世時から樋口家に出入りしていた古物仲買商。直近では前日の明治26年8月5日に出ている。)のところで(ガラス)箱(※ガラスの蓋がついた商品ケース)を買ってきます。」と言って家を出た。師の君(※中島歌子)より手紙が来た。一両日中に伊香保(※群馬県の温泉地)へ湯治に赴きなされる由。その留守に、私が(代わりの)主宰となって数詠み(※和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)を催してほしい、との依頼である。(それには)断りの手紙を出した。手紙のことで思い出した。伊庭(※伊庭隆二。樋口家の友人。山梨の郵便局員。直近では明治26年7月31日に出ている。)のもとに一昨日葉書を出したのだった。
 夕方より着物を三つ四つ持って、本郷の伊勢屋(※本郷区菊坂町にある質店。主人は永瀬善四郎。直近では明治26年7月10日に出ている。)のもとに行った。(そこで)四円五十銭を借りた。菊池さん(※菊池家。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉は明治22年に死去。その奥方の菊池政、長男の菊池隆直が本郷元町で「むさしや」という紙類小間物商を営んでいた。直近では明治26年7月14日に出ている。)のところで紙類を少し仕入れた。二円近くになった。今宵初めて荷物(※仕入れた紙類)を背負った。なかなか重いものである。家に帰ったのは十時近くになっていた。持ち帰った紙類は、明日の朝店に出すことが出来るよう、今宵のうちに下準備をしておいた。十一時に床に入った。
(明治26年)8月7日 晴れ。早朝、花川戸(※はなかわど/地名)の問屋に糸、針を求めた。(また、)しゃぼん(※石鹸)の(一本当たりの)割合が、中村屋(※問屋)よりは安値に思えたので、一本(そこで)買い求めて来た。(※国産の石鹸は明治6年堤磯衛門(つつみいそえもん)が製造に成功し、1本10銭の棒状の洗濯石鹸を販売したのが最初である。明治23年には長瀬富郎(ながせとみろう)により高品質の花王石鹸が製造発売されたが、3個で35銭と庶民にはまだまだ高価であった。だからここでの<しやぼん>は、洗濯石鹸であろう。故に、数え方が、棒状なので「個」ではなく「本」なのである。花川戸の仕入れは1本あたり4銭、中村屋の仕入れは3本で15銭であったという。ちなみに当時の価格状況は、うどんが1銭、米1升(約1.5Kg)が9銭、ハガキは1銭であった。)駒形(※浅草区駒形町)のろうそく屋(※増田新蔵という人の店で、油、紙類なども売っていた。)でろうそくを買い、(店の)看板のことなどを頼んだ。帰宅後、することが多かった。西村(※西村釧之助)から手紙が来た。依頼しておいたお金が、近々出来る模様であることを言い寄越してきた。本日、(下谷)区役所より、入籍(※転籍の完了)の件について呼び出しがあった。(お店は)今日は昨日に比べて商い(※売り上げ)が少し多かった。
(明治26年)8月8日 晴れ。早朝、髪を結って八時頃から区役所に行った。母上の年齢が、芝区(の頃)から間違いが続いていて、いまさら改めることが面倒なので、(間違いのまま)「天保九年生まれ」とした。(※母たきは本当は天保5年(1834)5月生まれである。芝区というのは、父則義が死去したあと、母と邦子、そして一葉三人が、兄の虎之助と一時同居していた際の住所で、この時に戸籍の登録に間違いがあったわけである。なお、母たきは読み書きがほとんど出来なかったから、なおさら間違いに気付かなかったのだろう。)菓子小売り願いの奥印(※おくいん/官公署が作成した書類の記載に間違いがないことを証明する印)を求めて、東京府庁分署に行った。(それは)浅草南元町にあって、厩橋(※うまやばし/隅田川にかかる橋の一つ)のまだ先であった。印紙料三十銭、半年分の税金五十銭を納めて事は済んだ。その帰り道、中村屋(※問屋)で蚊遣り香(※蚊取り線香)があるかどうかを聞き、用足しも少しした。他所の店の模様を知りたいと思って、紙類を少しずつ求めた(※一葉ははじめ紙類をむさしやで求めている。中村屋でも仕入れて価格を比べて見たかったのだろう。)。今日の暑さはまたはなはだしく、田んぼ道などは全く(人の)往来は途絶えていた。家に帰ったのは正午、それからしばらく昼寝をした。夕方から母上が、(吉原)仲之町の伊勢久(※引手茶屋)に行かれた。(そしてそこから)仕事を持ち帰った。この夜は習字をした。
