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現代語訳 樋口一葉日記 34 (M26.6.11~M26.7.3)◎中島歌子の門人批判、家族で議論し実業に就くことを決する、実業に就く決意と不安。
日記(明治26年(1893))6月
(明治26年)6月11日 晴れ。昼過ぎから芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。少し雨が降った。今日は入梅(※梅雨入り)である。
片々(※種々雑多な記事)
燧灘(ひうちなだ)事件がやや収まった。(※広島県と愛媛県の漁民の間で起こった漁場争い。)
(明治26年)6月12日 雨。寺島宗則さん(※明治26年6月8日の日記にある、死去した枢密顧問官寺島宗則)の葬式があったということだ。(雨で)道が(ぬかるんで)難儀であっただろう。寺は海晏寺(※かいあんじ/品川の曹洞宗の寺院。)であったということだ。今日は珍しく老い鶯(※おいうぐいす/夏になってもさえずっている鶯。老鶯(ろうおう)とも。)の声が絶えず聞こえていた。郭公(ほととぎす)と鳴き争っているようなのも面白い。(※原文は<郭公>であるが、小学館版一葉全集では「ほととぎす」とルビがふってある。カッコウとホトトギスは同じ科の鳥で姿が似ているが鳴き声は異なる。その生息環境から確かにホトトギスの方であろう。)早朝、星野さん(※星野天知)から葉書が来た。『文学界』に載せる著作を催促してのものである。断りの葉書を出した。
(明治26年)6月13日 (※無記載)
(明治26年)6月14日 大石公使が帰国した。新橋ステーションに出迎えた人々の喝采は、とてつもない大きな音がなだれ落ちるようであった(という)。(※明治26年5月20日の日記にある、朝鮮防穀事件の交渉を行った朝鮮在住の公使大石正巳(おおいしまさみ)が交渉を終えた後に帰国したもの。新橋のステーションに集まった人々は600人を超えたと言われる。)
(明治26年)6月15日 雨。芝の兄上(※虎之助)が来た。
(明治26年)6月16日 雨であった。
(明治26年)6月17日 曇り。
(明治26年)6月18日 「侠客の駿河の次郎長が死亡(※清水の次郎長。本名は山本長五郎。義侠心に富む侠客として著名。)。本日葬儀。会する者千名余り。上武甲の三州(※群馬県、山梨県、東京都、埼玉県にあたる)より博徒の頭めいた者たちが集まること五百名。」ということである。
(明治26年)6月19日 晴れ。日没後、国子(※邦子)と摩利支天参りをした。(※上野の徳大寺のこと。聖徳太子が彫ったと伝わる摩利支天像があり、武士階級の守護神として士族の間に人気があった。明治26年5月2日にも出ている。)
(明治26年)6月20日 晴天。
(明治26年)6月21日 曇り。山梨から芳太郎(※芦沢芳太郎)の衣類が届いた。(※芳太郎の父芦沢卯助から送られたもの。)(私の)著作はまだ出来ずにいて、この月も一銭の入金のめどもない。(※一葉は6月12日に『文学界』の方の執筆を断っているから、以前の『都の花』の方のための執筆のことであろう。2月9日と4月15日に「歌を詠む人の優美な」「歌が入った」小説を編集者の藤本藤陰に求められている。しかし一葉は1月に「雪の日」を完成して以来まだ一篇も小説を書き上げていない。そして、『都の花』が109号で終刊になったのはまさにこの月であった。)
(明治26年)6月22日 晴れ。今日は国子(※邦子)の誕生日だけれど(※邦子は明治7年6月22日生まれ。19歳の誕生日であった。)、お祝いを延ばして二十五日にしようと言った。(※一葉が言ったのか分からないが、一葉と邦子と二人で決めたのだろう。)この夜母上と一緒に近所を散歩した。(今日は)小石川に中島師の君(※中島歌子)のご機嫌伺に行った。(師の君は)「風邪です。」と伏しておられたが、話されることは多かった。「みの子さん(※田中みの子)の品行が日増しに乱れていくように思われるのですが。」などと(師の君は)お話しになられた。(また、師の君は)「夏子さん(※伊東夏子)は敬神(※キリスト教崇拝)の念がいよいよ増していくのは(まあ)よいのですが、むやみに深く一つのことに熱中し過ぎて、あのままでいたのでは最後にはどうなることでありましょうか。」