フロイスの見た戦国日本てどんな日本?
以前、戦国時代の日本を訪れた中国人について書かれた本をご紹介しました。
今回は、西洋人フロイスが見た戦国日本についてご紹介です。著者はフロイスの『日本史』の完訳を書いた川崎桃太氏。フロイスの『日本史』のダイジェスト版として書かれたのが本書です。
フロイスの日本史とは
イエズス会の宣教師フロイスは、1563年(永禄6年)に31歳で九州に上陸し、1597年(慶長2年)に長崎で65歳でなくなる間、日本に関する報告書を残しました。詳細かつ具体的な描写で有名です。例えばにおいに関する記述なども残しています。(京都に向かう途中の船旅で非常に狭く悪臭を放つ場所にされ、隣にいた山伏からめちゃくちゃ威嚇されて唾吐かれてた。等)
現代の我々からすれば極めて面白い内容ですが、フロイスに日本の報告書作成を命じたヴァリニャーノは、布教の記録を後世に残すために書けと言ったのに、こんな冗長なもの書きやがって、と、有害と看做してせっかくの報告書を留め置いてしまい、マカオで死蔵されてしまいます。その後、1700年代になってようやくローマに送られて日の目を見たそうです。そういう意味では前回の鄭舜功の日本一鑑と似たような状況となっています。
鄭やフロイスに共通しているのは、日本を理解しようとしていたこと。日本人を理解しようと色々書いている内に、文化比較となって興味深い読み物となったのですが、本国の意向と沿わずに不遇な取り扱いになったのも一緒。野蛮な未開の国を教化するつもりの上から目線の宣教師たちからすれば、ともすれば日本礼賛にもなるフロイスの文章を嫌いローマでの出版を認めなかったのですが、文化にはどちらが上とか下とかない、という現代の我々からすると、フロイスや鄭は賞賛されて良いと思います。
戦国時代のブロガー、フロイスの見た日本
フロイスは、色々と面白いことを書いてくれているので、私が気に入った話を、少しご紹介。内容はだいぶ噛み砕いています。
南蛮寺が三階建になった理由
京都にふさわしい布教の拠点が必要と教会を建てることにした。有力者の寄進などで材木が集まったものの、敷地が狭いので3階建にすることになった。近隣住民から見下ろされて覗かれるから嫌だ等の苦情が出たのでベランダをつけて覗けないようにした。周辺住民の反対運動は盛んだったが信長が認めたので建設できた。
あの南蛮寺は敷地が狭かったから三階建だったんですね。
秀吉のからかいとロレンソの切り返し
豊臣秀吉が冗談半分で「一夫一婦じゃなくて、女を大勢囲って良いというならキリシタンになるんだけどなぁ。」
と言ったら、日本人の元琵琶法師で修道士になっていたロレンソが
「殿下がキリシタンになれば地獄に落ちるでしょうけど、多くの人が改宗して天国に行けるからアリだと思います。」
と答えて秀吉は大笑いした。
今でも社長から可愛がられる新入社員とかいますけど、ロレンソはそんな感じだったんでしょうね。
雅楽とフロイス
後花園天皇が聚楽第に行幸することになった際、行列に合わせて宮廷の楽団員が音楽を奏でた際、「我らヨーロッパの音楽と比べると、耳障りで不快なもの」との感想を残す。
虫の音を雑音と感じる民族と美しいと感じる民族の違いですかね?
五島列島の習慣
五島では縁起を担ぐ習慣があり、くしゃみが極度の凶兆と見ていたとか。領主の屋敷に出仕するときでも途中でくしゃみすると「それがし、今朝くしゃみをいたしました。」と報告して休んで良かった。
現代社会にも必要な習慣だと思います。羨ましい。
曲直瀬道三と関白秀次の改宗
特に優れた3人の医師のうちの第一位と称された曲直瀬道三。あらゆる知識があって人から認められていた。そんな彼がキリストの教えを聞く内に徐々に傾倒し、とうとう改宗してしまった。そのとき、都はこの話でもちきりとなり、「仏僧や日本の学者は、関白(豊臣秀次)は馬鹿だからキリシタンになったと言うかもしれないが、曲直瀬道三は知性の塊だからキリスト教が優れていることを認めざるを得ないんじゃない?」とのことだった。
殺生関白秀次は、馬鹿だというのが世間の共通認識だったんだ…。
比較することで特徴がわかる
研究の一番簡単な手法は比較してちがいを見つけ、その理由を探ることだ、と、教えられました。比較できる人は異なる視点を持ち、貴重な意見を持っていると言えます。ひょっとするとフロイスや鄭の本を読むことで母国に好影響を与えることができたかもしれません。実際、現代の我々が楽しんで読めるのは彼らの本で、当時の報告書は一般にはあまり話題になりません。
みんなが本当に知りたいのは、実際どうなの?ということ。綺麗事で修正された内容じゃないんですよね。興味のある方はぜひ手に取って読んでみてください。本当はもっともっとご紹介したいのですが、それじゃまるごと本を書き写すことになってしまいますので。👇