(明治26年)8月9日 晴れ。早朝、二人の商い(※売り上げ)があった。物慣れないうちのおかしさといったら、五厘の(ものを求めた)客に一銭のものを売り、一銭の(ものを求めた)客に八厘のものを出すなどして(※1銭は10厘。)、後で調べたらあきれた事ばかりをするものである。このまま(の状況)で押して進めれば、なかなか利益を得ることが出来るはずのものではないが、(邦子と)「そのうちにはまたそのうちの賢さが生まれるでしょう。(※そのうちにそれなりに覚えるでしょう、ほどの意)」などと語り合った。伊勢久のお千代さんが買い物に来られた。二十銭ぐらいの商いがあった。昼過ぎに、上野さん(※上野兵蔵。上野の伯父さん。直近では明治26年7月23日に出ている。)が来訪。夕飯を出した。日が暮れてから西村(※西村釧之助)が来た。お金十円を持ってきた。上野の房蔵さん(※上野兵蔵の妻つるの連れ子。直近では明治26年3月12日に出ている。)が、徴兵の抽選から逃れたとのことであった。(※日本の徴兵制は、明治6年の徴兵令に始まり、男子は20歳になると徴兵検査を受け、合格するとさらに抽選で選ばれ、3年の兵役についた。)
(明治26年)8月10日 晴天。早朝、母上とともに森下(※浅草区森下町)で菓子箱を買った。(その)帰り道に、母上が三間町を訪ねなさった。(そこで、)伊三郎(※広瀬伊三郎)の妻(※妾のお若)が、昨日の朝、逃亡したと聞いた。驚愕し、すぐに山梨(の伊三郎)に手紙を出した。(またそれとは別に、)北川さんのもとへは、「明朝お菓子の買い出しに行くつもり」という由、葉書で出した。(※北川秀子。邦子の友達で雑貨商の娘。一葉は8月4日に菓子、玩具の仕入れの周旋を頼んでいる。)

 (私は)七つという年から、草双紙(※くさぞうし/江戸時代中期から明治初期頃まで作られた、挿絵が大きい、振り仮名入りの読み物。)というものを好んで、(女の子が好きな)手毬、羽子板を投げ捨てて読んでいたのだが、その中で一番好きだったのは、英雄豪傑伝で、任侠義人(※にんきょうぎじん/弱きを助け強きをくじき、信義を重んじる正義の人)のふるまいなどが、わけもなく身に染みるように(痛快に)感じられて、総じて勇ましく華やかなものが晴れ晴れと心地よかった。こうして九つぐらいの時からは、わが身の一生が、ありきたりなものに終わってしまうだろうことが嘆かわしく、「ああ、人より一歩抜きんでた(一生を送りた)いものだ。」と明けても暮れても願っていた。そうはいっても、その頃の(私の)目には、世の中などというものが見えているはずはなく、(その願いは)まるで雲を踏んで(※踏み台にして)天に(手が)届くのを願うよう(なもの)であった。その頃の人は皆、私を見て、「大人びた子」だと褒め、「物覚えがよい子」だと言っていた。(それで)父は(よく私のことを)人に自慢していらっしゃった。(また、学校の)先生は、生徒の中でもひときわ飛びぬけて私を大事にしてくださった。(そんな私の)幼い心には、自分の身を顧みることなどなかなか出来るはずもなく、天下は恐れるに足らずとのみ、(また)わが願いの成就はたやすいとのみ信じていて、そんな私の心の中において、まだ何を以て世に出るとも思い決めていなかったのだけれど、ただ利欲にばかり走る世間の人が浅ましく、厭わしく、こんなもののためにこうも狂ってしまうのかと思うと、金銀(などというもの)は(私にとって)全く塵芥(ちりあくた)のように感じられていたものだ。