などと語られた。(私は、)「夏子さん(※伊東夏子)のことはさておき、みの子さんのあの色好みらしいところはどんなものでしょうか。(※田中みの子は小出粲(こいでつばら。萩の舎の客員歌人)とどうやら深い関係にあったらしい。)大変嘆かわしくもありましょう。内輪の事ならばともかく、他人から見てご門下(※萩の舎門下、中島歌子門下)の名が損なわれるべきではありません。私は無学にしてよくは分からないのですが、『現代の文墨(※ぶんぼく/詩文を作ったり書画を書いたりすること。学問、芸術の方面。)に携わる人で、女性の、立派な人は全くいない。』と言われているようです。(師の君)ご門下出身の人で、少しは世間の評判になって、まあ学問はともかく、道徳のすぐれたような人をこそどうにか世に出してほしいものです。田中さんの不道徳は今日に始まったことではないようですけれど、どうにか(師の君が)教え諭しなさって、誠の道(※人として正しい生き方)にお導きになっていただけませんか。」などと言ったところ、師の君はただため息をつくばかりで、「いや、無理でしょう。みの子のことはもとより言うに及ばないことです。(※言っても無駄だということ。)これは秘密のことなのですが、鳥尾広子(※萩の舎門人。直近では明治26年5月1日に出ている。)さんが、最近少し歌が詠えるようになったので、世間に知られることをしきりに願っているのですが、これもまた虚飾であって、(彼女は)本当の正しい道を志す人ではありません。夏子さん(※伊東夏子)などこそ、と思うのですが、これもまた金持ちの娘で、いたずらに時代にもてあそばれて(※キリスト教に熱中している事)、しっかりと定めた心がないのです。」などと、だだ門下の人を悪いようにばかりおっしゃられるようだ。(しかし、)師は親である。思うことがおありになるなら、(それを)おっしゃるのがどうして出来ないことがあろうか。表面では美しく、時勢に従うことばかりをおっしゃられて、そうしておいて(いながら)このように右と言えば左(※人の言うことにいちいち反対すること)、左と言えば右で、同輩の友の誰それの間には批判を加え、侮(あなど)りに(さえ)なられるのが(どうにも)やりきれなかった。私のことなどもこのように(裏ではさげすんで)おっしゃられているように思われ(てき)た。「さあ、(もう)どうでもよい。昔はこのようなことを(私は)とてもひどく嫌って、『友の中でも、そんな人があったら交際しない。』などとさえ思っていた。しかしながら今考えると、人は私(の尊厳)を傷つけるものではない。(※他人に自分の誇りを傷つける資格はない、ほどの意であろう。)このような人がいて、このようなことを(勝手に)言うのである。(※平たく言えば、人は人、自分は自分、ということ。)(それを)知らないでいて(その言葉に)惑わされてしまったらよくないが、(それを)知ってからの後ならどのような危うさがあるというのだろうか、あるはずがない。」と思い定めて、(それからのちは)ただ世間一般のお話をして帰った。(その中で)師の君は、財政がとても苦しい状況である由、お話しになったのであった。私が、「まさかそんなことはありませんでしょう。口に山海の珍味を味わい、身には美しい着物を着飾っていらっしゃったとしても、(師の君は)ただお一人のささやかなご身上でありますのに。」と言ったところ、(師の君は)「いいえ、自分の事では何ほどのことがありましょうか。兄(※中島宇一。歌子の母中島幾子の死の際、明治25年6月1日、6日に出ている。)が(ある)困難に陥って必死となることがあって、その折、それを救うために、この春からどれほどの苦労(※金銭的扶助であろう)をさせられたことでしょうか。だけれどもいささかの効果も見えず、いまだに何の(経済を立て直す)基盤もたっていないのです。」などと話された。(私は、)「どうして、事を兄上のせいにして、自分の不徳のいけにえに供していらっしゃるのだろうか。聞いていたら気分が悪いことだ。(※師の君は自身のだらしなさを棚に上げて、お金のないのを兄上のせいにしているのだ、という一葉の痛烈な批判である。)」と思ったが、(それも)やはり一を知りて二を知らずの私の心からでもあるようだ。