62歳、独りぼっちで始まった新プロジェクト!?日本中のセーラーを支えたトラッキングシステム!
「製品開発の裏側にはきっとストーリーがある」
これが古野電気がnoteを始めた理由です。
会社が創立して70年以上、様々な世界初の製品を世に出してきた会社だからこそ、たくさんのストーリーがこれまでもあったはずだし、これからも生まれるはずだ!と。
今回、このテーマがぴったりな方のお話しを伺うことができました。
モノづくり大国ニッポンを支える全てのエンジニアに届け!!
トラッキングシステムの生みの親
2021年、辛坊治郎さん、2022年、堀江謙一さん、
2人の日本人セーラーがヨットで太平洋を横断しました。
このお二人の挑戦を支えたのがFURUNOのトラッキングシステムでした。
今回、このシステムを生み出した方にインタビューをさせていただくことになりました。
ーどういうキッカケでこのシステムを作ることになったんでしょうか?
森さん「最初に話が来たのが2016年の春頃でしたね。
翌年5月に小笠原諸島返還50周年を記念したヨットレースが開催されるとのことで、レースの事務局さんがFURUNOを来社されてね。
レースをトラッキングするようなシステムを作れないかと相談があったんですよ。」
その時点でもトラッキングシステムのようなものは海外製ではありましたが日本語には対応しておらず、日本製のシステムを要望されていたとのこと。
そこで衛星通信の事業に従事していた森さんに白羽の矢が立ちました。
森さん「当時、事業部長から『こんな話があるんやけどできる?』と相談をもらってね。
新しいカテゴリだったから普通は断ると思うんだけど、その時にたまたま"イリジウム(衛星携帯電話システム)"のモジュールを調べていて、これを使えばなんとかできるんじゃないかと思ったわけなんです。
あと『この開発は面白そうやな』っと感じてしまって、つい『できます!』って言ってしまったんだよ(笑)」
自らを"新しいもの好き、飛びつきタイプ"と称する森さん、確証は十分ではなかったものの、これまでの衛星通信の知識、経験を元にトラッキングシステムプロジェクトがスタートしました。
62歳、たった1人の壮大なプロジェクトが始まる
プロジェクトはスタートしたものの、量産化する製品ではないこともあり、開発部門には依頼はできず、そもそも衛星通信に関しては森さんが社内のスペシャリストでした。
なんと1人でシステムを作り上げることになったそう。
森さん「やっぱりモノづくりが好きでね、社内にもないような製品カテゴリだったので『これは面白いな、一人でやりたいな』と考えてしまったんです。
ただね、その時もうすでに62歳ですよ。
自分でも『よくやるなぁ』って思いましたね。」
ー 本当にすごいです。しかも1年で形になったんですよね?
森さん「そうですね。春に着手して、秋に最初のテストレース、そして小笠原ヨットレースの直前に最終トライアル。タイトなスケジュールでした。
しかもイリジウムのモジュールは海外製品だったので仕様も良くわからなかった。
なので、モジュールの会社があるアメリカ・サンディエゴまで一人で飛んで行ったよ。体にはキツかったけど、新しいことを知れるのは楽しかった。
一生懸命勉強してモジュールを自分自身で使えるようにしましたね。」
「こういう社員がいてもいいでしょ」と笑いながら当時について語ってくれる森さん。凄まじい仕事への熱量に感服しながらインタビューは続きます。
ー そう一筋縄ではいかなかったんでしょうか?
森さん「そうですね、秋のテストレースは結構ダメ出しをもらいましたよ。
『ヨットレースにはこういう機能がいるんだ』っていうのをいっぱい言われました。
今までヨットには全く関わったことがなかったから、そういうのも勉強になって面白かったね。
あと一番苦労したのは電池の問題。
ヨットレースは長いので最後までシステムがもたないんですよ。
モジュールの省電力モードが中々上手く働かなくて、直前まで四苦八苦していました。2017年の1月か2月くらいにようやくなんとかなったかな。
それで一週間くらいなら電池が保つ目処がついたのが大きかったですね。」
小笠原ヨットレースは長くても5日程度、ギリギリだがなんとかなったとのこと。
ヨットレースならではの仕様をひとつひとつクリアしていく過程が大変だったけど、開発の醍醐味で楽しかったとお話しいただきました。
レース参加者の家族からかけられた一言がさらに自分を奮い立たせる
2017年小笠原ヨットレースを迎えます。
森さん自身も小笠原に赴き、出場艇にモジュールを設置してまわったとのこと。そして全艇で上手く動作することをチェックして送りだしたそうです。
そして見事、全てのヨットで最後まで動作し続けることに成功。
「レースの期間中もずっと動作を見ていてね。
結構ドキドキしていたけど、無事に全部動ききってくれて良かったよ。」と森さんは言います。
レース後行われた表彰式にも森さんは参加しました。その時にレース参加者の家族からこう声をかけられたそうです。
森さん「参加者の奥さんから
『いままでレースに参加すると、陸に帰ってくるまで無事かどうかがわからなかった。だけどこのシステムでいつでもどこにいるかが分かるようになった。こんなに安心できるレースは初めてでした。』と言っていただけました。
涙を流して喜んでいただけて、それを受けて私も心動くものを感じましたね。自分の中の達成感が一層満たされて、それまでの苦労が吹っ飛んだよ。」
努力は報われるよと森さんは言います。続けて"この成功体験をぜひFURUNO社員にも味わってほしい"と期待を込めて伝えてくれました。
このシステムは好評を経て日本各地のヨットレースで活用されることになりました。
そして次の舞台へと移ります。
DREAM WEAVERプロジェクト、前代未聞の太平洋横断
本プロジェクトは2019年、盲目セーラー岩本光弘さんと新米セーラーのダグラス・スミスさんによるダブルハンド太平洋横断チャレンジで、アメリカ・サンディエゴと福島県・いわき港の無寄港横断を行いました。
ーこのプロジェクトではトラッキングシステムに何か変化はありましたか?