十二という年に学校をやめたのだが(※一葉の学歴は、東京の青海(せいかい)学校小学高等科第四級卒業(と言うよりもそこまでで退学)である。明治16年12月、満11歳であった。一葉は優秀で卒業時は首席であったが、母たきがそれ以上女性が学問をするのを忌み、やめさせたのである。当時の学制は半年ごとに1級卒業で、あと3級分、1年半で修了であった。つまり一葉は今で言うなら小学校中退である。ただし、当時の学齢児童の就学率は低く、明治16年時は男子69.3%、女子35.5%、平均53.1%であったというので、一葉はまだしもであったとも言えよう。このことは明治24年9月15日の日記にも記してある。)、それは母上の意見で、「女子に長く学問をさせるのは、将来のためよくありません。針仕事でも学ばせて、家事の見習いでもさせましょう。」ということであった。(一方)父上は、「そうとも限るまい、なお今しばらく(学問をさせてみよう)。」と(母上と)お争いになられた。(そしてとうとう)「お前(※一葉を指す)が思うところはどうなのかね。」とお聞きになられたのだけれど、(私は)やはり生得の気弱な身で、父上にも母上にもどちらにもはっきりしたことを言うことが出来ず、死ぬほどに悲しかったけれど、学校はやめることになった。その時から十五まで、家事の手伝い、裁縫の稽古(などをして)、あれこれと年月を送った。そうではあったけれど、(私は)なお、毎夜毎夜、文机に向かうことを捨てなかった(※続けた、の意)。父上もまた、私の為にと、和歌集など(※『万葉集』『古今集』『新古今集』など)を買い与えて下さっていたのだが、とうとう万障(※さまざまな障害)を排して、(私に)さらに学問をさせようとなさった。その頃、遠田澄庵(※とおだちょうあん/幕末から明治にかけての漢方医師。脚気の治療の名手であった。余技の漢詩から一葉の父則義とも知己であった。)が、父上と心やすく出入りしていたことから、(父上が)このことを話して、「師は誰を選んだらよいものでしょうか。」とおっしゃったところ、(澄庵は)「何とかの歌子とか、(私の)娘の師で、長年相知った人がいます。この人がいいのでは。」と勧めたので、「それでは。」とその人を(私の)師に頼むことにした。苗字も分からず、居所も分からないので、荻野さん(※荻野重省。一葉の父則義の友人。元司法省の官吏。直近では明治26年7月11日に出ている。)に頼んで聞いてみると、「それは下田(歌子)のことでしょう。昨今の女の学者と言えば、あの人を置いて他にはないでしょう。(※しもだうたこ/日本女子教育の先駆者。実践女子学園の創始者。歌人でもある。明治24年7月22日の日記に、下田歌子が加納文部参事官に嫁入りしたという(※実際は誤報)話が記されている。)」と言って、そちらを周旋された。しかし、下田さんは、当時華族女学校(※女子学習院の前身。皇族、華族の教育のために設けられた。)の学監として忙しく、「内弟子として取ることは出来かねます。学校(※華族女学校)の方へ通わせられてはいかがですか。」との答えであったのだけれど、「私のような貧乏な身の上のものが、身分の高い人々の中に入るのはつらいものです。」と言って(入学を)果たさなかった。(※当時の樋口家は決して貧乏ではなく、むしろ裕福であったのだが、皇族、華族と比べるとかなり見劣りがしたであろうことは想像に難くない。また、当時、高い教育を受けられる者は結局上流階級の者だけであったことをも物語っていよう。)あれやこれやと日を送って、ある時、(父上が)再び遠田(澄庵)にその話をしたところ、「私が歌子と言ったのは下田(歌子)のことではありません。中島(歌子)といって、家は小石川です。和歌は景樹の面影を慕い(※香川景樹(かがわかげき)。号は桂園(けいえん)。江戸後期の歌人で、実物実景を重視した独自の歌論を提唱。