(※原文は<一を知りて十に及ばざる心からなめり>であるが、これは「一を聞いて十を知る(物事の一端を聞いただけでそのすべてを理解できるほど才知が優れていること)」の逆を言ったものであろう。ここでは対義語として「知識や見解が狭いこと」を表す「一を知りて二を知らず」があるのでそれを採用して訳した。なお、一葉が師の君中島歌子に対してこれほどの批判を吐露したのはこれが初めてである。一葉の精神状態はこの4月頃からあまりよくなかったのは確かである。師の君に会いに行ったのも実際は金策のためであっただろうと推察できる。先月末には親友伊東夏子に多額の借金をし、しかもそれを返すあてもなく、その中でまた生きるためには金が必要であるのに小説は全く書けず、その結果収入は一切ないという現実が、若き戸主の一葉を四六時中襲っているのである。身心がどうかなりそうになるのも尤(もっと)もである。しかし救いは一葉の、自分自身を客観的に見る目がまだ残っている点である。師の君が自身の門人を悪しざまに言っても、また一葉からの借金のにおいをかぎつけて師の君がそれを婉曲に断っても、一葉はそれらに不快な感情を抱きながらも、決してそれに流されまいとする知性、理性を保ち、そのことが最後に自制の言葉になって現れている。これがあるから一葉に対して、「冷笑の人」「したたかな女」といった歪んだ形容を施す向きもあるようだが、そうではなく、むしろ仏教の三界唯心などを学んで得た、精神を安定させる深い智慧(ちえ)が一葉に既に身についていたと考える方が妥当であろう。後年、一葉は突然天才になったのではない。生まれた時から天才なのである。その苦しい環境が天才作家一葉を生んだのではない。天才一葉がその苦しい環境から天才的な作品を生んだのである。この点を思い違いしてはならないだろう。一葉には生まれもった「天才」という素地があり、それに基づいた深い智慧があったことを見逃してはならないのだ。)
(明治26年)6月23日 晴れである。芦沢(※芦沢芳太郎)が、「明日から鎌倉地方に行軍するので、(今日は用をすませるための)代休なので。」ということで来た。今日も何事もなく終わった。日没少し前に、母上とともに右京山(※一葉の家の西側にある丘陵)に花を求めて行った。今宵から蚊帳を吊り始めた。早く寝た。
(明治26年)6月24日 晴れ。
盛んであるものは
福島中佐の歓迎の様子。(※シベリヤ横断単独騎馬旅行を終えた福島安正の帰国にあたって、その歓迎セレモニーのため上野の不忍池の元競馬場(※明治25年に競馬は中止していた。)の馬見所(ばけんじょ/観覧席)をその会場として準備していた。)三浦、西山の遺族扶助の義捐(ぎえん)金。(※明治26年6月8日の日記にあるように、吾妻山三回目の爆発で、調査技師三浦宗三郎(※正しくは宗二朗)と西山総吉(※正しくは惣吉)が噴石に当たって死亡した事故で、遺族のために義捐金を募ったもの。)どちらもどちらもそうすべきことで、大変嬉しいものだけれど、何事も名声ばかりを尊ぶこの頃ではある。
哀れなるものは
(新聞で)郡司大尉一行が択捉(えとろふ)島に到着したということを聞くと、胸がほっとする心地であるが、これから後のことをどうするのであろう。以前(千島列島に)移住した人々が、食料に乏しくて死んでしまった者もいるとかいうことを聞くと、食料の蓄えなども多くないまま(ボートで)出立した人々よ(、彼らが心配でならないことだ)。ああ、ここにも眼を(これから先のことに)見渡していける人があってほしいものだ。北海道は紳士の遊び場ではない。(※北航端艇(ほっこうボート)と名付けられたこの探検は、探検ごっこのような遊びではなく命を懸けた真剣なものだ、ということを再認識した言葉。)この方々は、本当に身を投げ出して国に尽くそうとする人々なのだ。(※北航端艇の目的は千島列島への拓殖(※たくしょく/未開の地を切り拓いて移住すること)である。)
