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大野田城① 〜意外と見どころが多い城〜

武田信玄が撃たれたとか撃たれてないとかで有名な野田城の戦いから450年。

大野田城にはためく幟

今回ご紹介する大野田城は野田城近くの別の城
まぎらわしい!と、思った方も多いかも。
それもその筈。武田信玄が死ぬ直前に攻めたことで有名な野田城は、それ以前にも今川の攻撃に晒されてぶっ壊されています。野田城は大修理が必要となったため、城主菅沼定盈は、一旦近くの古い砦を改修してそこに住みますそれがこの大野田城です。
なので名前も似ているし、場所も近い訳です。

野田城、大野田城関係図(参照:googleマップ)

この城、攻めるに易く守るに難い(攻め易く守りにくい)、と、昔から散々な評価をされていたようです。そにれ、本丸が溜池になって見るべきところもない城
と、思われていました。(上記地図の右側の池)

なんとも味気ない溜池。溜息。

ところが、意外や意外。木々に覆われた二の丸、三の丸あたりをよくみて見ると城郭遺構がしっかりと残っているのですが、虎口の形状や曲輪の中を隔てる土塁など、結構な見どころがあります。
例えば、城内のこの土塁によるうねり。

環境問題と城郭保存はセクシーに行う必要があると思います。

写真では伝わりにくいかもしれませんが、小泉進次郎氏の表現を借りるとセクシーさがあって、現地を訪れた城好きにはゾクゾク、ワクワクするのではないかと。
そして、堀。

結構な高低差

結構な高低差があって、攻めにくそう!と城好きなら喜ぶのでは?
竹の整備が進めば、より見やすくなると思います。
そして、何より虎口。

横から見た虎口と思しき場所
虎口を正面から見上げる

入って右側に折れさせる内枡形
こういうのを見ると城だ!と実感させられます。
そして、この内枡形虎口を守るように、馬出があったのではないかと窺わせる部分があります。

画面道の左側の雑木が茂ってる辺りに高まりが。

道の反対側に高まりがあるんですよね。ただ、わかりにくい。しかし、上の写真の手前の道で分断されてる反対側を見ると、土の高まりがあることがわかります。

手前の道でぶった切ってますが繋がっていたと思われる。

古城絵図でも虎口前に馬出が描かれています。多分、これではないかと思われます。ただ、不思議なのは、この城、隣にある津島神社の方が高いんですよね。城の本丸に該当する部分より高い場所がある城って不思議だな、と、思いましたが、この辺りに住んでいる方は、本丸は溜池じゃなくて、二の丸とか言われてる方だと思う、とのご意見も伺いました。

溜池より高い部分にある邸宅

このところ、大野田城の整備が地域の方達によって進められています。見るには良い状況になってきていると思います。

ところでこの城、歴史上、どのような状況になっていたのかわかりにくいのです。これまで元亀2年(1571年)に武田信玄が奥三河へ侵攻し、大野田城を落城させた後、一旦甲斐へ引き上げた後翌元亀3年に遠江、三河へ再度侵攻
三方原の戦いで徳川家康をぶち破った後、元亀4年の正月から野田城を攻め始め、兵数400の城に2万5千の軍勢が1ヶ月くらい掛かって開城させる。
その後、信玄はどこかはよくわかっていませんが死んでしまい、奥三河の一部が徳川に寝返ったことで天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いへと続く、と、いうのがこれまでの通説でした。

ところが、この元亀2年の根拠とされていた文書が、鴨川達夫氏によって否定され、天正3年の武田勝頼による東三河侵攻時のものだとされました。

衝撃の書

そうなると、大野田城は元亀2年に攻撃されてないことになってしまうので、大野田城の歴史を紹介しようとすると、元亀2年を天正3年に置き換えて整理し直す必要があるのです。

では、これまでの市町村誌等の記載内容は、どのように読み直せばいいのか?
長くなるので、この話は次回に。(続く)

大野田城
〒441-1343 愛知県新城市野田幹徳
幟が立っている場所が駐車場になっています。

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