『古今集』を重んじ、『万葉集』を推す加藤千蔭(かとうちかげ)ら保守派と論争、激しく非難されたが、「桂園派」として次第に勢力を拡大、晩年は門人千人を超えた。中島歌子は本来、加藤千蔭の流れをくむ保守的な「江戸派」の方に属しているのだが、香川景樹も同じく尊敬しており、感化を受けていたこともあって、一葉ら門人は歌子を「桂園派」と解釈、認識していた。また、加藤千蔭は千蔭流という書の大家でもあり、一葉が歌子から学んだのもこの千蔭流である。また、中島歌子が直接師事したのは加藤千浪(かとうちなみ)である。同じ保守派で名前が一字違いなので間違いやすいが加藤千蔭とは別人で時代も違う。)、書は千蔭(※加藤千蔭)の流れを汲みます。同じ歌子と言うようですが、下田(歌子)は小川の流れであって、中島(歌子)は泉の源でありましょう。(※本来、下田歌子は桂園派の直系でこちらの方が源泉である。中島歌子は元々江戸派であり、感化を受けた桂園派としては直系ではなく傍系であって、小川と例えるならこちらの方が正しいところであろう。筑摩書房版一葉全集の注釈ではここに一葉の師に対するひいきがあるとしているが、しかし、遠田澄庵が当時そう解釈していたのかもしれない。)(萩の舎に)入学のことは私が取り計らいますから、何をぐずぐずされているのですか。」と言って、しきりに勧めた。(そうして)はじめて(その学)堂(※萩の舎)にのぼったのは、明治十九年の八月二十日であった。(※一葉14歳の時である。)

塵の中日記 (明治26年(1893))8月

明治26年8月11日 晴天。夜明け前に家を出た。北川さん(※北川秀子)のところに着いたのはどうにか五時半頃であっただろう。藤兵衛老人(※北川藤兵衛。北川秀子の父で、雑貨商を営んでいた。)の周旋で、菓子並びに手遊びのもの(※玩具、おもちゃ)などの買い出し(※仕入れ)をした。まだ生まれてからこのようなところの有様を知らない身には、わけもなく恐ろしいまでに荒々しかった。昼少し前に、家に帰った。(その品物を)飾り付けるのも遅いと(言わん)ばかりに、(それを)買いに来た子供があった。万事物慣れせず、間違いばかり多いのも滑稽である。
明治26年8月12日 晴れ。母上は、小石川、本郷、(そして)あのあたり(※半井桃水が療養のため身を寄せていた西片町の河村家のあたり、を指していると思われる。そのあたりの事情は、明治26年4月15日、29日の日記に詳しい。桃水のことをはっきり言えずに言葉を濁しているのだろう。小石川、本郷は西村家、菊池家などの住居のことだろう。)にお礼参りに行かれた。今日の忙しさはまた無類であった。そして売上金はというと、二十八、九銭であっただろう。
明治26年8月13日 晴れ。買い出しに多町(※たちょう/神田区の地名。駄菓子や玩具の問屋が多かった。)へ行った。今日の売り上げは三十三銭。
明治26年8月14日 晴れ。再び多町へ行った。帰りは車(※人力車)。今日の売り上げは三十九銭。
明治26年8月15日 晴れ。今日も相応に売れた。
明治26年8月16日 雨。家の普請をした。商売を始めなかった頃は、それほどにも思わなかった店構えが、いろいろと具合がよくなかったので、これを直そうと思ってである。一日で事は終わった。今夜、野々宮さん(※野々宮きく子)、大久保さん(※野々宮きく子の友人。)が来訪。
明治26年8月17日 晴れ。多町に買い出しに行った。今日、オーストリア皇族が新橋に到着。市中、国旗を掲げた。(※オーストリア皇太子フランツ親王が親善のため来日した。)