(明治26年)6月25日 晴れ。午後に夕立が来た。行水をしたあと、国子(※邦子)と一緒に天王寺に中島老君(※ろうくん/老人を敬って言う語。ここでは中島歌子の母、中島(網谷)幾子のこと。日記にもあるが、明治25年6月1日に亡くなっている。)の墓参りをした。それから根岸に下って、御行の松(※おぎょうのまつ/根岸の西蔵院(さいぞういん)の不動堂にあった樹齢300年を超える大きな松。昭和3年に枯死。明治24年11月8日にも出ている。)を見物した。そのあたりの田が、今は田植えの真っ盛りの時だとばかりに早苗を手にとって(田植えをして)いるのを、日が暮れるのも忘れて見物するのも面白かった。国子(※邦子)が蓮の葉と里芋の葉とを間違えたのも可笑しかった。(※実際似ている。)帰り道、坂本(※地名)の通りに出て、五條天神の祭りを見て、池之端から帰った。ちょうどその時夕暮れで、歌姫(※芸者)たちが往来するのを見るのも面白かった。馬見所には、福島中佐の歓迎場を設けるということで、かがり火を焚きながら工事を急いでいるのも賑やかであった。家に近くなるほど、またまた雨が落ちて来た。しかし、まもなく晴れてしまった。一人燈下で、夜が更けるまで読書をした。
(明治26年)6月26日 晴れ。
(明治26年)6月27日 晴れ。金策に赴く。・・・・・・・・・この夜小柳町から失火。山下兄弟が来た。(※山下直一と山下次郎。山下直一は樋口家の元書生で、次郎はその弟。直近では直一は明治26年5月7日、次郎は同年4月18日に出ている。)(※・・・の箇所は実際に一葉が点線を用いたもの。行った先は伊東夏子のところだろうと思われる。作家の和田芳恵は表に出して書いてはいけない人だろうとして、半井桃水ではないかとしているが、定かではない。)
(明治26年)6月28日 山下次郎が来た。
(明治26年)6月29日 晴れ、薄曇りである。(今日は)福島中佐の帰京につき、おびただしい歓迎の模様を想像して、母上にもそれを見せて差し上げたく、一緒に昼から上野へ行った。この時のことはことさら書き続けるに及ばない。三時頃帰宅。上野の伯父上及び清次さんが来た。(※上野兵蔵とその子清次。兵蔵は明治26年5月15日に出ている。清次は実の子で明治26年1月15日に出ている。)(同じく)上野に行った帰りだということだ。
私はすぐに、一昨日頼んでいた金の(工面の)成否はどうなのかを聞きに行った。出来難し・・・・・・・・・・・・・・・・・伊東さんのところから帰ったのは日没後であった。(※・・・の箇所は先と同様一葉が実際に点線を用いた箇所。先の点線と同じ人物のところであることは間違いないだろう。伊東夏子の名がすぐあとに出ているのでやはり伊東夏子のところであろうか。)この夜、家族一同熱く議論し、実業(※商売)に就くことに決した。かねてから(そうしようと)考えていなかったわけではない。言ってしまえば考えていたことではあるのだが、母上などはただもう嘆きに嘆いて、「お前が志弱く、しっかりと定めた心がないところからこのようになってしまったことだ。」と(私を)お責めになられた。家財を売ったとしても、実業に就いたとしても、このことによって(本来の)私の心が変わってしまうものではないのだが、老いた人などは、ただものの表面ばかりを見てすぐに良し悪しをお決めになられるようである。世渡りの難しさは、これをとってもあれをとっても(※家財を売ろうが実業に就こうがどちらも)同じことであろう。これから行く道の困難は(果たして)どのよう(なもの)であろうか(さすがに不安ではある)。そうではあるけれども、私たち姉妹は、浮世の褒貶(※ほうへん/ほめたりけなしたりすること)を気にするものではない。ただ己が良いと思って進むところへ進むのみである。霜柱が崩れたら、また立て直すばかりだ。
(明治26年)6月30日 早朝、母上が鍛冶町に金をとりに行った。(※神田区鍛冶町の石川銀次郎に転宅開業資金の調達に赴いたもの。石川銀次郎の父正助が一葉の父則義と懇意にし、以前は則義が経済的に援助をしていた。石川は蒲鉾製造商。号は遠州屋。遠銀と呼ばれていた。直近では明治25年9月1日に出ている。)
芳太郎(※芦沢芳太郎)の預かり金が、二円四十銭になった。(※覚書である。)
にっ記 明治26年(1893)7月