森さん「かなり改造しましたよ。周囲は電池を変えるだけでいけるんじゃないか?と思っていたようでしたが、ぜったい無理だろうなと思っていましたんで、そこは曲げませんでしたね。」
そうして体積や重さを1/2にした他、バッテリーを使わず、船から電力を取り出す構成に変更したそうです。
森さん「あと太平洋を横断するとして改良が必要だったのはソフトウェアでしたね。要するに横断途中で日付変更線を越えるでしょう。その時の処置などは苦労しました。」
他にもGPSそのもののトラブルにより、このままでは航海中にシステムに悪影響が出るということが、なんと出発直前で判明。
問題に対応したモジュールに入れ替えるために、サンディエゴまで森さんが赴き、岩本さんとダグラスさんを送り出したのだそう。
森さん「無事に日本に帰ってきてくれたときは本当に感動しましたね。55日ほどの航海でしたが、毎朝『今日は止まらないかな』『ちゃんと動いているかな』と見ていましたし、会社にいったら『どれくらい走ったかな』とプロットするのが日課でした。だから無事に終わったときにはよく太平洋横断を耐えてくれたなとね。」
ゴールの際は森さんは福島まで行き、お二人を出迎えたそうです。
その直前の朝ごはんは今でも忘れられない思い出とのことです。
森さん「今日帰ってくるんだと思うと、苦労だったり、やってよかったなという気持ちが高まってきてね、朝ごはんを食べながらボロボロ泣いてしまってね(笑) 一緒に行った後輩にしっかりその姿を見られたなぁ。」
この感動の気持ちはやった人にしかわからない。
本人はカッコ悪いところを見られたなぁ、なんて話していましたが、一人でシステムを作り上げ、毎日見守っていた森さんの仕事への責任感を思うと、むしろカッコ良い、エンジニア魂が揺さぶられるエピソードだと感じました。
集大成、そして後輩たちへ
その後、森さんは66歳になり古野電気を定年退社されます。
最後に関わった仕事は日本ーパナマ間の国際ヨットレースだったとのこと。
森さん「何十台も作ったけど楽しかったですね。このトラッキングシステムに関しては自分で企画を考えて、開発もして、部品を調達し、製造もして、クオリティをチェックして、1人で全部やって苦労もあったけど、いい仕事に携われたと思ってます。
そしてやっぱりモノ作りが好きなんだなと実感したね。それをリタイア前に全力でやらせてもらえて、古野電気に入って良かったなとつくづく思います。62歳から66歳までの4年間はあっという間でした。」
幸せなエンジニア人生でした。
と森さんはご自身の開発ストーリーを締め括ってくれました。
また最後にこうメッセージをいただきました。
森さん「楽しんで仕事してくださいね。やるからには"やらされてると思わず、自分ごととして前向きに取り組むこと"を大事にして欲しい。自分でやっているという意識が成長の原動力になるし、モチベーションになりますから。」
その域に達するまではもう少しかかるかも知れないけどね、とおっしゃる森さんの目は私だけでなく、FURUNOの若手社員にも優しく、そして期待を込めて向けられていると感じました。
森さんの作られたシステムは、後輩たちに引き継がれ、辛坊さん、堀江さんの挑戦をサポートしました。
そしてさらに改良を重ねたシステムが今後リリースされます。
"世界のフルノ"を掲げて技術力を高めてきた先輩社員達の熱い意志、素晴らしい仕事の数々、それらを現役世代の我々がしっかりと受け継ぎ、これからも挑戦を続けていきたい、そう強く実感するインタビューとなりました。
執筆 高津 みなと