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フラニーとズーイの話
サリンジャーの「フラニーとズーイ」を読んだ。
だいぶまえに野崎孝・訳のほうを読み始めたものの挫折して、村上春樹の新訳版が出たということで今回リベンジ。
やはり独特のまわりくどさというか、会話文が長ったらしくて読みにくい感じがあった。時間はかかったものの、なんとか最後まで読了。
フラニーがはまりこんだ沼は、青春のひとつの過程として普遍的なものではないだろうか。
自分だけが特別で、まわりの人間がみんなバカに見える。無意味なことをやっているように見える。あんなふうにはなりたくないと思う。自分のまわりのすべての物事がくだらないと感じてしまう。
社会にでていくまえの葛藤のようなものだ。
私自身も、若い頃のほうが考え方が冷めていた。夢や希望はフィクションの世界の話だと思っていて、リアルの自分の人生に対しては無気力だった。
無気力だと生産的なことを何もしない。つまり暇なのだ。暇だと人は批評家になってしまう。自分の外側の出来事や人間に対して、あれこれと批判したくなる。安楽椅子探偵ならぬ、安楽椅子批評家になってしまう。
ズーイもかなり性格的にひねくれてはいるが、ちゃんと自分の仕事をしているという点でフラニーとは違う。
自分の舞台に立って、自分の役割を演じて、そのうえで言いたいことをはっきりと言っている。荒波にもまれ、時に叫びながらも、ちゃんと自分の精神を制御している。
ぬくぬくとした安全な場所で文句だけ言っているフラニーとは決定的に異なるのだ。
それはそうと、どうして君は神経がやられちゃったんだい? つまりさ、そんなに力いっぱい崩れちまうことができるんなら、どうして同じエネルギーを使って自らをしっかり保っていることができないんだ?
エネルギーというのは、おそらく貯めておくことができない。前向きなことに使われなかったエネルギーはすべて、後ろ向きな感情を生み出すことに費やされる。
だから、なんでもいいから目標を見つけたほうがいい。夢とか希望という言葉にも置き換えられる、なにか前向きな、エネルギーをそそぎこめるような対象を見つけるべきなのだ。
人生は大いなる暇つぶし、という格言をどこかで聞いた気がする。
若者に限った話ではないのだ。
「暇」は、つぶされるべきもの。
「暇」を「暇」のままにしておくと、人間の心はじわじわと腐っていくのだから。