人は一定の財産(や職業)がなければいつも変わらぬ(正しい)心を持つことは出来ない。(※原文は<人つねの産なければ常のこゝろなし>である。これはことわざの「恒産(こうさん)無き者は恒心(こうしん)無し」を言ったもので、生活が安定しなければ正しい心は持てない、ということである。)手を懐(ふところ)にして(※何事もしないで、の意)月や花(といった風流なもの)に心奪われても、日常の食べ物を食べずにいては天寿を全うすることが出来るものではない。(※風流にうつつをぬかしても食べられなければとても暮らしてはいけない、ほどの意。)同時に一方で文学は糊口(※ここう/生計の意)のためにするべきものではないのだ。思いが馳せるまま、心の赴くままにこそ筆は執るものなのだ。(※原文は<かつや文学は糊口の為になすべき物ならず>である。<かつや>の「や」は疑問、反語の係助詞ではない。係助詞ならば係り結びで文末の<ならず>が連体形の<ならざる>になるはずだからである。そうすると「や」は間投助詞と判断され、一葉がよく使う「よしや」(※もしたとえ、また、ままよ、の意。副詞「よし」と間投助詞「や」の結合語。)の「や」と同じニュアンスで用いたものであろう。この「や」は詠嘆、感動を表すもので、和歌ではよく切れ字として用いられる。切れ字には強調と余韻、リズムが生まれる効果があり、ここでは切れ字とまでは言えないとしても、この文章を書く際の一葉の気分が乗りに乗っていたことが窺えよう。)さてさて、これから(は)糊口のための文学の道を変えて、浮世をそろばんの玉をはじくその玉のような汗を流して(渡る)、商いというものを始めようと思う。桜を髪に飾って遊んでいる大宮人のような(萩の舎の)集まりなどは、もとより昨日までの春の夢(※はかないもののたとえ)と忘れてしまって、志賀の都が古びてしまった歌(など)を詠むこともせず、(その有名な志賀の歌にある「さざなみ」ではないが、)さざ波ならぬ波銭小銭、一厘(りん)とか一毛(もう)とかいった(ささいな)利益を求めようとするのだ。(※「波銭小銭(なみせんこぜに)」は、当時流通していた寛永通宝四文銭(しもんせん)のこと。裏に波の文様があった。100銭が1円。10厘が1銭。10毛が1厘。さかのぼって、「大宮人」の箇所の文は、『新古今和歌集』の山部赤人(やまべのあかひと)の歌「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮らしつ」を踏まえたもの。「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞。「大宮人(おおみやびと)」は宮廷に仕える人。「かざす」は草木の花や枝を髪に装飾として飾ること。この歌は、「宮廷に仕える人は暇があるのだろうか、桜の花を髪に飾って今日も一日過ごされたことだ」、ほどの意。「志賀」の箇所の文は、『千載(せんざい)和歌集』の平忠度(たいらのただのり)の歌「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」を踏まえたもの。「さざなみや」は「志賀」にかかる枕詞。「志賀の都」は今の滋賀県大津市で、天智天皇が667年に飛鳥から遷都した都。672年の壬申(じんしん)の乱によって滅びた。「昔ながら」の「ながら」は琵琶湖を望む長等山(ながらやま)に掛けたもの。この歌は、「志賀の都はすっかり荒れ果ててしまったが、長等山の山桜だけは昔ながらに美しく咲き誇っていることだ」、ほどの意。)そうかといって、三井、三菱(※三井財閥と三菱財閥)とかいった大層な贅沢を願うものではなく、格別浮世にひねくれ者の評判を取ろうとするものでもない。(春の七草の一つ)「母子草(ははこぐさ)」ではないが、その母と子の三人の口を糊(のり)すればそれでよいのである。(もし)暇があったら月も眺めよう、花も見物しよう、興が乗れば歌も詠もう、文章も作ろう、小説も著そう。ひたすら読者の好みに従って、欲のない本屋(※出版社のこと。当時は出版、卸、小売りまでを手掛けていた。)が「今度は心中ものをお作りなさい、歌を詠む人の優美な世界がよろしい、涙を誘いすぎるものは人は喜びません、細やかで巧みなものは今の時代ははやりません、幽玄なものは世間には(よく)分かりませんし、歴史のあるものがよろしい、政治的な肩書があるものがよろしい、探偵小説(なら)すこぶるよい、(どうか)この中(のどれか)で(お書きください)。」などと作者に強いてくるとかいうことだ。(※「欲のない」は、これまでの文脈から察するに、「正しい文学を作る欲のない」意であろう。あるいは欲深な本屋に対する一葉の当てこすりなのかもしれない。)