明治26年8月18日 朝から荒れ模様で、風が凄まじい。帰宅後、さらに大音寺前(※龍泉寺町に大音寺という浄土宗の寺があり、その門前の界隈を俗に大音寺前と呼んでいた。)でせんべいを注文し、駒形(※地名)で蝋燭の注文をして、門跡前(※浅草の東本願寺別院前。ちなみに門跡とは皇族、公家などが出家して入る寺の格を表す称号。)で渋団扇(※表面に渋柿(渋柿からとった汁で防腐剤になる)を塗った丈夫なうちわ)を買ってきた。(また、)今日、(自分のために)下駄を求めた。後歯の白木(づくり)で(※後歯(あとば)とは、女性用の下駄で、前の部分を駒下駄(一つの材木から台と歯をくりぬいて作った下駄)に作り、後ろの部分は別の木片(歯)を入れたもの。また、白木づくりとは、木肌のまま塗装をしない作りのこと。)、更紗型の革鼻緒であったが、(明治25年3月22日に図書館で落ち合った田中みの子の下駄が更紗模様の革の鼻緒の下駄であった。一葉はそれを見て自分も欲しかったのであろうか。更紗(さらさ)とは、木綿地に人物、花、鳥獣などの連続模様を型染め、あるいは織りこみしたもの。革鼻緒は革の鼻緒。)であったが、代金は二十銭であった。夕刻から雨になった。風がさらに強くなって、ほとんど嵐のようであった。戸を開けておくことが出来ないので、(今日は)早く閉めて寝てしまった。
明治26年8月19日 晴れ。風が激しい。昼前から西村の母上(※西村釧之助の母。西村きく)が来られた。例の結婚のことについて話があった。(※釧之助に邦子を迎える話。樋口家は既に断りを入れているが、茨城にいる西村きくが直接その話を聞きたかったのであろう。また、西村きくは一葉の母たきと仲良しであったので、引っ越し先の龍泉寺を初めて訪れたかったのでもあろう。)夕方近くに帰宅された。
 明日は鎮守である千束(稲荷)神社(せんぞく(いなり)じんじゃ)の大祭である。今年はとりわけ賑やかで、山車なども引いて出るということで、人々が騒いでいる。隣の酒屋(※伊勢や)では、二日間売り出しをするということで、飾り樽(※化粧縄をかけて飾った酒樽。祝い樽。中身はない。)などを積み上げている様子の勇ましさに、思えば、わが家でも店構えがあまりに寂しいようなのは、その時に当たって、得策ではあるまい。そうかといって、元手を出して品物を増やすことは、出来ようはずはない。仮に出来たとしても、そんな(売れる)当てもないことに空しく金を費やすべきではない。「さあ、中村屋(※問屋)に行って、飾り箱(※商品ケース)を少し買ってこよう。」と言って、夜になってから家を出た。(中村屋では、飾り箱が)今宵すぐには間に合わなかったので、明日の朝持って来るという約束に決めて、マッチを五十銭ばかり買った。それというのは、金額のかさが少なくても、見かけがよいからである。今夜は夜更けまで大忙しであった。
明治26年8月20日 早起き。雨模様である。「多町に買い出しに行くのもどうか」などとしばらくためらったが、「ともかくも」と思って行った。帰ったのは十時頃であった。それから門跡前に行き、飾り箱並びに磨き砂(※今で言うクレンザーのようなもので、歯磨き粉としても用いられた。)の類いを買ってきた。一日大忙しであった。売り上げは一円ばかりあった。(※1円は100銭)日が暮れてから雨になった。
明治26年8月21日 山車(だし)、神輿(みこし)の渡御(※とぎょ/神輿がおでましになること)など、(祭りは)とても賑やかだ。しかし、(お店の)売り上げは多くなかった。というのも、子供たちが露天商に奪い取られたからである。
明治26年8月22日 晴れ。
明治26年8月23日 晴れ。
明治26年8月24日 晴れ。今日は売り上げがいつもより多かった。各県の大暴風雨(※おおあらし/台風)の報道があった。(※台風による被害。愛知、岐阜、和歌山、静岡、三重県が特にひどかった。)
明治26年8月25日 晴れ。早朝、芳山(※芳山保定。(よしやまやすさだ?)広瀬伊三郎の知人で、伊三郎の留守中の浅草三間町の家屋の保管を任されていた人物。)が来た。広瀬のことについてである。今日も一日雨で日を過ごした。
 
 ここ四、五日、仕事の忙しさが並大抵でなかった上に、頭痛が激しくて、寝ている日も多かった。(それで)全く日記をおろそかにしてしまった。