私はまだ(そのようなことを言われた)覚えはまだ少ないけれど、(そんな)わずらわしさはここにとどめを刺そう。そのような範囲(※読者好みの文章を書かなければならないような環境)の外に逃れて、せめて(自分が書く)文字の上にだけでも義務の少ない身となりたいと思うのだ。だけれども(この世に)生まれて二十年余り、向こう三軒両隣(※親しく交際する近隣の家)の付き合いにもなじまず、風呂屋で小桶のご挨拶(※小桶を手にしたままなじみの人に互いに挨拶すること)も大方は知らん顔して済ましてきた私が(※一葉は人見知りである。明治24年10月9日の日記で記したように、萩の舎での一葉のあだ名は「ものづつみの君」であった。「ものづつみ」とは遠慮深く引っ込み思案であることで、要は一葉は恥ずかしがり屋さんであった。萩の舎入門当初、隣の人とも話をせずにいた一葉を見て、田中みの子が名付けたという。)、お暑う(ございます)お寒う(ございますといった客への挨拶)、(値段を)負けてよ引いてよの(客との)駆け引き、問屋への買い出し(※商品の仕入れ)、客への気受け(※評判、印象)、(などなど)考えれば難しいものである。まして(商売の)元手は糸芯(※ランプの芯で、細い糸状のもの)の(糸の)ように大変細々としたものであるから、どうなることやら、困ったことである。(※原文は<ましてやもとでは糸しんのいと細くなるから、なんとならしばしゐの葉のこまつた事也>である。問題は<なんとならしば~>で、間に縁語を駆使して文を飾っているものである。「楢柴(ならしば/楢の木の枝)」と「椎(しい)の葉」を置いてその縁語で「小松(こまつ/小さな松)」が来ているのだろう。小学館版一葉全集の注釈には「楢柴」と「椎の葉」から「樵(こ)る/木を切る意)」が出るとしている。つまりこの場合、その読みの「こ」に掛けて<「こ」まつた>とつなげているというのである。そうだろうか。いずれにしろ、元々は、「なんとならん。こまつた事也」であろうから、ここではそれのみを訳した。また、小学館版一葉全集の注釈では、さらに<ならしばしゐの葉>の言葉に、「しばし」という語も隠されていると見ているようである。しかし「しばし」はちょっとの間、という時間を指す言葉であるからこの文章の意味するところにはそぐわないと判断して割愛した。いずれにしろ、非常にリズミカルで、ユーモアさえ漂う一葉の言葉遊びである。)だけれども浮世(というもの)は棚の(上の)達磨様(同様)、寝るも起きるも自分の力ではどうにもならない。「造化の神様、どうとでもなさってくだされ。(※原文は<造化の伯父様>である。「造化」とは宇宙、天地を創造すること、またその造物主。いわば神様である。<伯父様>とあるのはキリスト教で神を「父」と呼ぶのを意識したか。)」と思って、(次のように詠った。)
とにかくにこえてをみまし空せみの
よわたる橋や夢のうきはし
(※<とにかくに>は、ともかくもの意。<まし>は不決断の助動詞で、「~たものだろうか」の意。<空(うつ)せみの>は「世」にかかる枕詞で、「空せみの世」で、はかないこの世、という意もある。<を>は強意の間投助詞、<夢のうきはし>は夢のようにはかない浮橋、転じて、夢のようにはかないもののたとえ。ともかくも越えてみたものだろうか、はかないこの世を渡る、夢のようにはかないこの橋を、ほどの意。この歌の解釈であるが、一葉の強い決意を表す一方で、不安を隠し切れずにいる一葉の正直な姿も映し出されていよう。それは<まし>の解釈によるもので、これを不決断ではなく単なる推量ととれば、「ともかく越えてみることだろう」あるいはより強く「越えてみよう」とも訳すことも可能である。こちらの方が一葉の決意をよりスマートに表してはいるだろう。しかしこの歌の前にある一葉の文章をよく見ると、前半は実業、商売に就く強い決意を表明しているが、後半は本当に商売など出来る自分なのかと自信の無さを告白し、最後は、ままよ、と居直った感じですらある。士族が没落して金を得るために事を起こし、失敗してさらに貧困に陥る例を、一葉は稲葉寛、鉱という身近な夫婦に目の当たりにしているのである。怖くないはずはない。だとすると、この文章の後半の、ことさらおちゃらけているかのような一葉の口ぶりは、その自信の無さ、恐怖と不安を覆い隠すために敢えて自らを装飾した擬態ではなかったか。そう考えると、この最後に詠った歌には、本当にそれでよいのか、士族の矜持(プライド)を投げうって、商人同様のことをしてもうまくいくのか、という不安が残るものでなければならないはずである。そこで、<まし>は不決断、ためらいを意味するものだと判断したものである。)