明治26年9月1日 早朝よりいつもの頭痛が起こって、少しの間も立つことが出来ず、一日中臥(ふ)せっていた。昼過ぎから雷雨がおびただしかった。
明治26年9月3日 奈良孝太郎さん(※不詳。近所の人か。)が厩橋辺りにある質商佐野屋へ奉公に行った。
明治26年9月4日 早朝より多町へ買い出しに行った。以前(父上の)雇人だった吉太郎(きちたろう)が八百屋になっているのに会った。(※一葉の父則義が、明治21年9月から翌22年まで荷車請負業組合を経営しようとしていた際の雇人であろう。)飯田町(の郵便局)で芦沢(※芦沢芳太郎)の為替を受け取った。この日、狂ったような風が砂ぼこりを巻いて、御成道(おなりみち)、広小路あたりは(※御成道は、将軍が寛永寺、東照宮へ御成り(※おでましの意)の時の参道として設けられた道で、万世橋から黒門町までの通りをいう。その先の道が広小路。)、顔を向ける方向もなかった。車(※人力車)で帰った。広瀬伊三郎が帰京した。(伊三郎が家に)来ていたのだが、頭痛が激しく、少しの間も起きていることが出来ないので、そのまま臥(ふ)せってしまった。

 この一日、二日、頭痛が激しく、大方寝ているだけであったので、日記も書かなかった。

明治26年9月7日 午前五時、築地本願寺別院の小使い部屋から出火、太子堂を残してことごとく焼失した。(※築地本願寺は樋口家の墓所がある。父則義もここに眠っている。)
明治26年9月8日 晴れ。
明治26年9月15日 (吉原)遊郭で俄(にわか)が始まった。(※吉原俄。吉原遊郭で8月中旬から9月中旬まで1か月間行われた即興芝居。吉原の真中を貫く仲之町の奥の方、突き当りにある水道尻と呼ばれる場所には、秋葉常灯明という大きな銅製の燈籠があり、火難除けの神、秋葉権現が祀られていた。吉原俄はその秋葉権現の祭祀に行われたもの。芸者は踊り、幇間は即興の芝居狂言を演じ、車のついた小舞台を曳かせて茶屋回りをしながら行われた。最終日9月15日には「検査場」と呼ばれた吉原病院で出演者が勢ぞろいし、入場券を出して観覧させた。)母上が、切符(※入場券)を人に貰って、検査場(※吉原病院。梅毒の検査場。)に「勢ぞろい」を見に行った。
明治26年9月16日 母上が、菊池さん(※8月6日に出ている菊池家。「むさしや」という紙類小間物商を営んでいた。)のところに行った。菊池さんは留守で、風船を仕入れて来た。
明治26年9月17日 中島(歌子)師の君より手紙が来た。(※門人水野銓子の結婚送別の歌会が10月1日に行われることを知らせる手紙であった。水野銓子は直近では明治26年2月26日に出ている。)
明治26年9月18日 星野さん(※『文学界』の星野天知)からの手紙が、鎌倉の笹目が谷(※佐々目ヶ谷(ささめがやつ)とも。地名。)から来た。(※星野の別荘が同地にあった。手紙の内容は『文学界』への寄稿願いである。)
明治26年9月19日 
 四、五日、頭痛が激しく、それに加えて商売が忙しくて、何も(日記に)書かなかった。
明治26年9月20日 雨が降った。彼岸の入りである。
明治26年9月21日 (昨日と)同じく雨。
 最近の売り上げ高は、多い時は六十銭余り、少ない時でも四十銭を下ることは稀である。しかし、大方は五厘、六厘の客であるから、一日に百人の客をさばかないことはない。この身の忙しさがこれで分かるというものだ。
明治26年9月23日 薄曇り。早朝、金杉(※下谷区にある町。)にある菓子の卸屋に行った。これは毎朝のことである。帰宅してすぐに食事をして、神田に絵紙(※えがみ/子供の遊びに使う、模様や絵を印刷した紙。)を買い出しに行った。
明治26年9月24日 雨が少し降った。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
「樋口一葉の世界」(放送大学教材)(島内裕子 NHK出版)


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