(明治26年)7月1日 晴れ。母上が、鍛冶町(※石川銀次郎)から金十五円を受け取って来た。芦沢(※芦沢芳太郎)が、「鎌倉から帰京してきました。」と言って(我が家に)来たので、商売を始めるつもりのお話をして、山梨(※芦沢の実家。一葉の母たきの弟芦沢卯助)から金五十円を借りてくるよう頼んだ。すぐに(山梨の芦沢家に向けて)手紙を書いた。(芦沢に)小遣い二十銭を渡した。(※芦沢の実家から送られていた預り金の中からだろう。)(預り金の)残りは二円二十銭である。この夜、小石川より神田辺りを散歩した。
(明治26年)7月2日 晴れ。早朝、芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。母上は、山下さん(※山下直一、次郎兄弟。直一は樋口家の元書生。6月27日に二人が樋口家を訪れている。)のところに本を返しに行き、次郎さんの就職の結果を聞いてきた。華族銀行(※国立第十五銀行)の試験に及第して、百人ばかりの中から七人、職務に就くようになったとのことだ。母上が帰宅した後、(その)次郎さんも来た。門のところで(次郎さんは)帰った。わが家の近くに(住んで)いる華族銀行員のところを訪問しようと思ってであるようだ。昼過ぎ、野々宮さん(※野々宮きく子)から手紙が来た。「今月末には帰京する」とのこと。この度は最早(教職を)辞職する決心と見える。その理由がひそかに(私の耳にまで既に)聞き及んでいたことは可笑しかった。(※明治26年5月29日に、吉田さんのところに行った邦子から、一葉は野々宮きく子の噂を聞いている。)芳太郎が日没近くに帰ろうとするちょうどその時、思いもよらずわが家を訪れる人がいた。母上が(その人を)よくよく見て、「猪三郎ではないか。」と言った。(猪三郎は)笑いながらさっと(家に)入った。(猪三郎は)芳太郎の腹違いの兄で、十年くらい前に我が家に世話になった人である。(※猪三郎は正しくは広瀬伊三郎。一葉の母たきの弟卯助が広瀬家に養子に入り、そこでもうけた子が伊三郎。卯助は離縁後、今度は芦沢家の養子に入り、そこで生まれたのが芳太郎。だから伊三郎と芳太郎は異母兄弟である。伊三郎はそのまま広瀬家にいたが、広瀬ぶんのおじ広瀬七重郎が伊三郎の養父となった。)「他郷にあって故郷の人と出会うことほど嬉しいものはない」とか(いうことを)聞いたことがあるが、まして今回は兄弟である。(二人の)嬉しさはさぞかしと思ったが、(あまりに)思いがけぬことに胸を打たれたのだろう、とかくの言葉もなく、(二人)顔ばかり赤らめているのも(それはそれで)趣があった。(それから)すぐに芳太郎は帰営した。(※芳太郎は陸軍の近衛第一連隊配属である。)猪三郎(※伊三郎)は、「東京で(ある)商売をする目的を立てていて、移住するために(来たのです)。」と言った。(※伊三郎は金融業を始めることになる。)この夜、更けるまで話をした。
(明治26年)7月3日 晴れ。母上と一緒に、猪三(※伊三郎)は家探しに行った。「浅草田原町(たわらまち)、七軒町(しちけんちょう)の二か所に気に入ったところがあった。」とのこと。夕方からまた行った。(しかし)差配人(※さはいにん/家主に代わって貸家の管理をする人。)が留守で話がまとまらず、「明日また行こう。」と(伊三郎は)言った。暑さは昨日九十六度(※これは当時採用されていた温度の単位、華氏の温度で、現在の摂氏36度である。)、今日は九十五度(※摂氏35度)である。日中の暑さは言うまでもない。この夜、お鉱さん(※稲葉鉱)が来た。十一時頃までお話しした。芳太郎に小遣いまた三十銭を渡した。(※覚書)
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※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
「樋口一葉の世界」(放送大学教材)(島内裕子 NHK出版)